<   2018年 03月 ( 225 )   > この月の画像一覧

セオリーの重みについて

セオリーなどというものは一つの指標に過ぎず、絶対に墨守しなければならないルールでは無い。事実、群を抜きん出た秀作の多くは、セオリーに捕らわれないチャレンジから生み出される。しかし、ほとんどの場合、セオリーを無視した作品はたんなる失敗に終わる。
[PR]
by dialogue2017 | 2018-03-29 22:30 | 写真論 | Comments(3)

下の写真は実際にこういう風に撮った写真では無い。実際の写真は2枚目の写真に近い画像である。それを無理矢理ハイライトとシャドーが「無い」写真にしたのであるが、実際にこの写真のヒストグラムのようにヒストグラムの山の両すそが「0」や「255」から離れてしまっていて「黒」も「白」も無い写真を掲載しているモノクロ写真愛好家がいる。そういう方は最近モノクロを撮り始めたというわけでは無く、長い間モノクロを撮っている人々であり、中にはLEICA M MONOCHROMEのような超高級モノクロ写真専用カメラを使っている人も含まれている。

ヒストグラムの両端が必ず「0」と「255」の手前まで届いていなければNGだと言い切るつもりは無い。例えば、一つ前のエントリーで例としてあげた鬼海弘雄さんの『PERSONA』に掲載されている写真の大半はそういう写真だと思うが(ヒストグラムを見たことがあるわけでは無いが間違いなく両裾は0と255から離れているはずだ)、それはポートレートの表現手法として成り立っていると思う。鬼海さんの『PERSONA』は作品としての完成度が高い。それはポートレートの表現手法として成り立っている(私ごときが「成り立っている」などと言うのは大変失礼であるが)。

しかし、ごく普通に街の風景を撮って、「黒」と「白」の無いモノクロ写真にしてしまったのでは単なる「失敗」でしか無いと思う。多分、こういう写真は、どこのモノクロ写真ワークショップに行っても「ありえない」の一言で退けられると思う。私は近年ローコントラストのモノクロ写真が好きであるが、それでもこういうヒストグラムの写真は論外だと思う。これでは、現像時間を間違えた(不足した)ネガからのプリントにしか見えない。私が一つ前のエントリーを書いたわけは、こういうのはちょっと変だと思うと言うことをモノクロ写真愛好家の方々に伝えておきたかった、タダそれだけのことである。それは、何人ものモノクロ作家と親しく交流する幸運に浴した私の「使命」のようなモノだと思っている。誰からも、モノクロ写真の「基本」を教えて貰う機会の無かった青年に、それを伝えたいと思って書いた。

実際にこういう露出で撮ったわけでは無い写真を無理矢理こういうトーンにしたので画像が劣化しているが、要するにこういうトーンの写真。私が実際に目にしているこの手の写真の場合、ヒストグラムの左の裾は「0」からもっと離れているケースが珍しくない。つまり、「黒の締まり」が全くないのである。これは「柔らかなトーン」とは似て非なるモノである。追記。下の写真は無理矢理作ったので「黒」はギリギリ残っている。私が目にしているのはこの写真のヒストグラムの右裾のように左裾も端から離れてしまっている写真である。つまり、この下の写真よりもっと「黒」に欠けている。この写真よりもっともっと「もやもや」している。

e0367501_20055287.jpg

上の写真のヒストグラム

e0367501_19351520.jpg

この写真は散歩中に撮った写真であるが、ただ歩くのでは手持ちぶさたなので、この日は「ISO400 F5.6 1/250」という「光」の場所を探しながら歩いてそれを見つけたときにだけ写真を撮った(自分の肉眼で光を見て探す)。実際にはISO200に設定したので「1/500」で撮っている。つまり、カメラの露出を「ISO200 F5.6 1/500」に固定していおいて、その光で「適正露出」になりそうな場所を探して写真を撮って歩くという遊びをしたのである。私は時々この遊びをやっている。理由は自宅近所には撮りたい光景など無いし、もう撮り尽くしているのでこういういう遊びでもしないと撮る楽しさが無いのである。好きなのは「ISO400 F5.6 1/60」なのだが、日中の戸外ではこの光の場所は少ないので「ISO400 F5.6 1/250」か「ISO400 F5.6 1/125」でやることが多い。ちなみに、このカメラは他のカメラに比べるとアンダー目に写る傾向があると思う。

上のユルユル写真を作る前の「元ファイル」。撮りっぱなしの元画像に自動コントラスト補正を掛け、ほんの少し微調整している。私的には下の写真は「硬く」てあまり好きでは無いが、一例にするために選んだ。ここには「白」も「黒」もある。ここからならレタッチである程度好みのトーンに近づけ得る。

e0367501_20364494.jpg

上の写真のヒストグラム

e0367501_20365974.jpg

下のヒストグラムはごく最近「モノクロ写真ジャンル」のブログに掲載されたLEICA M MONOCHROMEで撮影された桜の花の写真のヒストグラムである。「黒」がなく「白」が飛んでいる。「締まった黒」「白飛びさせない」というモノクロ写真のセオリーの両方を逸脱している。実際の写真は見た瞬間ちょっとまぶしい。そして、黒が締まっていない写真は「間抜け」である。最高峰のモノクロ専用デジタルカメラでどうしてこういう写真を撮るのかいくら考えてもその「思惑」を理解することが出来ない。「写真なんて楽しければそれでいいじゃないか」の一言で終わらせることも出来るだろう(それ自体には同意する)。しかし、LEICA M MONOCHROMEを使ってまでモノクロ写真を撮る人が「俺が良ければそれで良いだろう」では悲しい(ご本人がそんなことを言っているというわけでは無い)。

多分、その方は「これがいい」と思ってやっているのだろうから、私はその方自身にああだこうだと申し上げるつもりは無い。私がこういう「問題」について発言する理由は、一つ前のエントリーのような文章を書くと、「指摘されて初めて理解しました。勉強になりました」と言う感想が必ず届くからである(追記。ありがたいことに届いた)。だれか「一人の読者」に資するモノがあればと思って書いているのである。耳の痛い話を講じるのは年寄りの社会的「仕事」だと思っているからである。人間の社会には、後進に伝えるべき「常識」というものがあるのである。

ちなみにこの写真、黒を締めてハイライトを押さえると見栄えがグッと良くなる。実物と補正した写真を並べてお見せしたいところである。

e0367501_18494657.jpg


[PR]
by dialogue2017 | 2018-03-29 21:00 | 写真論 | Comments(0)

「なんだかな〜」という気分。いや、このブログのこと。あれこれ沢山書いているけれど、なんの意味も無いことだと思う。まあ、退屈しのぎに書いているのだから、時間が潰れればそれで意味があったと言うことにはなるけれど、馬鹿馬鹿しいことをやっているというのも事実。

最近、「いいね」を付けて下さった方や、「リンク元URL」を辿って訪問して下さっている方々のブログに目を通している。「モノクロ写真ジャンル」のランキングに登録されている70人ほどの方の「新着記事」などにも目を通しているし、少し範囲を広げて「カメラ」ジャンルに登録しているブログの写真も多少見ている。更には、拝見しに行った方のブログに表示されている「フォロー中のブログ」などもちょこちょこ見ている。そんなことをしていた結果「なんだかな〜」と言う気分が膨らむだけ膨らんだと言う次第。

「なんだかな〜」と感じる理由はいくつもあるのだけれど、最も大きな理由は「露出」ということにきちんとした拘りが無い人がもの凄く多いこと。別に、写真なんて綺麗に撮れていなくても良いと思っている。写真の最大の価値は「記録」だと思っているので「撮って残す」ことができればそれだけでも価値があると思う。カメラとかレンズにあまり強い関心が無く、日々の暮らしであるとか、花とかを撮って「日記」的なブログをやっている方の写真については本人が楽しければそれで良いと思う。写真があまりキレイでは無くてもほほえましく拝見できるブログはいくつもある。

しかし、あえて「モノクロ写真」を撮っている人の多くが「露出」にたいしてかなりいい加減であることには違和感を覚えずにはいられない「モノクロ写真」は「記録」目的の写真では無いと思う。もちろん、モノクロで記録を作るという方法もあると思うが、モノクロを撮っている人のほぼ100%に近い人々は「記録」というよりは「創作」としてモノクロ写真を撮っているのだと思う。現実には「色彩」があるにもかかわらず、意図してそれを「削除」してモノクロで撮るということ自体が「創作」だと言って良い。であれば、最低限の範囲で「トーン」に気を配っても良いのでは無いかと思う。「創作」であるならば「記録」とは違い、最低限の「美しさ」を追求すべきだろう。

モノクロ写真の表現の幅は広い。0〜255までの256階調でしか表現することが出来ないにもかかわらず、ほんの僅かに明るさやコントラストを変えると写真の見え方は大きく変わる。ほんの僅かに明るくするとか、コントラストを落とすとか、そういうことで写真が全く変わる。そこがモノクロ写真の面白さでありまた難しいところだと思う。私は基本的に「カラー写真」派なのでモノクロ写真をやっている人々のようなレベルでモノクロ写真に対する拘りを抱いてはいないのだが、それでもモノクロ写真を撮るときには「トーン」を考えて撮るし、レタッチもしている。レタッチはほんの僅かの明るさの調整かコントラストの調整しかしないが、そのほんの僅かの加減に「悩む」。

しかし、モノクロ写真を撮っている人々の写真を見ると、「露出」とか「トーン」なんて全く考えていないのでは無いかと思われるような写真が少なくない(しっかり撮っている人も多少はいるけれど)。モノクロ写真を本格的にやっている人から見たらたんなる「露光不足」でしかないような写真が沢山見受けられる(たぶん本人はその「緩さ」がモノクロの魅力だと勘違いしているのだろう)。私はシャドーが潰れ気味の写真の方が好きで、シャドーの階調をどこまでも出した写真は寧ろ好きでは無いのだが、「なんでこのシャドーを少し起こさないのだろう」と不思議に思える写真を沢山見る。潰れてていても構わないシャドーと、ここが潰れていたのでは台無しだというシャドーがある。後者が潰れていてもまったく気にならないと言う人が沢山いる。

そういう人が写真初心者であれば仕方の無いことであるが、モノクロ写真歴が長い人にもそういう人が少なからず見受けられる。LEICA M MONOCHROMEで撮っている写真がハイライトもシャドーもないどうにも締まりの無い写真だったりするのを見ると「なんだかな〜」と思わずにいられない。田中長徳さんが何度も「LEICA M MONOCHROMEを使っている人はほとんど皆写真が下手くそだ」と書いているが、本当にそうだと思う。別に、私はそういう人々を攻撃したいわけではない。なんで、モノクロ写真の”いろは”を押さえておかないのか不思議なのである。

写真って、極論してしまえば「露出」がすべてだと思う。撮影という行為は、「感光体」(フィルム・撮像素子)にどれだけの「光」を露光させるかと言うだけの作業なのだ。モノクロ写真の場合、「白」から「黒」の間の256階調でしか表現できない。モノクロ写真というのは「トーンの表現」だと言うことである。トーンを作るのは光である。光の強弱がトーンを生み出す。だから、撮影時の「光」(露出)が一番重要なのである。モノクロ写真はどういう光を撮るかで決まってしまう。もちろん、プリント制作の段階である程度手を入れることは可能であるが、それは「思うように撮れなかった」部分の修正なのであって、理想は何も手を入れずに済むことである。しかし、なかなかそういう訳にはいかないので多かれ少なかれ手を入れることにならざるを得ないわけであるが、当然のことながら手を入れる「量」が少ないことが理想である。

熟達すればするほど手を入れる「量」が少なくなる。またもや渡部さとるさんを持ち出して恐縮であるが、彼は近年「ほとんどストレートプリントに近くなってきている」と語っている(1月の個展の8×10の作品は100%ストレートプリントだった)。「覆い焼きとかやらないの?」と聞いてみたら「やることはやるけれど気休めみたいなもんだね。やらなかったプリントと並べて比べても大して変わりが無い」との返答であった。「焼き込みは?」と聞いたら「全くやらない。プリントが汚くなるから」とのことである。彼は撮影時に写真をほぼ完成させている。作家としての長いキャリアの中で、自分が撮りたい「トーン」を見つけてしまっていると言うことである。これは渡部さんに限った話では無いだろう。キャリアが長いモノクロ作家はみなプリント時にたいした手を入れていないはずだ。なぜなら、ほとんど手を入れないで済む写真を撮ることが理想なのだから。

デジタルモノクロームでも理屈は全く同じである。昨今はミラーレスカメラでモノクロ写真を撮っている人が多い。ミラーレスカメラの場合、背面モニタなりEVFなりで撮影時にあらかじめ撮影結果を知ることが出来る。つまり、理屈上は露出を大きく外すことは無いはずである。モノクロ写真の表現には幅がある。だから、「こうじゃ無ければいけない」というピンポイントの正解は無い。しかし、表現の幅には「ここからここまで」という範囲があるし、「ここからここまで」の範囲の中でもまた表現に幅があり、そこにも「セオリー」がある。それを外したモノは「邪道」として評価されざるを得ない。「私はあえて『邪道』を選んでいるのだ」と言うことであれば何も言うことは無いが、それが「独りよがり」であることは否定し得ない。

私自身はいまのところモノクロ写真を極めたいという欲望は無い。ただ、昨年10月からモノクロ写真を撮り始めてこの半年、「ここからここまで」の「ここ」と「ここ」をはっきりさせることと、「ここからここまで」の中にある幅広い表現手法を色々と試してみた。この半年間のそれは「シロウトのお遊び」の域を出ていないが、そこで「掴んだ」ものはかなり大きい。不遜の誹りを恐れず言うが、いつでもモノクロ作家として歩み出すための「基礎知識」はほぼ掴んだ。本気で撮るつもりにさえなれば、直ぐにでも作家レベルの写真を撮れるだろう。私に言わせれば、「遊び」ってこのレベルでやらないと面白くないと思う。元来、「男の遊び」ってそういう世界だった。

ここ半月ほど集中的にエマニュエル・トッドを読んでいるのだけれど、彼が現代の世相について次のように語っている

(現代世界の特徴は)ハイパー個人主義、あるいは自己愛の台頭とよぶべきものです。社会が個人というアトムに分解されていく現象です。その結果、国を初めとする社会や共同体で人々が何かについていっしょになって行動するということが考えられなくなっている。社会や共同体を否定するような考え方です

※エマニュエル・トッドはフランスの歴史人口学者・家族人類学者である。2002年に上梓した『帝国以後』は世界的ベストセラーとなった。リーマンショックを事前に予言したりトランプの大統領当選を事前に予測したことなどもあり、世界が最も注目する批評家の一人である。

エマニュエル・トッドが指摘するとおり、現代世界には「ハイパー個人主義と自己愛」が満開している。ハイパー個人主義と自己愛を分かりやすく定義してしまえば「自分が良いと思えばそれでいい」ということである。上に引用したトッドの文章の中にある「社会や共同体を否定するような考え方」が世界中に蔓延している。関心があるのは「自分のこと」だけであり、仲間と思えるのは「自分を肯定してくれる人間」だけである。そこにあるのものは「自己愛」である。たしかに、人間は本質として強い自己愛を持っている。しかし、その一方で「社会性」なり「共同性」なりを不可欠なモノとして身につける。なぜならそれが無いと人間社会は成り立たないからである。それが失われているから世界中で社会が破綻し始めているわけである。

この「ハイパー個人主義と自己愛」で塗りつぶされた典型的な「世界」のひとつがSNSである。というより、SNSの登場が「ハイパー個人主義と自己愛」の満展開を大きく後押ししたと言って良い。ブログなどはその最たるモノで「自己愛」を確認する場なのである(私は、自分がそこから100%自由であると言うつもりは無い。私自身が少なからず同じ穴の狢である)。

若い世代の撮る写真の大半は「ハイパー個人主義」写真であり、「自己愛」写真である。つまり、「自分で良いと思えばそれで良い」レベルの写真なのである。そうなる原因は、「社会や共同体で人々が何かについていっしょになって行動するということが考えられなくなっている」からである。「社会や共同体」の中でモノを考え行動する習慣がある限り、多かれ少なかれ「社会的規範」に則って行動することになる。「写真」という「社会」「共同体」にも「規範」があって、一昔前までは「写真」に取り組む青年は「写真社会」「写真共同体」の中で「何かについていっしょに行動する」ことを通じて写真術を磨いていった。かつては、「趣味」の世界であっても「伝統」とか「原理原則」が趣味人の先輩から後輩へと受け継がれる文化があった。いまはそれが無い。「ハイパー個人主義と自己愛」のレベルで写真を撮っている人間同士が互いに「いいね」を与え合い(「いいね」は完全に互酬性の原理で動いている)、一昔前であれば「なにこれ?」と一笑に付される写真に対して「いいっすね」とコメントを与え合っている。そこには切磋琢磨が全くない。これは現代青年の特徴である。

何度も書いてきたが、「白飛びさせず」「黒つぶれさせず」がモノクロ写真の基本だ。「締まった黒」というのも基本であるし、「柔らかいハイライト」が美しいハイライトの見本だと思う。しかるに、「黒」がないユルユルの写真が「モノクロ写真ジャンル」の中に沢山あるし、「ガツンと飛んでしまった汚いハイライト」の写真も目立つ。モノクロ作家がネット上のデジタルモノクロ写真を見たときの感想で漏らす言葉に「眼が痛くなる」という言葉があるが、これはいたずらにコントラストやシャープネスが高い写真を評して言われる言葉であるが、完全に白飛びしてしまってハイライトだけが異様に目に付く写真にも使われる批評である。確かに、ネット上のモノクロ写真には「眼が痛くなる」タイプの写真が少なくない。おそらく、コントラストが高く「白」が輝いて見えれば格好良いと思っているのだろう。「原理原則」が受け継がれていない故に落ちる落とし穴である。ハイライトばかりが目に付く写真は「品」が無い。もっとも、今の若い人々はこと写真に限らず「品性」と言うこと自体気にすることが無いのだろう。

例外的に「ここからここまで」の外で成り立たつ表現もあるが、それは高い整合性の中で成り立っている作品であって、「普通」のモノクロ写真の場合はっきりと分かる「白飛び」は写真の品位を落とす。「下品」に見えるのだ。しかし、ネット上にはそういう写真が溢れている。なぜなら、作者は「他者の眼」など気にしていないからだ。「私が良ければそれで良い」という価値感が世界を覆い尽くそうとしているのだからやむを得ないことだろう。いや、作者が「他者の眼」を気にしていたとしても、厳しい批評を投げかける人がいないのだ。「ちょっとハイライトが飛びすぎていて綺麗じゃ無いですよ」と助言してくれる写真仲間がいないのである。「いいっすね!」と褒めてもらえるから気がつかないのだろう。

気がつかないのも仕方ない。「知性」のレベルがそこまで落ちてしまっているのだから。テレビとネットばかりでろくに本も読まない世代なのだから「知性」など身に付くわけがない。私は差別表現だという批判をおそれず敢えて言うのであるが、男たちの撮る写真が「女こども」の撮る写真と同列になってしまっている。いまの若い男たちにとっては「ゆるい」とか「まったり」とかが肯定的価値になっている。長い人類の歴史の中で、男社会にあっては「ゆるい」とか「まったり」というのは「だらしがない」「真剣味に欠ける」という否定的な価値だったのである。

私は1月以来、田中長徳さん、渡部さとるさん、山下恒夫さんなどの写真展を「見に行くべし!」と訴えてきた。彼らの写真を見ればうつくしいモノクロ写真とは何かを知ることが出来るからである。彼らの写真と自分の写真を並べてみれば良い。オリジナルプリントを買うにはそこそこのお金が掛かる。で、私は先日、山下恒夫さんの写真集『もうひとつの島の時間』を手にすることを勧めた→(「写真とカメラについての話をしよう(3)」)。『もうひとつの島の時間』を眺めていたら、モノクロ写真のあるべき姿が分かるからである。

もちろん、田中長徳さんや渡部さとるさんや山下恒夫さんとは違ったタイプのモノクロ写真もある。森山大道さんや中藤毅彦さんのようなハイコントラストモノクローム作品もあるし、鬼海弘雄さんの『PERSONA』のような中間調重視の表現もある。しかし、物事というのはまず初めにオーソドックスな手法を理解し身につけるべきである。というか、森山さんや中藤さんや鬼海さんのやり方というのはある意味「異端」な表現手法であると言っても良い。それはオーソドックスなモノクロ写真を十全に理解している人がその先に進んだ結果としての表現である。やはり、ベーシックなモノクロ写真をまず理解し体得することが肝心だと考えて間違いない。

というか、私が「何だかな〜」と感じているのは、オーソドックスな範囲のモノクロ写真を撮っている人が、モノクロ写真の基本をまったくないがしろにしていることにたいしてなのだ。カラー写真を全く(あるいは極たまにしか)掲載せず、長年モノクロ写真ばかりを掲載したブログをやっていて、それなりに高級機材で写真を撮っているような人々に基本をないがしろにしている人が少なくないことは私には驚きである。私が今までに出会ったモノクロ写真愛好家にはそういう人は一人もいなかったから(もっとも彼らの多くは「2B」出身者なので当然そうなるが)。

潰れたら台無しなシャドーが潰れていたり、眼が痛くなるほどハイライトが飛んでいたり、黒も白も無くかといって中間調で纏まっているわけでも無いただ露光不足のような写真を沢山見かける。「レベル補正」でヒストグラムの両端を山裾まで詰めてやれば、「締まった黒」が出来、目を引く「ハイライト」が出来る写真を露光不足のような調子でブログに挙げる真意はいったい那辺にあるのであろう?

この話は、文章で書いてもいまひとつ伝わらないだろう。私が違和感を感じている写真を1枚1枚拾ってきてここに掲載し、その写真のヒストグラムを表示し、どこがどう「原理原則」を逸脱しているのか論理的に説明し、たとえば潰れているべきでは無いシャドーが潰れている写真であればそこを起こしたモノと並べて比べ、例えばガツンと白飛びした写真なら、その白飛びを抑えた写真を並べて比較しどちらが美しいか問うてみたり、ヒストグラムの山の両端に大きくあまりが出ていて「黒」も「白」もはっきりしない「もやもや写真」なら、ヒストグラムの両端を詰めて「締まった黒」と「鮮やかな白」のある写真に補正したモノを並べて見て貰えばここに書いた話が「なるほど仰るとおり」と腑に落ちるだろうと思う。しかし、人様の写真を勝手に拾ってくるわけには行かないし、まして「俎上に挙げる」訳にはいかないのでそれをすることが出来ない。

最後にもう一度言うが、あえてモノクロ写真を撮っているというのは「創作」だと思う。「創作」であれば一定程度は「美しさ」を追求すべきだと思う。その土台となるのは「セオリー」である。先ほど桜の花を撮った写真を拝見したのだが、背景が明るくて手前の桜の花は暗いというのは完全な失敗だと思う。花を「暗く」描写すること自体を否定しているわけでは無い。桜の花が主題の写真であるのに、鑑賞者の眼が背景の窓明かり行ってしまうと言うのはあり得ない表現なのである。その写真、少し露出を持ちあげてあげると桜の花が柔らかい感じで眼に入ってくる。言いたいのはたったそれだけのことなのだけれど、このたったそれだけのことに10年気がつかないモノクロ写真愛好家が増えているのである。

まあ、こんな話を長々と書いたところで「糠に釘」「暖簾に腕押し」「豚に真珠」でしか無いだろうが、それでももしかしたら「一人の読者」には伝わるかもしれないと思って書いてみた次第。なんだかな〜。



[PR]
by dialogue2017 | 2018-03-29 17:00 | 写真論 | Comments(5)

昼食後に珈琲を飲みながら暇つぶしに「180327国立大学通りの桜」に掲載した写真をモノクロにしてみた。なにか目的があってのことではない。たんなる暇つぶし。私は、平素モノクロ写真を撮ることはあまりない。昨年10月にエキサイトブログの「モノクロ写真ジャンル」に登録したあと遊びで少しモノクロ写真を撮った。それらの写真をここに掲載したところ、同じく「モノクロ写真ジャンル」に登録されている一人の方からコメントを頂き、その後その方とちょくちょくコメントのやりとりをするようになった。その方はローライフレックスやハッセルブラッドでモノクロ写真を撮っている方である。私は、その方との「対話」が楽しくてその後ずっとモノクロ写真を撮っているのであるが、モノクロ写真に取り組んでいる方々のように「真剣」に撮っているというわけでは無い。

所詮遊びで撮っているモノクロ写真ではあるが、モノクロ写真を撮るときにはモノクロ写真向きの「光」を探して撮っている。モノクロでもカラーでも成り立つ写真というものもあるし、どちらかの方が良い写真もある。遊びで撮る分にはなにをどう撮ろうと構わないが、綺麗なモノクロ写真を撮れるようになりたいと思ってモノクロ写真をやっている人は「モノクロでは絵にならない」光景を撮らないという習慣を持った方がいいと思う。物事の核心を掴むことに長けた人であれば、「モノクロに合う光」というものを比較的短期日で知ることが出来るが、長年モノクロを撮り続けていながらいつまでもそれを理解しない人も少なくない。

物事の核心を短期日で掴める人は多くは無い。そのような能力が無い人の場合、消去法で取り組むのが良いように思う。つまり、「モノクロでは成り立たない」写真を理解すれば良いと言うことである。そういう光景を撮らないように習慣づけていくと、モノクロ向きの光の所ばかりを撮るようになっていくだろうから。

物事の核心を短期日で掴める人は少ない。と言って、彼らが特別な能力を持っているというわけでは無い。彼らは、物事の「原則」に対して忠実に臨むという姿勢が強いのである。そこへの"こだわり”が強い。彼らはなんでもかんでも撮ったりはしない。モノクロで成り立つ光景だけを探し出し、そこにレンズを向けてシャッターボタンを押している。彼らは「露出」に対してシビアである。基本的に「白飛び」「黒つぶれ」のない写真を撮るようにしている。特に、「白飛び」に関しては徹底的に避けている。「白飛び」させないというのはモノクロ写真(ゼラチンシルバープリント)の基本だからである。つまり、彼らは原則に忠実なのである。何事でもそうだが、原則を曖昧にする人は上達しない

4枚目と5枚目のしだれ桜を撮った2枚のみモノクロ化する際に「マゼンダ」の明度を持ちあげた(花ビラを白っぽくした)。それ以外の7枚は「180327国立大学通りの桜」に掲載したカラー写真を単純にモノクロ化しただけである。※あとから6枚目は2/3段ほど少し明るくした。どうでも良いようなとき、私は-0.33〜0.67EV相当の露出で撮り通しているのでそうなる。1枚目2枚目などは露出計の±0EVは適正露出より0.67〜1.0EV程度はアンダーになるが単なるスナップの場合気にせず撮る。そもそも「撮らなくてもいい」写真を撮っているのだから(笑)。

1〜3枚目までの3枚はモノクロにしてもコントラスト不足(露光も不足)。曇天下での撮影なのでこうなるのは避けられない。このままで人目に晒すというのはちょっとあり得ない写真である。人目に晒すとしたら、コントラストの調整が不可欠だ。以下、各写真の上にコメントを記す。

e0367501_13170946.jpg

180度反対側を同じ露出で撮って同じ写真になる。完璧な曇天だ(笑)。

e0367501_13173949.jpg


e0367501_13224781.jpg

試みに、上の写真をトーンカーブを使って少しメリハリを付けてみた。晴天下で撮った感じに近くなった。僅かな差で写真が変わる。

e0367501_14100948.jpg

この下の2枚はしだれ桜を撮った写真をモノクロにしたモノだが、私はこういう写真をモノクロで撮ることは絶対にしない。理由は単純明快で、どう考えたってカラーで撮った方が綺麗だと思うからだ。もし、モノクロフィルムの入ったカメラしか手にしていなかったとしたら、眺めるだけで写真は撮らずに通り過ぎるだろう。何でもかんでもモノクロで撮って一人悦に入っても仕方ない。そういうつまらない写真に沢山の人々「いいね」を付けてくれるから「独りよがり」から抜け出すことが出来ないのだ。

e0367501_13225867.jpg


e0367501_13230720.jpg

この写真は絞らず開放(F4.0)で撮っていると言うことがそもそも間違いであるが、そのことを不問にすればこれはこれでモノクロとしても成り立っていると言えると思う。元々「モノトーン」の光景を撮っているのだから。※ちょっと明るさを持ちあげた。

e0367501_13503117.jpg

下の2枚の写真は1枚目2枚目と似たような写真であるが、1枚目2枚目よりはすっきりした写りである。すっきりしているのは明るいからであるが、そうなった理由は明確で、+0.67EVで撮っているからである。空が占める比率を考えれば+補正で撮らなければいけない構図であるから当然のことである。よく、ポジフィルムは1/3段ずれたら失敗だと言われるが、モノクロ写真の場合も1/3段の露出の差は決定的だろうと思う。もちろん、デジタルフォトの場合±1.0EV程度の範囲であればレタッチで如何様にでもなる。しかし、撮影時に適切な露出で撮れるようになるというのは写真の基本だと思う。ミラーレスカメラであれば撮影時に撮影結果が分かるのだから露出を外す理由が無いのだが…

e0367501_13232907.jpg


e0367501_13233915.jpg


[PR]
by dialogue2017 | 2018-03-28 15:00 | モノクロ | Comments(0)

180327国立大学通りの桜

毎週火曜日は娘をボルタリングスクールに送っていくため国立に行く。駅前の大学通りの桜並木は東京でも有数の見事さ。あいにく、昨日着いた時には曇っていて桜の写真をとるような光ではなかった。

1枚目は国立駅を背にして谷保駅方向を撮った写真。露出補正を掛けずカメラのAE任せで撮った写真に「自動コントラスト補正」を掛けただけ(元ファイルとさほど変わらず)。曇天であるためローコントラストの写り。トーンカーブを使うなりして明るさを持ちあげコントラストを付けてあげないと間抜けな写真に見える。こういう光はカラー写真向きでは無い。むしろモノクロ向きの光と言って良い。私は桜をモノクロで撮りたいとは思わないが…

e0367501_12392728.jpg

2枚目は、1枚目を撮った後後ろを振り返って撮った写真。道路の突き当たりが国立駅。かつては素敵な駅舎があった。

e0367501_12401850.jpg

写真を撮るためにここに来たわけでは無いのだが、桜が咲いている光景が目の前にあると綺麗に写らないと分かっていてもとりあえず撮っておこうということになる。それはデジタルカメラゆえのことである。もし、この時フィルムカメラしか持っていなかったら、多分写真を撮らなかったと思う。仮に撮ったとしても1枚か2枚で終わりにしただろう。目的も何も無くのべつ幕無しに撮る私にはデジカメが合っている。下の写真は大学通りの歩道。天気の良い日であればここを歩くのは楽しいだろう。

e0367501_13075584.jpg

一橋大学東キャンパスの正門を入った右手のしだれ桜。手前の花ビラにピントを合わせたつもりが…

e0367501_13102426.jpg



e0367501_13111937.jpg


e0367501_13114194.jpg


e0367501_13115086.jpg


e0367501_13121199.jpg


[PR]
by dialogue2017 | 2018-03-28 13:30 | スナップ | Comments(2)

180326井の頭公園(6)

これは「ブルー」を強調するカラーモード。

e0367501_00160419.jpg

[PR]
by dialogue2017 | 2018-03-27 15:00 | スナップ | Comments(0)

180326井の頭公園(5)

カフェの前の壁に書かれていた絵。元の色味に近い。

e0367501_00141153.jpg

[PR]
by dialogue2017 | 2018-03-27 14:00 | スナップ | Comments(0)

180326井の頭公園(4)

e0367501_00125279.jpg

[PR]
by dialogue2017 | 2018-03-27 13:00 | スナップ | Comments(0)

180326井の頭公園(3)

e0367501_00115370.jpg

[PR]
by dialogue2017 | 2018-03-27 12:00 | スナップ | Comments(0)

180326井の頭公園(2)

暑いくらい良い天気であったのだけれど、こういう「日陰」を撮るのが好きである。

e0367501_00094233.jpg

[PR]
by dialogue2017 | 2018-03-27 11:00 | スナップ | Comments(0)