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タグ:EF 24-105mm F4L ( 71 ) タグの人気記事

2008年3月31日撮影。湯河原。EOS 5D + EF 24-105mm F4L ISO400 F10 1/250 -0.33EV AWB JPEG

風景写真についての話し(6)_e0367501_00182867.jpg

ネット上に氾濫する写真の多くは色鮮やかな写真である。デジタルカメラが普及し始めてそろそろ20年になろうとしている。私は2001年1月よりデジタルカメラを使い始めたが当時のデジタルカメラの画像はチープであった。フィルムで撮った写真の方が各段に奇麗であった。しかし、それから数年の内にデジタルカメラの性能は飛躍的に向上していった。黎明期のデジタルカメラの中で大きなエポックを成したカメラを上げるとしたら多くのカメラマンはEOS 5Dを上げるだろうと思う。写真家の渡部さとるさんは初代のEOS 5Dが出たとき『旅するカメラ』の中で一章を割いて取り上げたが、その章のタイトルは「完璧なカメラEOS 5D」であった。私も初代5Dから使い始めたが、とても素晴らしい絵を出すカメラであった。今となってはメカニカルな点であまりにも貧弱ではあるが、「画質」という点ではいまでも十分通用する絵を出してくれるカメラである。

私はEOS 5D MarkⅡの「絵」がどうしても好きになれず初代の5Dを使い続けた。そして、2012年に5D MarkⅢが発売された時にMarkⅢに切り替えた。5D3は非常に優秀なカメラであった。画質にも十分満足できた。しかし、私は初代5Dの「絵」の方が好きだった。5D3の「絵」と比べると些か物足りない感じがしないでもないが、その「ものたりない」点が素晴らしいと思う理由である。5D3にくらべて初代5Dには足りないものがあった。初代の5Dには「コントラスト」「シャープネス」「彩度」が足りなかった。つまり、とてもしっとりした目に優しい柔らかい描写性能のカメラであったのである。写真家のHARUKIさんは初代5Dは「和食」で5D3は「洋食」だと言った。言い得て妙である。

その後、デジタルカメラは止まること無く進化を続けた。そして、少しずつ「ハイコントラスト」「ハイシャープネス」「高彩度」の絵作りとなっていった。ディスプレイが高精細になり、テレビが4Kになり、iPhoneやiPadが超高精細なRetina Displayに成っていくという情況の中でデジタルカメラも「超高精細」を追求していくしかなかった。今どきのデジタルカメラは良く写る。どんなカメラでも奇麗な画質である。みな鮮やかな写真を作りだす。しかし、なんとなくそういう写真に違和感を覚えるようになってきた。撮像センサーの高画素化し、様々な便利な機能が搭載し、短いサイクルで代替わりしていくデジタルカメラを見ていて「もういいよ!」と言いたくなった。

私は「平凡な写真」が好きである。鮮やかな写真が嫌いだというわけではない。そういう写真も沢山撮っている。しかし、どうといったことのない平凡な写真が好きなのである。誰かに見せても特段の関心を示してもらえないような平凡な写真でも自分がその写真を好きであればそれで良いと思っている。私は誰かのために写真を撮っているわけでは無いし、誰かに認められたくて写真を撮っているわけでは無い。自分が見て撮りたいと思った光景を撮っているのである。そして、自分自身が見るために写真を撮っているのである。だから、他人の基準は私には関係ない。他者から評価されるかどうかはほとんどどうでも良いことである。

春になったらときどき初代5Dで写真を撮ってみようと思う。きっと楽しいだろうと思う。

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by dialogue2017 | 2019-02-25 03:00 | 風景 | Comments(1)

この写真は4年程前に写真家の中藤毅彦さんに見せたことがある。彼から「素敵な写真ですね」という感想を貰った。この写真は中藤毅彦さんのハイコントラストモノクロームを意識して作った写真だったので彼に見せたのだが、彼から「素敵な写真ですね」と言って貰って嬉しかった。私は、ハイコントラストモノクロームを撮ろうと思ったことなど一度も無かった。しかし、この光景を見たとき、中藤毅彦さんの写真が頭に浮かんだ。で、この写真はハイコントラストモノクロームとして仕上げた。ちょっと格好いいだろう?(笑)。

ヨーロッパの歴史ある古い町並みを撮ってみたいと思う。自惚れた話で恐縮であるが、中藤毅彦さんや田中長徳さんなどから「良い写真ですね」と言ってもらえるような写真を撮ってくる自信はある。なぜなら、彼らの写真が私にそういう写真の撮り方を教えてくれたからである。言葉で教わる必要は無い。素晴らしい作品に優る写真の教師はいないのだ。

2008年3月1日撮影。ソウル。EOS 5D + EF24-105mm F4L ISO200 F8.0 ±0EV JPEG

素晴らしい写真に優る教師はいない_e0367501_02434492.jpg

ここ最近、個々のエントリーに対するアクセス数がとても増えている。文章を読んでくれている人もそこそこいるようだ。そして、「次はどんな写真がアップされるのだろう?」と楽しみにしてくれている人もいるようだ。写真が好きな若い人々に、何か参考になる題材を提供することができれば良いと思っている。理論的なことや、撮影技術についての話はいくらでも書くことが出来る。どれほど書いてもネタ切れすることがないほどいろいろな話を書くことが出来る。でも、一番有意義なことは「理論」や「技術」の話ではなく、「写真を撮るというのはどういうこと?」と言うことについて伝えることだろうと思っている。始終言っているように「理論」や「技術」について語っている写真家は沢山いる。「教科書」の類いの本は山ほど出ている。しかし、「写真ってなんのか?」「表現するってどういうことか?」というような話しをする人はあまりいない。

写真とカメラの話しについてはいくらでも書くことが出来る。題材は尽きない。しかし、ここ数日思っていることは、まず写真を見せることが大切なのかなと言うことである。あまり積極的に写真を見せようと思っていない理由は、この4〜5年、つまらない写真しか撮っていないからだ。割と色々撮っていたのは2010年〜2012年頃。その頃は毎日のように散歩スナップをしていたし、子どもたちの写真も毎日撮っていた。年に2〜3回ではあったが一人旅に行き、旅先で沢山写真を撮った。

乱暴なことを言うと、本当に写真を撮る気になるのは旅先ぐらいだ。渡部さとるさんの名著のタイトルは『旅するカメラ』である。なんとも上手いタイトルを付けたものだ。写真は旅先で撮るのが一番楽しい。だから、私が自分で気に入っている写真の多くは旅先で撮ったものである。しかし、いま2016年以前の写真にアクセスするのは非常に面倒なコトとなっている。私は写真をきちんと整理していないので、どの外付けHDDのどこにどういう写真が保存されているか承知していないのである。そして、外付けHDDに保管せず、iMacやMacBookの内蔵HDDに保存されている写真も大量にあるのだが、iMacやMacBookが壊れてしまい直していないと言う事情もある。そんなわけで、割と夢中になって写真を撮っていた時期の写真を見せることが出来ないのである。

2010年〜2012年ぐらいに掛けて大量に撮ったことが私の「写真力」を引き上げたと思う。そして、2012年の9月から2014年の5月に掛けての1年9ヶ月間仕事として写真を撮った経験も私の「写真力」を引き上げる大きな経験となった。これは紛れもない事実である。しかし、自分自身では2007年〜2010年に掛けての3〜4年間に撮った写真の中に好きな写真が多い。どうしてなのかと言うことを説明するのは簡単なようで難しい。いろいろ理由があると思うのだが、あえて一つだけあげるとしたら今より「下手」だったからだろうと思う。

2007年〜2009年頃は今より何倍も写真を撮ることが楽しかった。それが写真に反映しているのだと思う。もっと素敵な写真を撮りたいと言う気持ちで撮っていたのだと思う。この4〜5年はそういう思いはほとんど無くなった。良くも悪くも撮る前に結果が分かってしまうようになったのである。そして、もっと大きな変化があった。私は写真というモノに対してある種の「敵意」と言って良いような感情を持つようになり、それを育ててしまった。とりわけこの2年間それは非常に大きなものとなった。

私の中には「写真」を「見下す」強い気持ちがある。私の書く文章にはそれがにじみ出ていると思う。間違いなく私は写真を見下している。だから、この4〜5年間、私は2007年〜2012年頃のように本当にポジティブな気持ちで写真を撮っていない。写真を撮ることはとても好きなのでポジティブな気持ちで撮っていることが全くないと言うわけではない。しかし、私の心の根っこに「ネガティブ」な感情があるため、私は「邪心無く」撮ると言うことができなくなった。技術的にレベルアップし、理念的には以前とは比べものにならないほど高いところに来てしまったことが「ネガティブ」な感情を強化する方向に強く作用した。そのため、私は「邪心無く」心底「熱中して」写真を撮らなくなった。

書いていて分かった。私は「小手先」で写真を撮るようになったのである。どんな風にでも撮れるようになった。いろいろな写真をさっと撮れるようになった。だから、そんなつもりがなくても「小手先」で撮ってしまうのである。そのため、私はこの2〜3年に自分が撮った写真の多くに対して「つまらない写真だな」という感情しか抱けなくなってきた。ただシャッターボタンを押しただけだから。

結局、私にとって写真は「自己完結的」なものであるべきだったのだ。

どこから「崩れて行った」のかというと、写真を論じるようになってからである。そして、このブログを2年間続けた結果、私は「もううんざりだ」というところに辿り着いた。このブログを昨年末で終わりにしようと思った理由は、「自己完結的」な世界に戻ろうと思ったからである。

まったく考えてもみなかった話を書いてしまった。この話は一旦ここで終わりにしよう。たぶん、近日中に続きを書くだろうと思う。

さて、最初に書こうと思った話を書く。言葉で「教える」ことはいくらでもある。しかし、もっと写真を見せた方が良いのでは無いかと思っている。そのためには、2012年以前の写真を引っ張り出してくる必要がある。しかし、上に書いたような事情でそれをやるのは手間暇が掛かる。そんな面倒なことはやりたくない。で、過去ブログに掲載した写真など簡単に拾ってこれる範囲から古い写真を少し掲載してみようと思う。

多分、私は稀なくらい様々な写真を撮っていると思う。大量に写真ブログを渉猟してみても、私ほど雑多に何でも撮ってブログに載せている人を見たことがない。「花」の写真も掲載し、「ポートレート」も掲載し、「風景写真」も掲載し、多種多様な「スナップ写真」も掲載し、「家族写真」も掲載し、「仕事で撮影した写真」も掲載し、「日常生活」の写真も掲載し、「モノクロ作品風」の写真も掲載しなどと言うことをやっている人を見たことがない。

要するに私はなんでも撮っているのである。しかも、一つの同一ジャンルの写真を撮るときにも私はいくつもの「手口」を使って撮っている。「花」の写真ひとつとってもいろいろな撮り方をしている。「ポートレート」だって、アベイラブルライトでも撮るし、レフを使っても撮るし、ストロボを使っても撮るし、スタジオライティングでも撮る。

しかし、実は私は一つのものしか撮っていない。私が撮っているのは「写真」である。

私にとっては目に入るほとんどのモノが被写体なのである。「被写体」であると言う点において全ては「同一」なのである。だから、全ての写真は私の中では「ひとつのもの」なのである。全部ひとくくりに「写真」なのである。このことが持つ意味はもの凄く大きいと思う。

ああ、最初に書こうと思ったことに戻れなかった。でもそんなことはどうでも良い。脈絡のない文章、自分で何を書こうとしているのかまったく分からずに書いている文章、そういう文章が一番伝わる文章になるに決まっているのだから。だって、それは私自身の意図なんて言うちっぽけなモノとは無関係に、勝手に勢いよく「迸り出てくる」ものなのだから。勝手に出てくる言葉には「魂」が籠もっているのである。

たぶん、「写真」というものについて、今まで誰も語ったことがないような広いパースペクティヴの中でそれを論じてみたいという欲求が私の中に芽生えているのだろうと思う。年が明けてから二ヶ月間、私は写真というものについてかなり沢山考えた。それは意識的な作業ではなかった。このブログに脈絡のない文章を書き続けたことによってそれが成されたと言って良い。書かれた文章の10倍も20倍ものことを私は考えた。そして、長い長い山道を登りついに山頂に辿り着いたような気がしている。なんだか突然視界が開けて、目の前に広い世界が見えてきたような感じがするのだ。「写真ってなんなのか?」という問いに対して、私なりに極めて明確な答えを語れるところまで来たような気がするのである。

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by dialogue2017 | 2019-02-24 04:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)

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by dialogue2017 | 2018-03-28 15:00 | モノクロ

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by dialogue2017 | 2018-03-28 13:30 | スナップ

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by dialogue2017 | 2018-03-26 14:00 |

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by dialogue2017 | 2018-03-26 10:00 |

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by dialogue2017 | 2018-03-26 06:00 |

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by dialogue2017 | 2018-03-08 19:00 | スナップ

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by dialogue2017 | 2018-03-08 17:00 | スナップ