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白馬五竜のペンションで朝食を食べ始めるときに撮った写真。私はいつでも妻と娘の向かいに座る。この「間合い」は35mm(XF23mm)にピタリなのである。だから、レンズを構えてシャッターボタンを押すだけで良い。例によって二人は撮られていることなど気にしていない(笑)。ピンぼけのように見えるが「湯気」のためである。娘はまだ寝ぼけている。私の隣に座っている息子は写真を撮ってもらえない(笑)。

2017年7月17日撮影。白馬五竜。X-T2 + XF23mm F1.4 R ISO2500 F1.6 1/600 +1.33EV AWB JPEG +1.33EVで意図してハイキーに撮っている

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2012年の2月であったか3月であったかにFUJIFILMにとって最初のレンズ交換式デジタルカメラであるX-Pro1が発売された時私はとても欲しいと思った。レンジファインダースタイルのカメラが好きだと言うこともあったが、XF35mm F1.4 Rというレンズに強く魅力を感じたからである。作例を見て魅了されたのである。一番好きなPlanar1,4/50(Y/C)に通じる描写だと思った。それがAFで使えることに魅力を感じた。

しかし、私は2011年の年末にPENTAX 645Dを購入したばかりであったし、X-Pro1の翌月に発売されるEOS 5D MarkⅢを購入する予定だったためX-Pro1には手を出せなかった。そのおよそ半年後に私は小さな「写真館」をオープンさせ、それからは「カメラ道楽」がぴたっと止んだ。そのあと、2015年に友人からFUJIFILM X100Tを借りてもの凄く魅了された。このカメラ(レンズ)は抜群に素晴らしい。PRO Neg.Stdで撮った絵がなんとも言えないくらい素敵なのである。しかし、カメラは売るほど持っているので我慢した。

で、最終的に私がFUJIFILMのカメラを手にしたのは2017年3月末である。X-Pro1の発売から丸5年後のことである。実はその前の2014年10月にSONY α7を買っている。もうカメラは買わないと決めていたのだけれど、古いマニュアルフォーカスのZeissレンズでピント合わせができると知り買ってしまった。それでまたFUJIFILMのカメラは遠ざかり私には縁が無いと思っていたのだが、EOS 5D3が重く感じるようになったので、2017年3月末に思い切ってX-T2とレンズ4本を購入した。1日テスト撮影をして文句なしに気に入ったので2日後にサブカメラとしてX-T20を購入した。以来この2年間、私は90%以上の写真をこの2台のカメラで撮影した。カメラをX-T2・X-T20に換えたのは大正解だった。私はそれまでも沢山の家族写真を撮っていたが、それまでの倍の写真を撮るようになった。

X-T2を買うとき、3本のレンズは迷わず決まった。山歩きの多い我が家では広角ズームがメインレンズである。で、まずはXF10-24mmF4 R OIS。先日散々褒め称えた「キットレンズ」であるXF18-55mmF2.8-4 R LM OISが2本目。3本目は、山歩きの際に「高山植物」を撮るためにXF 60mm F2.4 R Macroを選んだ。さて、最後の4本目であるが本当はXF35mm F1.4 Rが欲しかった。そもそもこのレンズに魅了されたことがFUJIFILMのカメラを欲しいと思った最初の動機だったからである。マクロレンズを「別枠」と考えると、4本目のレンズが「唯一」の単焦点レンズとなる。一番使いたかったXF35mm F1.4 Rを買いたかった。しかし、私は「泣く泣く」XF23mm F1.4 Rを選んだ。理由はただ一つ。目の前のテーブルに座っている妻と娘のツーショットを撮るためである。50mm(XF35mm)では収まらないのである。35mm(XF23mm)だとぴったりとなる。でXF23mm F1.4 Rを買ったのである。

ここはXF18-55mmF2.8-4 R LM OISの守備範囲ではあるが、いくら良く写るレンズだと言っても単焦点レンズには叶わない。山歩きの最中などは「記録」ということに割り切って写真を撮っているがせめてホテルやペンションの室内で食事をしている時ぐらい、ちょっとは小綺麗な写真が撮りたいので単焦点レンズを使うのである。この1年程はほとんど使っていない。昨年3月末にXF35mm F1.4 RとXF56mm F1.2 Rを買って以後XF23mm F1.4 Rは完全にベンチ要員に格下げとなった。使われることはほとんどない。しかし、もしこのレンズがXF35mm F1.4 Rより一回り大きい程度であったらもっと頻繁に使っていただろう。XF35mm F1.4 Rは描写性能が最高に良いのだが、そのコンパクトさも大きな魅力である。



by dialogue2017 | 2019-03-29 06:00 | Comments(2)

ランチを食べに立ち寄った山の中のピザ屋さんのガーデンのテーブルで撮った。注文を終えた後妻と娘は雑誌か何かを見て話をしていた。向かいの席に座っていた私は二人にレンズを向けてこの写真を撮った。彼女たちは週末とも成ると四六時中私にレンズを向けられている。この10年間に10万枚以上写真を撮られているので撮られることに対して「不感症」になっている。私がレンズを向けて写真を撮ることなど、目の前を1匹のハエが飛んでいること以下にしか感じていないだろう(笑)。だから、完璧に「素の表情」である。どう? 素の表情って自然でいいでしょう? まあ、テーブルの上のX-T20をどかしてから撮るべきだったとは思うけれど(笑)。昔はそういことをしていたんだけれど撮っている私の方も「不感症」になっている(笑)。こんなに奇麗に纏まると分かっていたらX-T20をどかして撮ったんだけれど、私にとっては1/100,000枚だから(爆)。この「間合い」は私にとっては50mmの間合いなのだけれど、目の前に座っているのが娘一人で娘一人だけを撮るなら50mm(XF35mm)。しかし、妻と二人、あるいは娘と息子のツーショットを撮るには35mm(XF23mm)になるのである。これは家族を撮る際の基本的な距離感のひとつである。

追記。妻と娘はX-T20の背面モニタで写真を見ていたんだった(笑)。ちゃんと写真を見ればわかることだ。でも、直ぐに分からないほど目のコンディションが悪いのである。それはともかく、娘の目の表情が良いよね。

2017年10月9日撮影。長野県茅野市。X-T2 + XF23mm F1.4 R ISO400 F2.0 1/800 実はXF23mm F1.4 Rも非常に秀逸なレンズである

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いま、3月29日午前1時半である。昨日は5つのエントリーを書いた。「190327井の頭公園」(6)〜(10)は昨日公開されているが27日の晩の内に予約投稿したものである。昨日書いたのはそのあとの5つのエントリーである。5つのエントリー合計で19,360文字も書いた。一度やってみると良いけれど2万字というのはなかなか書き出がある。私でも1日3万文字ぐらいが限界である。

取り憑かれたように書いているのには二つわけがある。一つは、今月いっぱいでこのブログを終わりにしようかと考えているからである。で、最後に少し纏めて書いていると言うことである(まだやめると決めたわけではない)。二つ目の理由は、「食いついて」来ているからである。「三人組」がである。なんのコンタクトもないが、sunnyday君が目を通しているであろうことも私の「やる気」の一因である。私は彼が安達ロベルトさんの写真展に足を運んでくれたことをとても嬉しく思っている。

実は、先ほどから本を読んでいて熱中していたのだが、from_vixen君からコメントが届いて本を置いた。彼のブログにコメントを入れたり、shi-photo君や0123okkun君のブログにもコメントを入れた。頭が混乱してfrom_vixen君に入れたコメントの一つはshi-photo君に書いていると思って書いてしまった(爆)。20代の青年に語る”語調”になってしまって申し訳ない。でも、意は汲んでもらえるだろう。だって、もう僕らの間には「信頼関係」が成立しているから。

from_vixen君がブログにこんなことを書いていた。

広角は収める、標準は切り取る、望遠は寄る。
感覚的にはこんなイメージだろうか。
勿論フィールドではある程度前後できるのでオーバーラップする部分もあると思う。
しかしこれ以上引けないとかこれ以上寄れないとかいう段階でそのレンズのテリトリーを感じる。
縛りがあることで趣向を凝らす余地が生まれる。別に何ミリだっていいのだけれど。標準は確かに標準だ。

それに対して私は次のようにコメントした。ちょっとかみ合っていないのだがそれを承知で自分の感覚を伝えた。あくまで自分の感覚を伝えただけである。それが「正解」であるわけではない。一人一人「感性」は異なるのだから、「正解」はみな違って構わない。もちろん、ないがしろにできない「基本」はあると思うが、写真に「正解」などないと言っても良いだろう。

僕の感覚では「標準」は「絵作り」が必要です。
人間の視覚に近いとか言われていますが嘘です。
人間の日常的な視覚はもっと広いです。

50mmというのは比較的何かに注目している時の視覚です。
僕は50mmでは「引く」ことが多いです。でも、「寄って」撮ってこその画角なんです。
50mmで思い切り寄って娘さんを撮ってみて欲しいです。
35mmしか無ければそれで寄ってみても良いと思います。

僕は35mmでは「絵作り」しません。あるがまま、見たままに撮ることが多いです。
まあ、実際にはどのレンズでも考えて撮っているのでしょうが。

このコメントを書いた後、こういう話は言葉ではなかなか伝わらないと思った。で、とりあえず35mm(XF23mm)で撮った写真を2〜3枚彼に見せて上げようと思った。私はこの半年ほどXF23mmを使っていないので135判換算で35mmの写真をここにほとんど掲載していない。35mmは50mmより遙かに使い易い。私に言わせれば何も考えずに写真が撮れるレンズである(笑)。だから、私は35mmで撮る時は「絵作り」を意識しない。目の前の光景にレンズを向けてただシャッターボタンを押すだけである。しかし、寄っているときもあるし引いている時もある。わざわざ前に出たり後に下がったりしているわけではない。「撮ろう」と思ったときに初めからその「間合い」なのである。35mmはそういうケースが多い。


by dialogue2017 | 2019-03-29 01:50 | Comments(1)

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昨日安達ロベルトさんの写真展を見に行ってきた。今回は「KKAG」と「Roo Nee 247」の二ヶ所での同時開催であった("このエントリー"で紹介した)。「Roo Nee 247」での展示はとても変わっていて、10点の作品の内「写真」は2点のみで、残りは「絵画」と「音楽」という展示。安達さんは写真家であるけれど音楽家(作曲とピアノ演奏)でもあり、また絵も画くという多才な人。Roo Nee 247」での展示は10作品全てを写真に収めてきたし、4つの「音楽」作品も紹介できるように用意している(いま私はこの文章を安達さんの楽曲を聴きながら書いている)。類例がないだろうとても興味深い展示なので詳しく紹介したいと思っているのだが、写真を掲載して文章を書くと長くなるのでいずれその気になったらと言うことで。

「KKAG」の展示作品は素晴らしかった。何も知らずに写真を見せられても安達さんの作品だと分かっただろう。展示作品は全部で17点。葉書サイズより小さな写真の展示もあった。上の写真には写っていないが入り口を入って直ぐに3枚並んで展示されていた2011年4月に千鳥ヶ淵で撮影したモノクロの桜の作品は安達さんの代表作とも言える作品である。その3点が展示されていれば安達さんの展示であることが分かるのは当然であるが、もしこの3点が展示されていなかったとしても私は残りの14点を見て安達さんの作品だと分かっただろう。

安達さんとは一昨年の12月に1時間ほど二人きりでかなり中身の濃い話をした。その際、「年が明けたら一度ゆっくりと」ということになっていたのだが、私が声を掛けそびれそれ以来の再会であった。昨日は、他にも来場者がいたので長話はできなかったが、それでもいくつもの面白い話を聞かせてもらった。展示作品の撮影地であるとか、使ったカメラやフィルムなどについても教えて貰った。安達さんも「モノクロ作家」として認識されている作家だと思う。昨年12月の銀座で行った個展も全作品モノクロであったし、過去の個展もほとんどモノクロ作品である。今回は半分ほどがカラー作品であったのだが、モノの見事に安達さんの写真だった。カラーとモノクロが交えて展示されていることになんの違和感もなかったというか、まったく同一種類の写真に感じられた。

上の写真に写っている作品の一番左に展示されている作品はモノクロの雪景色なのだが、ほぼ真っ白なプリントの一部に雪から出ている「熊笹の葉」が写っている写真だった。実は、1月に私も良く似た写真を撮っていた。そして左から3枚目に展示されていたカラー写真が私が良く撮る撮り方の写真だった。私は真似してみたいと思った写真家はいないし、誰かからの影響を受けているということもほとんど無いと思っていたが、今回の展示作品をみて、自分が相当程度に安達さんの影響を受けていることに気がついた。いや、まったく気づいていなかったわけではないが、自分が思っている以上に彼の写真から影響を受けていることが分かった。

いや、確かに影響を受けたという側面もあるだろうが、むしろ、彼の撮り方と私の撮り方がそもそも似ていたと言う面の方が強いかもしれない。もちろん私が似ているのは安達さんの一部の作品に付いてであって、全般的に似ていると言うことでは無いが、今回展示されていたカラー写真を見ていて私はものすごく強い親近感を覚えた。それを見て自分が自覚している以上に安達さんから影響を受けていると感じたわけであるが、それはことの半分で、そもそも撮りたいと思うモノや撮り方の好みに共通点があるのだろうと思う。

私は昨年12月初旬の京都旅行から帰ってきて以降写真を撮りたいという気持ちが希薄になった。この3ヶ月間ほとんど写真を撮っていない。旅行先でさえほとんど撮っていない。桜が咲くまで撮らないと決めてしまっている部分もある。しかし、安達さんの展示作品を見たら無性に写真が撮りたくなった。そのことを安達さんに伝えると「それは嬉しい」と本当に嬉しそうに顔を崩してくれた。

写真を見て、「ああ、自分も写真を撮りたいな」と強く感じさせてくれる写真は素晴らしい写真である。昨日「KKAG」の展示は最終日であったのだが見に行ってほんとうに良かった。shi-photo君が見に行っていたということでそのこともとても嬉しく思う。安達さんとの対話の内容などについても紹介したいのだが、いま古い写真を閲覧中なのでこれもまた気が向いたらということで。


by dialogue2017 | 2019-03-10 14:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)

昨年の10月15日以来約5ヶ月ぶりにXF23mm F1.4 Rを使った。前回も数ヶ月ぶりだった。秀逸なレンズなのにほとんど使わない。

2019年3月9日撮影。小伝馬町。FUJIFILM X-T20 + FUJINON XF23mm F1.4 R ISO200 F2.8 1/45 ±0EV AWB

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by dialogue2017 | 2019-03-10 12:00 | カメラ | Comments(17)

平凡な写真(2)

こんな風なただシャッターボタンを押しただけのような"平凡な写真"が好きなのである。ちょっと長いけれど、写真下の本文を是非読んで欲しい!

2018年10月15日撮影 由比ヶ浜海岸

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「平凡な写真(1)」に対して次のようなコメントを頂いた。

妙にうまく撮ってやろうなんて考えだすと、こういう写真は撮らなくなりますね。そこに一種の落とし穴があるといいますか、平凡な写真ほど難しいという逆説が生まれるような気もします。

私は以下のような返事を差し上げた。

こんにちは。いつもご訪問下りありがとうございます。
コメントを頂き、とても嬉しいです。
しかも、ズバリ核心を突いたご指摘です。

実は、渡部さとるさんが語った「写真が写真である写真」の範疇の写真です。
ご指摘の通り、「こういう写真は撮らなくな」る写真のことです。
一言で言って「良い写真」になるように狙って撮らないということです。
まさか、この1枚を見ただけで、そのことを把握する方が出るとは思いもしませんでした。

私は、写真を撮り始めた頃からそういう写真が好きでした。
多分、写真に限らず何事に対しても「格好付ける」ことが嫌いなのだと思います。
おかしな言い方になりますが、「いいね!」をもらえないような写真が好きなんです。
このあとも、何枚かそういう種類の写真を掲載するつもりなのですが、
1枚目で、このようなコメントを頂き、本当に嬉しいです。
ありがとうございます。

本当に、もの凄く嬉しい思いであった。まさか、このようなコメントが届くとは夢にも思わなかった。文字数としては短いコメントであるが、貰った方からするととても嬉しいコメントである。なぜなら、1枚の写真をめぐって最も核心的なところで「対話」が出来たからである。

まさに私が望んでいる「対話」である。私が求めているのは「難しい話し」ではないし、必ずしも「長文」のコメントが欲しいというわけでもない。1枚の写真を巡って、その写真の「撮影意図」について語りかけて貰えることはもの凄く少ない。「返信」の中にも書いたが、私はこの写真の「意図」を理解する方がいるとは思いもしなかった。

実は、昨日この2年程の間に「江の島・鎌倉界隈界隈」で撮った写真を一通り眺めてみた。332枚の写真を見た。承知していたことではあるが、久しぶりに自分が撮った写真を見て、「つまらない写真」が多いと思った。もう少し「良い写真」があると思っていたが、「良い写真」だと思える写真は自分が思っていたよりかなり少なかった。「奇麗」に撮れている写真は少なからずある。そして、かなり「立派な写真」も多少ある。正月に、友人のプロフォトグラファーに江の島・鎌倉界隈界隈で撮った写真を見せた。少なくない写真に対して「いいですね〜」「ああ、この写真は素晴らしい」と褒めて貰った。

プロは「お世辞」で褒めることをしない。みな「基準」が高いから、なまなかの写真がプロから褒められることはない。私は時々facebookに自分が撮ったスナップ写真を投稿するのだが、そこそこの写真に対してプロから「いいね!」が届くことはない。しかし、自分で「これは間違いなく良い写真だ」と確信を持って投稿した写真にはプロフォトグラファーから「いいね!」が届く。プロフォトグラファーから「いいね!」が届く頻度は低い。だから私は時々facebookに写真を投稿するのである。つまり、「試験」を受けるような積もりで投稿しているのである。

失礼なことを言って申し訳ないが、私はアマチュア写真愛好家からの評価をほとんど気に掛けていない。もちろん、私の写真を「いいね!」と思って頂けたことに対してはありがたいと思う。だれか一人でも二人でも、その写真を「良い写真」だと思ってくれる方がいるというのは嬉しいことだ。しかし、アマチュア写真愛好家からの評価を私は気にしていない。100人のアマチュア写真愛好家から「いいね!」を貰うより、一人のプロフォトグラファーから「いいね!」を貰うことの方が嬉しい。なぜなら、彼らは写真を見る眼が厳しいからである。「お追従」で「いいね!」を付けることは少ない。そういうことが全くないわけではないが、私が高く評価しているようなプロフォトグラファーはほとんどそういうことをしない人々である。だから、そういう人々から「いいね!」を貰うと言うことは「プロの眼鏡に掛かった」と言うことである。

これまた失礼な話であるが、私はプロフォトグラファーを仰ぎ見てはいない。もちろん、中には仰ぎ見るほど優れた写真家がいるとは思っているが、多くのプロフォトグラファーを「特別な人々」だとは思っていない。まあそれはそうだ。何人も親しくしているプロフォトグラファーがいるので彼らを特別だとは感じないのも当然である。それに、私はプロフォトグラファーではないが、技術な点に関してはプロフォトグラファーレベルのスキルを持っている。1年9ヶ月と短い期間であったが、私は3人のプロフォトグラファーと一緒に仕事をしていたのである。私の技量がプロ以下であればプロと一緒に仕事をすることはできない。私はプロフォトグラファーに「こう撮ってくれ」と指示までしていた。時には「露出」まで指定していた(笑)。「絞りいくつ?」「2.8です」「2.5で撮ってくれ」なんていう具合に。

そもそも、「綺麗な写真」を撮ると言うことはそれほど難しいことではないのである。ミラーレスカメラが登場して以後、かなり簡単に「綺麗な写真」が撮れるようになった。当然である。ミラーレスカメラのファインダー(EVF)や背面モニタに表示される画像は「撮影結果」と同じ画像である。シャッターボタンを押せば、そこに「表示」されている画像と同じ写真をが写る。撮影する前に「撮影結果」を確認した上で写真を撮ることが出来るのだから「良い写真」が撮れて当然と言って良い。

もちろん、現実には「良い写真」がなかなか撮れない人々が沢山いる。どんなに優秀なカメラやレンズを使っても「綺麗な写真」にはならない「光」で写真を撮れば「綺麗な写真」にはならない(同義反復だが)。「ここをこういうアングルで、こういう構図で撮れば綺麗な写真になる」ということを知っていなければ「綺麗な写真」をコンスタントに撮ることはできない。しかし、「ここをこういうアングルで、こういう構図で撮れば綺麗な写真になる」と言うことは、アマチュア写真愛好家でも分かるようになる。「目的意識」が高い人間であれば、半年ほど真剣に写真を撮っていればだいたい分かるようになるものである。趣味で3年も写真を撮り続けて入ればその程度のことは分かるようになるものである。

もちろん、レベルの差はある。「ここをこういうアングルで、こういう構図で撮れば綺麗な写真になる」と言うことを理解している人々の中でもそのことを「深く」理解している人と、「ある程度」しか理解していない人がいる。そういうい人々の中で最も「上位」にいるような人がプロフォトグラファーだと言っても良いが、アマチュア写真愛好家の中にもプロ並みと言って良いレベルの人が沢山いる。中には「へたなプロよりよほど上手」と言えるようなアマチュアもいる(あまり言いたくないけれど、さほど上手じゃないプロも少なくない)。

「綺麗な写真」を撮ることは難しくない。「誰にでも」撮れる時代だと言ってしまうと言い過ぎかも知れないが、誰もが比較的簡単に「綺麗な写真」を撮れる時代であることに間違いは無い。ミラーレスカメラがそれを実現したのである。フィルムの時代には現像から上がってくるまでどんな写真が出来上がったのか確認することができなかった。だから、トップレベルのプロフォトグラファーでさえ、フィルムをラボに出した後上がってくるまでは毎回「胃の痛む」思いをしていたのである。私は何人ものトッププロに「今回は大丈夫と安心していられることって無いの?」と聴いたことがある。彼らは例外なく「無い」と応えた。フィルム時代はトップレベルの写真家でもネガ(ポジ)が上がってくるまで毎回不安で胃が痛む思いをしていたのである。その時代、「綺麗な写真」を撮るためには高い技術が必要であった。しかし、いまはシャッターボタンを押す前に「撮影結果」を確認することができる。論理的に言ったら「綺麗に撮れない方がおかしい」のである。

昨晩、この2年程の間に撮影した江の島・鎌倉界隈界隈で撮った写真に目を通した(ある具体的な目的があった)。332枚の写真を見た。「いい写真」だと思えた写真は少なかった。自分が思っていたより少なかった。人間、撮った時には「いい写真だ」と思えるものなのだ。しかし、時間が経った後に見ると「それほどでもない」写真であることが少なくない。そういうものなのだ。著名な写真家が「回顧展」のようなニュアンスで個展をやると、必ずよく知られた写真が並ぶことになる。30年40年と作品を撮り続けてきた著名写真作家でさえ、自分が「自慢できる」と思えるほどの写真って、それほど沢山はないものなのである。だから、ほぼ例外なく、そのような個展ではその作家の「すでによく知られた」代表作のような写真が並ぶ。30年40年前に撮った写真がズラズラと並ぶ。最新作が展示される枚数は少ないものである。なぜなら、多くの写真家は「若い頃」に代表作を撮ってしまっているのである。この話は別に書くが、「若い頃」にしか撮れない写真があるのである。多くの場合作家の代表作は「若い頃」に撮った作品である。

要するに、「どうだ、素晴らしい写真だろ!」と胸を張って展示できるレベルの写真をせっせと撮り続けてきた著名な写真家であっても、「どうだ!」と言えるレベルの写真はそんなに沢山撮れるわけでは無いのである。まして、私のように「どうだ、素晴らしい写真だろ!」と言って人に見せることを目的に写真を撮ったことがない人間の場合、そうそう「立派な写真」を撮ってしまうことは多くないのである。まあ、私でもこの10年ぐらいに撮ったすべての写真から30枚とか50枚の「傑作」を選んで展示を行えばそれなりに高い評価を貰うことができるだろう。プロから「この写真は素晴らしいね!」と評価して貰えるレベルの写真の30枚や50枚なくては毎回毎回こうやって偉そうなことを書けないよ(笑)。

332枚の写真を見て「良い写真」だと思えた写真は多くなかった。綺麗に撮れている写真は少なくなかった。私は良いカメラと良いレンズを使っているので、「奇麗な光景」を撮影すれば「綺麗な写真」になって当然なのである。いちおう仕事で写真を撮っていたのであるから「光を見る」目はある。だから、「綺麗な写真」が撮れることは当たり前のことなのである。しかし、自分自身で「良い写真」だと思える写真は少なかった。なぜなら、「綺麗な写真」のほとんどは「どこかで見た」写真だからである。写真家の安達ロベルトさんが指摘していたように、「いい写真」「いい風景」「いい瞬間」を狙って撮った写真はちまたに溢れているのである。

いまプロの「流れ」として、そういう写真はほとんど評価されなくなっている。だから、著名写真作家は「綺麗な写真」とは「反対」方向の写真に向かっている。そのような写真が「写真が写真である写真」である。写真家の渡部さとるさんは先月行った写真展『IN and OUT』のコンセプトを次のように紹介した。

何かが撮りたくて撮るんじゃなくて、

撮るために何かを探すことだってある。


何かを伝えるためじゃなく、

自分でもよくわからないけど撮ったもの。

何かを写したものじゃなくて、何かが写っているもの。

役割を持たされた写真じゃなくて、写真が写真である写真。

そんな写真を撮ってみたい。


読んで字のごとしである。「何かが撮りたくて撮るんじゃなくて」「何かを伝えるためじゃなくて」「何かを写したものじゃなくて」「何かが写っているもの」「役割を持たされた写真じゃなくて」「写真が写真である写真」を彼は展示したのである。

このまま続けるとあと2〜3,000字は書いてしまう。だから、一旦ここで締めくくり続きはまた後で書くことにしよう。要するに、私が「平凡な写真(1)」に掲載した写真は、頂いたコメントに指摘されているように「妙にうまく撮ってやろうなんて考えだすと、こういう写真は撮らなくな」るような写真だということである。実は、私は写真を撮り始めたばかりの頃からそういう写真が一番好きだったのである。だから、このブログのトップページの右上のモノクロ写真の下に「平凡な写真が好きだ」と記されているのである。

tajiri8jp」さん、素晴らしいコメントありがとうございました! 心が繋がったようでとても嬉しかったです。

続きはまた後で。

by dialogue2017 | 2019-02-10 12:45 | スナップ | Comments(1)

平凡な写真(1)

2017年8月30日撮影。私はこういうなんの変哲もない「平凡な写真」がとても好きだ。

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by dialogue2017 | 2019-02-10 06:00 | スナップ | Comments(2)

この写真は「久しぶりに35mmを使ってみた(4)」に掲載したモノクロに変換したモノ。単純に変換しただけなのでローコントラストのまま。

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「久しぶりに35mmを使ってみた(4)」で書き漏らしたことがあることに思い至ったので書き足しておく。あのエントリーの冒頭に掲載した写真は綺麗に撮れていなかった。問題は曇天で色が綺麗に発色していない点にあるのだが、レタッチがあまりにいい加減であったことも大きい。色味を直す際は丁寧に見極める必要があるのだが、たぶん、あの写真を弄っていたときには眼のコンディションが悪かったのだろう。そういうときにはレタッチしなければ良いのだが「別に綺麗じゃなくてもいいや」ということでやってしまうのである。

さて書き足そうと思ったことである。あのエントリーの文中でああいう拙い写真を撮ってしまった際の「解決方法」として「こういう写真は撮ってもいいがブログには載せないこと(爆)」と書いた。確かにそれが一番良い解決方法だと思うが、どうしてもその写真を掲載する際の解決方法を書き忘れたので書き足しておく。

ああいう写真をブログに掲載するときにはモノクロ写真にしてから載せるのが良い。曇天で色が綺麗に発色していないという一番大きな問題は「モノクロ化」することによって「解決」するからである。これは、ひとつ前のエントリー「久しぶりに35mmを使ってみた(10)」の中に書いた話とも通じる話である。すなわち、「カラーで見たら面白くもなんともない光景がモノクロにしたことによってなんとなく様にな」るという話しに通じるのである。

モノクロ写真の場合、「古いモノ」とか「懐かしく感じるモノ」などを撮ると、もうそれだけで何となく様になってしまうということが少なくない。それがよくないと言うわけではない。それはモノクロ写真の大きな長所と言っても良いのでそれはそれでありだと思う。ただ、それはそれで良いとしても、やはりそれ以上のモノクロ写真を撮ることを心がけるべきだと思う。

今どきわざわざモノクロで撮る以上、それなりの"拘り”があってしかるべきだと思う。

「そんなに難しく考えなくても良いじゃないですか。楽しければそれで良いと思うんですが」という意見を否定しない。否定しないばかりか大いに同意する。私自身さして大きな拘りを持って写真を撮っているわけでは無いし、上手に撮れていない写真を平気でブログに掲載している。だから、本人が楽しんでそれでいいと思ってやることに目くじらを立てているわけではない。ただ、モノクロ専用カメラを使ってまで撮ったモノクロ写真が水準以下なのを見せられると、一言言ってみたくなると言うだけのことである。本当に、露出についても、構図についても、もっとも初歩的な理解無しに撮っている人が沢山いる。某モノクロ専用高級カメラで! 見ていて「痛い」。


by dialogue2017 | 2018-10-18 21:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)

わざと傾けて撮ったわけではない。私はそういうことはやらない。乱雑に撮っていて傾いてしまっただけのことである。どうでもいい写真だから。

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15日は朝早く目覚めた。と言っても7:30であるが、平素9時前後に起床する私にしては早起きである。部屋の窓を開けて空を見ると曇っていた。晴れていたらすぐにチェックアウトして浜辺に行っただろうが、曇天では行く気になれない。で、朝はノンビリ過ごすことにして1時間ほど本を読み、8:40過ぎに宿を出た。宿の玄関から由比ヶ浜海岸まではわずか240m(だからここに泊まった)。玄関を出て海に向かって歩き始めてすぐに踵を返した。曇天の海に行ってもあまり楽しくない。で、鎌倉駅前に出てとりあえず珈琲を飲むことにした。

宿から鎌倉駅までは1.2km。ゆっくり歩いても15分の距離である。道は若宮通り一本である。若宮通りというのは、由比ヶ浜海岸(滑川交差点)から「鶴岡八幡宮」へと続く参道で真っ直ぐな一本道である。二の鳥居から八幡宮の手前の三の鳥居までは「段葛」がある。鎌倉駅東口に向かうには、二の鳥居より手前で路地に入るので段葛までは行かない。

宿を出たとき、カメラにはXF23mm F1.4 Rが装着されていた。前の晩最後に使ったのがXF23mmだったから。しかし、仮にXF56mmが付いていたとしてもXF23mmに付け替えて宿を出ただろう。宿から鎌倉駅前まで歩く道すがらは35mm(XF23mm)の守備範囲だから。50mmならなんとか撮れるが85mmで撮るような場所ではない(撮り方次第だけれど)。

前の日に何枚か撮ってはいたが、久しぶりに使う35mmはとても新鮮だった。一時期もっともよく使っていた焦点距離なので勝手知ったる画角なのだが、かなり新鮮な感じがして驚いた。とにかく撮りやすい。ただシャッターボタンを押すだけだ。自分の目にシャッターがついていてそれで写真を撮っているかのようだ(笑)。私は平素からテンポ良く次々と写真を撮っていくタイプであるが、この時はいつも以上にバシャバシャと撮ってしまった。"どうでもいい”ような光景を撮っていることがハイテンポに拍車を掛けたのであるが、それは35mmの「画角」故のことだったのも事実。半年ぶりに使って思ったことはやはり35mmはスナップの王道レンズだと言うことである。

とにかく撮りやすい。ウインクしてあげればシャッターが切れるシステムみたいな感じだ。写真を撮るのにカメラとレンズが介在しているという感覚が稀薄なのだ。63°という対角画角は人間が目の前の光景を緩やかに注視した際の画角に近いのだろうと思う。私は、50mmが人間の視野に近いという説については否定的である。47°というのはかなり意識的にモノを見ているときの視野だと思う。平素はもう少し広い範囲を見ていると思う。街中を歩いているようなときは28mmの画角あたりまでフォローしていると思う。ただ、その時の意識次第でその内側のどこまでを注視しているかが変わるのだと思う。28mmの画角をフォローしつつ、緩やかに何かを注視しているときには35mmぐらいの範囲をよく見ていて、何か注目するモノを見つけると50mmになる。若くてスリムでとびっきり美人を認めたときには85mmになる(笑)。これが私の説である。

久しぶりに使った35mmはもの凄く使いやすかった。あまりに使いやすくて10枚ほど撮ったところでJPEGの設定をPROVIAからACROS(モノクロ)に切り替えた。私はカラーモードのままでモノクロを撮ることにあまり抵抗感がない。カメラの設定がカラーモードになっていても自分の「眼」の方はモノクロモードになるからである。もちろん、目の前の光景がモノクロに見えるわけではない。ただ、モノクロ写真として成り立つ「光景」を探す眼に切り替わると言うことである。しかし、カメラの設定をモノクロモードにした方が気分が出る。ファインダーの中がモノクロである方がモノクロで撮っている気分なれるから。気分って大事だ。

あまりに撮りやすくてモノクロに変えたのである。私にとって「モノクロ」写真の位置づけはそういうことである(爆)。街中のような「つまらない」場所を撮るときはだいたいモノクロで撮る。カラーで撮ったのでは面白くもなんともない光景がモノクロで撮るとそれなりに様になるから。

あくまで私見であるが、モノクロでばかり撮る写真愛好家には写真下手が多いと思う。モノクロの魔術に依存して写真を撮っているからだ。「あえてモノクロで撮る」ということの意味を十分考えた上で撮っていないモノクロ写真が多いと思う。ただ好きだからと言う理由でなんでもかんでもモノクロで撮っているだけだ。モノクロ写真はなんとなく様になってしまうので安易に撮ってしまうものである。私はカラー写真の写真展を見に行くことはまず無いが、たまに見た時感心することがある。カラーで作品を撮っている人間の方が写真が上手いと思うことが良くあるのだ。ブログなどでも、モノクロ写真ばかりを掲載している人で写真が上手い人は少ないが、カラーには上手な人が沢山いる。典型的にはInstagramだ。

モノクロには色がない。もうそれだけで「非現実的」である。「現実的」だと「芸術的」には見えない。だから、カラー写真というのは「平凡」に見えがちである(格別に美しい風景写真とかは別)。モノクロで素敵な写真をカラーに置き換えたら平凡でつまらない写真であるというケースは珍しくない。別にそれはそれで構わない。そういう写真はモノクロに向いている光景を撮っているのだということもできる。しかし、カラーで見たら面白くもなんともない光景がモノクロにしたことによってなんとなく様になっているというだけの場合が多い。私自身のモノクロ写真もそうだ。例えば冒頭に掲載した写真、カラー写真だともっとつまらない写真になる(だからモノクロモードに切り替えて撮影していた)。

話が長くなったので一旦纏める。久々に使って35mmはもの凄く「楽」だと思った。楽な理由は被写体との「間合い」が合わせやすいのである。どこで、なにを、どう撮るかにもよるが50mmより断然間合いが取りやすい。28mmは35mm以上に楽だけれど、楽であるが故に「緩い絵」を量産しがちだ。35mmの方がキッチリ撮れる。やはり35mmはスナップの王道レンズなのだ。50mmより撮りやすく、28mmより絵作りがしやすい。135判のカメラで作品を撮っている作家には35mm一本で撮っている人も珍しくないが(その代表は尾仲浩二さん)、宜なるかなという気がする。渡部さとるさんもLEICAを使っていた頃はズマロン35mm一本で撮っていた。1本のレンズで撮る作家は強い。写真が揃うから。

(つづく)


by dialogue2017 | 2018-10-18 18:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)

10月14日11:20撮影。私は本当に「平凡な写真」が好きなのだ。美しくなくてもいいし、上手に撮れていなくてもよい。

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この日はレンズを2本持って行った。最初、XF23mm F1.4一本にしようと思っていたのだけれど、後ろ髪を引かれる思いを断ち切れずXF56mm F1.2も持って行った。私は「人物」を撮るのが一番好きなのだけれど、他人を勝手に撮ることにどうしても抵抗感を覚えてしまう。それでもこの1年ぐらいでかなり「進歩」(笑)して随分人を撮れるようになった。ただ、未だに「後ろ姿」が8割で、残りの2割も「目線」が来ているカットはほぼ無い。基本的に、「目線」の来ている写真を撮る際には本人の承諾を貰ってから撮るべきだと思っているから。ただ、承諾を得て撮る写真と、勝手に撮らせて貰う写真は「別物」で、後者には前者にない魅力がある。だから悩ましい(笑)。

最近、一人で出掛けた先ではXF56mm F1.2 Rを使っていることが多い。その理由は言うまでも無く「人物を入れた」写真を撮っているからである。きちんと正面から撮ったポートレートではないので「人物を入れた写真」と表現しているが、事実上主題は人物である。ただし、完全な「人物写真」とは少なからず異なる写真である(だいたい後ろ姿だし・笑)。実際、人物だけではなくそのときの「風景」を含めて撮っていることが多い。例えば、「人物と夕焼け」といった感じに。

前回は、XF56mmと28mmレンズ固定式カメラを持って行ったのだったと思う。その際28mmは完全に「サブ」として持って行った。メインカメラの予備という意味での「サブ」ではなく。主に撮ろうと思っている「メイン写真」とは別の雰囲気の「サブ写真」を撮るためのカメラという意味である。85mm(XF56mm)と28mmでは撮る絵が全く違う。だから、使い分けは至って簡単だ。「人物を配したスナップ」は85mmで撮って、「海辺の光景」は28mmで撮る。後者は何枚も撮らないのでどっちつかずになると言うことは無い。

スナップの王道はカメラ1台にレンズ1本だと思う。理由は「潔い」からである。「このレンズで撮れるモノだけを撮る」という潔さが良い写真を生む出発点になる。レンズを複数本持つと、あるいはズームレンズでスナップすると、「あれも撮りたい、これも撮りたい」になりがちで、結果としていまひとつパッとしない写真を量産することになりかねない。もちろん、「なりかねない」であって「なる」では無い。達者であれば、ズームでも単焦点レンズを使ったときと同じように撮ることが出来るモノだ。ただ、それでも単焦点1本という割り切りには及ばない。

昔は35mmと50mmの二本持ちをすることがあったが今はまずやらない。両者の「画角」が近すぎるからだ。どっちつかずになりやすい。どちらか1本で撮っていたら「引く」か「寄る」かするシチュエーションで、自分で動かずレンズを変えて撮ってしまいがちだからだ。写真は「間合い」が一番肝心なので、引いたり寄ったりをなおざりにすると良い写真が撮れないものだ。

2本持って行ってもとっかえひっかえ撮ると言うことはあまりしない。85mmで撮り続けたあと、次はしばらく35mmで撮るというようなスタイルになる場合が多い。今回の場合、14日はほぼ85mm(XF56mm)で撮り通した。夜江ノ島大橋周辺で撮った時だけ35mm(XF23mm)で撮った。日中は35mmではほとんど撮らなかった。なぜなら、とりあえず「人物を入れた写真」を撮りたかったから。せっかく持って行った35mm(XF23mm)はほとんど使わないで終わるかと思った。

(つづく)


by dialogue2017 | 2018-10-18 16:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)

10月15日11:20に撮った写真。場所は由比ヶ浜海岸。わざと緩い写真にしている。理由はこんな感じだったから。人のいない海が好きだ。

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久しぶりに35mmで写真を撮った。最近一番よく使っているのは85mm(XF56mm)で、次が50mm(XF35mm)。その次が28mm。これはFUJIFILMのカメラではなく某社のレンズ固定式カメラ。単焦点レンズはだいたいこの3本。85mm、50mm、28mm。35mmが抜けている。

以前はスナップに使うレンズは28mm、35mm、40mm、50mmのいずれかであった。一番楽に撮れるのは28mmだと思う。もちろん、「何をどう撮るか」次第で適切な焦点距離は変わるし、なによりも「好き好き」というものがあるから一概には言えないが、総合的に判断した場合、28mmというのはスナップにもっとも使いやすい焦点距離だろう。なんども書いたが何も考えなくてよい(笑)。心に止まったモノが目に入ったらそこにレンズを向けてシャッターボタンを押すだけで良い。それでだいたいまとまった絵になる。ストリートスナップには一番向いていると思う。GR DIGITAL・GRがずっと人気を維持しているのは28mmという焦点距離であることが大きいと思う。スナップしやすいのだ。

「都会」をテーマにスナップを撮るなら21mmは不可欠な焦点距離だと思う。「都市」のもつダイナミズムを表現するには21mmの広がりがとても合っていると思う。しかし、28mmとは全く違って、21mmというのは簡単ではない。難しいわけではない。勘所の良い人間ならちょっと撮り続けたら直ぐに「ああ、21mmってこう撮れば良いんだ」と気がつくはずだ。しかし、勘所の悪い人(いるんだよね〜、沢山)の場合、21mmは手こずるだろう。仮に、「東京」というテーマで1冊の写真集を作るとしたら、21mmと28mmの2本だけで十分だと思う。もちろん、50mmで表現する「東京」というものもある訳だが、「東京」という「都会」を余すところなく表現するためには50mmでは絶対に不足する。

50mmでは「東京」の「部分部分」を撮り集めるやり方になる。そういう形で「東京」を表現することもあって良いが、そういうやり方では「東京」という「大都会」の持つ「ダイナミック」さを十分に表現することは不可能だ。「東京」を撮るのに21mmは不可欠なような気がする(もちろん異論があって良い)。ただ、21mm1本だけだと無理だ。21mmというのはかなり強烈に個性的な写りをする画角なので、それだけで写真を揃えると落ち着かない。「写真集」を落ち着いたモノとして纏めるためには28mmを併用する必要がある。いや、28mmで撮った写真を中心にして、その合間合間に21mmで撮った写真を差し込んでいくというのが一番作りやすいだろうと思う。

私一度も写真集を作ったことがない。オンデマンドのフォトブックも作ったことがない。自分の「ポートフォリオ」を作ったことも一度も無い。それはそうだ、私は自分が撮った写真をプリントしないのだから。この8年間、自分が個人的に撮った写真は1枚もプリントしていない。自分の写真をプリントするなんて気持ち悪い(笑)。

しかし、私は写真集をどう作ったら良いかだいたいわかる。個展を行うための「作品」をどういう風に撮ったら良いかということについても概ね知っている。なぜなら、私は優秀な写真作家の展示を見続けてきたからである。いままで、私は年に2〜3回しか写真展を見に行かなかった。写真を見てみたいと思う写真家は何人もいる。東京に住んでいるので写真展は数え切れないほど開かれていて、1日に10のギャラリーで写真展を観ることだって可能だ。しかし、わざわざ出向いて行ってまで写真を見たいと思わない。「ああ、これ見てみたいな。行ってみよう」と思っても結局行かない。人の写真を見に行くより、江ノ島・鎌倉に行って海風に吹かれながら散歩をしている方が好きなのだ。

また話が逸れるが、昨日は割と早い時間に起床した。とても良い天気だった。鎌倉に行きたいと思った。昨日は娘の習い事もない日だったし、前日ハッシュドビーフを作っておいたので、炊飯器の予約だけして出かければ、私がいなくても子どもたちだけで夕食を食べることが出来る。妻も早めに帰宅する予定の日だった。10時に家を出たって昼過ぎには江ノ島に着く。行こうかと思った。鎌倉には3日前に1泊で行ってきたばかりなのにもう行きたくなった。行きたい理由は「心地よい」からである。海風に吹かれるのはとても気持ちが良い。

海辺にいることが好きなのだ。カメラを持って行かなくてもいい。写真を撮らなくても良い。それでも十分に楽しいと思う。何か美味しいランチを食べて、雰囲気の良いカフェで珈琲を飲みながら本を読む。「そういう一日」がいちばん心地よいのである。写真はその「ついで」に撮っていると言ってもよいだろう。だから、カメラを持って行ってはいけないと言われても困らない。カメラを持たずに行っても楽しいことに変わりないから。事実、私は20代30代にはカメラを持たずに江の島・鎌倉界隈に足を運んでいたし、40代の初め頃京都に通っていたときもカメラは持って歩かなかった。私は、20代の初めから40代の初めに掛けての20年間、全く写真を撮らなかった。カメラを持っていなかったのだ。

ああ、また脱線して話が長くなった。でも、読書に疲れて「一服」するために書き始めたのだから、話がどこに脱線しようと長くなろうと構わない。自己満足だから(笑)。でも、数人は読んでくれている人もいるので、一旦締めて続きは仕切り直すことにしよう。

(つづく)

by dialogue2017 | 2018-10-18 14:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)