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1年ぶりにα7を使った(と言っても6枚撮っただけだけれど)。マニュアルフォーカスレンズの開放で手持ちは厳しい。見事にピンぼけである。

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郵便物が届いたので受け取るために玄関に行った。昨日Yodobashi.comで購入したNDフィルターが届いた。玄関を出たとき、薔薇の花が数輪開いているのが目に止まった。雨に濡れて光り輝いていて綺麗だったので写真を撮った。机の上にあるX-T20で撮ろうと思ったのだが、ふと思い出してSONY α7を使って撮った。α7を使うのは1年ぶり以上のような気がする。α7は気に入っていて、一時期α7ばかりを持ち歩いたことがあった。しかし、「家族旅行」の写真を撮るにはX-T2・X-T20の方が使い勝手が良い。それに、α7用のAFレンズは1本しか持っていないのだ。で、昨年3月末にX-T2・X-T20を購入して以後、α7は全く使わなくなってしまった。※α7用のAFレンズは2本所有していることを思い出した。キットのズームレンズはあまり好きじゃなくてほとんど使ったことが無いため忘れていた。※最後にα7を使ったのは"この時”の様な気がする。

そもそもα7は古いZeissのレンズの「母艦」として買ったカメラなのである。購入したのは2014年10月3日。前日渡部さとるさんからDistagon2,8/25の着いたα7を借りてすっかり気に入ってしまい翌日買った話は"ここ”に書いた。購入後、Yashica/Contaxマウントの古いZeissのレンズを装着してα7を持ち歩いた。私は「Zaiss信者」ではないのでことさらZeissのレンズを褒めるような話を書いたことは無いが、「中立公正」な立場に立って評価してZeissのレンズは優秀である。40年前に発売されたレンズを使っても、21世紀の最新レンズに劣ることが無いと思う。

しかし、大口径レンズの絞り開放での撮影ともなると手持ちではかなり厳しい。カメラを持つ人間の手は静止することがない。常に前後左右上下に揺れている。だから、一発でピントが合うなどと言うことはまず無い。ましてMacroレンズで寄って撮るケースでは5回に1回だって合うという保証がない。北の方の某写真家に言わせると「打率一割」だそうである。厳密に評価したら確かにそんなモノかもしれない。そもそも大口径Macroレンズを使って花の写真を撮るときには三脚を使うのがセオリーである。5軸手ぶれ補正機能付きのAFレンズなら手持ちでもなんとかなるが、マニュアルフォーカスレンズでは三脚が必須だ。しかし、私は三脚を使ってまで花の写真を撮りたいとは思わない。

この写真を撮ってパソコンに落として「レタッチ」していてつくづく思った。結局、私は有り余る時間を「消費」するために写真を撮っているのだということだ。他にやりたいことがあれば写真なんかたまにしか撮らないだろう。事実、「家庭」を持つ以前は写真なんて撮っていなかった。カメラさえ持っていなかった。私が日常的に写真を撮るようになった契機は息子が生まれたことであった。それ以来13年間、私が「必要」だと思って撮っているのは家族の写真だけである。

まあそれはともかく、たまにはα7と古いZeissのレンズを使ってあげないと。でも、すっかりAFに慣れきっていて、いまさらマニュアルフォーカスで撮りたいという気持ちが小さくなってしまった。X-T2・X-T20導入以前はマニュアルフォーカスレンズで写真を撮ることが好きだったのにいまでは面倒なことに思える。つまり、私はドンドン「写真は記録」という方向にシフトして行っているのだと思う。X-T2・X-T20がその方向を加速させたような気がする。

まあ、なんでも良いんだけれど、このエントリーも時間を消費するために書いた(笑)。



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by dialogue2017 | 2018-10-11 16:30 | | Comments(0)

171106東京スナップ(20)

この写真はヒストグラムの右の山裾が255の下にピタリときている。つまり、ハイエストライトは白飛びしていない。ハイライト側は233〜253に集まっていてそれが写真中央に纏まっている。シャドー側は0の山が突き抜けている。写真の周囲がほとんどシャドーなので、中央のハイライト部は白飛びしていないのに飛んでいるように明るく見える。人間の視覚というのは極めて相対的なものなのである。つまり、ハイライトの見せ方はシャドー次第なのである。

ところでこの写真、"(18)に掲載した写真”ととても似ている。こちらは周囲がシャドーであるのに対して(18)の写真は下半分だけがシャドーだという違いがあるが、この写真の上を切ってしまうと(18)の写真とそっくりになる。実は、この2枚は80mほどの場所で、2分2秒の時間差で撮っている。しかも、全く同じ方向にレンズを向けて撮っている。輝度差があってコントラストの強く出る絵柄であるという点も一緒である。大きな違いは、こちらの方が明暗がばらついていることである。ハイライトがあちらこちらにある。この写真はほとんんどレタッチらしいことをしていないが、こちらの方が絵的には面白いと思う。そう思う理由は、線路とホームの先端に入っているハイライトが写真に起伏を生んでいるからである。

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10月以来、モノクロ写真についてああだこうだと沢山書いてきたが、それほど真剣に考えているわけでは無い(笑)。写真を撮ることが好きだから、出掛けた先では写真を撮ることが当たり前の事になっている。10月1日からは、雨の降っていない日には最低5km歩くことにしたので、それが写真を撮る枚数を大幅に増やした。すべてはここから出発したことである(爆)。

繰り返しになるが、ああだこうだと論じているが、モノクロ写真についてそんなに真剣に考えているわけでは無い。ただ、私の「お遊び」は、世間の多数の人から見たら「真剣」に見えるかもしれない。私は、努力ということがもの凄く苦手なのだけれど、かなりの努力家たちから「貴方には及ばない」と言われたことがある。努力はしないのだけれど、一時熱中するからだろう。熱中というのは、まさに熱が出たようなものであって、本人が努力しているわけでは無い。ただ、熱中すると言うことは、中途半端な努力以上に何かを獲得することに資するだろうとは思う。

もう書くことが無い。いや、書きすぎた(笑)。この間やってきたことはすべて「お遊び」である。毎日5km歩くことにしていてなければ無かったことだと思う。もう一つ大きな「原因」があった。エキサイトブログの「モノクロ写真」ジャンルに登録したことも大きなきっかけであったと思う。最初、自分のモノクロ写真をどうしようなどとは全く考えていなかった(そもそもモノクロはあまり撮っていなかった)。最初の動機は、「モノクロ写真」ジャンルに登録されている他の方々のモノクロ写真を見て、「ちょっと違う気がする」と思ったことだった。実は、この話は「Mさんへのお返事」につながっていくのであるが、ここではこれ以上書かない。

10月一月間、モノクロ写真に「憑かれて」いたのは間違いない。撮ることに関しては、それ以前とほとんど何も変わらなかった。いや、変えようが無いと言った方が正確だろう。写真の「撮り方」を変えられるとしたら、撮影方法では無く、「何を撮るか」の部分だろう。言い換えると「何を撮らないか」である。つまり、最終的に「作品」として見せることが可能なレベルの写真にできる被写体というのは限られていると言うことである。

そんなことはわかりきったことである。例えば、多くの写真家の写真集は、そこそこの期間に撮った写真の中から選りすぐった写真によって編まれている。著名作家をしても、自分が納得できるレベルの写真を揃えるためには、そこそこの量の写真から選ぶ必要があるからだ(中には20年30年と撮りためた写真から写真集を編むケースさえある)。もちろん、ごく短い時間でそれなりのクォリティーの写真をまとめて撮る力を持った写真家も決して少なくないと思う。しかし、ちょっとした作例レベルの写真であれば1日で撮れるとしても、1冊の写真集を作るとなると、なかなか1日の撮影で済ませると言うわけにはいかないだろう。

私は、「作品」としての写真を撮っていない。そればかりか、私は「反作品」というスタンスで写真を撮っている。「平凡」な写真こそが一番素晴らしいと本心から思っているからである。しかし、そういう写真はほとんどブログには掲載しない。そういう写真の多くは家族を撮った写真であり、極めてパーソナルな写真である。そんなものを不特定多数の人に見せてもつまらないだけだからブログには掲載しない(今度そういう写真を少しまとめて掲載してみようかな)。

私は、写真の一番の価値は"パーソナルな写真”の中にこそあると思っている。局限してしまえばそれは「家族の写真」である。どんなに素晴らしく撮れた風景写真やスナップ写真より、平凡な写りの家族写真の方が私には大切だ。乱暴なことを言えば、美しい風景写真なんて目の前の美しい風景を写し取っただけだ。美しいわけは風景そのものにある。いまはカメラの性能もレンズの性能も非常に高いから、美しい風景の前に立つことさえ出来れば、初心者でもプロの風景写真家に遜色のない写真が撮れてしまう。

もちろん、プロとアマでは「歩留まり」は大きく違う。しかし、まったくの初心者がプロ並みの写真が撮れてしまう時代であると言って決して過言では無い。少なくとも、ある程度の経験者であればちょくちょくプロ並みの写真を撮っているだろう。それは動かしがたい事実である。であるとしたら、プロ並みの写真が撮れることにどれだけの価値があるだろう?

もちろん、「プロ並み」の写真がちょくちょく撮れると言うこととプロとしてやっていけると言うことは別のことであるし、プロカメラマンとして飯が食べていけると言うことと「作家」としてやっていけると言うこともまた全く別のことである。私が言いたいのはプロとしてやっていけるかどうかと言うことでは無く、プロレベルの写真をアマチュアが「簡単に」撮れる時代だということである。ほとんどのプロカメラマンはこの事実を否定しないだろう。多くの写真家が「いまは誰でも簡単に綺麗な写真が撮れる」と語っている。

いらぬ誤解を避けるために「乱暴に言えば」と枕詞を付けておくが、もはや「プロ並み」の写真が撮れると言うことはそれほど凄い事では無いのである。いまのデジカメというのはそれを実現している。だから、私は美しい写真を撮ると言うことに大きな関心を抱いていない。何度も書いてきたことであるが、私にとって写真には二つの「価値」がある。ひとつは「記録」としての価値である。私にとって写真の価値はこの1点に尽きる。分かりやすい言い方をすれば、私は子どもたちに「遺産」として残す為に写真を撮っているのである。だから、私が撮るのは家族の写真である。

もうひとつの価値は「遊び」としての価値である。写真を撮るのは楽しい。それを誰かに見せると言うことも楽しい。私の場合、誰かに見せると言うことより、自分で見ることの方が楽しい(笑)。人間年を取ると他者からの評価などはどうでも良くなる。私は若い頃から「天上天下唯我独尊」を地で行く人間だったので、自己肯定感は生まれたときから自分の中にあった。寧ろそれが強すぎることが問題なほどに(笑)。

だいたいが、写真を褒められるなんてちっぽけな話だ。写真を褒められるより、自分という人間自体を褒められる方が遙かに嬉しいことである。「貴方の写真が好きです」と同性の男から言われるより、「貴方が大好き」と若くて美しい女性から言われる方が100倍嬉しい(笑)。自慢になるが(「自慢するわけじゃ無い」と書きたいがそう書くとかえって嫌味になる)、私は10代の頃から女性にもて続けた人生であった。だから、今更写真を褒められたいなどという欲望はさしてない。写真が上手に撮れるようになるよりは、歌が上手に歌えるようになるとか、ギターが弾けるようになりたい(全然上達しない)。

そんなわけで、私は写真に対して本気で真剣にはなれない。ただ、関心のある物事については"プロフェッショナルなレベル"で考えてみようとする習慣がある(病院で医師とあれこれ話していて「失礼ですが、あなたも医者ですか?」と聞かれたことが二度もある)。いままで、写真についてはそれを中途半端にしかやってこなかった。今回、それを少し真剣にやってみようと思ったのは事実であるが、まだまだお遊びのレベルでしか無い。お遊び以上に真剣になる「動機」が私には無いから。

これでモノクロ写真の話は終わりにするつもりだったのだけれど全然結論を書いていない(笑)。でも、とりあえず一旦ここで終わりにしておく。そして、しばらくの間モノクロ写真を撮るのは止めておこうかと考えている。私なりに確認したいと思っていたいくつかのポイントについては、ある程度十分な理解を得たからである。仮にこの先に進むとしたら、ひとつの大きな課題に取り組む必要がある。それは、「作品」を撮ってくることである。その為には、「じっくり撮る」必要がある。森山大道的スナップであれば、必ずしも「じっくり撮る」必要は無いかもしれないが、私が撮りたいタイプの写真では無い。

ある意味、森山大道的スナップというのはアップテンポで撮ることによって生み出せるタイプの写真だと思う。「アレ・ブレ・ボケ」は、荒っぽく撮った写真を活かせると同時に欠点を隠すことも出来る。いや、欠点を「長所」に変えることさえできる。しかし、私は森山大道的スナップには興味が無い。強いて著名写真家の名前を挙げるとしたら、私が撮りたいスナップは田中長徳氏のような写真だと思う。チョートクさんもそれほど「じっくり」撮っているようには思えない。しかし、チョートクさんの真面目な作品は「じっくり」撮られた写真のように見える。多分、達人なのだと思う。「念入り」な写真をさっと撮ってしまう力量の持ち主なのだろう(そういう意味では森山さんも同じだろう。二人とも「量」の蓄積が半端ではないからそれができるのだろう)。

いままで田中長徳さんの写真にそれほど関心を持ったことが無かった。しかし、つい半月ほど前にチョートクさんがEPSON R-D1sで撮った写真集を見て、もの凄く素敵だと思った。なぜなら、とても平凡な写真だったからだ。名人の行き着く先は「平凡」なのでは無いかという気がする。

追記。ことのついでなので、この写真のヒストグラムも載せておこう。まあ、こんなモノを参考にモノクロ写真について考える人などいないだろうけれど。割と珍しい形のヒストグラムである。私の写真にはほとんど無い形だ。この右端の山がない写真であれば沢山あるけれど。

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(いったんおわり)



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by dialogue2017 | 2017-11-10 16:00 | モノクロ | Comments(0)

171106東京スナップ(19)

写っているのは西武新宿線中井駅の下りホームである。階段からホームに上がった際に目の前にした光景である。私は、駅のホームから線路を撮るのが好きでちょくちょくホームで写真を撮る。中学生時代にはSL少年であったので電車もわりと好きである。いまは「鉄ちゃん」のように電車を撮ることは無いが、夕暮れ時に西日を受けて走る電車は魅力的な被写体だと思う。

この写真、二人の女子高生が撮りたかった訳では無い(私は女子高生が嫌いである)。電車のボディーに当たっている「光」を撮ったのである。ただし、電車だけを撮ったのでは殺風景な写真にしか成らないが、二人の女子高生のシルエットが入れば絵的にもある程度様になるだろうという意図はあった。更には、人物がシルエットになることで、電車ボディのハイライトが綺麗に見えるという効果も狙った。そういう意味では、この二人の女子高生がいたからこそ撮った1枚とは言える。

女子高生のシルエットが無くても、下1/3が日陰でシャドーだからそれだけで十分ではあるが、一番人の眼を引く写真中央に「黒」があることによってハイライトが輝く。上手くいったかどうかは分からないが、そいういう期待があって撮った。ついでにフェチっぽい話をすると、ホーム先端の点字ブロックにボディからの光が反射しているのにはそそられる(爆)。もっとマニアックな話をすれば、左の女性がもう少し左側に立っていてくれたら、しかも大きなバッグを抱えていなければ、背中のアウトラインにうっすらとハイライトが出ただろう。更に馬鹿馬鹿しい話を付け加えれば、この二人の女子高生を線路の側から撮ったら綺麗に撮れる。電車のボディが巨大なレフ板なっているから。でも、あと1歩半前に出ないと(爆)。

【追記】この写真を常用しているMacBook Proで閲覧すると、二人の女子高生の身体のアウトラインは綺麗には出ていない。しかし、iPad(第三世代)で見るとくっきりと綺麗に出ている。Retina Displayは"高解像度”が話題になるが、"階調”の豊かさの方がより大きな特徴だと思う。それにしても、同じRetina Displayだというのに、同じファイルを見ているとは思えないほどの違いである。ネット上の写真って、どんなに説明をしてもモニタに左右されるから、相手には伝わらない話をしているかもしれない(涙)。いずれにしろモノクロはプリントだよ。

【追記2】気になったのでこの写真をiPhone 5sで閲覧してみた。私のiPhoneのディスプレイには「ノングレア」化するためのフィルムが貼ってあるが、iPadで見た印象に近い印象に見えた。つまり、女子高校生の身体のアウトラインがよく出ている。そうなる理由が分かった。階調云々ではなく、モニタの輝度が高いのだと思う。iPadもiPhoneもMacBook Proより明らかに明るい。もしかしたら、OXの違いによる影響もあるのかもしれない。正確に言うと、OS XのSafariとiOSのSafariの仕様の違いも関係しているかもしれない。デジタルフォトはそれくらい環境に左右されると言うことである。なにしろ、同じパソコンで閲覧しても、SafariとFirefoxでは見え方が異なるのだから。

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写真を貼る前に文章を書くことにする。先に写真を貼ると話題が縛られるから。1週間ほど前であったか(もしかしたら10日以上前かもしれない)、テレビで面白い話しに触れた。私は平素テレビを見ない。10代の終わり頃から全くテレビを見ないようになり、以後30年程は全く見なかった。子どもが出来て以後、子どもがテレビを見るので時々一緒に見ることがあるが、自分から見ることはほとんど無い。しかし、毎日のように行っている銭湯のサウナにはテレビがあり、それを見ることがある。今から書く話もサウナのテレビで見た話である(笑)。

面白い話は二つあった。ひとつはボルタリングについての番組の話である。最新式のレーザーを使って、ボルタリングの壁面をスキャンし、それを数値に置き直して分析してみたり、そのデータを元に高性能3Dプリンターでホールドの再現模型を作って分析したりしていた。面白かったのは、「データ」から分析するというやり方の有用性が良くわかったからである。もちろん、そんなことは重々承知していることではあるが、分かりやすい事例に接すると(しかも映像で)「なるほど」と感心するものである。

もう一つは、30秒にも満たない時間で聞いたひとつのコメントである。はっきり覚えていないが、店舗の設計かなにかをやっているデザイナーの話であった。その要旨は、「デザインというと天性の才能が大きいと思われるかもしれませんが、そんなことは無いんです。デザインは理論化できるんです。だから、誰もが出来るようになります。理論を学ぶことによって」というものであった。

まあ、どちらも物事をデータ化して捉えるという話と言って良い。(18)の中で書いたが、私は物事を数字で捉えることを余りやらない。好きじゃ無いのである。私は、子どもの頃から理屈っぽいと言われていた。自分で言うのも何だが、論理力が非常に高く、小学5年生のときには「学校では理屈でこの子に叶う先生は一人もいない」と担任の教師が親にこぼしたという逸話があるくらいである(息子がよく似ている)。大手出版社の編集者から、「これだけ論理的な文章を書ける人は学者や作家にも多くは無い」と褒められたことが何度かある。別に自慢したいわけでは無く、以下の話の前に、私が理屈っぽく、論理を重んじる人間であることを言っておきたいのである。

私は多くの人々が異様だと感じるほど論理性を重んじるタイプの人間である。しかし、物事を数字で捉えると言うことが好きでは無い。言い換えると、数字に起き置き換えにくい領域に対する関心が強いのである。であるから、写真を数値で捉えると言うことには全く関心が無い。ただし、モノクロの写真集を印刷する際、最後はただたんに数字による指示になるということを知っている。こういうのは意外と「ディープ」な話で、写真をやっている人でも知らない人が多いと思う。実は、モノクロ写真というのは「数字」に馴染むのである。

なんの話をしたいのかというと、モノクロ写真の表現は、数値で語ることが可能な領域だと言うことだ。それは、ヒストグラムの0〜255の間での表現でしかないと言うことになる。こう言ってしまうと乱暴に聞こえるかもしれないが、実際にそうなのである。1枚の写真の中にあるのは「真っ白」(0)から「真っ黒」(255)に掛けてのトーンだけである。モノクロ写真というのはそれをどういう風に表現するかという世界である。

しかし、私はそういう「世界」にはとんと興味が無い。とは言え、自分では興味が無くても、Photoshopを弄るという行為は、本人に自覚がなくても0〜255のトーンを弄っていると言うことである(無論自覚しているが)。ここ一月ほど、初めて集中的にモノクロ写真の「レタッチ」をした訳であるが、そんなことをしていると興味があろうが無かろうがヒストグラムを気にすることになる。言うまでも無いことであるが、ヒストグラム自体が気になるわけでは無い。ひとつの指標として利用していると言うことに過ぎない。しかし、眼の調子が日によって異なる私にとって、それはひとつの「寄る辺」になっている。

私がここ最近ヒストグラムを参照するようになった一番大きな理由は、モノクロ写真の表現において、私がもっとも重視している点がハイライトの表現にあるからである。私は、白飛びは嫌いでは無い。フレアーが大好きなぐらいであるから白飛びした写真は好みの範囲に入る。飛んでいるかいないかということ自体は重要では無い。いや、飛んでいることによって素敵な写真であることは珍しいことでは無い。だから、255に山が出来た写真を否定しない。

しかし、いくつか前のエントリーに書いたが、白飛びをさせないと言うことは写真表現の基本だと思う(これは最終的な表現についての話である。フィルムであれば、撮影時にはむしろシャドーを潰さないことに気を配るだろう。デジカメの場合には、撮影時に白飛びさせないというのが基本である)。そして、一つ前のエントリーに書いたように、ハイライトの見え方というのはシャドー部との対比であるから、ハイエストライトが255に届いていない写真であってもハイライト部がとても明るく見える写真もある。基本的にはその範囲でハイライトの表現をした方が良いと思う。不必要にハイエストライトを飛ばしている写真は「下品」である。それに比べて255に届くか届かないかという抑えられたハイエストライトでありながらそこがとても明るく見える写真というのは「上品」だと思う。私が、基本的にはハイライトは飛ばさない方が良いと思う理由はそういうことである。

とここまで書いてから「しまった!」と思った。19枚目として用意されている写真が上に書いたことを証明するほどの写真で無いことを思いだしたからである(笑)。言い訳をすれば、この日撮った写真は、他者に見せるために撮った写真では無い。自分自身が、モノクロ写真におけるハイライトの見せ方について「研究」(と言ってもただ撮って来た写真のレベル補正をやるだけのことであるが)するための素材として撮ってきた写真でしか無い。とは言え、その「素材」には私が意図しているハイライトの見せ方、ひいては私が考えているモノクロ写真の表現の仕方のひな形がそこに孕まれていることは間違いない。長い話になったのでここで打ち切ろう。これ以上書くと3,000字は書いてしまうだろうから(笑)。

追記。参考としてこの写真のヒストグラムを掲示しておく。最近私が撮っているモノクロ写真の多くはこのヒストグラムとほぼ同じような形のヒストグラムの写真である。ちなみに、この写真、本当はハイエストライトをちょっとだけ飛ばしたい(笑)。

※写真の上の文章は、写真下の文章を書いた後から書いている。

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by dialogue2017 | 2017-11-10 15:00 | モノクロ | Comments(3)

171106東京スナップ(18)

こういう写真はきちんと水平を出し、レベルで撮らないとぎこちない写真になる。三脚を立てる必要があるとしたら、自然の中の風景写真より、都心で撮るこういう写真だろうと思う。それはともかく、この空の「白」の出方がどうにも気に入らない(ディスプレイのせいかもしれない)。プリントにすれば、用紙の「地色の白」で空の色が決まる。255ではないので多少は「墨」が載るだろうけれど、それでも地色の白の感じが出るだろう。モニタで見ているとそのあたりの「塩梅」がよく分からない。こういうケースは考えていなかった。 ※写真下に本文あり。

【重要な追記】この写真の空の「白」が気に入らない理由はやはりディスプレイのせいだった。というのは、iPad(第三世代)で見て見たところ納得できる「色」だった。常用しているMacBook Proはキッチンの続いたリビングで使用しているためディスプレイに「油膜」が付着しているのである。それはそうと、iPadのRetina Displayの階調の豊かさには驚く。この写真のシャドーがくっきりと出ている。MacBook Proだと潰れている部分が綺麗に出ている。ハイエストライトも直ぐに目に付く。

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(17)までの写真とがらっと雰囲気が変わった。ここは、西武新宿線中井駅(中野区)のすぐ近くである。赤坂・六本木・麻布(港区)で撮った写真とはまったく雰囲気が違う。まるで欧米とアジアだ(笑)。しかし、そういう絵柄上の違いよりトーンの違いが大きい。(17)までの写真とはハイライトの"見え方"が違うのだ。この写真のハイライトは、220〜240あたりが多く、255あたりは少ない。とは言え、(17)までの大半の写真より255はある。しかし、広い範囲の明るい部分とつながっているため255の部分が目立たない。ハイエストライトは、ちょうど真ん中ほどに写っている建築中(改修中?)の住宅の壁の陽が当たっているあたりだ。川を挟んだ反対側の白いビルも255でわずかに飛んでいる。しかし、その周辺全体が明るい(220〜240)ため、ハイエストライトはそこに「溶け込んで」しまっていて目立たない。もちろん、よく見ればハイエストライトの部分は直ぐに分かるし、そこが僅かに飛んでいることも分かる。しかし、それほど飛んでいるという印象では無い。

シャドーはディティールを出しているので黒つぶれしている訳では無い。ヒストグラムを見ても0は高くない。こちらも5〜40ぐらいあたりの山が高い。つまり、この写真のヒストグラムは左右に高く尖った山があって真ん中が谷になっている。見ての通り、「白」と「黒」ばかりがあって「グレー」(中間調)がほとんど無い写真である。(1)〜(17)も比較的ハイコントラストモノクロといえる写真が多いが、この写真のような極端な写真は無い。こういう写真をどういう風に整えていくかというのはまだまったく取り組んでいない課題である。

すでに10月のときのような「作品を撮ってみようか」という思いは無い。つまり、モノクロ写真を突き詰めてみようなどという気持ちは全くない。しかし、この間「自分の基準」を探していたことがちょっと「習い性」になっているいるのである。いままでヒストグラムなど全く気に掛けてこなかった。そんなことはどうでも良かった。いまもヒストグラム自体は気にならない。私はものごとを数字で捉える習慣が無いのだ。私は、数字でものごとを捉えるより、直感的に捉えることを好む(学問的領域に関しては論理性に強くこだわる)。だから、ヒストグラムを基準に写真を捉えようとは思っていない。ただし、数字は事実を表す。だから、自分の「直感」を確認する材料として参照している。もちろん、ヒストグラムを基準にレタッチするつもりは無い。

話を戻すが、この写真のハイエストライトは僅かに白飛びしている。しかし、広い範囲のハイライトの中に「埋もれて」いるためあまり目立たない。反対に、ハイエストライトが255に届いていないケースでも、「黒」の多い写真だと白飛びしているように見える場合がある。いつも言っていることであるが、物事というのは「相対的」に存在している。人間の視覚には「錯視」がある。それはモノとモノの「相対関係」の中から生じる。モノクロ写真は「白」と「黒」の相対関係で見せる写真である。ハイライトの見せ方というのは常にシャドーとの相対関係のもとにある。と書いて思い浮かんだことは、プリントであれば「紙」の地色の白という絶対的な基準があると言うことだ。とは言え、それであっても「白」は「黒」との対比の中で表現されることに変わりは無い。この先に進むためにはプリントを始めるしか無い。モニタでは分からない。


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by dialogue2017 | 2017-11-10 14:00 | モノクロ | Comments(0)

171106東京スナップ(16)

流石に飽きてきた。9日10日に分けて予約投稿しているが、その作業は8日に一気にやっている。すでに16枚もの写真を掲載し、そのたびにそれをじっくりと見つめ続けているわけであるが、自分の写真をじっくり見るというのはそれほど楽しいことでは無い。カラーの場合はまだ良いのだが、モノクロだとアラが眼について気になるのである。と言って、じっくりとレタッチをするのはなおしんどい。「じっくり」は嫌いだから(笑)。今回は、文章を書くのも面倒である。というのは、10月のときのように「憑かれて」いないからである。

この写真、サングラスを掛けたちょっと格好良い外国人女性が写っている。その直ぐ脇には中年サラリーマン。(1)で書いた話が実際に起こっている(笑)。しかし、私はこの外国人女性を撮ろうと思っていたわけでは無い。私はこの「店」が撮りたかったのである。(1)から全部読んでくれている人であればその理由は分かるだろう。そう、ハイライトの見せ方の題材として撮った。たまたま、私がこの店の前で立ち止まりカメラを構えたときこの女性が店の中から出てきた。真正面からレンズを向けた形になったので一瞬躊躇ったが、先方は私など存在していないかのように意に介していない。それなら、外まで出てきたところでシャッターを切ろうと思ったら左から男性が早足で歩いてきたという次第。二人がいなくなってから撮ろうかとも思ったが、待つのが面倒でこの状態で撮った。1/50しかなく男性の方は完全に被写体ブレしたがそんなことは私にはどうでもいい。問題は"ハイライト”の出し方なのだから。

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by dialogue2017 | 2017-11-10 12:00 | モノクロ | Comments(0)

171106東京スナップ(15)

じっくりと撮らない理由は二つある。ひとつは"せっかち”なのである。交差点で信号が変わって先頭の車両が動き出すまでに1秒掛かると腹が立つ。どうしてそんなにモタモタするのか。私はまれに見るほど安全重視に気を配った運転をしている。ありとあらゆる事を想定して運転している。だから、判断が速い。事前に考え得るすべての事態に対応する方法を考えているから。「すべての事態」の中には「想定外の事態」も含まれている。

もう一つの理由は、じっくり撮るようなものをまったく撮っていないからである。なにせ、こんな写真を撮っているのだから(爆)。本当はこの写真はかなり真面目な気持ちで撮っている。実は、松田聖子の大ファンなのだ。というのは嘘。私はこの日「ハイライトの見せ方」を考えるために写真を撮っていた。この絵柄は格好な教材だというわけである。でも、1秒で撮ってしまったかな。いや、2秒は掛けた(笑)。

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by dialogue2017 | 2017-11-10 11:00 | モノクロ | Comments(0)

171106東京スナップ(14)

(1)〜(10)は9日の掲載、(11)〜(20)は10日の掲載であるが、実は8日にすべて予約投稿している。6日に撮った写真なので8日がアップする気になる限界だから。3日を過ぎると賞味期限切れとなる(笑)。今更だが、(5)の話の続きに戻る。「じっくり撮る」という話の続き。文章が「しかし」から始まる理由は、そもそも最初に一括して書いたものを分割して載せているからである。

しかし、私は「じっくり撮る」ということができない。いや、「できない」という以前に好きではないのだ。写真に限らず、ほとんどのことで私は「じっくり」と言うことが出来ない。出来ないというのは"能力”の問題では無い。"気性”の問題である。スナップ中、私はISO感度を1段上げた方が良いと思ってもそれさえ面倒に感じて実行しない。その結果、ぶれた写真になることがある。しかし、それで一向に構わない。ぶれては困るような写真なんて撮っていないし、どうしてもぶれて欲しくないときにはISO感度を上げる。まあ、そんなことは滅多に無いが。とにかく、私は写真をじっくりと撮ることをしない。写真なんて、じっくり撮るものじゃ無いと思っているからだ。それでも最近は2秒以上掛けて撮ることが増えてきた。


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by dialogue2017 | 2017-11-10 10:00 | モノクロ | Comments(0)

171106東京スナップ(13)

この日撮った写真は「ハイコントラストモノクロ」風の写真が多いが、真意はハイコントラストにすることにあるのでは無く、飛び気味に見えるハイライトを表現することにある。「飛び気味」という訳は、ほとんどの写真でハイエストライトは255に収めているからである。ハイエストライトを完全に飛ばしてしまうことに必ずしも否定的では無いが、飛ばさないのが基本だと考えている。ハイコントラストモノクロはあまり好きでは無い。森山大道氏や中藤毅彦氏のプリントを見たらちょっと考え方が変わるかもしれないが、ネット上に溢れるそれを見た限りでは好きになれない。今回、多少ハイコントラストモノクロ風の写真を撮ってみた理由の一つは、使ったレンズがコントラストが強めに出るという理由による。それで、それを矯正するのではなく活かしてみようと思ってやってみた。好みの範囲の写真だけを撮っていたらモノクロは理解できないと思ったことも理由。

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by dialogue2017 | 2017-11-10 09:00 | モノクロ | Comments(0)

171106東京スナップ(12)

つまらない写真であるが、そんなことを言い出したら1枚も撮れなくなる(爆)。こういう光は好きなので撮りたくなると言うこともあるのだけれど、ハイライトの見せ方の研究のために撮ったという訳もある。ちなみに、この写真には5%のノイズを載せているが、たくさんのノイズを載せてみている理由もハイライトの見せ方を研究するためである。私は、デジタルフォトにノイズを乗せることによって銀塩写真らしい雰囲気にするという手法に否定的である。写真の表現なんて人それぞれ自由だから、他人が何をやろうと構わないが、ノイズを載せて銀塩風というのは余りに安易に思えて私はやりたくない。同じような理由から、カメラのアートフィルターでハイコントラストモノクロにしたり、モノクロ写真専門のレタッチソフトも使いたくない。そもそもそこまで真剣にモノクロ写真の表現を煮詰めようとも思っていない。私は、撮ってきた写真を基本的には「レベル補正」だけして終わりにしたいと思っている。いま、その範囲内でどういう表現手法があるかについてちょっと試しているところである。

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by dialogue2017 | 2017-11-10 08:00 | モノクロ | Comments(0)

171106東京スナップ(11)

私はスナップでは縦位置の写真は撮らない。プリントを展示で魅せるというのであれば縦位置も無くは無いと思うが、ネット上で見せる分には横位置で統一した方が見やすい。しかし、この写真はこれを撮った後直ぐに縦位置で撮った。手前の道路に伸びる街路樹の影が綺麗だったから。縦位置で撮った写真は、この写真とは別物と思えるほど綺麗な写真である。ただたんに影が綺麗だと言うことでは無く、写真に奥行き感が出て、散歩の雰囲気が良く出ているからである。たぶん、10月は1,000枚を大幅に超えるスナップ写真を撮ったが縦位置の写真はただの1枚も撮っていないと思う。この時に縦位置で撮った理由は、絶対に良い感じの写真になるという確信があったからである。プリントにして展示できるレベルの写真だ(笑)。

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by dialogue2017 | 2017-11-10 07:00 | モノクロ | Comments(0)