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タグ:Planar T* 50mm F1.4 ZA ( 124 ) タグの人気記事

お遊び(1)

from_vixen君から"この写真”にコメントを貰った。1年近く前に撮った写真にコメントをくれたのだと思った。この時”に撮った写真だと思ったのだ。よく見たら今月6日のエントリーだった。1年近く前にこの花を撮った記憶はあったのだが、今月6日に撮ったことなんて奇麗さっぱり忘れてしまっていた。それはそうだ。庭に出て1枚撮っただけだったのだから。コメントを読んだ後、もしかしたらまだ咲いているかと思って庭に出るとまださいているどころか生い茂っていた(笑)。実は、赤い花びらは少なく、白い花びらが多いのだが、ちょうど東南からの陽射しを直に受けているので白い花は被写体にならない。で、またもや日陰に咲いている赤い花の方を撮った。

机の上にあるカメラは初代のα7だけである。α7Ⅲと4本のレンズを入れたカメラザックは茅野の「山小屋」に置いてくるつもりだったが最後になって気が変わって一応車に積んで持って帰ってきた。年に数回しかないことだけれど「写真を撮って欲しい」という依頼があることがあるので念のために持ち帰った。しかし、ザックから撮り出すのが面倒なので机の上にある初代α7を手にした。しかし、装着されているSonnar T* FE 55mm F1.8 ZAで撮ったのでは6日と同じ。で、レンズだけPlanar T* 50mm F1.4 ZAに取り替えてサンダルを履いて庭に出た。

「寄れない」。そんなことは今更分かったことではない。書斎でレンズを付け替えるときから分かっていたことである。最短撮影距離は0.45m。一輪の花を撮るには遠すぎる。しかし、書斎α7にこのレンズを付けて写真を撮ったのは"この1枚”だけなのでこのレンズで撮ってみたかった。というわけで、トリミング前提で3枚ほど撮ってみた。かなり大幅にトリミングしている。面積比で元の半分以下の部分を切り抜いている。まあどうってことない写りだ(笑)。

こういう写真を撮ったとき、「ピクチャースタイル」をなににするか悩ましい。これは「クリア」を使った。クリアとは対極的な「ディープ」も魅力的である。多くの場合、この対極的な二つのどちらにするかで悩む。「ビビッド」や「ライト」も悪くないのだが、「クリア」や「ディープ」の方が個性が強いのでそのどちらかを選ぶことが多い。というのは、完全な日陰で直射光が当たっていない花を撮っているからである。撮影条件がとても「地味」なので、ピクチャースタイルで多少味付けして上げた方が良いと思うからである。

デジタルカメラで撮影した写真は「レタッチ次第」でどのようにでも変わる。だから私はデジタルカメラで写真を撮ることにあまり真剣になれないのである。撮影後に如何様にでも仕上げることが出来るというのが面白くないのである。しかし、実際に写真を撮ってしまった後は最低限のレベルでレタッチをする。考え方は二つある。できるだけ「撮りっぱなし」に近い範囲で収めるレタッチと「絵作り」してしまう場合である。私の場合90%までは前者であった。明るさとコントラスの微調整しかやらな"主義”だからである。しかし、α7Ⅲを使い出してからは「絵作り」することが増えた。このカメラはそういうカメラだという気がしている。極論すれば、「クリア」と「ディープ」がこのカメラの「真骨頂」だと思っている。

殺風景で、ちょっと寒々とした色合いで面白くもなんともない写真である。しかし、初めから初代α7にPlanar T* 50mm F1.4 ZAを装着して写真を撮ることが目的であったので結果なんて最初から気にしていない。一番知りたかったことはα7Ⅲとの差である。撮り比べていないので確かなことは言えないがほとんど違いはないだろうと思う。Yashica-ContaxマウントのPlanar 1,4/50にそっくり(笑)。こちらの方が少し「硬い」かな。

SONY α7 + Carl Zeiss Planar T* FE 50mm F1.4 ZA ISO200 F2.5 1/400 -0.33EV AWB CS:クリア

お遊び(1)_e0367501_11445724.jpg



by dialogue2017 | 2019-11-29 12:00 | | Comments(0)

shi-photo君がPlanar T* 50mm F1.4 ZAで撮影した写真に興味を示してくれたので、このレンズで「人物」を撮った写真を見せて上げようと思ったのだけれど写真がなかった。それもそのはず。このレンズはほとんど使っていないのだから。Yashi-ConマウントのZEISSレンズを愛用していたころ、一番好きだったレンズはPlanar 1,4/50だった。Distagon 1,4/35も甲乙付けがたいくらいに好きだったけれど、「一番好きなレンズ」はPlanar 1,4/50だった。だから、Planar T* 50mm F1.4 ZAとDistagon T* FE35mm F1.4 ZAを購入したとき、前者の方が好きになるだろうと思っていた。ところが、使ってみたらDistagonの方が断然素晴らしいと思った。

8〜9月の三ヶ月間「トムソーヤの森プロジェクト」で子どもたちを撮影した際にも80%の写真はDistagon T* FE35mm F1.4 ZAで撮った。残りの20%の大半はFE 85mm F1.4 GMでの撮影。Planar T* 50mm F1.4 ZAでは指折り数えられるほどしか撮影していない。だから見せる写真がない。

Planar T* 50mm F1.4 ZAを使わない理由はDistagon T* FE35mm F1.4 ZAの絵の方が好きだからだ。Yashi-ConマウントのPlanar 1,4/50はとても柔らかい描写のレンズだった。しかし、Planar T* 50mm F1.4 ZAは解放からしっかり締まった絵を出してくる。レンズ設計者の立場からすればその方が「優秀」なレンズだということで、解放での柔らかさというのは「甘さ」と考えられた。私はいままで一度も興味を抱いたことが無いし、死ぬまで関心を持たないだろうが「MTF曲線」で見たらPlanar T* 50mm F1.4 ZAの方が性能が高いだろうと思う。

しかし、私はYashi-ConマウントのPlanar 1,4/50の「甘さ」が好きだったのである。スナップに使うのであれば「甘さ」はない方が良いかもしれないが、ポートレートフォトを撮るに当たっては絞り開放時の「甘さ」は大きな魅力なのである。Distagon T* FE35mm F1.4 ZAも解放から破綻のない絵を出してくれるが、しっかりした描写でありながらも"柔らかさ”がある。1段絞ってもその「柔らかさ」はなくならない。だからDistagon T* FE35mm F1.4 ZAばかりを使ってしまうのである。

この写真はPlanar T* 50mm F1.4 ZAでの「作例」などと言えるレベルの写真では無いが、背景の「ボケ」具合は見て貰うことが出来るだろう。ここまで「溶けて」しまうと五月蠅いとは感じない。ちなみに曇天の夕暮れに僅かな薄日が射したときに撮ったため発色が良くない。顔に"まだら”があるのは実際にそうだったから。小さい子供で肌がもの凄く荒れていることは珍しくない。この子もとても荒れていた。で僅かにスマートシャープを掛けたため、表情とも相まってちょっと「のっぺり」した写真になってしまった。晴れた日にきちんとした写真を撮って見せることにしよう。

SONY α7Ⅲ + Carl Zeiss Planar T* 50mm F1.4 ZA ISO400 F1.6 1/2500 +1.0EV AWB

Planar T* 50mm F1.4 ZAで撮った写真_e0367501_16313643.jpg


by dialogue2017 | 2019-11-06 17:00 | トムソーヤ | Comments(0)

SONY α7(初代)

特に目的があったわけではないが、初代α7のバッテリーを充電してみた。充電が終わった記念にPlanar T* FE 50mm F1.4 ZAを着けて1枚だけ写真を撮ってみた。テーブルの上にコーヒーカップを置いて天井の蛍光灯の光で撮影した写真。一応カップの手前10cmにティッシュペーパーを1枚拡げて僅かだけれどバウンスさせている。セッティング5秒で撮った写真なのであまり奇麗に撮れなかったけれど、画質的にはα7Ⅲのサブ機として十分使えると思う。初代α7にFEマウントのZeissレンズを装着したのは初めて。ISO800で人工光での撮影。幾分ノイジー。α7Ⅲならもう少しノイズレスだろうけれど決定的な違いは出ないと思う。近日中に太陽光で撮ってみようと思う。絞り解放でほぼ最短距離での撮影。

追記。初代α7を購入してすぐにSonnar T* FE 55m F1.8 ZAを購入していたことをすっかり失念していた。あれもFEマウントのZeissレンズだった。いまも所有しているが、もう数年間使ったことがない。友人の写真家はPlanar T* FE 50mm F1.4 ZAよりクセがなく使いやすいレンズだと言う。確かに、Planar T* FE 50mm F1.4 ZAはボケが暴れて煩い絵を出すことがある。そこは撮影ディスタンス次第。

SONY α7(初代)_e0367501_18174334.jpg


by dialogue2017 | 2019-11-05 18:30 | 写真とカメラの話し | Comments(2)

α7Ⅲで撮った画像であるが、同じクリエイティブスタイルを使っても光の当たり方で肌の色合いがかなり変わる。その原因の一つは"AWB”で撮影している事にあるのだろう。AWBはカメラの判断で「色温度」を変えているのだから当然肌の色合いも変わってくる。私はEOSを使っていた時代は「晴天戸外」では「太陽光(DAY LIGHT)」だけしか使っていなかった。AWBにしておくとカメラアングルが変わる度に微妙に色温度が変化して色合いが統一されないからである。しかし、FUJIFILM X-T2・X-T20を使い始めてからはほぼAWB一辺倒となった。AWBで撮っていても色合いのバラツキがほとんど無いからである。

とここまで書いて「まてよ」と気がついた。ここ最近α7Ⅲで撮影した画像のRawファイルを開くと「5500KB」ばかりであることを思いだしたのだ。ということは、ホワイトバランスの設定は「太陽光」になっていると言うことだ(いつからそんな設定になっていたのだろう? AWBに設定していたはずだが…)。確認してみたら「太陽光」になっていた。たぶん、「Fn」ボタンを押して「ISO」か「ドライブモード」を変更する際に誤って「AWB」を変更してしまったのだろう。やれやれ。しかし、いまはα7Ⅲで撮った写真はすべてRaw現像をしているので「AWB」の設定がどうなっているかはどうでも良いのでほとんど気に掛けていなかった。

と言うことはである。「色温度」を5500KBで固定して撮影していても、同じクリエイティブスタイルを適用して肌の色がかなり違ってしまうと言うことである。確かに、同じ部屋の中でも窓に向けて撮るか、窓を背にして撮るかでは写っている場所の「色温度」は変わってくるのであるからそうなるのが当然である。むしろ、室内では「AWB」を使った方がバラツキが少なくなるはずだ(そのためのAWBだ)。やれやれ。15年間いい加減にしか写真を撮ってこなかったからこういう事になる。もっとも、最近はRawファイルしか使っていないので問題はない。どのみち、Raw現像時に色温度は微調整しているのだから(色温度はいじらないケースがほとんどだけれど微調整することはある)。

Raw現像時に「色温度」を弄ることが少ないのも理の当然である。5500KB固定で、この間撮影したのは「晴天戸外」ばかりなのだから。ようするに、昨日は「室内」で撮ったから「色温度」の大きなバラツキがあったと言うことである。

こういう話しになると、私の「勘違い」だった事になるが、さにあらずである。晴天戸外で5500KBで固定して撮った写真でもたとえばクリエイティブスタイルの「人物」を適用した際「肌の色」には少なからぬバラツキがある。もちろん、晴天戸外と言えども室内同様、色温度にバラツキはある。太陽光が良く当たっているところで撮るか日陰で撮るかでは違いが生じる。しかし、そういう事情を勘案してもどうもクリエイティブスタイルの「人物」に関しては色のバラツキが大きいような気がして成らない。光の当たり方次第で「オレンジ色」の強弱がかなり変わってくるのである。いちどきちんと検証してみることにしよう(凄いな。そんなことやるんだ。本当にやるかな? 笑)。

以下の5枚の写真はホワイトバランスを「太陽光」(5500KB)に設定して撮影した写真である。ただし、同じ1枚のRawファイルから現像しているのでホワイトバランスの影響は同じである。現像時に「色温度」は動かしていないので全て5500KBである。つまり、発色の違いはクリエイティブスタイルの違いによっていると言うことである(「アドビカラー」や「アドビ標準」などは"クリエイティブスタイル"ではないが、ここで「プロファイル」という言葉を持ち出すと話しがややこしくなるので"クリエイティブスタイル”に含めておく)。

この写真は南向きの窓から入って来ている太陽光が赤ちゃんの左頬にハイライトを作っていいる。赤ちゃんの正面にある西向きの窓からも強い光が来ているが、赤ちゃんはほぼ寝ていて天井の方を見ているので西向きの窓からの光を「面」では受けていない。と書いて気がついた。私はこの写真を撮る段階では天井の蛍光灯を消灯するのを忘れていた。「もう寝ちゃいそう」と言われ、とにかく撮ってしまおうと思って撮ったので室内灯を消灯することを失念した。Rawで撮っているとそういうことに無神経になりやすい。南向きの窓と西向きの窓から入って来ている太陽光はかなり強く部屋は明るかったので室内灯が点灯されていることに意識が行かなかった。実際は、赤ちゃんの真上から蛍光灯の光が当たっていて「ミックス光」の状態なのだけれど、「昼白色」の蛍光灯のケルビン値はだいたい5000KBなので太陽光に近い。太陽光の方が強かったので実際には蛍光灯の影響は極めて軽微だったと考えて良いだろう。つまり、事実上は「ミックス光」というほどのことでも無かったと言うことである。

以上を総括すると、この写真はディフューズされた柔らかい太陽光で撮影していると考えて良いだろう。だから、5500KBという設定は撮影現場にほぼマッチングしていると考えて良い。以下の5枚の写真はホワイトバランス「太陽光」(5500KB)で撮影したRawファイルに各「クリエイティブスタイル」を適用して現像し「ハイライト」と「白レベル」を同じだけ落として最後に「自動コントラスト補正」を掛け、それを90%にフェードしたものである(僅かにオーバーになった分を落とした)。色合いや明るさ・コントラストの出方の違いは各"クリエイティブスタイル"の特徴である。

さて、ここで"大問題”が生じる。このエントリーを閲覧している人が使用している「ディスプレイ」によって色も明るさもコントラストもまるで違って見えると言うことである。そのバラツキはかなりある。例えば、いま私の目の前には3つのRetina Displayがある。ひとつは、このエントリーを書いているMacBook PRO、もうひとつは現在私が「基準モニタ」としているiPadmini 4、そしてiPhone8である。3つともRetina Displayであるが「色味」はそれぞれ違う。

iPhone8だけが目立って「温調」の色合いである。隣にiPadmini 4を並べるとiPhone8の写真は「黄ばんで」見える。いや、むしろ「くすんで」見えると言った方が良いくらいである。

以前から何度も書いているが、人間の”感覚”は極めて相対的である。甘いものを口にした後にレモンを囓ると酸味をより強く感じるというように。「錯視」の例に顕著なように、人間は「比較」の対象があると「認識」が変わる。「錯誤」が生じると言うことである。だから、iPhoneを"単独で"使っているときには画像が「黄ばんで」見えることはない。まして「くすんで」など見えない。iPhone8のディスプレイはRetina Displayであり良いディスプレイである。しかし、同じRetina DisplayでもiPadmini 4のRetina Displayの方が"クリア”な発色である。MacBook PROとiPadmini4は「色合い」としては割と近いが「抜け」がまったく違う。どちらもRetina Displayであるが、恐らく「コントラスト比」が違うのだろう。※うっかり失念していた。私のMaBook PROのディスプレイはコーティングが剥がれているのであった。それでコントラストが落ち「抜け」が無くなっているのだと思う。

そんなわけで、これまた過去に何度も書いた話しであるが、違うモニタを使って同じ写真を見て「ああだこうだ」という会話をしたところで、それぞれが見ている「写真」の「色」も「明るさ」も「コントラスト」も「シャープネス」も同じでは無いのである。もし"意味のある対話"を行おうと思ったら、対話者同士が「同一製品」のディスプレイを使って写真を閲覧することが前提となる(厳密なことを言えば同一製品でも「経年劣化」によって見え方は変わる)つい最近、shi-phot君がiPadmini 4を購入した。私と「同じ土俵」に乗らない限り、私が書いている「写真とカメラについての話し」を正確に理解することが出来ないからである。彼は私の「生徒」としては極めて真面目で熱心である。しかし、「真面目」で「熱心」であることより大切な事がある。「同じ土俵に乗る」ことの重要性を理解するかどうかである。

今日、0123okkunから「天井バウンス」に掲載した写真の1/8発光で撮影した写真が適正露出とは思えないというコメントが届いた。彼は私が聴いたことも無いブランドのスマホでその写真を閲覧している。上に書いたように、同じRetina DisplayであってもiPadmini 4やMacBook PROに比べるとiPhone8に表示される写真は「くすんで」見える。同じaplle社製の同じRetina Displayでさえそこまで見え方が変わるである。私はそういう話しを過去に何度も何度も諄いほど繰り返し書いてきた。しかし、このブログの一番「熱心」な読者である0123okkunはそのことをすっかり失念している。

彼はこの約1年間、私とは「異なる土俵」の上からこのブログと付き合い続けて来たのである。辛辣な物言いとなるが、私は0123okkun君であれ、shi-photo君であれ、from_vixen君であれ、私に「付いて来て欲しい」などとは全く思っていない。私にはなんの利益も無いことである。だから、私は0123okkun君を「叱る」つもりはない。ただ、彼のこの約1年間は、私の「教室」の窓の外から私の「授業」を見ていた似すぎない。shi-photo君は教室の中に入り、指定された「教材」をそろえ、出された「課題」に一つ一つ取り組んできた。その違いは決定的なまでに大きい。

他者と交流する際には「同じ土俵」に乗らなければ意味が無い。

誰かにものを教わるのであれば「相手の土俵」の上に上がるしか無い。これは「鉄則」でありスタートするに際しての「前提」である。つまり、一番最初に考えるべきことである。ここが「お留守」になっている人間は一番肝心なコトを学ぶことは不可能である。

0123okkun君は人間としては「良い奴」だと思う。たぶん、shi-photo君より良い奴だろう(笑)。いまの日本の青年ではかなり正しい感覚の持ち主だと思う。しかし、彼も根っこの部分では典型的な現代日本青年でしかない。つまり、全てを「自分の土俵」の上から見て考えることしか出来ないのである(人格的には、他者を尊敬する素直な気持ちを持っているし、「弱者」へ思いを馳せることの出来る優しい人間ではあるが、「思考方式」が現代日本青年型なのである)。shi-photo君は自分まるっきり自信が無いため、かえって「虚心坦懐」に「師の言うとおり」にやろうという姿勢になるのである。「災い転じて福と成す」と言って良い。

話しのついでだが、思想家の内田樹さんがいまの時代を生き抜くに当たって一番重要なことは「ディセンシー」を持つことだと言っている。そういう観点から見ると、shi-photo君は生き残ることが出来るタイプの青年だろうと思う。

たいした根性も無いくせに、ちょっと突っ張ってみたいという奴が一番ダメなのである。胸に手を当てて自分を省みて欲しい。

写真の「レタッチ教室」というものを行うとして、教室に集まった生徒が各自テンでバラバラなモニタを使って授業に参加したとしたら授業は成り立たない。「明るさ」も「色合い」も「コントラスト」も違って見えるモニタを使っていたのでは教師が伝えたいことが生徒には正しい形では伝わらないからである。

だいたい、スマホの小さなモニタで写真を閲覧しているというのは「写真以前」の人間のやることである。出先でスマホで確認するのは構わないが、きちんと写真を見ようと思ったら最低限"8インチ"程度のサイズのディスプレイで見る必要がある。もし、「本気」で写真について「学ぶ」意思があるのであれば、ある程度高性能なディスプレイが不可欠である。「写真」について「学ぶ」のに、肝心な写真が「表示」される「ディスプレイ」の性能が低いのでは、「写真」を撮影者が意図したものとして閲覧することが出来ないからだ。自分自身が撮った写真と真剣に向き合うためにも、ある程度の水準の「モニタ」は不可欠なのである。ちなみに「モニタ」という言葉には「監視」「監査」「指導を行うモノ」という意味がある。

こういううちの息子(中2)でも簡単に分かることを「大の大人」がほとんど分かっていないのが現代日本である。だから、日本の現実に対して「今感じるべきは『絶望』」なのである。

というわけで、以下の5枚の写真についてその「色合い」「明るさ」「コントラスト」「シャープネス」について論じることは正しく言えば「無意味」なのである。しかし、私と同じiPadmini 4で閲覧している人間とでであれば「対話」は成立する。私はMacBook PROで写真をレタッチし、ブログを更新しているが、自分がブログに掲載した写真を閲覧するに当たってはiPadmini 4を「基準モニタ」として利用しているからだ。やはりこのブログは「一人の読者との対話」でしかないのである。つまりshi-photo君だけとしか「対話」が成り立つ前提が無い。ところが、彼はあまりに「寡黙」であるためなかなか「対話」にまで発展しない。しかし、彼は師に忠実な努力という「振る舞い」をもって辛うじて私との「対話」を続けている。私がこのブログを続けることに何か意義があるとしたら、彼が「言葉」を持って「対話」ができる青年に成長することである。

このエントリーを書こうと思った動機はただ一つ。「アドビカラー」より「CS:人物」の方が肌の色が奇麗に見えるケースもあると言うこと、それだけである。


【CS:人物】

同じ土俵に上がらなければ勝負は出来ない_e0367501_12563097.jpg

【アドビ人物】

同じ土俵に上がらなければ勝負は出来ない_e0367501_12564928.jpg

【CS:標準】

同じ土俵に上がらなければ勝負は出来ない_e0367501_12571008.jpg

【アドビ標準】

同じ土俵に上がらなければ勝負は出来ない_e0367501_12574144.jpg

【アドビカラー】

同じ土俵に上がらなければ勝負は出来ない_e0367501_12581058.jpg


by dialogue2017 | 2019-09-02 17:00 | 写真とカメラの話し | Comments(9)

このご家族のお宅には初めてお邪魔した。3階のフロアに行くと通路の一番奥でパパが玄関を開けて待っていてくれた。一番奥の"角部屋”であった。良かったと思った。西奥の角部屋であると言うことは、南向きの窓の他に西向きの窓があるに決まっているからである。たとえるならば"2灯ライティング”と成ると言うことである。もし角部屋じゃ無ければ南向きの窓しか無い。光が一つの方向からしか入ってこなければ「影」が出来やすい。「南向き」と「西向き」の2つの窓があると言うことは、「南西」を背にして立てば「南」からの光と「西」からの光を受けることが出来る。体の向き(顔の向き)をちょっとずつ変えると「ライティング」にバリエーションを作ることが出来る。足りない部分にはレフで光を足す。「天井バウンス」の用意をして行ったが、この光の環境であれば100%アベイラブルライトでもかなり撮れる。

ただし、難問が待っていた。赤ちゃんが朝6時から起きていてもう眠くてどうしようも無いという状況だったのである。そんなわけで、あれこれ注文付けて撮影するという状況では無かった。で、赤ちゃんが眠ってしまう前に最初の10分であらかた撮ってしまった。そのあとはおじいちゃんおばあちゃんを含めみなで歓談しながら「オフショット」を撮った。私はオフショットの方が好きである。「お宮参り」「お百日」「七五三」のような写真を撮ることは素晴らしいことであるが、そういう「記念写真」ではない「日常の写真」の方が遙かに素晴らしいと思っている。

赤ちゃんはぐずって泣いたり、あやされて機嫌を直したり、結局眠ってしまうことは無かったがいつもと違う雰囲気を察したのか不審そうな顔つきで笑顔には成らなかった。しかし、私はそれで構わないと思っている。なぜなら、20年後、この子が成人するころにこの日の写真を見たとき、笑っているかいないかの違いに何の意味も無いのである。この日の写真が残っていると言うことだけで十分素晴らしいことなのである。笑えば笑顔を撮るし、泣けば泣き顔を撮る。怒れば怒った顔を撮るし、不安そうにしていればそういう顔を撮る。笑顔である必要など無いのである。

この写真は「没カット」である。赤ちゃんの視線の方向が良くないからである。カメラ目線である必要は無いが、この視線の向きはあまり良くない。そういう写真を掲載した理由は、画角内の左右両側から光が来ていることを観て貰うためである。このカットはレフを使わず撮っているが、赤ちゃんの真正面からレフ板で光を返して撮影すれば赤ちゃんの顔はもっと明るく写る。あるいは、弱めの発光で天井バウンスを掛けても赤ちゃんの顔は明るく写る。私はストロボを使うよりレフ板を使う方が好きである。その方が自然な感じの写真を作りやすいからである。

アベイラブルライトでの光の使い方_e0367501_19354797.jpg

by dialogue2017 | 2019-09-01 19:40 | 写真とカメラの話し | Comments(0)

50mmレンズの「間合い」と言ってもいろいろである。もっとグッと寄ってバストアップを撮ることもできるし、もう少し引いて全身を入れて撮ることも可能だ。もっと言えば、顔のアップを撮ることも出来るし、うんと引いて撮れば周囲の状況をしっかり入れた写真を撮ることも出来る。そのレンズ固有の「間合い」というものが客観的なモノとしてあるわけではない。人によって「間合い」のとり方は変わってくる。

私は50mmレンズでポートレートを撮る時はこれくらいの「間合い」が好きだ。子供のポートレートの場合、あくまでも「表情」を撮るのだけれど、バストアップにしてしまわないでこの写真の様に「なにをしているところか」までを情報として含めた写真というのを撮りたいと思う。from_vixen君、50mmでも「なにをしているところか」が分かる写真は簡単に撮れるんですよ(笑)。こういう写真の場合、35mmレンズで寄って撮るより50mmで撮った方がバランスの良い写真になる。このレンズで人物を撮ったことはほとんど無いので今回は「テスト」を兼ねて撮っている。開放で撮っているのはそのためである。仮に仕事としてこういう写真を撮る場合はF2.0で撮影する。F2.0〜F2.2ぐらいまで絞ると左目にもピントが合いスッキリした写真になる。F2.0にしぼっても”奥”のボケ具合はそれほど変わらない。

あえて絞り開放で撮影している理由は言うまでも無くピントが合った部分からの「ボケ具合」を見たいからである。それがもっともよく分かるのは帽子の「ツバ」の左側の部分である(写真に向かって右側)。ピントは"右眼"で合わせているがすでに"左目”は幾分アウトフォーカスになっている。そして、左耳に掛かった髪の毛はかなりボケている。女性ポートレートの場合、このようなふんわりと柔らかいボケを上手に取り入れるとグッと見栄えが良くなる。大口径レンズならではの表現である。帽子だけを見ても、ピントが合った部分はカリカリにならない程度にほどよくシャープであるが、そこからなだらかにボケて「背景」に馴染んでいる。モデルの「輪郭」が柔らかくボケることによって背景との境目がなだらかになり写真全体が”やさしい”雰囲気となる。このレンズの持ち味である。

良いポートレートはレンズの特性をよく理解していないと"思い通りに”に撮ることが出来ない。

実はこの写真、左手で直径57cmの小さな丸レフを持ち、右手1本で撮影している。レフを使って少しだけシャドーを起こしているのだが、素で撮っても+0.67EV程度で撮っておけば顔は明るく写る。しかし、レフで光を当ててあげた方が肌が奇麗にうつる。+067EVで撮影すればあちらこちら「白い」部分がみな露出オーバーとなる。±0EVでもハイエストライトの部分は飛んでいる。α7ⅢのRawファイルは15EVとダイナミンクレンジが広いので少しぐらいハイライトを飛ばしても問題はない。しかし、「肌」は露出補正で明るくしたりレタッチで起こすより実際に「光」を当ててあげた方が奇麗に出る。ちょっと肌が荒れて見えるのは皮膚の色に幾分「まだら」があるため。このくらいの年頃の子供には良くあることである。レタッチでは明るさを整えた程度であまり手を入れていない。もう少し手を入れたらもっと奇麗な写真になる。

35mm、50mm、85mm、どれか1本だけでポートレートを撮れと言われたら迷わず50mmを選ぶ。

SONY α7Ⅲ + Carl Zeiss Planar T* FE50mm F1.4 ZA ISO100 F1.4 ±0EV AWB CS:ライト


ポートレートフォトにおける50mmレンズの「間合い」_e0367501_17121044.jpg

by dialogue2017 | 2019-08-12 00:00 | ポートレート | Comments(1)

「なぜDistagon T* FE 35mm F1.4 ZAなのか」(3)〜(9)は8月3日に一気に書いた。(10)を書くつもりは無かったのだが、35mmレンズを使った「背景」の「見せ方」についてひとことだけ補足しておくことにする。「見せ方」というのは「作り方」と言い換えても良い。

いつごろ書いたのか思い出せないが(検索すれば分かるけれど面倒)、たぶん、2018年の早い時期だったような気がする。当時は、何人かの「読者」と継続的なコメントのやりとりがあった。彼らに「教える」という理由で、写真の「背景」の重要性について何度か書いたことがあった(多分いまは「ファン限定公開」になっていると思う)。「背景」についてほとんど無頓着に撮っている人が少なくないと思う。最悪なのは、モノクロで「花」を撮っている写真で背景がゴチャゴチャしている写真である。カラー写真であれば、例えば「主題」である花が鮮やかな赤やピンクやオレンジ色の場合、「背景」が寒色で多少ゴチャゴチャしていたとしても色の違いで「主題」と「背景」が「分離」し、「主題」はそれなりに浮きだって見える。それでも「背景」がゴチャゴチャしている写真はあまり美しい写真とは言い難いがなんとか見られる程度に写る場合もある。しかし、モノクロだと色による「分離」が無いため、「背景」のゴチャゴチャはただたんなる「汚れ」にしか見えない。写真を見る目がある人が見れば「汚い」写真なのだが、撮っている本人は「主題」だけしか見ないので気ににならないのだと思う。

何度も何度も書いているが、私はそのこと自体を非難するつもりは全く無い。写真なんて下手くそで構わないと思うし、本人が楽しく撮っているのであればそれで構わないと思う。ただし、そういう写真を撮っている人が、もの凄く高額なカメラやレンズを使って撮影していて、コメント欄で写真やレンズについてあれこれと語っているのを見ると、せめて最低限の写真を見る目を養った方が良いのでは無いかと言いたいのである。カメラとレンズ本体で軽く100万円を超えているような機材を使っている人の中にも、写真の「イロハ」をまったく理解していない人がいる。これは"滑稽”である。

さて、「背景」についてであるが、いつどんな時にも「背景」に気を配って写真を撮らなければいけないと言うわけでは無い。私自身は「写真」を「記録」として撮っているので、「美しい写真」を撮ると言うことについてはそれほど強いこだわりを持っていない。実際、ただレンズを向けて「無造作」にシャッターボタンを押している事がほとんどで、あれこれ考えながら写真を撮ることは極めて少ない。まして、下に何枚か並べた子供の写真を撮ったときには、狭いスペースに子供が20人、大人も同数かそれより若干多い人数がいたのであるから、「スッキリした」写真を撮ることなど不可能であった。具体的に言えば、メインの「被写体」(1人の子ども)を撮る時、「背景」に「邪魔」な人間が写り込んでしまうことを避けることが出来ない。そんなシチュエーションにおいての撮影では「背景」を「作る」ことなど不可能である。

そもそも、この日は主催者のカメラマンが不在であったため、代理でこの日のイベントの「記録写真」を撮って差し上げたのであるから、「どこで」「誰が」「どのように」「過ごしたか」の「記録」を撮り残すことが目的なのである。そういう「記録としての写真」を撮っていたわけであるが、その合間合間に、未就学児の女の子を中心に、多少「ポートレートフォト」風の写真を撮った。しかし、その際も100%目の前にある光景を撮ったのであって、僅かながらも"セッティング”は介在していない。いや、正確に言うと、子供が"のこぎり”を使って「工作」をしているシーンの写真を撮った際、5〜6枚レフを入れて撮った写真があった。この日撮った"セッティング”が介在した写真はそれだけだった。

こんな「長話」を書くつもりでは無かったがもう少し書く。この日、一番最初はFE24-105mm F4 G OSSで撮影した。イベントが始まる際に主催者から挨拶があり、そのあと参加者が円陣を組んで子どもたち一人一人が自己紹介する。そのシーンを撮影する際には、「広く撮る」ことと「アップで撮る」ことが必要なのでズームレンズを使って撮影した。挨拶と自己紹介が終わりイベントが始まった後、私はレンズをPlanar T* 50mm F1.4 ZAに交換し、「木工作業」を始めた子どもたち一人一人の写真を撮った。私は「何かをしている」「一人」(ないしは2〜3人)の子供の写真を撮る際に50mmレンズを使って撮ることが多い。人物写真を撮る際に一番よく使うのは50mmである。

次に、「ハイゼックス炊飯」を行ったシーンでレンズをDistagon 35mm F1.4 ZAに交換した。テント下の狭いスペースに40人ほどの人間が固まって作業をしているというシチュエーションでの撮影である。こういう場面もズームレンズの方が便利ではあるが、私は人々がゴチャゴチャしているところではあるけれど、”ひとりひとり”の子供に焦点を合わせた写真を撮ってあげたかったので単焦点の35mmを使った。この日Distagon 35mm F1.4 ZAを使ったのはこのシーンだけで、撮影枚数は少ない。その後はPlanar T* 50mm F1.4 ZAとFE85mm F1.4 GMの2本で撮った。私は頻繁にレンズ交換をして撮影することはほとんど無い。面倒だからだ。この日は、それまでほとんど使ったことが無かったと言うこともあって、イベントの中盤以降はほぼFE85mm F1.4 GM1本で撮り通した。85mmを使うと「バストアップ」を撮るようになる。これは私自身が「狙う」という以前にレンズがそれを「誘ってくる」のである。ようするに"こういう写真”である。ここまで寄ってしまうと「背景」に邪魔者を入れずに「モデルさん」だけを写した写真を撮ることが出来る。一般のご家庭ではこういう写真はあまり撮らないので親御さんから(特にママさん)からとても喜ばれるので女の子の場合はなるべく撮って差し上げるようにしている。85mmの場合「背景」は溶かしてしまうケースがほとんどである。極論すれば、それが85mmの使い方だと思っている(あくまで"極論”だよ)。

さて、いつもながらのことではあるが長い話になってきた(笑)。ここまでに何を書いたかというと、「なぜDistagon T* FE 35mm F1.4 ZAなのか」といいう「テーマ」で10回も書いていながら、実は私はDistagon T* FE 35mm F1.4 ZAで人物写真をほとんど撮っていないのである。そういう事情を説明して置いたと言うことである。

結局、Distagon T* FE35mm F1.4 ZAを使って「ポートレートフォト」を撮る際の一番のポイントは何か? 私はそれについて(9)の中で次のように記した。

同じようにモデルさんをアップで撮っても、Distagon 35mm F1.4 で撮影すれば「背景で見せる」ことが可能となってくる。美しい「背景」をバックに撮影する場合、どういう風に「背景」を「見せるか」がポイントになってくるのである。私に言わせれば、大口径35mmレンズでポートレートフォトを撮る醍醐味はここにある!

もちろん、35mmレンズの使い方なんていろいろとあって、「こう使うべきだ」などという決まり事は無い。35mmレンズを使って50mmで撮ったかと思わせるような撮り方も出来るし、反対に50mmを使って35mmで撮ったように思わせる写真を撮ることも可能である。1本のレンズで色々と撮りようがある。その上での話しだが、私は、50mmは「モデルさん」自身に焦点を合わせて取るためのレンズであると思っている。そして35mmは、モデルさんに焦点を合わせながら同時に「背景」を入れ込むことによって写真に「雰囲気」を作るというような写真を撮るのに適したレンズだと思っている。「なぜDistagon T* FE 35mm F1.4 ZAなのか」はそのことについて書いたのである。

本当は、そういう「作例写真」があれば分かりやすかったのだが、残念ながらそういう写真は1枚も無かった。上に書いたように、Distagon T* FE35mm F1.4 ZAを使って撮影した「ハイゼックス炊飯」を行っているシーンでは狭いスペースで40人以上の人間が体をぶつけ合って作業をしていたのであるから「背景を見せる」ような写真が撮れるはずが無い。しかし、私は単なる「記録写真」を撮る合間に、一人一人の子供を「主役」にした写真も撮った。残念ながら「主役」の前後左右には「邪魔者」が入ってしまうことを避けることが出来なかった。しかし、それであっても「主役」の親御さんに写真を差し上げれば、親御さんは自分の子供しか目に入ってこないので背景がゴチャゴチャしていてもほとんど気にしない(笑)。1人の子どもの「良い表情」を押さえておけば、それは「単なる記録写真」以上の写真となる。

そういう事情であるためDistagon T* FE35mm F1.4 ZAを使って撮った「背景で見せる」写真というものが1枚も無いのだが、「それってどういう感じなの?」といまひとつピント来ない読者もいるだろうから、写真の一部にその「雰囲気」が表現されている写真を何枚か選んで、私が言う「背景で見せる」写真というモノが実際にどういう写真であるかと言うことを説明してこの10回に及んだ話しを結ぶことにしたい。

下の写真は1度掲載しているが、この日Distagon T* FE35mm F1.4 ZAで撮った写真の中で一番気に入っている。「ゆめちゃん」の眼差しが素敵だと思う。さて、この写真には「お邪魔虫」が写っている。まず、夢ちゃんのすぐ後に誰かのママが立っている。かなり大きく写っている上衣類の袖が黒である。このママさんが写っていないだけで写真はかなり良くなる。次に、ゆめちゃんの顔のすぐ後に重なるようにして男の子の「頭」が写っている。この部分は一番「空けておきたい」スペースである。メインのモデルさんに重なる位置に「邪魔者」を入れないというのは鉄則だ。

さて、まずは頭の中でこの2人の「邪魔者」を消し去ったこの写真を思い浮かべて欲しい。この2人の「邪魔者」が写っていなければこの写真の雰囲気は丸っきり変わる。格段に綺麗な写真となる。

次に、ゆめちゃんの「右側」に写っている「人物」を見て欲しい。すぐ左となり(写真では右側)に写っている背の低い女の子はゆめちゃんの妹である。ゆめちゃんと妹の間の奥に写っている緑色の服を着た女性は二人のママである。つまり、この写真にはゆめちゃん「家族」が写っているのである。写真右端にカメラ目線の男の子が写っているが、この子の帽子の「青色」は写真にほとどよいアクセントを作ってくれている。夢ちゃんの後の黒い袖の服のママさんがいなくなり、それより少しだけ左側に背の低い子供が写り込んでいたら余計な「間」が埋められ写真が安定する。そういう写真を撮ることが出来れば、主役であるゆめちゃんの可愛らしい表情をしっかり押さえながら、一緒に参加した妹やママ、そして一緒に遊んだお友だちが「情報」として写され、「記録」としての価値も併せ持つ。さらに、一番奥のぼやけた「緑」を含め子どもたちの衣服の色などが「バックペーパー」のような役割を果たしてくれる。つまり、「のっぺらぼう」な背景の写真とは違うその場の雰囲気を活かしたポートレートフォトに成るのである。子供が5〜6人しかいない情況であれば、そういう写真は狙って撮ることが出来る。

私は子供の「フォトブック」を作る仕事をしていた。ほとんどの場合親御さんも交えた写真で構成するのであるが、言うまでも無く子供の写真がメインとなる。1冊のフォトブックは40枚前後の写真で編むのであるが、そのフォトブックの出来映えを決める大きな要素は写真の「背景」なのである。背景を「溶かして」子供だけを浮きだつように撮ったカットは必ず必要なのだが、そういうタイプの写真ばかりにでフォトブックを作るとつまらないものになってしまう。ブロマイドのような写真が並んでいても面白くないのである。美しい「背景」を後に可愛らしい表情の子供が写っている写真が一番素敵なのである。

撮影する子供の人数が少なければコントロールしながら撮影することが出来る。ややもすると、アマチュア写真愛好家の場合「子供」にばかり目が行きがちで、「背景を作る」ということがお留守になりがちがちである。私は、ロケ地では「奇麗な背景」になる場所ばかり探している。そして、奇麗な光が落ちている場所を探す。そこに子供を誘導して行き、周りに邪魔者がいない状況を作り、子供に自由に遊ばせておいてそれを撮る。「背景」と「光(ライティング)」を選んでしまった上で、その「自然のスタジオ」の中で子供に自由に振る舞わせ「素の表情」を撮る。そのようにして撮影したポートレートフォトは、グラビア風のポートレートフォトより自然で素敵な写真となる。

実は、仕事で子供の写真を撮っていた時代には私はそういう写真を50mmで撮っていた。なぜなら、当時は今よりはもっと「寄り」で撮るカットを多く撮っていたからである。しかし、いまは「引き」で撮りたいと思っている。つまり、以前よりモデルを幾分小さく撮ってでも「背景」をふんだんに入れ込んだ写真を撮って見たいと思っているのである。そういう気になった理由は、非常に描写性能が高く「幅広い」表現を可能にするDistagon T* FE35mm F1.4 ZAというレンズを手にしたからである。本気で撮ってみたいと思わせるレンズである。

なぜDistagon T* FE 35mm F1.4 ZAなのか(10)_e0367501_23345200.jpg


この写真も右端にぼやけて写っている二人の女の子は良い「背景」になっていると思う。主役の真後ろにママが立っているし、左端の「グレー」の服が写真を「台無し」にしている。このママさんや左端の二人の人物のあたりにパステルカラーの服を着た子供が立っていれば、右端のような雰囲気の背景で纏まった写真になる。この写真自体は、この真剣な表情を撮ってあげることが目的であったのでこれで「十分」なのだが、状況をあるていど"セッティング”することが可能であれば、写真のクオリティはもっともっと上げていくことが出来る。たとえば、もしこのシーンを「仕事」として撮っていたならママさんに画角の外まで外れてくれと声を掛けて撮るだろう。状況をちょっとコントロールして撮れば写真のクオリティは上がる。この日はあくまで「記録」としての写真を撮ることが目的だったのでそういうことをしなかっただけのことである。

なぜDistagon T* FE 35mm F1.4 ZAなのか(10)_e0367501_23351470.jpg

実は男の子の写真も沢山撮っている(笑)。男の子は男の子の良さがある。「逞しい」感じの写真を撮ることを考えて撮っている。この写真、もしPlanar T* 50mm F1.4 ZAを使って男の子を同じ大きさで撮影した場合、「背景」の炊飯器の左端が切れてしまう。別に、それでも構わないがきっちり入っている方が写真としての「座り」は良い。この炊飯器の場合はどうでも良いのだが、50mmで撮っている時「ああ、35mmがあればな〜」と感じることは良くある。メインのモデルを撮ることだけを考えていれば、「寄ったり」「引いたり」すれば35mmと50mmは互いに「代用」が利くのだが、人物写真の場合モデルに「寄って」撮るケースがとても多い。その際、「背景」を見せる写真を撮ることを考えているときには35mmの方が使い勝手が良い。だから、どちらか1本しか使えないと言うケースでは「ブロマイド風」のポートレートを撮ることが目的で無い限り、私は35mmを選ぶ。それが今回(7月21日)の家族旅行の際にPlanar T* 50mm F1.4 ZAではなくDistagon 35mm F1.4 ZAばかりを使った理由である。単純にテーブルの向かい側に座っている家族を撮るのに間合いが良いと言うだけのことではなく、「背景を入れ込んだ」写真を撮るために35mmを使ったと言うことである。1枚1枚の写真の撮影は実に無頓着に撮っているのだが、「ここではこういう感じの写真を撮ろう」という大枠を決めて撮っていることが多い。

なぜDistagon T* FE 35mm F1.4 ZAなのか(10)_e0367501_23352060.jpg

これはPlanar T* 50mm F1.4 ZAで撮影した写真である。「仕事」で子供のフォトブックを作っていた時代はこういう撮り方を沢山していた。50mmで「背景を写し込む」撮り方である。しかし、50mmの場合、「背景」をここまで入れると「主役」が小さく写る。この場で、「背景」を同じ範囲で写しても画角の広い35mmの場合50mmで撮影する時より前に出ることが出来るので同じ範囲の背景を写し込んでも「主役」がもう少し大きく写る。もちろん、このサイズでも悪いというわけではないが、あくまでモデルさんをメインにした上で「情報量の多い背景」を入れたいと思った場合35mmと50mmの差は非常に大きい。

なぜDistagon T* FE 35mm F1.4 ZAなのか(10)_e0367501_22542405.jpg


考え方は人それぞれであるし、その方が面白い。だから、私の考えに同意する必要なんてない。私とは別の考え方で写真を撮ることは間違いでも何でも無い。ただ、私はこういう風に考えて撮っているんだと言うことを話しているに過ぎない。しかし、それはshi-photo君や、0123okkun君や、from_vexen君たち「初心者」には少なからず参考になるだろうと思う。それだけの話しである。私の場合、下の写真の様な撮り方がPlanar T* 50mm F1.4 ZAの使い方である。もちろん、違った撮り方をすることも少なくは無いが、Planar T* 50mm F1.4 ZAでポートレートフォトを撮る時はこういう撮り方がメインになる。

どうでも良いけれど右眼にピントが行っている。α7Ⅲの「瞳AF」の精度はそれほど高くない。このアングルで「右眼」にピントが行ってくれないのでは「仕事」では恐くて「瞳AF」は使えない。その後ファームアップをしたがまだ撮影していない。おそらくあまり改善されていないだろうと思う。ヨドバシカメラの店頭で数分間試しただけなので確かなことは言えないが、FUJIFILM X-T30の「瞳AF」の方が断然精度が高いと感じた。まずスピーディーだ。ああ、X-T30欲しいな〜(笑)。これでおしまい。


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by dialogue2017 | 2019-08-11 00:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)

上の写真はひとつ前のエントリーに掲載したPlanar T* 50mm F1.4 ZAで撮った写真と同じ写真である(ひとつ前のエントリーの上に掲載した写真)。下の写真は、Distagon T* 35mm F1.4 ZAで、画角の中に占める「扇風機」の大きさがPlanar T* 50mm F1.4 ZAで撮った上の写真とだいたい同じ大きさになるまで寄って撮影した写真である。私がこれから書く「解説」を読む前に、自分で2枚の写真をよく見比べて欲しい。

なぜDistagon T* FE 35mm F1.4 ZAなのか(9)_e0367501_21002888.jpg


なぜDistagon T* FE 35mm F1.4 ZAなのか(9)_e0367501_11410801.jpg

もう、私があれこれと説明する必要は無いだろう。「百聞は一見に如かず」である。これが「35mmレンズと50mmレンズの使い道」の違いなのである。50mmレンズと35mmレンズでは「モデル」を画角の中で同じ大きさにして写しても、背景の写り込む範囲が異なるのである。言うまでも無く35mmレンズの方が50mmレンズより広い範囲が写る。上のPlanar 50mmで撮った写真では左下に写っている緑色の「ペン立て」は一部しか写っていないが、下のDistagon 35mmで撮影した写真では「ペン立て」は全体が写っている。

もう1点顕著な違いがある。下のDistagon 35mmで撮影した写真の右端には「カーテン」が写り込んでいる。このカーテンは「クリーム色」に近い「イエロー」なので目立たないが、もしこのカーテンが「赤」とか「ピンク」とか「青」とかだったらかなり目立つ。このカーテンは上のPlanar 50mmで撮影した写真には全く写っていない。「モデル」(この写真の場合扇風機)の大きさを同じに写しても、背景が写る範囲はこれだけ違ってくるのである。なお、「ボケ」の量は、Planar 50mmの方が大きいが、両者の差はかなり詰まってきている。Distagon 35mmでもピントを合わせる被写体(普通はそれがメインの被写体でありポートレートの場合はモデルである)に寄ると背景はかなりぼかすことが出来る。

この違いは、35mmと50mmの違いが単純に画角(写る範囲)の違い、ボケの量の違いとだけ理解しておけば良いわけではないと言うこと教えてくれている。つまり、この両者の「特性」のちがいは「表現」の違いを生み出すと言うことである。さて、ここで"名言"を思い出して欲しい(笑)。「写真表現において背景の持つ意味はとても大きい」である。

撮りようによってはPlanar 50mmを使ってDistagon 35mmぽく撮ることも出来るし、その反対も出来る。しかし、そこには少なからず無理が出てくる。50mmには50mmの、35mmには35mmの得意とする「表現」というものがある。Distagon 35mm F1.4の方を「主語」にして語れば、Distagon 35mmにはPlanar 50mmでは撮れないような「雰囲気」の写真を撮ることが出来ると言うことである。

1枚の写真がもつ「雰囲気」というのは、主要な被写体(モデル)以外の部分を含めたトータルな「表現」のことである。具体的に言えば、写真を美しく演出するための「背景」の見せ方のことである。「背景」の「作り方」で写真は大きく変わる。意図的に背景を「入れ込んで」それによってその写真の「雰囲気」を作るような撮り方をする場合、50mmより35mmの方が断然やりやすい。Planar 50mm F1.4でも同じような表現は可能であるが、Distagon 35mmの方がよりそういう表現をしやすいのである。なぜなら、メインの被写体に寄っても「背景」が広く写るからである。一般的に、ポートレートフォトの場合、モデルさんに寄って撮ることが非常に多い。Planar 50mmで撮れば背景は「溶けて無くなる」。もちろん絞り込めば輪郭を残せるがPlanar 50mmと言うレンズの「持ち味」を活かした使い方は背景を「溶かした」写真を撮ることだと言って良い。背景を溶かしてしまってモデルさんだけを浮き上がらせる写真を撮るのに適していると言うことである(FE85mm F1.4 GMならよりそれが顕著となる)。あえて極論すれば、Planar 50mmは「背景を見せる」写真を撮るためのレンズでは無いと言うことだ(極論すればだよ)。

同じようにモデルさんをアップで撮っても、Distagon 35mm F1.4 で撮影すれば「背景で見せる」ことが可能となってくる。美しい「背景」をバックに撮影する場合、どういう風に「背景」を「見せるか」がポイントになってくるのである。私に言わせれば、大口径35mmレンズでポートレートフォトを撮る醍醐味はここにある!

さて、「問題」の「答え」であるが、そんなことはどうでも良いことである。私がなぜPlanar 50mmよりDistagon 35mmを選んだのかという「問題」を出したわけは、「35mmレンズと50mmレンズの使いわけ」についてよく考えて貰うためであったのである。要するにこの話は初めからshi-photo君たちに「35mmレンズと50mmレンズの使い道」についての理解を拡げて貰うことが狙いだったのである。漠然と「写る範囲が違う」「ボケの量が違う」「最短撮影距離が違う」というレベルでの理解では、35mmと50mmでは全く「別の世界」を描くことができるのだということを深く認識したことにならない。物事を理念的に把握する能力がよほど高い人間以外は、「理屈」を「理屈」として「理解」しただけでは実践に有効に反映させることは難しい。こういう長々とした「問答」に参加し、最後にこの2枚の写真を見たことで君たちもいままでより35mmと50mmの違いを"実感"出来ただろうと思う。大切なのは"実感”なのである。

「理論」は「実感」に落とし込まないと役にたたない。

私が先日、大好きなPlanar T* FE50mm F1.4 ZAに手が伸びず、Distagon T* FE35mm F1.4 ZAに手が伸びた直接的な理由は単純に「寄れる」ことのメリットを感じているからである。有り体に言えば、「家族旅行」の記録写真を撮る合間に、「その辺のもの」をパチパチと撮るのに便利だという"極めて具体的"な動機である。しかし、それだけであったわけではない。私は、昨年末の段階で既に、「彼女」のポートレートはDistagon 35mmをメインにして撮ろうと考えているという事を書いているのである。なぜそう考えたかという理由として、既存のポートレートフォトのような「グラビアフォト」風の写真ではなく、プライベート感に溢れた写真を撮りたいと思っているからだとも書いた。プライベート感に溢れた写真にする一つの方法として「背景」を積極的に「織り込んだ」写真を撮ることを考えている。そのためには、Planar 50mmよりDistagon 35mmの方が断然撮りやすいのである。

私が「家族旅行」の記録写真を撮るのにPlanar 50mmではなくDistagon 35mmを選んだ理由も同じである。家族(具体的には娘である場合がほとんど)をある程度「ポートレートフォト」風に撮るにしても、背景を「溶かして」しまわず、なるべく多めに背景を入れて撮りたいと思っているのである。例えば、(6)に掲載した写真の場合も、Planar 50mmであれば私が椅子を立って2〜3m後ろに下がって撮らないと「背景」がこれだけ明確には写り込んでこないのである(この写真の背景の左右と上がもっと詰まってしまうと「背景」としての意味が低減する。背景を大きくぼかしてはいるが、"どういう場所"で撮った写真であるかが明確に分かるように「背景」を広めに写し込んでいるのである)。旅先で家族の写真を撮っている時にいちいち「引いて」撮ることは少ない(レストラン内など引けない場所で撮ることも少なくない)。だいたいが、その場の「時間」を共有して過ごしながら写真を撮っているのである。つまり、「家族」が「家族」を撮っているのである。私が考えていることは、「モデル」(家族)とすぐ近くの距離から撮りながらも「背景」を織り込んだ写真を撮りたいと言うことなのである。

私が、「家族旅行」の記録写真を撮るのにPlanar 50mm F1.4を選ばずにDistagon 35mm F1.4 を選んだ理由は、もういかにもポートレートフォト風な写真はあまり撮らなくて良いと決断した結果でもあるが、実はもう一つ理由がある。私はYashica-ContaxマウントのDistagon1,4/35を使っていた頃、その特性を十分に活かした写真を撮ると言うことをやってこなかった。私は「写真は写っていればそれだけで価値がある」と考えている。20年後30年後に娘が私の写真を見たとき「あら、お父さんやだわー、この写真50mmで撮っている。35mmで撮っていたら背景のお洒落なお店もよく写っていてもっと素敵な写真になっていたのに」なんて見ることはまず絶対に無いのだ(笑)。少しぐらいピントが甘くても、ぶれていても、露出オーバーでも、水平が傾いていても、自分の子供時代の写真が沢山あればそれだけで十分喜んでくれるのである。子供の素敵なポートレート風の写真を撮って「ウットリ」しているのは撮っている本人一人なのである。撮っている「お父さん」以外は「写真が格好良く写っている」ことになんの関心も無いのである。だから、私は大きなこだわりを持って家族写真を撮っているわけでは無い。もちろん、奇麗に写るように気を配って撮っているし、たまには自分で「ウットリ」するような写真も撮りたいとは思っている(笑)。しかし、一番大切なことは、しっかりと「記録」を残すと言うことなのである。

だから、家族写真を撮る際には、レンズの特性をトコトン活かした写真を撮ろうなどと言うことはあまり考えてこなかった。もちろん、写真館をやっていた時代にはレンズの特性を活かして「家族写真」を撮影をしていた(その「家族」は「お客さん」だけれど)。しかし、85mmと50mmの2本を使って撮るポートレートには何通りかの「基本形」が出来上がっていて、その「スタイル」を使って撮っていたに過ぎない。それはそれでなんの間違いも無かった。きちんと奇麗に撮れていたしお客さんの評判はとても良かった。当たり前のことだがお金を頂くに値するレベルの写真を撮っていた。「いままで撮って貰っていた写真館の写真より断然素敵」と言って貰っていた。それはそうだ、「渡部さとる監修」だもの(笑)。実際、スタジオのライティングは彼に組んで貰ったのだ。「ロケ撮り」の方は完全に「自己流」で撮っていたが、ロケ撮りの撮影の方が人気があった。いま思うと、もっともっとやれたことがあったと思うし、いまもう一度やったらあの時よりワンランク上の写真を撮れると思うが、あの頃撮っていた写真は素敵に撮れていた。

しかし、私がα7Ⅲを買った動機はもっと「欲深い」ものだった。それは、既存のプロフォトグラファーの撮るポートレートフォトを越えるポートレートフォトを撮ると言うことであった。そういう写真を撮る突破口となるレンズがDistagon T* FE35mm F1.4 ZAではないかというのが私の予測だった。果たして、今回ちょこっと撮ってみてこのレンズは私が思っていた以上の描写性能のレンズであることを理解した。ただし、奥が深いのでいろいろなシチュエーションで沢山撮ってみなければこのレンズの活かした撮影を「オートマチック」なレベルで行うことは出来ない。

実は、私は密かに、1年後に訪れるかもしれない機会のために「家族旅行」の記録写真の撮影を通じて自分の撮影技量の大幅なレベルアップに挑戦してみようかと思っているのである。Distagonに手が伸びる理由はそういう「野望」があるからである。いや、この気持は一時の盛り上がりかもしれない。しかし、Distagon T* FE35mm F1.4 ZAと言うレンズはそういう気にさせるレンズなのである。"幅広い可能性"を持ったレンズに感じるのである。でもね、ちょこっとPlanar T* 50mm F1.4 ZAで撮り重ねてみたら、「うーん、ごめん、やはり最高なのはPlanarだったよ」って言い出すかもしれない(笑)。「Distagonは最高だったけれど、Planarはそれ以上だった」と(笑)。ああ、それじゃまるで渡部さとるさんみたいじゃないか(2B出身者一同激しく同意)。コロコロと恥ずかしげも無く豹変出来るところは彼の人間的魅力であるし、その「気まぐれ」さが彼の才能を作っているのである。写真家はすこし「いい加減」な方が大成するのである(爆)。

とても長い話になった。しかし、アマチュア写真愛好家には35mmと50mmの「表現力」の違いと言うことについて深く考えて写真を撮っている人はあまりいないと思う。端的に言って、ブログなどに掲載されている35mmで撮っている写真を見て「ああ、実に上手く背景を見せているな〜」と感心させられる写真と出逢うことがあまりに少ない。「手前」のことしか考えずに撮っているか、「背景」は単純にぼかして終わりという写真ばかりなのである。ところが、プロの写真を見ると、その使い方の見事さに感心させられることは良くあるのである。当たり前のことかもしれないが、プロとアマチュアの写真はそれほど違う。しかし、その違いは「ちょっとした差」でしかないのだ。だから、「写真を見る眼」が無いとその違いを理解することが出来ない(見ても違いに気がつかない)。その違いが理解出来ないと、「ちょっとした差」のある写真を撮れるようにならない。自分より上手い写真と自分の写真の「ちょっとした差」を認識して始めて、その差を詰めていくことが出来るのだから。その違いがよく分かるようになれば、アマチュアであってもプロと同じレベルの写真を撮れるようになる。伝えたかったのはそういう言うことだ。

写真がとても好きなら、プロレベルになろうと思うべきだと思う。

語弊を恐れずに断言するが、プロレベルになることはそんなに難しいことじゃない。

【分かりやすい写真を追加】このエントリーを書いたのは8月3日である。上の2枚の写真を撮ったのも同じ日である。下に、翌4日に撮った写真を2枚追加しておく。いい加減に撮っているので上下の写真のアングルが僅かにずれてしまったが伝えたいことが伝われば良いので了解して頂きたい。最初に掲載した2枚の写真では右端の「カーテン」が白っぽい色なのでそれが入るか入らないかの違いがいまひとつピンとこないと思う。で、その部分に「青色」のビニール袋を貼って上の2枚と同じように撮影してみた。ポートレートを撮る際、「背景」をどのように処理するか、あるいは「背景」をどのように「見せるか」はとても重要なことである。「見せる」という撮り方をした場合、そこはその写真の「見せどころ」にもなる。ポイントとなるのは「色合い」だと思う。背景が完全に「溶けて」しまった写真は「殺風景」に感じる場合がある。だから、「背景」に「淡い色」などを入れて写真にアクセントを作るという工夫をしたりする。50mmレンズであってもその画角内にそういうアクセントを入れ込むことは可能だし、少し引いてそれを行うことも出来る。しかし、35mmの場合はモデルにかなり寄って撮った場合でも背景にアクセントを入れやすい。冒頭に掲載した2枚も下の2枚もAWB(雰囲気残し)で撮影しているのだが、撮影時間帯が大きく異なっているため「色味」が全く違う。ちなみに、上の2枚は「羽根」が汚れているのが写っているので、今日は扇風機を回して撮影した(笑)。ちょっとしたことで写真の雰囲気がドンドン変わっていくことが分かるだろう。

上のPlanarで撮った写真は背景に写っている「モノ」の大きさが大きい。それ故、うるさい感じがする。下のDistagonで撮った写真の方が背景にいろいろな「モノ」が写っているのにサイズが小さいために「背景」として見ることが出来る。「モデル」を同じサイズで撮っても、「背景」しだいで写真の「表現」はこんなにも変わるのである。


なぜDistagon T* FE 35mm F1.4 ZAなのか(9)_e0367501_08341523.jpg

上のPlanar 50mmで撮った写真とボケ具合の差が大きくは無い。35mmも寄って撮れば背景はここまでボケる。この写真の場合机の上の雑然としたモノが背景となっているので美しさは無いが、自然のあるところで上手に背景を選んで撮影した場合、背景が単調な写真とはことなる美しさを持った写真を撮ることが出来る。また、カフェやレストランのオープンテラスなどで女性を撮る場合、後に店の雰囲気をぼかして入れた方が雰囲気のある写真になる。もちろん、同じような撮り方を50mmで行うことも可能であるが、50mmの場合、椅子を立って引かないとそういう絵を撮れない場合が多い。35mmであれば「彼女」の正面の席に座ったままそのような写真を撮ることが出来る。

なぜDistagon T* FE 35mm F1.4 ZAなのか(9)_e0367501_08341885.jpg

(おわり)にしようか、もう1回ぐらい書くか(爆)。


by dialogue2017 | 2019-08-10 00:00 | 写真とカメラの話し | Comments(2)

さて、いよいよクライマックスである(笑)。実に長い道のりであった。下の2枚の写真は同じ撮影位置から撮影した写真である。三脚を立ててα7Ⅲを固定し、上の写真はPlanar T* FE50mm F1.4 ZAで、下の写真はDisagon T* FE35mm F1.4 ZAで撮影したものである。カメラのボディは動いていない。50mmと35mmの画角の差はこんなにも大きいのである。ちなみに、Planar 50mmの画角は<47°>でDistagon 35mmの画角は<63°>である。

当然のことながら「ボケの量」の差もかなりある。写真左下に写っている緑色のものは「ペン立て」であるが、そのボケ具合を見ると両者の違いがはっきりすると思う。ただし、Distagon35mmも相当ボケている。このDistagon35mmで撮った写真は最短撮影距離での撮影では無いので、扇風機に最短撮影距離まで寄って撮影すれば背景はもっとボケる。ボケの量を決めるのはレンズの"実焦点距離”である。焦点距離が長いほど大きくボケる。だから、何処まで行ってもDistagonのボケ量はPlanarには叶わないが、ピントを合わせた被写体までの距離が短いほど背景のボケ量は大きくなる。DistagonはPlanarより15cmも扇風機に寄って撮影することが出来るので両者のボケの差はぱっと見それほど決定的に違わないほどに近づくのである。こういうことって知っていた? 私の「生徒諸君」は知らなくても良いけれど(彼らは典型的な初心者だから)、高額なカメラやレンズを愛用している諸氏はもちろんご存じでしたよね。当たり前だよね。

ついでに書いておこう。50mm F1.4は「モデル」をアップにして撮ると「背景」は完全に「溶かして」しまえる。35mm F1.4は50mmと同じ位置から撮影した場合、「背景」をぼかしながらも輪郭を残すことによってその場の雰囲気を残せる。これはポートレートを撮る際、単に写っている範囲とかボケかたの違いだけでは無く、写真の表現内容を変えてくれる。これでようやく話しが振り出しに戻ったのである。つまり「35mmレンズと50mmレンズの使い道」という話しに。

さて、今回はここでお終い。次がいよいよ本当のクライマックスである。乞うご期待(爆)。

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なぜDistagon T* FE 35mm F1.4 ZAなのか(8)_e0367501_21003902.jpg


by dialogue2017 | 2019-08-09 00:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)

FE85mm F1.4 GMは凄いレンズなのだろうけれどPlanarやDistagonの方が好きだ。と言うのもいかにもポートレートフォトといった感じの写真よりも普通の写真を撮りたいからである。昨年末、本気でポートレートを撮ってみようと思ったとき、メインレンズをDistagon T* 35mm F1.4 ZAにしようと思っていた。アップの写真では無く「その場」の雰囲気を取り込んだ写真を撮って見たいと思ったからである。まだα7Ⅲではほとんどポートレートフォトを撮っていないのでPlanarについてもDistagonについてもよく分かっていない。ただ、どちらも古いYashica-Contaxマウントのそれを上回るレンズであることだけは間違いなさそうである。Distagonに関しては"この写真”を見てその描写性能の高さが良く理解出来た。今回は、たいした考えも無しにFE85mm F1.4 GMで撮った枚数が断然多かったのだが、次回はPlanar 50mmとDistagon 35mmの2本で撮ってみたいと思う。

この写真、最初にクリエイティブスタイル「人物」で作ったモノの方が「抜け」のよい写真になった。ぱっと見はそちらの方が奇麗に見えるのだがこちらのちょっと抑えた感じの方が好みである。CSは「ディープ」である。昨年α7Ⅲを購入した直後や、今年3月にちょこっとテストしてみたときにも「ディープ」の使い道が分からなかったのだが、ポートレートでも使えると分かった。

やはりこういうフラットな光で撮るポートレートはあまり好きではないが、これは一応「順光」なので肌の色が濁りなく奇麗に出ている。色温度を+1〜2上げると肌の透明感が出るが最近は黄色みのある肌の色の方が好きである。でも、女の子の写真としては地味すぎるかな。

SONY α7Ⅲ + Carl Zeiss T* Planar 50mm F1.4 ZA ISO100 F1.6 1/25 ±0EV AWB CS

Planar T* 50mm F1.4 ZAとCSディープの組み合わせで少し渋めに_e0367501_21572414.jpg


追記。CS「人物」で作った写真を追加掲載しておく。パッと見た感じはこちらの方がいいかな。肌の色が自然だし抜けがいい。


Planar T* 50mm F1.4 ZAとCSディープの組み合わせで少し渋めに_e0367501_08313881.jpg


by dialogue2017 | 2019-07-28 22:00 | ポートレート | Comments(0)