2019年 11月 29日
お遊び(1)
"この写真”にコメントを貰った。1年近く前に撮った写真にコメントをくれたのだと思った。”この時”に撮った写真だと思ったのだ。よく見たら今月6日のエントリーだった。1年近く前にこの花を撮った記憶はあったのだが、今月6日に撮ったことなんて奇麗さっぱり忘れてしまっていた。それはそうだ。庭に出て1枚撮っただけだったのだから。コメントを読んだ後、もしかしたらまだ咲いているかと思って庭に出るとまださいているどころか生い茂っていた(笑)。実は、赤い花びらは少なく、白い花びらが多いのだが、ちょうど東南からの陽射しを直に受けているので白い花は被写体にならない。で、またもや日陰に咲いている赤い花の方を撮った。
from_vixen君から机の上にあるカメラは初代のα7だけである。α7Ⅲと4本のレンズを入れたカメラザックは茅野の「山小屋」に置いてくるつもりだったが最後になって気が変わって一応車に積んで持って帰ってきた。年に数回しかないことだけれど「写真を撮って欲しい」という依頼があることがあるので念のために持ち帰った。しかし、ザックから撮り出すのが面倒なので机の上にある初代α7を手にした。しかし、装着されているSonnar T* FE 55mm F1.8 ZAで撮ったのでは6日と同じ。で、レンズだけPlanar T* 50mm F1.4 ZAに取り替えてサンダルを履いて庭に出た。
「寄れない」。そんなことは今更分かったことではない。書斎でレンズを付け替えるときから分かっていたことである。最短撮影距離は0.45m。一輪の花を撮るには遠すぎる。しかし、書斎α7にこのレンズを付けて写真を撮ったのは"この1枚”だけなのでこのレンズで撮ってみたかった。というわけで、トリミング前提で3枚ほど撮ってみた。かなり大幅にトリミングしている。面積比で元の半分以下の部分を切り抜いている。まあどうってことない写りだ(笑)。
こういう写真を撮ったとき、「ピクチャースタイル」をなににするか悩ましい。これは「クリア」を使った。クリアとは対極的な「ディープ」も魅力的である。多くの場合、この対極的な二つのどちらにするかで悩む。「ビビッド」や「ライト」も悪くないのだが、「クリア」や「ディープ」の方が個性が強いのでそのどちらかを選ぶことが多い。というのは、完全な日陰で直射光が当たっていない花を撮っているからである。撮影条件がとても「地味」なので、ピクチャースタイルで多少味付けして上げた方が良いと思うからである。
デジタルカメラで撮影した写真は「レタッチ次第」でどのようにでも変わる。だから私はデジタルカメラで写真を撮ることにあまり真剣になれないのである。撮影後に如何様にでも仕上げることが出来るというのが面白くないのである。しかし、実際に写真を撮ってしまった後は最低限のレベルでレタッチをする。考え方は二つある。できるだけ「撮りっぱなし」に近い範囲で収めるレタッチと「絵作り」してしまう場合である。私の場合90%までは前者であった。明るさとコントラスの微調整しかやらな"主義”だからである。しかし、α7Ⅲを使い出してからは「絵作り」することが増えた。このカメラはそういうカメラだという気がしている。極論すれば、「クリア」と「ディープ」がこのカメラの「真骨頂」だと思っている。
殺風景で、ちょっと寒々とした色合いで面白くもなんともない写真である。しかし、初めから初代α7にPlanar T* 50mm F1.4 ZAを装着して写真を撮ることが目的であったので結果なんて最初から気にしていない。一番知りたかったことはα7Ⅲとの差である。撮り比べていないので確かなことは言えないがほとんど違いはないだろうと思う。Yashica-ContaxマウントのPlanar 1,4/50にそっくり(笑)。こちらの方が少し「硬い」かな。
SONY α7 + Carl Zeiss Planar T* FE 50mm F1.4 ZA ISO200 F2.5 1/400 -0.33EV AWB CS:クリア
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by dialogue2017
| 2019-11-29 12:00
| 花
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2019年 11月 06日
Carl Zeiss Sonar T* FE55mm F1.8 ZA
花の直ぐ下の「葉」にガツンと直射光が当たっているという時点で「被写体」としてはNGであるが、他に適当な「被写体」が見つからなかったので撮った。しかし、花ビラは奇麗に写っている。 Planar T* FE50mm F1.4 ZAと撮り比べてみるなどという面倒なことをする気にはなれないが、友人の写真家が指摘したように、Sonar T* FE55mm F1.8 ZAの方が背景の"ボケ”がおとなしいかもしれない。レベル補正をしただけでホワイトバランスなどはまったく弄っていない(色は撮りっぱなし)。悪くないと思う。ただし、こういう写真を撮るのであれば古いYashi-ConマウントのS-Planar T* 2,8/60 Macroの方が上だ(撮影例)。RICOH GXR A12 50mm F2.5 MACROもこの上を行く(撮影例)。半世紀近く昔に製造されたS-Planar T* 2,8/60 Macroが現代のレンズの上を行くというのはすごい話しだ。丸10年前に発売されたRICOH GXR A12 50mm F2.5 MACROがこの写真以上の写真を出してくると言うのも「驚異」だと思う。
SONY α7(初代) + Carl Zeiss Sonar T* FE55mm F1.8 ZA ISO400 F2.2 1/4000 -0.67EV AWB CS:ビビッド
しかし、「追記」で訂正したように、2014年10月に初代のα7を購入した際にCarl Zeiss Sonar T* FE55mm F1.8 ZAを買っていた。当時の私のメインカメラはCanon EOS 5D MarkⅢだった。α7は良いカメラだと思うが、5D3に取って代わるということはあり得なかった。5D3の絵の方が断然素晴らしいと思う。しかし、5D3のサブ機として7Dを持ち歩くのは重いので、α7に Sonar T* FE55mm F1.8 ZAを装着して5D3の"サブカメラ”として持ち歩いた。
5D3とα7では「発色」が大きく異なるので「仕事」ではサブ機としては使えないが、プライベートでの使用であれば色合いが異なっても問題ない。私が写真を撮るのは家族旅行先がほとんど。5D3にはEF17-40mm F4Lを装着して「引き」の写真を撮影し、α7+ Sonar FE55mmでは子どもたちのアップの写真を撮った。しかし、2017年3月末にFUJIFILM X-T2・X-T20を購入して以後、5D3もα7も完全に「引退」した。その後2台ともほとんど使うことはなかった。それほどX-T2・X-T20に満足していたと言うことである。EOSも発色は素晴らしいと思う。肌の色はとても奇麗に出る。しかし、X-T2・X-T20の発色はEOS以上だと思う。もちろん、本格的なポートレートフォトを撮ったら、APS-Cセンサーとフルサイズセンサーの違いは出る。しかし、「色合い」という点では控えめに言ってもX-T2・X-T20は5D3と同格である。
5D3は完全引退となったが(なんとも勿体ないことである)、α7は時々使っていた。α7を家族旅行に持って行くときには Sonar T* FE55mm F1.8 ZAを装着して使ったが、一人で出歩くときにはSONYの純正レンズを装着したことはほとんどない。90%がた古いYashica-ContaxマウントのZEISSレンズを使っていた。そもそもα7を購入した動機自体が古いYashi-ConのZEISSレンズを使うためだったのだから当然である。私はYashi-ConのZEISSレンズを使うためにα7を購入したので、SONY純正のFEマウントのレンズを購入する積もりは全く無かった。Distagon T* 35mm F1.4 ZAやPlanar T* 50mm F1.4 ZAはとても魅力的ではあったが、20万円も出して買おうとは思わなかった。私には古いYashi-ConマウントのDistagon T* 1,4/35やPlanar T* 1,4/50で十分であった。私はα7でスナップするときにはだいたいこの2本のどちらかを使った。
昨年12月にα7Ⅲを購入した際にDistagon T* 35mm F1.4 ZAとPlanar T* 50mm F1.4 ZAを購入した。明確な「必要性」があったからである。それは、プロのポートレートフォトグラファーを越えたポートレートフォトを撮影するためであった。残念ながら、「彼女」が転勤して東京を離れてしまったためその「夢」は敵わなかった。で、Distagon T* 35mm F1.4 ZAもPlanar T* 50mm F1.4 ZAもほとんど使うことは無かった。いや、α7Ⅲ自体を使わなかった。
α7Ⅲを使わないくらいだから初代のα7を使うわけが無い。最後に初代のα7を使ったのは今年の1月だった。初代α7に古いYashi-ConマウントのZEISSレンズを着けて撮影してどの程度の「絵」になるか「テスト」撮影したのが最後である。「実践」的に使った最後がいつだったのかは覚えていない。
昨日、ちょっとした思いつきで、α7Ⅲのサブ機として初代α7を使ってみようと思いついた。で、放電していいたバッテリーを充電した。バッテリーが充電されたあとにコーヒーカップの写真を撮った。日没後に人工光で撮影したためパッとした写真にはならなかったが、初代α7がいまでも十分使いものになるレベルの画像を出してくれることを確認した。α7Ⅲの"サブカメラ”として十分使えると分かった。
ひとつ前のエントリーを書いてアップしたあと、Carl Zeiss Sonar T* FE55mm F1.8 ZAを所有していることを思い出した。で、今しがたCarl Zeiss Sonar T* FE55mm F1.8 ZAで4〜5枚撮ってみた。庭に出ると「野菊」が咲いていた。最近東京の自宅は「仮住まい」のような気分になっていて庭の花なんて見たことがなかった。野菊を撮ってみた。最初に思ったことは「寄れない」と言うことだった。最短撮影距離は0.5m。まあ標準レンズとしては普通である。Planar T* 50mm F1.4 ZAは0.45mと5cm短いが似たようなものだ(と書いたが5cmの差は大きい!)。ここ最近α7Ⅲを使う時にDistagon T* 35mm F1.4 ZA一辺倒になっている理由のひとつは最短撮影距離が0.3mと「寄れる」ためである。レンズ1本で写真を撮り歩くとき「寄れる」というのはもの凄く大きな"利便”である。
α7ⅢにPlanar T* 50mm F1.4 Zを装着した際の重量は1,428gである。初代α7にCarl Zeiss Sonar T* FE55mm F1.8 ZAを装着した際の重量は755gである。なんとほぼ半分である。しかし、それでも「標準レンズ」を使いたいときにはPlanar T* 50mm F1.4 Zをを選んでしまう。「じゃじゃ馬」な部分がある反面、Planarならではの絵があるからである。そして、50mmと55mmの違いは「感覚」的には大きいのである。でも、Carl Zeiss Sonar T* FE55mm F1.8 ZAを使わず防湿庫の肥やしにしているのは勿体ないことだと思う。小さくて軽いのに良く写るレンズである。初代α7のメインレンズとして少し使って上げようと思う。
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by dialogue2017
| 2019-11-06 13:00
| 花
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2019年 11月 05日
SONY α7(初代)
追記。初代α7を購入してすぐにSonnar T* FE 55m F1.8 ZAを購入していたことをすっかり失念していた。あれもFEマウントのZeissレンズだった。いまも所有しているが、もう数年間使ったことがない。友人の写真家はPlanar T* FE 50mm F1.4 ZAよりクセがなく使いやすいレンズだと言う。確かに、Planar T* FE 50mm F1.4 ZAはボケが暴れて煩い絵を出すことがある。そこは撮影ディスタンス次第。
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by dialogue2017
| 2019-11-05 18:30
| 写真とカメラの話し
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2019年 09月 01日
天井バウンス
「モデル」は書斎に置いてある自転車。室内灯を消灯しての撮影。オンカメラでマニュアル発光。天井バウンス。
1/8発光が適正露出となった。TTL発光では完全に飛んでしまう。ちなみに、安物の自転車だがほとんど乗っていない。
【ストロボ発光無し】
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by dialogue2017
| 2019-09-01 12:00
| 写真とカメラの話し
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2019年 03月 29日
焦点距離と間合いについて(4)
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by dialogue2017
| 2019-03-29 12:00
| 写真とカメラの話し
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2019年 02月 28日
陰影礼賛 (日本的美意識)
"このエントリー”に掲載した写真に対してshi-photo君から次のようなコメントを頂いた。ちなみに、この写真は現在shi-photo君が愛用しているRICHO GXR A12 50mm F2.5 MACROで撮影した写真である。
こういう素敵な写真を見ると、いくら同じカメラを使っていても、より高い最新式カメラを使っても、自分には撮れないなと思います。撮影者の物の見方、技量があってこそ、カメラも活きるというものですね。
自分で言うのもなんであるが、確かにこの写真はとても綺麗に撮れている。しかし、ただ単に花の前にしゃがみ込んでレンズを花に近づけてシャッターボタンを押しただけなのである。露出補正さえしていないので本当にただ撮っただけである。しいて私が選択したことを上げればF5.6という絞り値を選択した事くらいである。綺麗な写真になった理由は二つあって、「奇麗な光が当たっていた」ことと「カメラとレンズの性能が良い」ことである。この写真に関して言えば「技量あってこそ」ではないと言って良い。
ただ花の前にしゃがみ込んでレンズを向けてシャッターボタンを押しただけなのだから「技量」などと言うものはまったく無関係である。何かにレンズを向けてシャッターボタンを押すだけなら誰にでもできる。そういう作業は「技量」ではない。shi-photo君が「自分には撮れない」と思う写真を私はいとも簡単に撮った。そもそも、私がこのブログに掲載している写真の少なくとも90%はただシャッターボタンを押しただけの写真である。私がスナップしているシーンの動画を撮影して公開したら、あまりに無造作に、しかも瞬時に撮っていることに驚くと思う。私はあまり丁寧に撮らない。立ち止まって1〜2秒で撮り終えることがほとんどである。撮ったあとは背面モニタで画像を確認しないで歩き出す。もちろん、時々は3〜4秒掛けて撮るときもあるが、ほとんどの写真は立ち止まって1〜2秒で撮っている。
shi-photo君と私の何処が違うのかというと、shi-photo君が書いているように「物の見方」である。しかし、実際には私はただたんに自分が「いいな」と思ったモノにレンズを向けて撮っているだけである。まあなにを「いいな」と思うかが「物の見方」と言うことになるわけであるが、それも簡単なことで「奇麗な光が当たっているモノ」である。この写真はたまたま玄関を出たときに目に入り、「ああ、奇麗に咲いているな〜」と思って撮ったというだけのことである。"こんな風に"自宅の猫の額ほどの庭の隅っこの日陰に咲いていたのだが、この花の部分には木漏れ日が当たっていた。そう、私は「木漏れ日」の当たっている花をよく撮るのである。時には、「木漏れ日」そのものを被写体として撮ることもある。(注)上の"こんな風に”をクリックして表示される写真は日陰になってしまったあとに撮った写真であるため「木漏れ日」は当たっていない。
写真は「陰影」があるものが美しい。谷崎潤一郎に『陰影礼賛』という随筆がある。それについて説明を書こうと思ったのだが内容を良く覚えていない(笑)。でネットで検索したらwikipediaに次のようにあった。
『陰翳礼讃』(いんえいらいさん)は、谷崎潤一郎の随筆。まだ電灯がなかった時代の今日と違った日本の美の感覚、生活と自然とが一体化し、真に風雅の骨髄を知っていた日本人の芸術的な感性について論じたもの。谷崎の代表的評論作品で、関西に移住した谷崎が日本の古典回帰に目覚めた時期の随筆である。これを読んでも『陰影礼賛』を読んだ記憶が蘇らなかった。たぶん、ペラペラとやっただけだったのだろう(笑)。いや、熱心に読んだ本でも内容をすっかり忘れてしまっていることは珍しくない。いずれにしろ、私は谷崎からなんの影響も受けなかった。若い頃にはこういう話には関心が無かった。多くの場合、人が「風雅」を理解するのはある程度年をとってからである。まあ、人によりけりであるが、私の場合そういう感覚が顕著になったのは40を過ぎてからのことであった。西洋の文化では可能な限り部屋の隅々まで明るくし、陰翳を消す事に執着したが、いにしえの日本ではむしろ陰翳を認め、それを利用することで陰翳の中でこそ映える芸術を作り上げたのであり、それこそが日本古来の美意識・美学の特徴だと主張する。こうした主張のもと、建築、照明、紙、食器、食べ物、化粧、能や歌舞伎の衣装の色彩など、多岐にわたって陰影の考察がなされている。この随筆は、日本的なデザインを考える上で注目され、国内だけでなく、戦後翻訳されて以降、海外の知識人や映画人にも影響を与えている。
と書いて気がついたが、私が写真を撮り始めたのは2003年の秋からであったのだが、当時私は46歳であった。おそらく、26歳の時に写真を撮っていたしたら46歳の私とは随分と違った写真を撮っていただろうと思う。おそらく、花の写真なんてまったく撮らなかったのではないかと思う。
話を戻すが、写真は「陰影」のあるものが美しいと思う。しかし、いかにも「光と影」を撮りましたという写真は、見る者に対して「わざとらしい」という思いを抱かせる。上手に撮れていればそういう写真も悪くはないが、そういう写真ばかりを並べられたら「げっそり」するだろうと思う。日本人の感性として「さりげなさ」を愛するということがある。今の時代にあっては「古い日本人」に属する世代となった私にはそういう感覚がある。いや、私は若い頃から「さりげなさ」に美を見出していたと思う。私は「顕示的」なモノがきらいであった。「ブランド品」などは大嫌いであった。中身が「空っぽ」な人間が己の「空疎さ」を隠蔽するために欲しがるモノが「ブランド品」であると思っている。
私は「さりげない陰影」を撮るのが好きだ。と言ってそういう「陰影」ばかりを探して撮っているというわけではない。私は何でも撮る。いろいろな物を撮るし、光に拘らずに撮ることも少なくない。ただ、花の写真を撮るときには「さりげない陰影」で撮ることが好きだしそういう写真をとることが多い。もちろん、陽が当たっている花を撮ることもあるし、逆光の透過光で撮る花もとても美しいと思う。しかし、一番好きなのは「さりげない陰影」の中に咲く花である。
以上の話を読んでいただいた上で"この写真”を観て貰うとこの花を撮った時の私の「狙い」を理解して貰えるだろうと思う。十分に「光」を感じる写真であるが、実際には光が当たっている部分はとても少ない。花ビラの白っぽい部分にだけしか光は当たっていなくて、写真のほとんどの部分は「日陰」である。しかも、当たっているのは「柔らかい」木漏れ日なので「光と影」のコントラストは強くない。つまり、「さりげない陰影」なのである。私は、そういう光の中に咲いている花を見つけて撮ることが多い。目を皿にして探して歩くわけでは無い。散歩をしているとそういう花が目につくのである。人は自分が好むモノを見つけるようにできているから。
下の写真はこの「古いレンズで撮った写真」(2)(3)(4)と同じく2017年11月7日に撮影した写真である。自宅近所を短い時間散歩して、S-Planar2,8/60で次々と撮っていった写真の中の一枚である。私はこういう「なんでもない」写真をよく撮る。こういう「平凡」で「優れたところがない」写真が好きなのである。写真にしてしまうと「面白くもなんともない」が、散歩中に肉眼で見たときには奇麗だと感じる。秋の暖かい陽射しに照らされた花は美しい。美しいと思うから撮る。写真になってしまうと実際に見た時の美しさは失われているが、この写真を見たとき、私の頭の中では実際に見た光景が再現される。だから、写真というモノは「撮影者のモノ」なのだと私は思う。
それにしても、花の写真の撮り方で谷崎潤一郎の話が出てくるブログなんてこのブログぐらいだろう(笑)。
下の文章は下の写真の初出時に書いた文章である。
今日は立冬だというのに20℃を超えるぽかぽか陽気だった。ちょうど開花期で散歩中あちらこちらで野菊を見かけた。しかし、日当たりの良いところに咲いているケースがほとんどで写真にならなかった。直射光を受けている花の写真はあまり撮らない。こういう平凡な写真が好きだ。ちなみに、ここでアップを撮るとしたら、右下の5輪か、その直ぐ上。半分以上日陰になっている部分を撮る。
(3,084文字)
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by dialogue2017
| 2019-02-28 12:00
| 写真とカメラの話し
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2019年 02月 28日
古いレンズで撮った写真(7)

そういう花を奇麗に撮るのは意外に難しい。というのは自由なアングルから撮影することが出来ないからである。よそのお宅の庭に咲いている花であるから、道路から撮るしか無い。花の写真はちょっとアングルを変えるとかなり雰囲気が変わる。ポートレートでも同じであるが、マクロレンズで花を撮る場合はアップで撮るので僅かなカメラアングルの違いでかなり雰囲気が変わる。花も本当に奇麗に撮ろうと思ったら沢山咲いているところに行くのが良い。自宅から車で20〜25分ほどの場所に「昭和記念公園」がある。非常に大きな公園で季節季節にいろいろな花が沢山咲いている。子どもが小さい頃にはよく遊びに連れて行き、合間に花の写真を撮ったりしたが、もう4年ほど行ったことが無い。
公園に咲いている花の場合カメラアングルが限定されることは少ない。度の方向からでも撮れることが多い。しかも、花の数が多いので咲きっぷりの綺麗な花を選ぶことができるし、奇麗に光が当たっている花を選んで撮ると言うこともできる。住宅街である自宅周辺を10分20分散歩をして花を撮る時にはあまり自由には撮れない。しかし、初めから奇麗に撮ろうなどと言うことに対する執着はないのである。使っていないレンズを久しぶりに使う時というのはとても新鮮な気持ちになる。撮っているだけで楽しい。1枚の写真として奇麗に纏まらなくて、その写真のどこか一部にそのレンズの特徴がはっきり写ればそれで楽しいのである。
自宅周辺などで花の写真を撮っていて一番困ることは「背景の処理」である。まず、綺麗な花が咲いていても背景が「きたない」ということがよくある。民家の庭先に咲いている花を撮ることが多いためである。花の直ぐ脇に柵があったり、花の後が「家」であったりすることが少なくない。しかし、背景を選んでいたら(ある程度は選ぶが)撮れる花なんてなくなってくる。だから、背景があまり奇麗じゃなくても撮る。自分が狙ったところが「きれい」に出てくれればそれで良いのである。
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by dialogue2017
| 2019-02-28 10:00
| 花
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2019年 02月 27日
古いレンズで撮った写真(6)
これも(5)に載せた写真と一緒に12月に掲載した写真。この写真もPlanar2/135(Y/C)で撮影している。自宅の直ぐ近くの公園で撮った。1枚しか撮らなかったが奇跡的にジャスピン。絵柄的には面白くもなんともない写真であるが、レンズの素晴らしさは十分に伝わると思う。一番の特徴はボケがとてもなだらかに柔らかくボケていくこと。そして、ピントが合ったところが浮き上がるような描写をすること。このレンズも40年ほど前のレンズであるが、現行のEマウントPlanar1,4/50やDistagon1,4/35に遜色ない描写力だろうと思う。レンズの描写性能は目を見張るものがあるが、初代のα7がこれだけ奇麗な絵を出すことも伝えたい。
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by dialogue2017
| 2019-02-27 18:00
| 花
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2019年 02月 27日
古いレンズで撮った写真(5)
この写真は昨年末「SONY α7(初代)」で撮った写真がどれほど奇麗かという話を書いた際に何枚か載せた写真の中の一枚なので記憶に残っている人もいるだろうと思う。このレンズはほとんど使ったことが無い。というのは、ピントが浅くて手持ちではほとんどピントが合わせられないからである。こんな風に花を撮ってみ素晴らしいのだけれど、使うなら人物写真を撮るために使いたい。しかし、子どもは絶えず動いていてじっとしていることが少ないので開放でピントを合わせるのはほとんど不可能に近い。もちろんある程度絞り込めば誤魔化しはきくが、絞ってしまったのではこのレンズの最高の持ち味が生かせない。と言うわけで、ほとんど使ったことが無い。もし、大人の女性にモデルになってもらい、カメラを三脚に立てて「ピント拡大」機能を使ってピント合わせして撮影したら、かなり凄い写真が撮れるだろうと思う。
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by dialogue2017
| 2019-02-27 17:00
| 花
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2019年 02月 27日
古いレンズで撮った写真(1)


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by dialogue2017
| 2019-02-27 09:30
| モノクロ
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