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最後の対話(5)

あと10分。もう語るようなことはない。

shi-photo君へのメッセージを書かなかったけれど、君に関しては君のブログの写真へのコメントで何度も伝えてきたからね。短い文章だけれど、的確で深いアドバイスを率直な言葉で伝えたつもりだ。それに、君はこのブログの「ファン限定」投稿に切り替わっているエントリーを読めるから、僕が君に何かを語らなくても、君は僕の言葉を100万字分以上読むことが出来るのでそれで良いだろう。それに、君とはまた会う機会がありそうだしね。

そうだな。残念だったことは、反応して欲しいエントリーに反応がないことが多かったこと。「宇多田ヒカル」のプロモーションビデオについて書いた話しなんか反応して欲しかった。昨日、娘が観ていた『スカーレット』の総集編のワンシーンをチラッと一瞬観たんだけれど、NHKの朝ドラってライティングがもの凄く良いのよ。立っている戸田恵梨香の左の頬に磨りガラス越しの奇麗なハイライトが当たっていたんだけれど、観た瞬間「変だ」と感じた。すぐに理由はわかった。たぶんガラスの向こうからスポットでライトを打って撮影したシーンだったんだと思う。だからもの凄く奇麗なハイライトなんだけれど、普通に自然光ならあり得ない光。で、違和感を覚えたというわけ。僕はプロ経験はないけれど、テレビ観ていてそういうことが感じられるレベルにはなっている。

あと2分。

残念だったことは、from_vixen君とpoppn1971君に会わずに終わったこと。昨年12月の時点では4人全員集めて「撮影実習」やるつもりだったのでね。

あと1分。良いお年を(爆)。

※。結局(1)〜(5)で8,503文字書いた。


by dialogue2017 | 2019-12-31 23:59 | Comments(4)

最後の対話(4)

あと20分で今年が終わる。もう少し書きたいことがあるけれど時間が無い。

僕は来年はプロの写真家としか付き合わない。もともとそうだったしね。正月に渡部さとるさんと水谷充さんと3人で飲むことになっている(『2B Channel』で二人が対談していたね)。写真作家の千葉桜洋さんとも松が取れたら会おうと思っている(彼から何度も誘っていただいている)。

来年は新しいスタイルの写真事業を始めるかも知れない。写真家の塙真一さんに僕が温めている「写真事業」について話したら「素晴らしいですね。一緒にやりましょう」と言ってくれた。で、昨晩、彼から「1月3〜4日に茅野で会えませんか?」とメッセージを貰ったばかり。生憎僕は明日から8日間一人旅に行こうかと思っているのでそれが終わってからにして欲しいと返事した。どうなるかわからないけれど来年は彼となにかやることになるかも知れない。彼はモノクロプリント用の暗室を作りたいと言っているのでもしかしたら僕もちょこっとモノクロプリントをやるかも知れない。「付き合い」程度にだけれどね(笑)。

いずれにしろ、来年は少しフィルムで撮ってみようと思っている。長年、もし「作品」を撮ることになったら絶対にデジタルカメラで撮ると決めていたんだけれど、デジタルじゃ「作品」を撮る気にならないと感じるようになった。まだ「作品」を撮りたいとは思っていないけれど、フィルムで少し撮ってみようと思っている。できれば4×5で撮りたい。

僕は来年は「写真」以外のコトを沢山やりたいと思っている。まずは執筆。そして読書。読書は冊数を大幅に減らし、その代わり「難解」な学術書を読み込みたい。それから一番楽しみにしていることは「映画」を沢山観ること。この一月の間に、茅野の山小屋で韓国映画を9本観た。「映画」の「絵」って「写真」より凄いと思った。一例を上げておく。韓国映画の『イルマーレ』の映像はもの凄く美しい。それを実現するために、監督は新しいフィルムの現像方法をみつけるところから始めたんだって。本気になる人って違うよね。

とにかく、来年は「写真」以外のコトを沢山やりたい。自分が使う時間の90%は写真以外のことに使いたい。しかし、10%で取り組む「写真」に関しては、いままでより「深く」関わることになると思う。そうならざるを得ない。なぜなら、「写真事業」を始めるかも知れないし、プロの写真家と一緒になんらかの「企画」に取り組むことになるかも知れないから。まだ未定。いろいろ声を掛けて貰っているのだけれど、僕が本気になれないでいる(笑)。

僕は「準備」だけはしてきた。そのつもりはそれほど大きくはないんだけれど、写真は好きなので、いつか「本気」で取り組むことになったときに、すぐにプロフェッショナルなレベルで取り組めるように準備だけはしていたんだ。って、ただ遊びで沢山写真を撮ってきただけなんだけれど、ほら、僕の場合ものごとを「対象化」する能力が高いから(笑)。遊んでいる内に理解出来るんだよ。「習うより慣れろ」と言うよね。写真に慣れすぎるほど沢山撮ってきた。

by dialogue2017 | 2019-12-31 23:50 | Comments(1)

最後の対話(3)

あと1時間で今年が終わる。そして、このブログも終わる。最後に「四人組」一人一人に一番言いたかったことを書こうと思ったが、1時間で4人に対する言葉を記すことは出来ない。一人一人に対して、私は私なりに「真剣」な気持で付き合ってきたので、私には「1年分」の「積もった思い」がある。それを1時間で書くことなどできない。

しかし、もうそんなことはどうでも良いと思う。私はすでに十分過ぎるだけの「言葉」を彼らに届けた。彼らは100%では無いにしろ、少なくとも私の「思い」の半分ぐらいは理解しているだろう。もう、それで十分だろう。

昨年1月、shi-photo君以外の3人が「退学」になったとき、「退学」になった3人の受け止めは違った。もう細かいことまで覚えていないが、0123okkunは「もう一度チャンスを」と言ってきた。私は初めから3人に「もう一度チャンス」を与えるつもりだった。みな再度「ファン申請」してくるだろうと期待した。しかし、「もう一度チャンスを」と書き送ってきた0123okkunも「ファン申請」はしてこなかった。簡単なことだったんだ。君があのコメントとともに再度の「ファン申請」をしてくれば僕は「承認」のボタンを押し、君は「復学」していたんだよ。一度「宿題をサボった」生徒は深く反省し、そこから本当の「学び」がスタートするはずだったんだよ。

いつか一度書いたような記憶があるが、かのヘーゲルは「人間は二度間違えないと学ばない」というような意味の言葉を語ったという。まったくそのとおりだと思う。一度の過ちで生まれ変われる人間は希有である。人間が本当に反省するのは同じ間違いを二度犯した後なのである。だから、私は開始早々に一度目の「退学」を私の方から「与える」ことによって、君たちに最初の関門を通過させておくつもりだったのである。

良く覚えていないが、poppn1971君は「納得できない」と言うことだったと思う。別に納得なんてしなくて良いんだよ。納得できなければ立ち去ればそれで終わることなのだから。僕の方から君との交流を求めたわけではないし、僕が君を必要としていたわけじゃないんだから。僕は暇つぶしでこのブログをやっていたんだからさ。だいたい、ケチ臭いんだよ。「プライド」のレベルが薄っぺらなんだよ。本当の「プライド」というのは自分が本当に必要としたときには、「しっぽを振ること」を恥じずにやれると言うことなんだよ。以上。あそうそう、ついでながら言っておくと、僕が一番「対話」を楽しみにしていたのは君だった。

from_vixen君に一言。君は写真が上手くなろうと思う必要なし。いまのままで十分だ。我が子への愛情が滲む写真が撮れている。それ以上である必要なんて何処にもない。もし、もう少し経済的にゆとりが出来たら、今より少し新しいカメラを中古で買ったらいい。だいたいさ、評価の高い写真作家ってさ、特別なカメラやレンズなんて使っていないよ。半世紀前のローライ1台で作品を撮っている人が多い。評価の高い作家のほとんどはレンズ1本で作品を撮っている。極めればほぼ「必然的」にそうなるものなんだよ。レンズなんて沢山持っている必要はない。君には「カメラ好き」ではなく「写真好き」になって貰いたい。少なくとも、君は君にとって一番大切な子どもたちの写真を上手に撮っている。

0123okkun君へ。「格好いい」が好きな内は写真も本当に上手くならないし、人間としても伸びないよ。写真に関して言えば、テクニックを身につけようとするより、沢山撮ることの方が大事。君の写真を観ていると「テクニック」を身につけようとしていることばかりがにじみ出ていて、「撮りたくてたまらないから撮った」という思いが出ていない。別に写真なんて趣味なんだから、みな自分が好きなカメラやレンズで好きなように撮れば良いんだよ。その上で言っておくけれど、望遠系レンズが好きな内は絶対に上達しない。望遠レンズでは「ぬくもり」が写らないから。望遠レンズで撮った写真からは「吐息」が聞こえてこないから。そして、望遠レンズで撮った写真からは「体温」が感じられないから。

僕は、既存のどんなプロフォトグラファーをも凌駕するポートレートフォトを撮ると見得を切ったよね。本当に自信があったんだ。負けるとしたら上田義彦さんの『at Home』ぐらいかな(笑)。僕はまだ1枚も撮る前から、最初の個展のタイトルまで考えていたんだ。候補は二つあって最初に浮かんだタイトルは「プライベート」。つまり、写真が「プライベートフォト」だということ。「プライベートフォト」に敵う写真なんてあるわけないんだよ。少なくとも「仕事」で撮った写真なんかには負けない。次に浮かんだタイトルは「体温」。「体温が伝わってくるような写真」なんて本当はあるわけがない。「空気感」だって本当は写真ではそれほど表すことが出来ない。ただし、見る人々がそういう気持になる写真というのは撮ることが出来る。

どうやったらそういう写真が撮れるかというと、撮り手とモデルが「体温」が伝わる距離感で過ごす関係にあること。撮影する時の話しではなく、一緒に過ごす「プライベート」な時間での話し。昨年12月の京都旅行で、僕は「彼女」と一緒に過ごす時間がどういう時間になるかわからなかった。だって、その時が彼女と会う二度目の機会だったからね。で、どういう時間になったかというと、ほとんどの時間を「3m以内」の距離で過ごした。大半は、「袖が触れ合う」距離で過ごしたんだよ。実は僕はほとんど彼女を撮らなかった。撮らなかった理由は以前に書いたよね。「教えること」と「撮ること」を同時には出来ないと思ったからだ。僕と彼女が親しくなった一番大きな契機は彼女が僕に「写真を教えて下さい」と言ってくれたことだった。彼女からのそういう申し出があったことによってスタートしたんだよ。だから、僕は自分が彼女を「撮る」ことはひとまず棚上げして、彼女に「教える」ことを優先したんだ。

僕と彼女が1m以上離れていたときと言うのは、彼女が写真を撮っている時ぐらいだった。並んで歩いている時にも、食事に行った店でも、僕たちは並んで座っていたのでずっと「袖触れ合う」距離だった。互いに「体温」が伝わるような距離感でずっと過ごしたんだ。まるで恋人同士のように。望遠レンズが使えない距離感じゃないと「体温」が伝わるような写真は撮れないんだよ。だから、僕は最初の個展のタイトルを「体温」に決めた。そして、会場ではsalyuの「体温」という曲を小さな音で流すことまで決めていた。まだ1枚も撮る前に。


by dialogue2017 | 2019-12-31 23:30 | 本音の話し | Comments(2)

最後の対話(2)

すべては「戦後日本社会」の問題である。この問題について審らかにしない限り、「いまの日本人」を語ることは出来ない。私は、2017年8月8日の天皇(現上皇)の「お言葉」に触れた翌日から、「天皇(制)」「明治史」「太平洋戦争史」に関連する書籍を集中的に読み始めた。この2年間に500冊ほど読んだ。なんのために「天皇」「明治史」「太平洋戦争史」を読んだのかというと、この3つのことについて深い理解を得ない限り今日の「日本」「日本人」を正しく理解することは不可能だからである。「故きを温ねて新しきを知る」の喩えの如く、「明治」を「温ね」て初めて「令和日本」を正しく「知る」(理解する)ことが出来るのである。

近代天皇制は明治維新を契機に確立された。明治時代とは、徳川幕藩体制(封建時代)を打ち倒して成立した時代であるが、その際国家建設の「要」として「天皇(制)」が利用された。明治以前の天皇制と明治以後の天皇制は大きく異なっている。明治日本が目指したことは「富国強兵」であり、その目的は「欧米列強諸国」に追いつくことであった。その帰結が「大日本帝国」の誕生である。追いつくべき対象である「欧米列強」がみな「植民地」をもつ「帝国主義国家」であったので「明治日本」も「植民地」をもつ「帝国主義国家」として自らを建設していった。日清日露戦争はアジア(朝鮮・満州)の権益を争う戦争であり、それに勝った我が国は「帝国主義国家」としての「大日本帝国」を建設した。「朝鮮」を植民地とし、その「権益」を「満州」(中国)へと拡げていった。そして、植民地としての「中国」の「権益」を巡って米英と対立し、「太平洋戦争」へと突き進んだ。この全ての過程においてもっと大きな「推進力」となったのが「近代天皇制」であった。この日本近現代史をしっかり学ばない限り、「戦後日本」を正しく理解することは出来ない。

追記。もっとも重要なことは「太平洋戦争」の内実を知ることと、なぜ日本人はあれほど愚かな戦争をやったのかと言うことについてしっかりと理解すること。それをやらないと今の日本も日本人も理解出来ない。なぜなら、いまの日本人はあの時の日本人と本質的になにも変わっていないから。都合の悪い「現実」には目を瞑り、「希望的観測」に基づいて行動するというのが日本人の「宿痾」である。そして、「国民」はそういう愚かな指導者の「威勢の良い言葉」に唯々諾々と従う習性を持っている。

この話についてこれ以上語るつもりはない。また、「戦後日本(社会)」というものがどういうものであるかと言うことについても書くつもりは無い。このテーマについて書けば、少なくとも新書本の3冊分程度は書かなければ書き切れないし、「サマリー」を書くとしても1万字程度は必要となる。もうそんな時間は無いし、時間があったとしても書くつもりは無い。数人の読者のために多大な時間を使って「徒労」を行うつもりなどない。

一言で言えば、「戦後日本(社会)」というのは「上っ面」だけを重視した「薄っぺら」で「空虚」な社会であった。経済的な発展と逆相関的に民族としての「内実」を「空白化」していった。経済が発展すればするほど、文化や、教養や、道徳などが「崩壊」していった。その流れを「不可逆的」な位相へと大きく飛躍させた契機が「デジタル社会」の到来にあったことは否定しようのない事実である。

「写真」も「デジタル時代」になって一気に「薄っぺら」なものになった。簡単に手に入れることが出来るものというのはほとんどが「薄っぺら」なものなのである。その一つの象徴とも証拠とも言える現象は、「写真」よりも「高級ブランドカメラ」に対する「所有欲」が優っている「写真愛好家」の「噴出」である。彼らにとって最大の喜びは、「高級カメラ」や「高級レンズ」を所有することである。田中長徳さんが、ことある毎にアマチュア写真愛好家のある層について「写真以前の人々」と揶揄しているが、それは彼が現代日本人の本質を喝破しているのである。心の底からの「カメラ人類」である長徳さんは「ブランドカメラ愛」が本当の「カメラ愛」ではないことを誰よりも知っているのである。

「現代人」にとって一番の喜びは「ガジェット」を手に入れることである。

新しいモデルのiPhoneが出るとすぐに買う人々。「MarkⅡ」を持っているのに「MarkⅢ」が出るとすぐに買いたくなる人(実際買う人)。それらの人々は「写真愛好家」じゃないばかりか「カメラ愛好家」でさえない。彼らが愛しているものは例えば「LEICA」という「ブランド」や「最新モデル」に過ぎない。根源的な部分で中身が稀薄な人間は、「ブランド品」を愛するのである。

現代日本人の大半が、人間としての中身が薄っぺらである一番大きな原因は「言葉の貧困」である。人間としての中身というものはその人が所有している「物」によって形成されるわけではない。LEICAを持とうがBMWに乗ろうが、その人の「中身」は何一つ変わらない(傲慢になるかも知れないが)。人間の「中身」というのは「精神」のことである。そして、「精神」というものは「言語」抜きには成り立たない。「言語」がなければただの「動物」に過ぎない。「人間」を人間たらしめているもっとも重要な要素は「言語」である。我々は「言語」なしに「思考」することができないし、「言語」なしに「他者」と交流することも出来ない。

人間にとって根源的に大きな価値の対象は「人間」である。

「あなたにとって最も大切なものはなんですか?」と問われて「LEICA M MONOCHROMです」とか「ベンツ」と答える人はいないだろう。大多数の人にとって一番大切なものは「家族」であるはずである。「親兄弟」「配偶者」、そして何よりも愛おしく大切なのは「我が子」であろう。

人間にとって一番大切な「対象」が「人間」であるとすれば、人間にとって根源的に大切なものは「物質」ではなく「精神」である。言い換えれば「心」である。そして、それがもっともわかりやすい形で発露した状態が「恋愛」であろう。

by dialogue2017 | 2019-12-31 23:00 | 本音の話し | Comments(1)

最後の対話(1)

今日でこのブログを終わりにするつもりである。最後に少しまとめていろいろなコトを書いてみようと思っていたが、28日から今日の正午まで茅野にいたので書く時間が無かった。それで、今日は14:30に東京の自宅に帰ってきた。最後に少なくとも1万字ぐらいの文章は書いて終わりにしようと思ったのである。しかし、書く気にならなかった。今更1万字でなにか語ったとしてそのことにたいした意味があるとは思えなかった。

私は「バーチャル」な人間交流に対してはひとかけらの関心も無い。「いいね!」なんていうものは「バーチャル」なものの象徴だと思っている。

「対話」がない交流になんの価値も感じない。

このブログは「読者との対話」のためのブログとして始めたブログである。もちろん、私ときちんと「対話」ができるような「読者」が現れるとは思っていなかった。それでも何人かの読者が私と「対話のようなもの」を試みてくれた。それは、私が望んだ「最低限」のレベルにさえ遠く及ばなかったが、彼らが私と「対話」しようとしてくれたことを私は嬉しく思った。だから、私が最後に1万字ほどの文章を書こうと思った「相手」は「バーチャルな読者」ではない。私は、shi-photo君、0123okkun君、from_vixen君、poppn1971君の4人と最後の「対話」をした上でこのブログを閉じようと思っていたわけである。一人一人に対して一番言いたいことを"個別に”に伝えようと思っていた。

しかし、「今更」と思った。なによりも、「伝えよう」と思ったらとても1万字では済まない。1人ずつに1万字ずつ書いてさえ足りないと思う。だから書くことを辞めた。たぶん、私が彼らに向けて何かを書けば、彼らは私の「真意」を汲んでくれるだろう。そして、「そういうことだったのか」と新しい了解に達するだろうと思う。しかし、今更である。この後も彼らとの交流が続くのであればそれをする意味はあるが、今日で彼らとの交流は終わりなのだ(「今日で君たちとの」と書くのが本当だろう)。

もちろん、今日で終わるから何かを語ることに意味がないと言うことにはならない。たとえ今日を限りに二度と彼と「対話」をすることが無かったとしても、まだ十分に語っていなかったことを「伝える」ことには意味があるし、それを読んだ彼らが私の気持ちを「理解」してくれたとしたら(まず間違い無くしてくれるだろう)、それはそれで意味のあることだと思う。私は彼らに対して価値のない言葉を差し出すつもりはない。

私は"価値"のない言葉など吐いたことはない。

ちょうど1年程前の話しである。私は2019年1月からこのブログを「ファン限定」ブログにしようと思っていた。そう考えた意図にはいくつかの思惑があったのだが、もっとも大きな思惑の一つは、「一般公開」するつもりのない写真を「ファン限定」で公開しようと思ったのである。私がある程度「本気」で撮った写真を彼らに見せて上げようと思ったのである。当時に即した具体的な話しをすると、昨年の12月初旬に私が「彼女」と二人で京都旅行に行ったときの写真を4人に見せて上げようと思ったのである。私は、昨年末、京都で撮った写真を「スライドショー」にまとめた。何本かの「ムービー」も「限定公開」できるようにYouTubeにアップしていた。しかし、今年年初の彼らからの「対話」があまりに貧弱すぎたので私はそれを実行することを辞めたのである。

私が「週に一度必ずコメントを入れること」を「ファン」になる「条件」にしたことに対して一人の女性から「何様のつもり?」という「鍵コメ」が届いた。私が「何様」なのかはどうでも良い。私は彼らと本気で「対話」をしようと思っていたので、彼らにも最低限のレベルで私と向かい合って欲しいと要求したのである。彼らに、それなりの「真剣さ」を抱いて欲しいと願ったのである。

互いに「真剣」になることのない人間交流から生まれるものなど屁みたいなものだ。

そんな無意味なことをやりたいとは思っていない。だから、彼らに対して「週に一度必ずコメントを入れること」を要求したのである。しかし、彼らはそれに十分には応えてくれなかった。shi-photo君は「週に一度コメントを入れる」ということを1年間やり通した。しかし、それは形式的にはなされたがその内実は極めて「貧困」なものであった。

彼の「コメント」の内容が「貧困」である原因は、彼という人間そのものの内実が「貧困」だからである。「酷いことを書くな〜」と想う人もいるかもしれないが、そういう「感性」自体が「貧困」である。人間は、相手と真剣になればなるほど相手に厳しくなるものなのだ。そして、彼の内実が「貧困」であると言うことについては、他ならぬ彼自身が真っ先に「その通りです!」と肯定するだろう。それが「現実」であるとしたらそれを深く「認識」するところからしか始まらない。彼が今のままでいるよりは、自らの「貧困」と向き合い、少しでもそれを変革していくという人生を歩んだ方が彼の人生は豊かになる。だから、私は彼に率直に「君は貧困だ!」と言ってあげたいのである。他の誰が理解しなくても、彼は私の真意を理解するだろう。彼がそういう人間でなければ私は彼とは1日だって交流しなかった。

shi-photo君をかばうつもりは毛頭無いが、悪いのは彼ではない。1970年代中盤あたり以後に生まれた日本人の大多数が人間的に極めて「貧困」になったのである。その「責任」は彼ら自身にはない。彼らが「育った」環境にある。つまり、「日本社会」そのものが根底的に「貧困」になってしまった時代以後に彼らは生まれ育ったのである。

この問題に関しては、「戦後日本論」として来年執筆する予定である。原稿を持ち込めば二つ返事で出版してくれる出版社は何社かある。なんの付き合いもない出版社に原稿を送りつけても「是非我が社から出版したい」という返事がいくつも届くであろう。そのレベルの内容の原稿を書くつもりである。「戦後日本論」と呼んでも良いテーマでは沢山の書籍が出ている。しかし、どの論説も「帯に短したすきに長し」の感を免れ得ない。それらの多くは「思想的」であることによる欠陥を持っているか、「没思想的」であるという欠陥を持っている。両者はメダルの裏表である。「裏」の言い分にも「正論」が語られているし、「表」の言い分にも正論が語られている。

しかし、両者は「水と油」であって、互いに相手を根源的に乗り越える「論説」を提示し得ていない。なぜなら、ほとんどの論者は「自説」の視点からのみ「世界」を観ているからである。彼らには、自分とは異なる意見、対立する意見の中には、「自説」と同じほど重要な「正論」が語られていると言うことを理解出来ないのである。それゆえ、多くの人々が「なるほどその通りだ」と深く共感できるような「論説」を提示することが出来ないのである。そこを乗り越えた「戦後日本論」がいまだ書かれていない。

by dialogue2017 | 2019-12-31 22:00 | 本音の話し | Comments(1)

今年最後の写真

今年最後にカメラで撮った写真。たんなる散歩スナップ。毎回ほぼ同じポジションで撮っている。1枚目は山小屋のウッドデッキから蓼科山を撮った写真。以下、写真の上に説明文を付す。この日ここを散歩したという記録の写真。

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2枚目の写真は、山小屋の玄関前から見下ろした風景。

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三枚目は山小屋から歩いて30mほどの場所で撮った写真。あと何歩か前に出ると”この写真"のアングルとなる。ブログに掲載するようなサイズの写真ではiPhoneで撮った写真と中判デジタルカメラで撮った写真の違いがあまりない。

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写真左上に写っている茶色いログハウスが我が山小屋。

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12月30日段階で湖は薄らとではあるが4/5ほど凍結している。半月後には全面凍結し歩いて渡れるようになるそうである。

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by dialogue2017 | 2019-12-31 18:30 | 散歩写真 | Comments(0)

最近はほぼ全ての写真をiPhone8で撮っている。29日の昼過ぎ、茅野の「山小屋」に常置しているPENTAX 645Dを持ってちょこっと散歩した。撮った枚数は14枚。この写真は八ヶ岳連峰を見渡すことが出来る定番スポットで撮ったもの。今年最後の写真は山小屋周辺の散歩写真となった。毎週末、同じ道を歩いて同じ風景を撮っている。しかし、毎回微妙に風景が変わっている。遅くとも半月後には八ヶ岳連峰はもっと真っ白になっているだろう。そして、来春にはここで新緑の写真を撮っているだろう。来年1年の間に何回ここで写真を撮るだろうか。

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by dialogue2017 | 2019-12-31 15:30 | 風景 | Comments(1)

ひとつ前のエントリーに掲載した写真の”元ファイル”である。これをモノクロ化した。カラーは撮影した直後に一度このブログに掲載したと思う。普通カラー写真よりモノクロ写真の方が「光」が感じられる写真になりやすい。"このエントリー”で取り上げたshi-photo君の撮ったスナップ写真なんて、カラーよりモノクロの方が遙かに光が感じられる写真である。shi-photo君が撮ったカラー写真は色温度が高いため冷ややな感じの写真であるが、モノクロにするとその冷たい感じが無くなり「光」が「暖かい陽射し」に見える。

モノクロの方が「光と影」が眼に入って来やすくなる。人間はカラー写真だと色に目を奪われるので「光」に対する意識がその分薄くなる。だから、モノクロで撮る「光景」とカラーで撮る「光景」は異なる場合が多い。カラーでもモノクロでもどちらでも素敵な写真になるというケースも決して少なくはない。しかし、モノクロを撮るのであれば、「この写真は絶対にモノクロの方が素敵」と言い切れるような写真を撮るべきである。カラー写真を撮るときも「この写真はモノクロじゃ生きない。カラーでこそ」という写真を撮るべきだ。もちろん、どちでも良いという写真は少なくない。このカメラの写真もモノクロでもカラーでもきちんと成立している。どちらにも固有の良さがある。

カラー写真だとレンズに当たった光が奇麗に発色するので美しく見える。こういう写真を撮るときにはレンズの光の反射が奇麗に出るアングルを探して撮影する。それが"セッティング”すると言うことである。ストロボやレフ板を使わなくても、「被写体」に当たる光を調整したり、「被写体」から反射してくる「光」を「拾う」アングルを調整することができる。それが"セッティング”しての撮影である。私自身はこういう「物撮り」写真を撮ることは滅多にない。カメラの写真をブログに掲載する時ぐらいしか「物撮り」はやらない。「物撮り」と言っても「自然光」だけで撮る。仕事でカタログ写真を撮る訳じゃないのでレフ板を使うこともまずない。"アベイラブルライト”で撮るのが好きなのだ。

今年はほとんどスナップに出掛けなかった。しかし、10月以後は茅野の「山小屋」で散歩をするときに写真を撮っていた。茅野は車をちょこっと走らせれば美しい景色のところにすぐに行くことが出来る。東山魁夷の描いた「緑響く」で有名な「御射鹿池」まで30分程である。早朝であれば「霧ヶ峰」だって30分ほどで行ける。しかも、東京と違って車の量も少ないし、信号があまりないので快適なドライブが出来る。道中の景色もよいので30分なんてあっという間だ。しかし、私はこの一年間、写真を撮ると言う目的でどこかに出向いたことは一度も無かった。どこかに出向いてまで写真を撮りたいという気持ちにならなかったのである。

来年は少し写真を撮ってみようと思う。眼の具合がかなり悪くなってきたので、最近は本を読むことが辛くなってきた。で、来年はいままであまりやらなかったことをやってみようと決めた。その一つが「写真を撮る」こと。いままでも写真は撮っていた。かなり沢山撮っていた。しかし、真剣に写真を撮ると言うことはほとんどなかった。だって、真剣に撮る必要なんて欠片も無いのだから。もし、「個展」をやろうと思ったら、私だってもうすこし「真剣」に撮ると思う(いや、今と同じスタイルでしか撮れないかもしれない)。雑誌に掲載する写真を撮って欲しいと頼まれたら多分真剣に撮る(笑)。美人女優やモデルさんを撮らせてもらえるなら"超真剣”に撮る(笑)。でも、スナップを真剣に撮る気にはならない。

来年は少しであるが「真剣に」写真を撮ってみようと思っている。だから、「いままであまりやらなかったこと」に該当するのである。寒い内は出歩いて写真を撮る気になれないので、春が来るまでは時々「物撮り」をやってみようかと思っている(って10分程前に思いついたことだけれど)。今までと同じように「アベイラブルライト」で撮ることをメインに撮影しようと思うが、「ライティング」した上での「物撮り」も少しやってみようと思う。難しい被写体の物撮りを重ねたら「撮影技量」は上がる。本当に微妙な「光の使い方」を覚えるから。

この5年半ほどは写真を真剣に撮る機会がまったくなかった。ときどき「七五三」や「お百日」の写真を頼まれて「仕事」として撮影することがあるが、そういう写真は「家族写真」を撮るのと同じことだから肩肘張ることなく気楽に撮ることができる。沢山撮ってきたのでもう「習い性」になっている。だから、撮影には「緊張感」はまったくない。自分の家族を撮る時より"ピント”に気を配るぐらいである。

そうだ。茅野の「山小屋」の2階の一角に小さな物撮りスペースを作ってそこで「物撮り」をやってみようかな。「小物」の撮影用のセットであれば狭い範囲で作れるので常設しておける。さてなにを撮ろうか? 防湿庫の中で数年間ずっと眠っているカメラを持っていって、1台1台「カタログ」写真を撮るつもりで撮ってみようかな。「花」を撮るのも楽しいだろう。よし、1月から早速始めよう。

このブログは年内で終わりにする予定である。来年いくつかの新しいブログを始めるつもりであるがまだ具体的なプランは煮詰めていない。いま思いついたのだけれど「物撮り」だけを載せるブログというのも面白そうだ。そうなるとGFX 50sが欲しくなるな〜(笑)。

物撮りブログをやってみようかな_e0367501_08435245.jpg



by dialogue2017 | 2019-12-28 10:00 | 写真とカメラの話し | Comments(1)

綺麗な写真を撮ろうと思ったら"セッティング”して撮れば良い。必ずしも手間暇が掛かると言うことではない。この写真は、リビングの床の上に妻のパジャマのズボンを敷いて、その上にカメラを置いて、南向きの掃き出し窓から入ってくる自然光で撮影した。私にしては極めて珍しいことに、三脚を立てて撮影している。画質のことを考えてISOは800で止めておきたかったので三脚を使った。こういう写真は絞り込んで撮るのでシャッタースピードが遅くなるのである。1秒なんて言う長時間露光は指折り数えるほどしかやったことが無い。レタッチで多少手を入れてはいるが、ハイライトとシャドーの調整をした程度である。"セッティング"と言っても床の上に置いたカメラに当たる光の角度を調節しただけのことである。しかも、「こんなもんかな?」と床に置いて一発撮りである。それでもこんな風に美しいトーンの写真になる。

FUJIFILM X-T2 + FUJINON XF 56mmF1.2 R ISO800 F13 1.0秒 -0.67EV JPEG それにしても美しいカメラだ

セッティングして撮ると言うこと_e0367501_22464436.jpg

by dialogue2017 | 2019-12-28 05:00 | 写真とカメラの話し | Comments(1)

年賀状作り

今日は昼頃に家を出て茅野の「山小屋」に行く予定であった。しかし、私が著しく体調不良であるため中止した。で、明日向こうでプリントする予定であった年賀状をこちらでプリント中。EPSON PX-7Vであれば年賀状1枚をプリントするのに約40秒しか掛からないが、Canon PIXUS PRO-1を使うと最も短いプリント時間になるようセッティングしても1枚を出すのに90秒ほど掛かる。プリント枚数は300枚。プリントが終わった用紙を送り出し、次の用紙を引き込む際の時間を計算から外しても300枚プリントするのに27,000秒掛かる。450分だから7時間半掛かると言うことである。EPSON PX-7Vでプリントするつもりであったのだが、1色インクが切れていて使えなかった(涙)。

EIZO ColorEdge CX240でPhotoshop CC 2020を使うため最新のMacminiを導入した。おかげでMacBook Proを使うことなくMacminiだけで作業が貫徹できる。さて、次にプリントするのはいつだろう? PIXUS PRO-1があるのだからモノクロでも出してみようかな(笑)。

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by dialogue2017 | 2019-12-27 22:00 | パソコン | Comments(1)