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撮りたいモノが何もない

今年は本当に写真を撮らなかった。正確に言うと「記録」としての写真は撮っているが、それ以外の写真をほとんど撮らなかった。この半年ほどは依頼されて撮影している「トムソーヤの森プロジェクト」を除くと、「山小屋」で朝の散歩をした際に撮る「散歩写真」以外はほぼまったく撮っていない。「散歩写真」も半ば"惰性”で撮っているようなもの。1週毎に雰囲気が変わっているとは言え、同じ場所で写真を撮り続けることはそれほど楽しいことではない。11月15日の朝、写真家である友人と二人で「散歩写真」を撮って歩いた。その時の話しと写真は"ここ”に掲載した。そのとき、友人は"凍った葉っぱ”を夢中になって撮っていた。そういう物を撮るのは初めてだそうである。彼は「都会派」でスナップ作品もニューヨークやパリで撮った写真が中心である。山歩きなどは絶対にしたくないと言っている。そんな彼は「被写体」としての"枯れた葉っぱ”に強く魅了されたようだ。魅力を感じる気持ちはとても良く理解出来る。多くの人が「撮ってみたい」と思う被写体だと思う。しかし、私はあまり興味がない。

11月30日の朝に散歩をした際10枚ぐらい撮ってみた。しかし、私には絶対に向かない「被写体」である。理由は二つある。まず一つ目は、こういう「被写体」はジックリと撮影する必要がある。凍った葉っぱは日陰にあるので光量が少ないところでの撮影になる。そして、こういう写真はある程度絞り込んで撮影した方が良い。絞り込むためにはISO感度を上げなくてはならない。私にはそれがもう面倒なのである。私は「絞り値」と「露出補正」以外はなにもしない。「メニュー」を呼び出して設定を変更するようなことはまずやらない。そんなことやらなければならないなら撮らない。

二つ目は、「絵になる」葉っぱを探さなくてはならない。「色合い」や「形」が絵になる葉っぱを探す必要がある。1枚2枚良い葉っぱがあっても駄目である。画角内の葉っぱ全体がバランス良くないと良い写真にならないのだ。必ず余分なものがあるのでそういう「茎」だとか不要な「葉」を摘まんで捨てて撮らないとなかなか綺麗な写真にはならない。結構な時間を掛けてかなりの枚数を撮らないとそれなりのレベルの写真にはならないのである。ようするに「手間暇」が掛かるのである。私には絶対に出来ない。いや、やりたくない。彼が山登りをしたくないのと同じだ(笑)。

しかし、いまの季節、「山小屋」の周りではこんなものぐらいしか撮るものがない。これだけ枯れ葉が敷き詰められていると言うことは樹木は「枯れ木」となり山は「枯れ山」になっていると言うことである。枯れ山の写真というのは美しいものではない。と言うわけで、当分は「散歩写真」さえ撮る気にならないかも知れない。まあいいや。どうしても写真を撮らなければならないわけじゃ無いし、撮りたくなったらなにを撮っても良いのだから。写真が撮りたくなったら「切り花」でも買ってきて撮ることにしよう。少なくとも「枯れ葉」よりは魅力的だ(笑)。

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by dialogue2017 | 2019-12-06 14:00 | | Comments(0)

お遊び(2)

(1)に掲載した写真を撮った32分後に、Distagon FE 35mm F1.4 ZAで撮ってみようと思い立ち撮ってきた。もしかしたらと期待した通り花ビラに少しであるが陽が射していた。日陰に咲いている花を撮るのは好きだけれど、丸っきりの日陰より花ビラの一部に陽が射している花を撮る方がいい。写真は「光」が感じられる方が素敵だと思うからだ。こういう写真は「花心」までピントを合わせておかないとなんとなく見苦しい感じがする。しかし、(1)に掲載した写真もこの写真もレンズの描写力を見て見たくて撮っているので絞りを開いて撮影している。「花の写真」として撮る場合は違う撮り方をする。実は、この写真で一番「見たい」部分は右端奥にボケて写っている花である。その部分のボケ具合を見たくてこういうアングルで撮った。向かって花心より右側の花ビラのボケ方にこのレンズの良さが出ていると思う。

SONY α7Ⅲ + Carl Zeiss Distagon T* FE 35mm F1.4 ZA ISO200 F2.0 1/4000 ±0EV AWB CS:クリア

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by dialogue2017 | 2019-11-29 18:00 | | Comments(0)

自然に覆われた生活 写真は綺麗に撮れて「当たり前」_e0367501_12533042.jpg

今年は写真を撮らない年だった。いや、撮影枚数自体はそこそこ行っている。我が家は、年間30週近くの週末に「家族旅行」に出掛けている。「旅先」では必ず写真を撮る。この「旅先」には「茅野」も含まれている。正確に言えば「茅野」は「旅先」ではない。「茅野の家」と表現しているようにそこは「セカンドハウス」であって「旅先」ではない。しかし、東京の自宅での生活比べれば、そこが"非日常”だと言うことに間違いない。そういう意味では「茅野」に行くことは「旅行」に近い。実際、「茅野」に行くとあちらこちらへ出向くことが多い。近場である「霧ヶ峰」や「清里界隈」には頻繁に行くし、ちょくちょく高速に乗って「安曇野」や「白馬」にも行っている。「白馬」に行った時にはペンションやホテルなどに泊まることも多い。だから、「茅野」に行くことは「旅行」とかなり近い。

新しい「茅野の家」は前の「茅野の家」とは距離にして1.5kmほど、標高差にして100m(下)、車で2〜3分の距離なのだが、眼下に「湖」があることもあって、両者はよく似た環境でありながらその「違い」は小さくない。「家」がグレードアップしただけではなく「周辺環境」も合わせてグレードアップしたのである。湖を周回する道がほぼ平坦なので毎日散歩をしている。その「周回路(散歩道)」で撮った写真はこの一月間に沢山ここに掲載した。昨日沢山掲載した写真も「散歩道」で撮った写真である。新しい「茅野の家」(私は「山小屋」と呼んでいる)に引っ越した4日後に「玄関の前」の写真を掲載した。その3枚の写真は文字通り「山小屋」の玄関を開けて出たその場で”目の前"を撮った写真である。その写真に対してshi-photo君は次のようなコメントを寄せてくれたーー「こんな風に自然に覆われた生活というのは、自分の感覚では、もう別世界というか現実離れしているようにさえ感じてしまいます。玄関の前や朝の散歩とは到底思えません。自然の姿というのは、ただそれだけで、力強いですね」

「山小屋」での生活は、shi-photo君が指摘したように「自然に覆われた生活」である。別荘地として開発された場所なので散歩道の途中には「電柱」が立っているし、写真を撮れば「電線」が写り込むこともある("こんな風に")。しかし、別荘地として開発される前は手つかずの自然そのものだった場所である。開発したとは言え、基本的に「山の中」に「家」を立てたわけであるから、そこが「自然に覆われた」場所であるのは当たり前である。家の周辺で鹿を見かけることがちょくちょくあるし、我が家はまだ出会ったことがないが、新しい「茅野の家」の周辺では猪が出ることもあるという。イタチやタヌキも見かける。夏になれば沢山の虫が飛び回る。別荘の軒先に巨大なスズメバチの巣を作られたこともあった。なにしろ、"こういう場所”に「家」を立てているのだから(この写真は我が家ではないが同じような環境である)。

ガスも水道も電気も来ている。新しい「茅野の家」にはケーブルテレビも来ているしインターネットの光ケーブルも来ている。生活の"利便性”という点では東京での生活とほとんど変わりがない。最寄りの大型スーパーまで車で6分ほどである。ホームセンターなどが並んであるので生活に必要なものの大半をそこで購入することが出来る。特急「あずさ」が停車するJR「茅野駅」までも車で10分掛からない(新宿まで約2時間)。車で10分で行ける場所に市営の「天然温泉」が2つある。15〜20分車を走らせればさらに5つの市営温泉に行くことが出来る。車で10〜15分の「諏訪IC」周辺には「モンベル」「ユニクロ」「ニトリ」他様々な大型店舗がある。「2nd STREET」という"リユースショップ”があるのも便利だ(私は格安である中古品を良く活用している。今回も"5.1CH"のサラウンドシアタースピーカーシステムを購入した)。

shi-photo君が言うように「茅野の家」での生活は「自然に覆われた生活」である。そして「自然の力というのは」「力強い」。先週末茅野の家を離れる際には水道管の"水抜き”をして"凍結防止ヒーター”の電源を入れて出た。これからの時期、それをしないと凍結によって水道管が破裂してしまうのである(寒冷地はどこでもそうである)。すでに、先週末の朝には氷点下まで気温が下がった。東京でしか暮らしたことのない人間には厳しい環境である。しかし、大型の石油ファンヒーターのスイッチを入れれば室内はたちまち暖かくなる。東京での生活に比べて特段不便なことはなにもない。不便をしのぶという「代償」を払うことなく、我が家は週末のたびに「自然に覆われた」生活を満喫している。いや、新しい「茅野の家」のリビングルームには75インチのテレビを入れてホームシアターを作ったので、東京の自宅以上に「優雅」な時間を過ごすことが出来る。「丸太小屋」である"ログハウス”は音が良く鳴るので音楽鑑賞には最適である。東京の自宅で使っている「モニタースピーカー」を「茅野の家」に持って行こうかと考えている。東京の自宅で聞く音とはまったく違う良い音で鳴るだろう。

「茅野の家」での生活は「自然に覆われた生活」である。「東京暮らし」しかしたことのない人間から見れば「別世界」であり「現実離れしている」ように感じられるだろう。しかし、くり返すが"利便性”という点において東京での生活にほとんどなにも劣らないと言って過言では無い。我々は「失う」ものをほとんど持たずに「自然に囲まれた生活」という「宝物」を得ているのである。

今年は写真をほとんど撮らない年であった。「茅野」を含め「旅先」では写真を撮っている。私は「人生の記録」を残す為に写真を撮っているので写真は日常的に撮っている。1年365日1日も欠かさず写真を撮っていると思う。ただ、今年は「人生の記録」としての写真と、7月から撮り始めた「トムソーヤの森プロジェクト」の写真以外はほとんど撮らなかった。つまり、「スナップ写真」をほとんど撮らなかったと言うことである。そもそも「東京」では撮りたいと思う「対象」がほとんどない。都心に出掛けたときには割と良くスナップをするが、都心のスナップというものはあまり好きでは無い(嫌いなわけではない)。だから、ちょくちょく江ノ島・鎌倉界隈に出掛ける。スナップすることが目的で出向くわけではないが、江ノ島・鎌倉界隈に行くと沢山の写真を撮る。出向く目的の半分ぐらいはスナップすることにあると言っても良い。しかし、今年は江ノ島・鎌倉界隈にも3度しか足を運ばなかったし、行った時もあまり写真を撮らなかった。

江ノ島・鎌倉界隈に足を運ばなかったと言うこと自体が、今年はあまり写真を撮りたいと思っていなかったことを表している。そうなった理由は一つではなくいつかあると思う。しかし、一番大きな理由は「彼女」を「失った」ためだと思う。ちょうど一年前、私は初めて「本気で写真を撮ってみよう」と思った。それは抑えがたい強い"欲望”であった。あとになってはっきりと分かったことであるが、私は「女性ポートレート」一般が撮りたかったわけでは無かった。私は「彼女」を撮りたかったのである。思いがけない事情で「彼女」を撮るという「夢」を果たすことが出来なくなった。今年私が写真を撮りたいという気持ちを失った原因はここにあったのだと思う。

元々どうしても撮りたいと思う"対象”がなかった。「風景写真」を撮りたいと思っていた時期があったが、そういう思いを失って久しい。我が家は山登りをすることが多かったのでそういう場所に行けば「風景」の写真を撮る。しかし、わざわざ「風景写真」を撮ることを目的としてどこかに出掛けようという気持はほとんどない。一番撮りたいのは「人間」である。人物を撮るのが一番面白い。理由はいろいろあるが、"簡単じゃない"ということが一番大きな理由だと思う。いまでも「女性ポートレート」を撮ってみたいという思いはなくなってはいない。しかし、よほど魅力的な「モデル」と出逢わない限り実際に撮影に臨むと言うことは無いだろう。

最後にひとこと触れておくが、実は「トムソーヤの森プロジェクト」の撮影はもう辞めたいと思っている。誰か代わりに撮影してくれる人がいればバトンタッチしたい。誰か特定の「魅力的」な子供だけを好きなように撮っていれば良いのであれば楽しく撮影することが出来るが、あれはほとんど「仕事」としての撮影に近い。最初の1〜2回は自由気ままに撮っていた。しかし、9月からは学校の修学旅行などの写真を撮る「写真屋さん」のように「仕事」として撮影している状態になった。参加した全ての子供を満遍なく撮るよう心がけて撮影するようになったと言うことである。つまり、自分の「好き嫌い」とは無関係に、全ての子供を「撮らなければならない」状況になったと言うことである。親しくしている友人のプロフォトグラファーはみな仕事での撮影もとても楽しいと言うが、私はとてもそういう心境にはなれない。いや、撮っている時にまったく楽しくないのかと言えばそういう訳では無い。楽しいと思って撮っているときもある。しかし、基本的には「仕事」としての撮影になってしまっていて、個人的な「楽しみ」としての撮影とは大きく異なる撮影である。子供の写真なんて、「楽しい」と思って撮らなければ本当に良い写真は撮れないと思う。そういう意味からも早く「引退」したいと思っている。

そんなわけで、この一月間は「山小屋」周りの「散歩道」ぐらいでしか写真を撮っていない。ああそうだ、突然思い出した。昨日掲載した「191115朝の散歩」(1)〜(15)に掲載した写真が"ダメダメ”である「原因」に思い至った。一番大きな理由は友人と一緒だったことで、彼と話したり、彼が写真を撮っているのを見ていることに「専念」してしまったため写真を撮ることが「お留守」に成っていたと言うことなのだが、もうひとつ理由があった。15日はPENTAX 645Dを使って撮影したのだが、初代の645Dは1枚レリースした後それが「プレビュー」されるまで20秒ほど掛かる。私は信号が青になると0.2秒以内に発進するほどの「せっかち」である。前の車が発進に2秒掛かると殺してやりたくなる(爆)。2秒待つことが耐えられない私に20秒のプレビューを待つことなんて出来るわけがない。だから、このカメラでは購入直後からほとんどプレビューを見たことがない。もう何年間も一度もプレビューを見たことがない。フィルムで撮っているのと全く同じである(笑)。

オマケに、このカメラは鎌倉で転んでアスファルトに打ち付けて壊してしまいAE撮影が出来なくなっている。そのため、1枚1枚マニュアルで露出を合わせて撮影している。そういう「めんどう」なカメラである上に画素数は4000万画素もある。そういうカメラを「いい加減」に扱ったら"ダメダメ写真”量産となるに決まっている。私は普段「暗い」と思っても面倒なのでISO感度を上げずに撮り続ける。それでもフルサイズセンサーまでのカメラであればかなり乱雑に撮っていても1/15まではだいたい「止まる」(ある程度丁寧に撮れば1/4でも止まる)。それはそうだ、ほとんどのレンズには「手ぶれ補正機能」が搭載されているのだから。しかし、645Dにはそんなものはない。4000万画素だと1/30だって慎重に撮影しないとブレる。あとからEXIFをみたら1/25とかが多かった(涙)。キッチリ撮れているわけがない。α7ⅢやX-T2と同じ感覚で撮影してしまったのが間違いだった。まあ、あの日は写真を撮ろうと言う気持がほとんどなかったというのが一番の理由だけれど、こういう事情もあった。

当分、「散歩道」ぐらいでしか写真を撮らないのではないかと思う。しかし、この週末に向こうに行ったときにはすでに「散歩道」周辺の黄葉はほぼ全て散ってしまい「枯れ木」ばかりになっているだろう。そうなったら「散歩道」で写真を撮ることも出来なくなる。これからは毎朝日陰の「落ち葉」には霜が付き美しく凍っている。しかし、私は友人のように「凍った落ち葉」を撮りたいとは思わない。1〜2度はちょこっとぐらい撮ってみるかもしれないけれど継続して撮る気にはなれない。「トムソーヤの森プロジェクト」も来年4月まではお休み。私が写真を撮る「対象」はほとんどなくなった。

まあ、撮ろうと思ったら撮るものなんていくらでもある。どんなものだって「被写体」になる。実はもう「現地」でモデルになってくれるというチャーミングな女性を「確保」している(笑)。28歳。もちろん美人だ。でも、「撮りたい!」という強い欲望がないんだよね。そんな気持で撮ったのでは相手の女性に失礼だ。でも、一度くらいは撮ってみようかな(爆)。

せっかく(?)「あまり撮りたいと思わない」という気持になったのだから、しばらくの間「記録としての写真」以外は撮らないということにするのが一番良いと思っている。いや、もっと積極的に来年1年間は最低限の「記録写真」以外は一切撮らないという方針にするのも悪くないと思っている。2105年は1〜9月末の9ヶ月間「記録写真」以外は一切撮らなかった。別に苦痛でも何でもなかった。他にやることはいくらでもあるからね。

でも、年内は「つまらない」ものを撮っているだろうと思う。ここで一つだけ「誓い」を立てよう(笑)。年内に一度、真面目に写真を撮ってみようと思う。なにを撮るかはいまは分からない。被写体なんて何でも構わない。大事なことはなにを撮るかでは無くて、「真面目に撮る」ということである。もう5年間ぐらい本当に真面目に写真を撮ったことがない気がする。カメラは何でも良い。レンズにも拘らない。ただ、「真面目に」写真を撮ってみようと思う。もし手元に「smc PENTAX-D FA645 55mmF2.8AL」があれば645Dで撮ってみたい。このレンズは645Dのために開発されたレンズで非常に優秀なレンズである。とてもシャープなレンズなのだけれどカリカリではなくほどよい柔らかさも出せる。その特性を活かした被写体を選んで撮影したら、645Dというカメラがいまでも十分通用するレベルの高い画質を出せることを紹介できる。しかし、鎌倉で転んだときにこのレンズは潰してしまった。でも、このレンズが潰れてくれたおかげでボディが壊れずに済んだ(AEは出来なくなったけれど)。もう一度このレンズを買い直すことを何度も考えた。このレンズがなければ645Dを持っている意味がないとまで思うから。でも、いまは645Dにはそれほど関心は無い。

「真面目に」撮ろうと思ったらα7Ⅲ + Distagon T* FE 35mm F1.4 ZAが一番良いだろうと思う。この間α7Ⅲを手放すことを何度も考えた。「彼女」を撮るというただそのひとつの目的のために買ったカメラなのでいまの私には必要性が無いのである。しかし、Distagon T* FE 35mm F1.4 ZAが手元にあるために手放せないでいる。α7Ⅲなんてどうでもいい。いや、素晴らしいカメラであることは間違い無いが、私には「必要性」がない。スナップなら初代α7で十分だ。しかし、Distagon T* FE 35mm F1.4 ZAというレンズはこれからも使ってみたい。いや、これから使ってみたい。まだ本当の性能を引き出して撮ったことが無いから。とにかく抜群に素晴らしい描写をするレンズである。

FUJINON XF 23mm F1.4 Rで撮ることにも強い興味がある。友人である写真家のHさんが「FUJINON XFレンズのなかで一番素晴らしいと思う」と絶賛したレンズなので、そのあとちょこっとだけ使ってみた。彼の言うとおりであった。こんな素晴らしいレンズをこの2年半ほとんど使わなかったなんて私は「ど素人」だ(爆)。そんなわけで、このレンズでも「真面目に」写真を撮って見たいと思う。

ああ、長文は書いてみるものだな。頭の中が整理され、今後やりたいことがちょっと見えてきた。文章を書くという行為は、そこに文字にされた「内容」の何倍ものことを頭の中で考えるから。文章を書くことが「好きか嫌いか」は持って生まれた「才能」の問題だから書きたくない人間に書けと言っても意味がないとは思う。しかし、shi-photo君を見ていて、彼が「短文」しか書けない内は彼の人生が大きく開かれることはないと思う。頭の中で「考える」というレベルでは人間は深い思考を行うことが出来ない(天才なら別だけれど)。凡人が頭の中で「考える」のは「下手の考え休むに似たり」でしかない。つまり、実質的にはほとんどなにも考えずに生きていると言っても良いだろう。文章を書くと言うことは「深く考える」ためには不可欠なことだ。「書く」ことによって「潜在意識」のレベルのものが表面に出てくるからだ。短文じゃダメ。短文なんて書いた内に入らない。

写真にしたって、「写真とカメラの話し」を週に一度5,000字ぐらい書いてみるということをくり返さないと「深い理解」には至らないだろう。プロでもたいしたことのないカメラマンが沢山いるのは、写真やカメラについて深い思考を重ねていないからだと思う。一定以上写真が優れているプロの多くは、写真に関する文章を沢山書いている。写真は「カメラ」という「機械」を使って撮影する。「良い写真」を撮るためには「カメラ」という「機械」を熟知し、その性能を引き出す「理論」を知っていなくてはならない(一定の「天才性」があれば実体験の積み重ねだけで理論を越えることは可能である)。「写真」撮影という行為の80%は「理論」で理解することが出来る。女性に写真が上手な人が少ないのは、大半の女性が写真の「理論」を知らないからである。

shi-photo君にも0123okkun君にも「天才性」なんて欠片も無い。彼らが写真を上手に撮れる様になるためには「理論」を習得しなければならない。それをしなければ永遠にアマチュアレベルで終わる。「理論」を習得した上で、「膨大」に撮らない限り上達はしない。「習うより慣れろ」は写真においても真実である。そしてもう一つ。いや、もう二つ。デジタルカメラで撮影した写真は「レタッチ」をくり返すことによって上達する。そして一番肝心なコトは、撮った写真を「人目に晒す」ことである。アマチュア写真愛好家には毎日欠かさず写真ブログの更新をしている人が少なくないが、それぐらいのことは「やって当たり前」。週に一度のペースでやっているようでは上達なんてない(才能が高ければ別だし、毎日更新しても下手は下手)。

4ヶ月間もブログの更新がない人間が上手になりたいなんて考えるのは大馬鹿野郎だ。スポーツ選手は2日練習しないとレベルが落ちると言われている。ミュージシャンもそうだ。どんなに忙しい生活をしていても写真なんて5分あれば30枚は撮れる。レタッチなんて1枚10秒掛ければ十分だ(Raw現像なんて準プロレベルになってから始めればいい)。週に一度2時間ぐらい「ブログ更新の時間」を作れば、1週間分のブログの「予約投稿」ができる。毎日撮って、毎日人目に晒すぐらいのことをやらないと「才能」が小さい人間は上達しない。大きな才能に恵まれていない人間は大量に「努力」を積み重ねる以外にないんだよ。いや、大きな才能を持った人間でさえ「努力」の積み重ねで上達しているのである。そういうこと。

写真なんて難しくない。フィルムの時代ならともかく、いまのデジタルカメラは誰が撮っても綺麗な写真が撮れるように作られている。だから奇麗に撮れない方がおかしい。でも、最低限の「知識」がないと簡単に撮れるはずの「綺麗な写真」が簡単には撮れない。私に言わせれば「写真に下手くそはあるけれど、上手いはない」。「奇麗」に撮れて「当たり前」なのである。

近日中に「当たり前」の「奇麗な写真」を見せるので乞うご期待(爆)。

※7,173文字


by dialogue2017 | 2019-11-20 14:00 | 写真とカメラの話し | Comments(1)

近年この手の写真はX-T2・X-T20で撮るときには「Velvia」、α7Ⅲで撮るときには「ビビッド」と鮮やかな発色を定番にしてきたが、本当はこういう"アッサリ目”の色合いが一番好みである。ただ、ネット上に上げるにはインパクトに欠けるので鮮やかな色の写真を撮っている。

SONY α7Ⅲ + Carl Zeiss T* Distagon FE 35mm F1.4 ZA ISO400 F8.0 1/1000 -0.33EV AWB JPEG-スタンダード 11月9日午後に撮影

しばらく写真撮影はお休みかな_e0367501_23245028.jpg

昨日はかなり酷い写りの写真を沢山掲載した。PENTAX645Dで撮影した写真であったのだが、カメラやレンズが悪いわけではない。私が"いい加減”に撮影したため酷い写真になったと言うだけのことである。確かにレンズに太陽光が入ってくるような撮り方をするとかなり画質が落ちるという欠点はある。多分、645Dが発売された後に645D用として新たに発売されたレンズで撮影すれば結果は大きく異なるだろう。私が使っているのは古いフィルム時代の645用のレンズなのでそれが逆光気味の撮影をした際に画質が落ちる原因では無いかと思う。

まあそんなことはどうでもいい。PENTAX 645D(初代)が発売から10年経った今でも十分通用するレベルの絵を出してくれるカメラであると言うことについては機会を見つけて「証拠写真」をお見せすることにする。そもそも、私は写真を撮るために散歩をしているのではなく、散歩をすることが目的で写真はその"ついで”に撮っているのである。11月15日は友人と一緒の散歩であった。彼とあれこれ話をしながらの散歩であったたため、私はまったく写真を撮ることに集中できず、熱心に「枯れ葉」の写真を撮っていた彼の撮影姿を見ていた。その姿を見ていて、私にももう少し熱心に写真を撮っていた時期があったことを思いだした。この2〜3年はそういう熱心さが絶えて無くなった。

よい光の時に普通に写真を撮ればカメラがなんであっても綺麗に写る。X-T2であろうと、α7Ⅲであろうと、645Dであろうと同じことである。上の写真の様に、ちょっと絞って撮った写真をブログサイズで見せたのでは決定的な差は出ない。とは言え、それぞれのカメラのポテンシャルを十分に引き出すような撮り方をすれば、ブログに掲載するような小さなサイズの写真であってもセンサーのサイズの違いから生み出される描写力の違いは出てくる。また、使ったレンズによっても違いははっきり出てくる。

こんな風にちょっと絞って撮った写真だと、APS-Cセンサーとフルサイズセンサーの違いはそれほど大きなものでは無い。流石に中判センサーになるとちょっと違いが分かるが、それは奇麗な光でしっかり撮った場合であって、光の状況があまり良くなかったり、雑な撮り方をしたのでは違いが見えてこない(645Dは古いカメラなので悪条件で撮影すると最新のAPS-Cに劣るような場合もある)。当たり前のことであるが、良い条件できちんと撮影することがカメラ(センサー)やレンズの性能を写真に表現するための前提条件である。言い訳をするわけでは無いが、私は"いい加減”に撮っていることの方が多いのでカメラやレンズの性能を十分に引き出した写真ばかりを撮っているわけでは無い。

この間、ほぼ毎週茅野に通っているが、ほとんど何処にも出掛けていない。昨年一昨年は県北の方まで紅葉を見に行ったが今年はどこへも行かなかった。紅葉の時期に当たるこの一月間は「引っ越し」に追われていてどこかに出掛けるゆとりがなかった。また、11月10日には「トムソーヤの森プロジェクト」の「写真展」を行ったのでその準備などにも時間を奪われ遊び歩く暇がまったくなかった。今週末にはもう黄葉はすっかり終わっているだろう。そのあとは茅野周辺ではこれと言って写真に撮りたいような光景はあまりないだろう。「山小屋」のキッチンのリフォームを始めやらなければ成らないことが山積しているので、どこかにちょこっと出掛けて写真を撮るゆとりが出来るのは早くても年末に成るだろう。これから一月ほどは写真を撮ることはあまりないのでは無いかと思う。

最近「写真を撮りたい」という気持がすっかり萎んでしまっている。今年はほとんどスナップをせずに終わった。来年はどうなるか分からない。撮りたいものが何もないのでしばらく撮らないでも良いかと思っているが、年が明けて積雪があれば1〜2回は雪山を歩くことがあるだろうからその際に写真を撮るだろうと思う。友人からSIGMA Quattoroの45mmと75mmを借りることになったので多分それで撮影するだろうと思う。Quattoroは21mmと28mmを使ったがとても魅力的なカメラである。ただ、どちらかというと「作品」を撮るためのカメラだという認識であるため、日常使うことはまったくない。最後に使ったのがいつだったのか忘れてしまったほど長い間使っていない。もしかしたら丸一年ぐらい一度も使っていないかもしれない。45mmと75mmを借りたら21mmでも撮ってみたいと思う。


by dialogue2017 | 2019-11-20 05:00 | 散歩写真 | Comments(0)

11月10日に二度目の写真展示を行う。すでに510枚のプリントが出来ているが、明日、先週「トムソーヤの川プロジェクト」で撮影した写真のプリントを追加する。どういう形で展示するか分からない。当初はA3やA4のプリントも展示するつもりであったが、ここのところいろいろなコトに追われていて多忙で、明日そこまでプリントを作る時間がないかもしれない。まあ、展示そのものより、展示終了後に写真を持ち帰って貰うことが目的なので展示のスタイルはどうでも構わない。私はなんのこだわりもない。

7〜9月の4ヶ月に撮影した写真を510枚プリントしたのだが、その中から比較的よく撮れている写真を選んでみたところ、ほとんどがDistagon 35mm F1.4 ZAで撮った写真であった。まあ当たりまえである。7〜9月に撮影した写真の80%ぐらいはDistagon 35mm F1.4 ZAを使って撮ったのだから。それにしても素晴らしいレンズだと思った。まったくセッティングなしで撮った写真でこれだけの写真が撮れるのなら、きちんとセッティングして撮影したらもっと素晴らしい写真が撮れると思う。アマチュアの方は(私もアマチュアだけれど・笑)"セッティング”して写真を撮ると言うことをあまりやらない人が多いのでセッティングするしないの違いがどれほど大きいかいまひとつピンとこないだろう。

「セッティング」というのは光をコントロールすることである。写真は光の当たり方で決まる。だから、セッティングして撮るのとあるがままに撮るのではまったく違った結果になる。くどいほど何度も書いたことだけれど、「僅かな違い」が「大きな違い」を生むのである。残念ながら、「トムソーヤの森プロジェクト」で撮った写真にはセッティングして撮った写真はほとんどない。しかし、セッティングなんかしていたのでは撮れない写真というものもある。そして、そういう写真の中にはセッティングして撮った写真を越える写真がある。そういう写真をどれだけ撮ることが出来るかという点にこそ、フォトグラファーとしての力量が現れると言って良い。

この写真のなんと力強いことか。こういう写真はセッティングしたのでは絶対に撮れない。一発勝負じゃないと撮れない写真である。

SONY α7Ⅲ + Carl Zeiss T* Distagon FE 35mm F1.4 ZA ISO400 F2.0 1/320 +0.67EV AWB

セッティングして撮った写真を越える写真_e0367501_21004734.jpg

by dialogue2017 | 2019-11-06 21:00 | トムソーヤ | Comments(0)

shi-photo君がPlanar T* 50mm F1.4 ZAで撮影した写真に興味を示してくれたので、このレンズで「人物」を撮った写真を見せて上げようと思ったのだけれど写真がなかった。それもそのはず。このレンズはほとんど使っていないのだから。Yashi-ConマウントのZEISSレンズを愛用していたころ、一番好きだったレンズはPlanar 1,4/50だった。Distagon 1,4/35も甲乙付けがたいくらいに好きだったけれど、「一番好きなレンズ」はPlanar 1,4/50だった。だから、Planar T* 50mm F1.4 ZAとDistagon T* FE35mm F1.4 ZAを購入したとき、前者の方が好きになるだろうと思っていた。ところが、使ってみたらDistagonの方が断然素晴らしいと思った。

8〜9月の三ヶ月間「トムソーヤの森プロジェクト」で子どもたちを撮影した際にも80%の写真はDistagon T* FE35mm F1.4 ZAで撮った。残りの20%の大半はFE 85mm F1.4 GMでの撮影。Planar T* 50mm F1.4 ZAでは指折り数えられるほどしか撮影していない。だから見せる写真がない。

Planar T* 50mm F1.4 ZAを使わない理由はDistagon T* FE35mm F1.4 ZAの絵の方が好きだからだ。Yashi-ConマウントのPlanar 1,4/50はとても柔らかい描写のレンズだった。しかし、Planar T* 50mm F1.4 ZAは解放からしっかり締まった絵を出してくる。レンズ設計者の立場からすればその方が「優秀」なレンズだということで、解放での柔らかさというのは「甘さ」と考えられた。私はいままで一度も興味を抱いたことが無いし、死ぬまで関心を持たないだろうが「MTF曲線」で見たらPlanar T* 50mm F1.4 ZAの方が性能が高いだろうと思う。

しかし、私はYashi-ConマウントのPlanar 1,4/50の「甘さ」が好きだったのである。スナップに使うのであれば「甘さ」はない方が良いかもしれないが、ポートレートフォトを撮るに当たっては絞り開放時の「甘さ」は大きな魅力なのである。Distagon T* FE35mm F1.4 ZAも解放から破綻のない絵を出してくれるが、しっかりした描写でありながらも"柔らかさ”がある。1段絞ってもその「柔らかさ」はなくならない。だからDistagon T* FE35mm F1.4 ZAばかりを使ってしまうのである。

この写真はPlanar T* 50mm F1.4 ZAでの「作例」などと言えるレベルの写真では無いが、背景の「ボケ」具合は見て貰うことが出来るだろう。ここまで「溶けて」しまうと五月蠅いとは感じない。ちなみに曇天の夕暮れに僅かな薄日が射したときに撮ったため発色が良くない。顔に"まだら”があるのは実際にそうだったから。小さい子供で肌がもの凄く荒れていることは珍しくない。この子もとても荒れていた。で僅かにスマートシャープを掛けたため、表情とも相まってちょっと「のっぺり」した写真になってしまった。晴れた日にきちんとした写真を撮って見せることにしよう。

SONY α7Ⅲ + Carl Zeiss Planar T* 50mm F1.4 ZA ISO400 F1.6 1/2500 +1.0EV AWB

Planar T* 50mm F1.4 ZAで撮った写真_e0367501_16313643.jpg


by dialogue2017 | 2019-11-06 17:00 | トムソーヤ | Comments(0)

霧に煙る

この3週間ほどたくさん写真を撮っている。しかし、忙しくてブログを更新する時間が無い。まあ、張り合いのないブログなのでどうでも良いと言えば良いのだけれど…

霧に煙る_e0367501_16285360.jpg

by dialogue2017 | 2019-11-05 16:30 | 風景 | Comments(2)

21日の朝の散歩

19日から新しい「茅野の家」に移った。毎朝散歩をしようと決めていたのだが、20日の朝はNHKスペシャル『ラグビー日本代表 密着500日 〜快進撃の舞台裏〜』という番組を見てしまい散歩が出来なかった。初日から計画倒れというのは情けない限りであるが、そのあと「トムソーヤの森プロジェクト」があったのでやむを得なかった。で、新しい茅野の家2日目の朝「初散歩」をした。1周500mほどしかない小さな「湖」の周りを1周してくるだけなので普通に歩いたら10分ぐらいしか掛からないがカメラを持って写真を撮りながらノンビリ歩くと30分程度になる。写真を撮りながら歩いたのでは「運動効果」はほとんど無いに等しいが、写真を撮るのはすぐに飽きるだろうから、ジョギングに切り替えよう思っている。

前の「茅野の家」は「山頂」に近い位置にあったため、家の近くはかなりの急傾斜であった。周回路もなく、散歩をする気にはなれなかったが、新しい「茅野の家」は「湖」のほとりにあるため割と平坦な周回路がある。散歩をするにはちょっと短いがジョギングなら何周かすればちょうどよい塩梅である。「湖」は灌漑のために作られた人工湖なのだが、見た感じでは自然湖と変わりない。小さな「湖」ではあるが周りには様々な樹木があり、季節の移ろいとともに「景観」が変わる。今の時期は、1週ごとに「葉」の色が変わるので毎週違う「景色」を見ることが出来る。そういう意味では、冬場を除けば写真を撮ることにさほど飽きないかもしれない。

ノンビリ歩きながらいい加減に撮った写真なので人様に見せるような代物ではないが、このブログは私自身にとっては「日記」代わりでもあるので新しい茅野の家での「初散歩」の記録として写真を掲載しておく。家を出てから一周して戻ってくる間に撮った順に載せる。1枚目は翌朝撮った「191022朝の散歩(1)」と同じ場所。新しい家から20mほどの場所である。

これらの写真のジャンルは「風景写真」でないことは言うまでもなく、私自身の認識としては「スナップ」でもない。しいてカテゴライズすれば「記録写真」である。2019年10月21日の朝、新しい茅野の家で朝の散歩をしたことの「記録」である。ここに住んでいたのでは日々の季節の移ろいを実感しにくいが、毎週末に東京からやってくると前の週に見た光景と「色」が変わって居ることに直ぐに気がつく。完全に住んでしまうより「週末移住」の方が新鮮である。

ついでながら言っておくと、この手の写真を撮る際にはある程度絞り込んで撮った方が見栄えの良い仕上がりとなる。たとえば1枚目はF8で撮っているが手前側の葉はアウトフォーカスになっている。私はAFは基本的に「中央1点」しか使わないのでこういう絵柄を撮る時には中央奥の樹木でピント合焦となる。手前の葉はかなり近いのでピントが合わない。あと一絞り絞るともう少し良くなる(F13以上は回折ボケが出るので使わない)。しかし、たんなる「散歩の記録」なので私にはそういうことはどうでも良い。ほとんどの場合、プライベートで撮っている写真は「委細構わず」である。写っていればそれで十分なのである。分かりやすく言うと、「奇麗に撮ろう」などという欲求はほとんどない。

ついでのついでにもう一点。FE 24-105mm F4 G OSSはもの凄く使いづらい。というのは鏡胴に「絞り環」が無いからである。Distagon FE 35mm F1.4 ZAにもPlanar FE F1.4 ZAにも鏡胴に「絞り環」がある。私は平素はFUJIFILM X-T20を常用しているが、FUJINON XFレンズは基本的に鏡胴に「絞り環」がついている。それにすっかり慣れているので「前ダイヤル」で"絞り値"を変えるというのは非常にやりにくい。DistagonにもPlanarにもFE85mm F1.4 GMにも鏡胴に「絞り環」があるのに、FE 24-105mm F4 G OSSにはない。この4本をを交換して使っているとFE 24-105mm F4 G OSSを使う時だけ絞り操作が異なるのである。同じメーカーの同じカメラ用のレンズでこういう風に設計が異なるというのは非常に馬鹿げたことだと思う。はっきり言って"うんざり”する。

更に言っておきたい。DistagonとPlanarはどちらも鏡胴の「絞り環」で絞り値を変えるが、前者には1/3段ごとに"クリックストップ”があるが後者にはそれがない。こういう動作は僅かな「操作感」の違いで使い勝手が変わる。ジックリ撮る人にはどうでも良いことかもしれないが、私のようにほとんど「とっさ」に写真を撮る人間には大きな問題である。こういうことは統一仕様にすべきだと思う。SONY、もっとしっかりして欲しい。と言うか、こういうことは「アドバイザー」をやっているプロカメラマンが強く意見を出すべきだと思う。私はFUJIFILMに対して、当初X-T2の「露出補正」が「前ダイヤル」でしかできず「後ダイヤル」に割り当て出来なかったことに対して、「人間工学的に考えても絶対におかしい、すぐにでもファームアップで対応すべきだ」と強く意見を言った。それはすぐに実現した。

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この写真(下の写真)はなにも問わなければ、どうやって撮っているか気がつく人はいないだろう。


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by dialogue2017 | 2019-10-24 09:00 | 散歩写真 | Comments(0)