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最後に、この秋以後頻繁にご訪問下さった方々や、「いいね!」を下さった方々、コメントを下さった方々にきちんとお礼を申し上げたかったがそれをする時間が無くなったことを申し訳なく思います。このブログ自体は今日をもって終わりにしますが、果たせなかった課題については「持ち越し」で「延長戦」をやりたいと思います。

今日、こんなにあれこれと書いたのは、たまたま昨日「モノクロ写真」ジャンルのランキングで「1位」になっていたという事情もある。昨日はほとんど文章しか書いていない。しかし、どなたかが古い写真を遡って見て下さったのだろう。私の稚拙な写真を拝見して頂きありがたくもう思うし、偉そうなことを書いていながら写真のレベルがそれには遠く及ばないことを恥ずかしくも思う。

しかし、私は写真が好きだし、なかなか普通の写真愛好家が知ることの出来ないような話を山のように聞く機会に恵まれてきた。それを「共有」するのは私の「務め」のような気がしてあれこれ書いた次第である。

あと5分で今年が終わる。来年は本を読むことと、文章を書くことに専念するつもりである。来年一年家族の写真以外は撮らなくても良いような気持ちである。

書き残しで終わるのは気持ちが悪いので、年が明けて松が取れるころに少しだけ「延長戦」をやりたいと思う。この1年、この能書きだらけのブログをご訪問して下さった皆様が、良いお年を迎えられることをお祈り申し上げたい。来年は、今年よりよい写真を撮って下さい(笑)。

最後、画像容量は1MBとなりました(笑)。

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私はランキングなどに何の興味もありませんが、大勢の方がこのブログを訪問し、私の「駄写真」を拝見してくれたようであり、素直に嬉しく思います。ありがとうございました。また、「延長戦」でお会いしましょう。2017年12月31日23:59。

追記。来年は「カラー写真」に専念します。モノクロは苦手です(爆)。

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by dialogue2017 | 2017-12-31 23:59 | 閑話 | Comments(0)

私はエキサイトブログの「モノクロ写真」ジャンルのランキング上位者の何人かのモノクロ写真に違和感を感じていると言うことを率直に書いた。その件については、ヒストグラムの分析を通じて、私が何に「違和感」を覚えているか論理的に説明するつもりであった。しかし、もう時間が無いので結論のみ書いておく。

写真を「下品」に見せてしまう無用な「白飛び」が多いのである。私は白飛びを否定しない。個人的には白飛びは好きなくらいだ。しかし、飛んでも構わないハイライトと、飛ばすべきでは無いハイライトがある。そこを区別せず、何でもかんでもハイライトを飛ばしているモノクロ愛好家が少なくない。その方がネット上で見栄えが良いためそうしてるのだろうと思う。しかし、白と黒の「二階調」に見える写真というのはモノクロ写真としては美しくない。

もちろん例外はある。例えば森山大道さんの写真や、中藤毅彦さんの写真などは「白と黒」の二階調と言って良いような作品が多い。彼らは、そいういう「作風」を確立した訳であるが、ただ単に何でもかんでも「白と黒」の二階調のハイコントラストモノクロームにしているという単純な話では無い。ハイコントラストモノクロにして成り立つ「絵柄」を撮った上でそういう作品に仕上げているのである。

反対に、オーソドックスな階調豊かな仕上げにした方が格段に美しい写真がある。そういう写真は不用意にハイコントラストにすると美しさを損なう。せっかく美しい写真を撮っていながら、不要にハイライトを飛ばしてしまうことにより写真の「品位」を穢している写真が余りに多いと思う。

私はモノクロ写真についてよく分からない。撮ってこなかったし、自分でプリントを作ったことが全くないからである。先週、ギャラリー冬青で亀山仁さんに「自分のトーンを見つけるまで何年かかりましたか?」と聞いたところ「7〜8年ぐらいです」という返答を貰った。人気作家のなかにはそれ以上の時間を掛けて自分のトーンを固めた人が少なくない。それだけ膨大に撮り、ネガを現像し、山のようなプリントを作り、展示し、批評を受け、何冊かの写真集を出すという繰り返しのなかからしかモノクロ写真を理解することは出来ないのだと思う。しかし、亀山さんは言った。「私はまだモノクロ写真について分かったわけでは無いです」と。これは一人亀山さんの言葉では無く、ほとんどのモノクロ作家の本音でもあるだろう。

ある意味、作家では無い人の方が「見える」かもしれないし、「分かる」かもしれない。というのは、亀山さんと話をした際、いま日本一美し美しい写真集を出しているとも言われている冬青社の高橋社長からもじっくりと意見を伺った。1冊の写真集をどうやって作るか、作家とどういう話のやりとりをするか、それを出版社のディレクターにどういう形で伝えているか、それについて印刷ディレクターに渡す「指示書」(作家の写真に高橋社長が事細かく指示を書き込んだもの)を見せて貰い詳しく話を伺った。なかなか聞ける話では無いが、高橋社長の話は、ある意味でモノクロ作家の一段上を行く「モノクロ写真」論であった。最後に、そういう話をここに書いて、モノクロ写真愛好家の方々の参考にして頂きたいと思っていた。しかし、残念ながら時間が尽きた。

あと10分。もう何もかく時間が無い。


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by dialogue2017 | 2017-12-31 23:50 | 閑話 | Comments(0)

そんなわけで、私は田中長徳さんの写真に興味を抱いた。で、10月の終わりであったか、11月の初めであったか、『GR DIGITAL WORK SHOP』と『GXR WORK SHOP』を買ってみた(またしてもamazonの中古で二束三文の価格で)。私はGR DIGITALもGXRももの凄く愛用していたので、私が愛用したカメラでチョートクさんがどんな写真を撮っているのかに強い関心を抱いた。ちなみに、今までこういう形で写真家に強い関心を抱いたことは一度も無かった。

先に届いた『GXR WORK SHOP』のページをペラペラと眺めていて、私はあることに気がついた。田中長徳さんはデジカメで写真を撮る際にはAEで撮影する方なのであるが、写真を見ていて思ったことは、露出補正を掛けずに撮っているだろうと思われる写真が圧倒的に多いのである。つまり、カメラ任せで撮ってそれできちんと絵になるような光景を選んで撮っていると言うことである。あるいは、そういうアングルから撮っていると言うことである。どう撮ればどう写るかについて完全に熟知している方なのだと言うことが写真から伝わってくる。だから、「本当に絵葉書のような」写真をいくらでも撮れるのだろうと思う。

『GXR WORK SHOP』には1枚1枚の写真の絞りやシャッタースピードのデータが掲載されているが、それには露出補正の記載が一切無い。まさか1冊の写真集を丸々±0EVで撮ったとは思えないので、露出補正値については記載しなかったのでは無いかと想像した(真相は分からない)。それにしても、補正を掛けているであろう写真の場合でも、±0.7EVまでのものがほとんどだろうと推察された。つまり、意図してほとんど手を入れずに済むような写真を撮っているのだと思う。簡単なレベル補正・コントラスト補正だけで写真が「完成」する仕事をしているのでは無いかと思った。

後から届いた『GR DIGITAL WORK SHOP』を見て、この私の推理が正しかったことが分かった。『GR DIGITAL WORK SHOP』の42ページにはそのページまでに掲載された写真の撮影データが掲示されているのだが、-0.7EVで撮った写真が1枚、+0.3EVで撮った写真が4枚、補正無しで撮った写真が3枚となっていた。私に言わせれば極めて理にかなった話である。数日前に書いたが、撮影後にあまり手を入れずに済む写真が良い写真なのだと思う。撮影時にほぼ完成の一歩手前の段階まで行っている写真が理想だと思う。そういう写真というのは基本的には露出補正の幅が小さい写真になると思う。

今のカメラのAEの性能は非常に高い。完全にAE任せで撮って「撮って出し」で十分キレイだという写真がかなりの比率で撮れる。そういう写真ばかりを選んで撮ることができる力があるというのは実力の高さである。チョートクさんはRawで撮ることはほとんど無いと公言されている。しかも、デジカメの場合はAE任せで撮るとも公言している。私は極めて正しいと思う。コーマーシャルフォトの場合はまた話が変わってくるが、スナップ写真の場合、Rawで撮る必要性なんてほとんど無いと思う。私は何年も前からそう公言してきた。今回チョートクさんの本を読んで、チョートクさんが全く同じことを言っていることに驚きかつ我が意を得た思いである。

Raw現像の素晴らしさを蕩々と語るアマチュアがいるが、私はそれは「底の浅さ」だと言い続けてきた。私は、昨年(2016年)末までやっていたブログのなかで、「出来る男はAEで撮ってJPEGで仕上げる。Raw現像を止めよう!」と言うタイトルの雑文を書いたことがある(笑)。まさか、それとほとんど同じ話を田中長徳さんが書いているとは夢にも思わなかった。

もう、詳しく書く時間が残っていないが、JPEGで十分だと考えている写真家は増えている。Rawの必要性は否定しないが(私も否定してない)、JPEGで十分な範囲は年々広がってきていると言って間違いない。センサーと映像エンジンがドンドン進歩していて、なまじRaw現像などしてみてもメーカーの技術者が精魂込めて作り上げたJPEGに勝てないという情況になりつつあるのである。そういう意見を語り始めている写真家が少しずつ増えてきている。内田ユキオさんなどもJPEG派である。

敢えて最後に「暴言」を吐いておくが、いまやRaw現像はアマチュアの遊びとなりつつある(くり返すが、コマーシャルフォトになるとまた少々話しが別になってくる)。

ああ、一番書きたかったことを書けずに終わった。私は、「自説」を前置きにした上で、幾人かの人気モノクロ作家が語った話をモノクロ写真愛好家に伝えたかったのだ。彼らが何気なしに口にした言葉のなかには、モノクロ写真の"核心”を付く話がいくつもある。そういう話を「モノクロ写真」愛好家に少しでも紹介したかったのだ。ああ、だというのに自説を書いて終わりになってしまった。

さて、残りあと30分。最後に何を書こう?

(つづく)。

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by dialogue2017 | 2017-12-31 23:30 | 閑話 | Comments(1)

今年も残すところ3時間を切った。最後に書きたいと思っていた話しはまだ「序章」しか書けていない(笑)。「閑話(51)」の末尾に「私は、誰かが、「王様は裸だ!」と声を上げておいた方が良いと思う」と書いた。相当辛辣な言葉に受け取られるだろうが、「裸の王様」に向かって「貴方は裸ですよ」と教えようと思う私はむしろ「お人好し」と評価した方が適切なのでは無いかと思う。いうまでもなく、「お人好し」というのは好意的な評価で使う言葉では無く、「お馬鹿さん」というニュアンスが強い表現である。私のやっていることが「愚かしい」ことだという自覚は少なからずある。しかし、もう少し書いてみたい。

少し古い話になってしまうが、3年程前であったか、3人の写真家と同席している場所で、私は何人かの人気アマチュア写真家(?)のブログのいくつかを彼らに見せどう思うか感想を聞いてみたことがある。それはこのエキサイトブログに限らずいくつかのブログを見せたのであるが、アマチュア写真家のブログとしては人気が高いブログばかりを見繕って3人の写真家に見せたのである(それらのなかにはこのエキサイトブログの『モノクロ写真』ジャンルのランキング上位者のモノも含まれていたし、彼らの「リンク」に乗っているブログが多い)。

3人の写真家に「どう?」と聞いてみたが誰も何も言わなかった。「感想は無いの?」と聞いてみたら一人の写真家が「無い」と答えた。「まあ、そう言わず何か一言で良いから感想を聞かせてよ」と迫ると「ふーん、かな」と彼は答えた。黙っていた別の一人に感想を聞くと「いいんじゃないの」と返ってきた。最後の一人に「○○さんは?」と尋ねると、「答えようが無いね」と返ってきた。要するに、彼らプロ写真家から見て、アマチュアの人気モノクロ写真家の写真は「歯牙にも掛けられなかった」のである。※念のため書いて置くが、その3人には渡部さとるさんも森谷修さんも含まれていない。しかし、渡部さんだったら「ふ〜ん」だろうな(笑)。

私が3人の写真家に見せたブログは非常に人気があるブログで、彼らの写真には100も200もの「いいね!」がいつでも付けられている。そういうブログの写真がプロの作家からは「論評のしようが無い」とされたのである。こういう反応になるとは私は全く予想していなかった。「基本ができていないね」とか、「甘いね〜」とか、「まあ上手なんじゃ無い?」ぐらいの反応が返ってくると思って聞いてみたのだが、3人とも「別に」という冷ややかな反応だった。「なんでこんな写真を見せて俺たちに感想聞くの?」と訝しがられた程であった。

アマチュアにも写真が上手い人は少なからずいる。中には下手なプロの上を行くアマチュアもいる。しかし、私がそういう評価を下していたアマチュアの何人かは結局プロになってしまった。彼らの中には、初めからプロになりたくて頑張って写真を撮っていた人もいるし、全く別の本職があったけれど「写真業界」の方が彼らに注目して彼らを抜擢し、いつしか写真の方を本職にしてしまったという人もいる。何であれ、アマチュアにもプロに劣らず写真が上手な人は少なからずいる。しかし、アマチュアとしてはかなり上手いレベルの人であってもプロの写真家から見ると「ふーん」の一言でかたづけられてしまう人の方が圧倒的に多い。そういう評価をされてしまう理由は主に二つあると思う。一つはゆるがせにすべきで無い「基本」が曖昧であること。もう一つはプロ写真家の模倣の域を全く出ていない為だろう。

ついでながら言っておくが、「森山大道風」とか「セイケトミオ風」が氾濫し過ぎていると思う。まだ尻の青い20代の青年がやっていることならほほえましいで済むが、30代40代でそういう写真だと流石に「痛い」。模倣自体は行けないと思わない。やるなら「こいつ凄いじゃん。本物の森山大道の写真だと言ってみせられたら信じちゃう」というレベルまで行けば良いんだ(せめてその一歩手前まで)。極論すれば泉大吾君のようにセイケトミオさんがプリントを買いに来てくれるレベルまで行ってしまうと人気写真家の模倣とは言えなくなる(泉君はセイケトミオさんを模倣していたわけじゃ無いけれど、最近似てきたな〜。どうしてみんなあそこに行っちゃうのかね〜・笑)。

どんな物事でも「基本」はもの凄く大切だ。例えば画家であれば「デッサン力」。ピカソの絵なんて小学生でも書けそうなモノが沢山あるけれど、彼のデッサンを見たことのある人は彼の画家としての基礎的な力の高さを知っているだろう。

時間が無いから細かい説明を飛ばして書くが、私は田中長徳と言う人はとても写真が上手な人だと思う(こういうい言い方はおかしいけれど)。田中さんは写真家と言うよりは「物書き」と言って良いような存在であるが、彼の写真家としての実力は非常に高いと思う(当たり前だけれど)。ある写真家が、「田中さんは勿体ないよね〜。ああいう方向に行かず、真面目に写真をやり続けていれば、間違いなく日本を代表する写真家になった人なのに」と言っていたのを聞いたことがあるが、そういう実力の人だと思う。

チョートクさんは「写真集」と呼んで良いのか「カメラ紹介本」と呼んで良いのか分からないような「写真集」を沢山出している。例えば「GR DIGITAL WORK SHOP」とか、その二番煎じと言ってもいい「GXR WORK SHOP」とか、「CHOTOKU X R-D1」とか、特定のメーカーのカメラの「宣伝本」と言えなくも無い本を何冊も出している(それだけカメラメーカーや出版社サイドからの「チョートク」需要があるということである。世に「チョートク本」ファンが沢山いて一定の売り上げが保証されているから)。

私は、EPSON R-D1sと言うカメラがとても好きなので、プロがR-D1で撮った写真に興味があって「CHOTOKU X R-D1」を買った(田中さんには失礼であるがamazonの中古で格安で買った)。私はその本で初めて田中さんの写真を見たのであるが、もの凄く上手だと思った。この本はほぼ純然たる写真集と言って良いが、主にローマ、ウイーン、プラハを撮ったスナップ写真が収録されている。

私はこの写真集に収録されているチョートクさんの写真を見てホトホト感心した。ある意味、過去一度も感じたことのない深い「感動」を覚えた。というのは、ほぼ全部が何の変哲も無い平凡なスナップ写真であったからである。特段個性が無い写真が並んでいる。ただ、旅先で通り掛かり目にした風景を撮ったと言うだけの写真なのである。これは凄い。こんなのを出せるというのは自分の写真に完全な自信がある人にしかできないことだと私は思った。

私は一月ほど前に森山大道さんの『路上スナップのススメ』という新書本を読んだ。いままで森山さんに関心を抱いたことも無かったし、森山さんの写真にあこがれを抱いたことも無かったのであるが、ちょうど10月頃から何度か都心でモノクロ写真を撮ってみた時期であったのでタイトルに興味を抱いて読んだのである(またamazonで100円以下で買った)。

『路上スナップのススメ』と言う本は、仲本剛という雑誌ライターが森山さんを取材して書いた本なのだが、なかなか面白い。その中で、とても面白いと思った部分を少々長くなるが以下に引用する。緑色にした文字は仲本剛さんの言葉で、青色にした部分が森山大道さんの語りの部分である。

 森山の話を聞いていると、この「絵葉書みたいな写真」という言葉が、比喩としてときおり登場する。森山だけではなない。写真が好きな人たちのなかには、自分や他人が撮影した写真を評する際、この言葉を口にする者が少なからずいる。自分の写真を誰かに見せるとき、照れ隠しに少し卑下して「なんか絵葉書みたいだろう」と言ってみたり、気に入らない他人の写真を「どうってことない、絵葉書みたいじゃん」と罵ってみたり。つまり多くの人にとって「絵葉書みたいな」とは、決して褒め言葉ではない。しかし、森山は少々違う感覚を持っている。

 考えてみるまでもないけれど、絵葉書の写真って、じつは、みな良い写真なんだよ。だから、この言葉は決して馬鹿にした表現じゃない。絵葉書の写真って、たいがい対象のちょっと上から撮っている。あの撮り方に辿り着いた先人は、やはり凄いな、と本当につくづく思っているからね。

森山が「絵葉書みたい」と言うときの真意は、その対象に向かって、撮り尽くされたであろう写真や、自分でなくても誰かが撮るであろう写真と言うことだ。なるほど素人は、例えば観光名所に行って、まず真っ先に撮ろうとするのは、文字通り絵葉書みたいな写真だ。

 でもね、本物の絵葉書の写真のようにはなかなかならないんだよ。それぐらい絵葉書の写真っていうのは良い。撮影した写真師の技術が、本当に高いんだ。
 僕は昔、たとえばロングに引いたとき、水平線なり地平線が見えたらカメラをわざと斜めに構えて、画面に変化をつけたり不安定にしたりすることがよくあった。テクニックっていうほどでもないけれど、画がキレイに安定していると、どこか絵葉書みたいだな、と思えてしまって、フッと感覚的に傾けていた。でも、いまでは、そういうことはまずしない。曲げるこたあねえよ、と最近は思っているし。何より、絵葉書の写真は本当に良いと思っているからね。

『森山大道 路上スナップのススメ』(光文社新書478) P104-105より


私はこの森山さんの「語り」を読んで、「ああ、第一人者というのは一番肝心なことを理解しているモノだな〜」と感心した。実は、私は長年の間、「わざわざ斜めに構えて写真を撮る」と言うことに対して強い違和感を感じていたのである。そうする気持ちも理由も分かる。理解できる。その上で、「斜めにして格好良いのであれば簡単でいいやな〜」と「見下して」いた。それどころか、「荒れててぶれててコントラストが強くて作品になるなら簡単だな〜」とも思っていた(実際それで作品にできる人はそれほどいないし、最初にそういう作風を完全に自分の作風として確立してしまった森山さんは凄いとは思っていたが)。

「絵葉書の写真は本当に良いと思っている」という言葉が写真家の口から漏れるだけでも感心するが、それが森山大道さんの口から語られたことに私は小さな「感動」を覚えた。私は最初から思っていたのであるーー「絵葉書」は写真というモノのもっとも原点的な素晴らしさを体現している写真であると。

さて、長い話しになったが、私は『CHOTOKU X R-D1』の写真を見て「この人は写真が上手いな〜」とつくづく思ったわけであるが、それらの写真はほとんどすべて「絵葉書みたいな」写真なのである。「その対象に向かって、撮り尽くされたであろう写真」であり、田中長徳さんが撮らなくても「誰かが撮るであろう」写真ばかりなのである。つまり、私の言い方で表現すれば、「何の取り柄も無い平凡な写真」ばかりなのである。

「何の取り柄も無い平凡な写真」を「作品」として出すと言うことはもの凄く難しいことだと思う。だから、ほとんどの写真家は他の写真家の写真と違う自らの「作風」を見せようとする。誰もが撮る写真と同じで、すでに撮り尽くされているような写真を発表したところで注目されないし、評価をされないだろうから。しかし、田中長徳という写真家は平然とそれをやってのける。

チョートクさんがそれをやれる理由は二つあると思う。一つは、森山さんが指摘したように「本物の絵葉書の写真のようにはなかなかならない」ぐらい「絵葉書のような」写真は難しいからである。チョートクさんはその難しい写真をいとも容易く撮ることの出来る力量の持ち主なのである。

もう一つの理由は、田中さんが「絵葉書のような写真は本当に良い写真」であるということをよくよく承知していて、それこそはつまらない「個性」を出した写真以上の写真であるという信念を持っているからだろうと思う。田中長徳という人は、カメラやレンズについてのしょうもない変な話を書くおじさんだと思われているが(実際そうだけれど)、それに騙されてはダメだ。件の写真家は半分しか見抜いていなかった。チョートクさんは「ああいう道」に行ってしまったにも関わらず、日本を代表する力量の写真家の一人であると断言して間違いないだろう。彼のカメラやレンズに対する豊富な蘊蓄は、膨大な写真を撮り続けた中から獲得された血肉化された知識なのだと思う。

(つづく)

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by dialogue2017 | 2017-12-31 23:00 | 閑話 | Comments(1)

あと5時間半で今年が終わる。その5時間半の内にやっておきたいことがいくつかある。ずっとこの「閑話」を書いているというわけにも行かないので、とりあえず一足飛びに「結論」に近いところまで話を「先送り」する。「先送り」であるから相当に短絡した話になることをご了解頂きたい。

私が「モノクロ写真」ジャンルに登録したのは10月の初め頃だったと思う。それまでほぼ全く「いいね!」が届かなかったのだが、時々「いいね!」が付けられるようになった。私は律儀な性格なので、「いいね!」を頂いたときには必ずその方のブログを訪問して写真を拝見している。中にはブログに掲載されている写真を一通り拝見させて頂いた方も数人いる。ランキング上位者はデジタルであるか銀塩であるかを問わずある程度の期間モノクロ写真を撮り続けている方々である。率直に言って「上手」に写真を撮っている人は少なくないと想う。しかし、表現の仕方(銀塩に例えて言うならば「プリント」の仕方。デジタルでは「レタッチ」の仕方)には違和感を覚える人が少なくない。

「モノクロ写真の肝はシャドーにある」と言われる。私は同意する。しかし、それに同意した上で言うが、私はモノクロ写真の肝は「ハイライト」にあると思う。なぜなら、人間の眼は「明るい」部分に注目するように出来ているからである。「シャドーに肝がある」に同意しておいて「ハイライトに肝がある」というのは矛盾しているとの指摘を受けるかもしれない。しかし、私に言わせれば矛盾しない。これは、私個人の解釈であって、私の友人のモノクロ作家がどういう考えであるかとは無関係だとお断りした上で言うが、私が考えるには「シャドーが肝」であるのは「ハイライトを見せる」上でのベースだからである。乱暴な言い方をしてしまうと、ハイライトを美しく見せるためのシャドーなのである。

ハイエストライト、つまり255の「白」は「紙の地色」である。デジタル的に表現すればそこには情報が無い。モノクロ写真における「白」は「情報無し」の領域である。モノクロ写真というのは、「白い」地色に「黒」を載せていくことによって成り立っている。「黒」が無ければ何も無い。それは「白紙」である。「白紙」に黒を載せていくことによって写真が成立する。だから、モノクロ写真を作り出すのは「黒」なのである。

しかも、「黒」は真っ黒から始まってなだらかに白っぽく成っていく。人間の眼に判別可能な最大の階調は256階調だと言われている。人間の眼には256階調と512階調の違いは判別できない(私には256階調と128階調の違いも明瞭では無い)。「黒」は「0」から始まって「254」までの「黒」がある。もちろん一般的には「254」は黒とは言わず限りなく真っ白に近いが、それが「真っ白」でないのはそこに微量の「黒」が乗っているからである。「白」は何も無い。だから、モノクロ写真というモノは「黒」で表現して行く以外に方法が無い。

しかし、人間の眼が真っ先に向けられるのは「白」である。つまり「ハイライト」である。であれば、ハイライトが美しくないモノクロ写真は美しくないと言って過言では無いだろう。もちろん、これは「基本的」な部分についての言及である。モノクロ作品の場合、ヒストグラムの山が左半分にしか無いような作品がいくらでもある(例えば私が好きな安達ロベルトさんの作品の多くがそうである)。では、そういう写真には「ハイライト」が無いのだろうか? 私はそうは思わない。255付近をハイライトと定義するとしたらそういう写真には「ハイライト」は存在しない。

しかし、その写真の中における「ハイライト」は存在する。つまり、モノクロ写真における「ハイライト」は相対的なモノとしてあると言うことである。何との「相対」か? 言うまでもなく「シャドー」である。モノクロ写真の肝はシャドーだと言われるのは、シャドー次第で「ハイライト」の見せ方が大きく左右されるからなのだ。もちろん、シャドー自体における表現という事はあると思うが、写真はシャドーだけでは成り立たない。

※今日は「予約投稿」をせずほぼリアルタイムで投稿している。ようするに、アップされているエントリーは適宜区切ってアップしているだけで、私自身は続けて書いている。ちょっと疲れたのでサウナに行ってくる。でも、帰ってきたらもう書きたいことを書く時間が余り残っていないな〜。まあ、途中で終わってしまっても構わないのだけれど。


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by dialogue2017 | 2017-12-31 19:00 | 閑話 | Comments(0)

私はいままであまりモノクロ写真を撮ってこなかった。モノクロ写真はとても好きで、好きな写真家は例外なくモノクロ作家ばかりである。しかし、自分ではあまりモノクロ写真を撮ってこなかった。理由は、モノクロという表現手法が極めて「センシティブ」なものであると了解していたからである。モノクロ写真は、「黒」(0)から「白」(255)に掛けての256階調だけで表現しなくては成らない世界である。カラー写真に比べるととてもシンプルな表現である。しかし、物事はシンプルであればあるほど難しくなるものである。

私はあらゆることに対して「丁寧」に取り組むことが苦手である。だから、モノクロ写真というのは自分には全く合わない表現手法であると承知していた。というか、そもそも私は「記録」を残す為に写真を撮っているのであって、「自己表現」として写真を撮るという欲求があまりなかった。だから「作品」を撮ろうと思ったことがほとんど無い(疑似作品といえるようなモノは撮っているが…)。

ただ、鑑賞するということにおいてはモノクロ写真の方が圧倒的に好きで、たまに写真展を見に行く場合はほぼ100%モノクロ作品の展示であった。たまたま通りがかりに立ち寄ったというようなケースを別にすると、カラー作品の展示を見るために足を運んだというのは数回しか無い。

私自身はこれまでモノクロ写真をほとんど撮ってこなかった。全く撮らなかったというわけでは無い。例えば、私は都心に出掛ける時にはLEICA X1を持っていくことに決めているのだが、このカメラは購入直後からモノクロ専用カメラになっている。だから、都心で撮った写真というのはほとんどがモノクロである。しかし、それはただ闇雲に撮ったと言うだけの写真であって、私自身の感覚としては「モノクロ写真を撮った」という経験の範疇には入らない。ただ、カメラのモードを「モノクロ」にして写真を撮ったと言うだけのことでしか無いと言うことである。

私は自分自身ではモノクロ写真を撮らないが、好きな写真家は例外なくモノクロ作家であった。いろいろな縁があって、何人かのプロ写真家と個人的に親しくお付き合いしてきたが、彼らは例外なくモノクロ作家である(その代表としてお二人だけ名前を挙げておけば渡部さとるさんと森谷修さん)。彼らとは幾度となく写真談義をしてきた。2013年の8月には、森谷修さん、渡部さとるさん、そして今月「ギャラリー冬青」で個展を行っていた亀山仁さんの3人を相手に4時間に及ぶモノクロ写真談義をしたなどと言うこともあった(「相手に」という表現を使うわけは、その談義が私の発言を中心にして行われたからである)。

私は彼らからモノクロ写真の撮り方とか、プリントの仕方を教わったことは無い。私は銀塩プリントを全くやっていないのでそういうことを教わることには意味が無かったし、余り関心が無かった。しかし、「モノクロ写真の表現は如何にあるべきか」というような話は幾度となく重ねてきた。今月22日にも、亀山仁さんと2時間40分間そういう話をしてきたばかりである。

私は自分がゼラチンシルバープリントに取り組んだ経験が無いので、技術的な方法論についてはそれほど関心が無い。私は「スキル」ということ全般に関心が薄いのである。無関心というわけでは無く、自分とは無縁の領域だと思っているである。だから、私がモノクロ作家と行った写真談義は多分に「理念的」なものであった。

私は自分自身ではモノクロ写真をほとんど撮ってこなかったし、ゼラチンシルバープリントはただの1枚も焼いたことが無い。暗室に入った経験は中学2年生の時写真部のクラブ活動を覗きに行ったとき1度だけである。しかし、何人ものモノクロ作家と写真談義をした経験からモノクロ写真という表現における「普遍的」な部分に関しては少なからず理解を深めることができたと思う。

このブログを終えるに当たって、それらのことについて書き残しておきたいと思ってあれこれと「閑話」を続けているという次第である。何故そう思うのかというと、既に率直に書いたように、私はこのエキサイトブログの「モノクロ写真」ジャンルのランキング上位者の中の少なくない方々のモノクロ写真を見て「ちょっと違うんじゃ無い」という違和感を拭い去れないからである。しかも、彼らは互いに「いいっすね」とエールの交換をしている。

私は、誰かが、「王様は裸だ!」と声を上げておいた方が良いと思うのである。

(つづく)

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by dialogue2017 | 2017-12-31 18:30 | 閑話 | Comments(0)

閑話(50)

こんなところにモノクロ写真論のようなものを書いても仕方が無いのであるが、これは「閑話」である。「閑話」というのは「むだばなし」という意味であるから、そう了承頂きたい。

(49)に書いた話の続きを書く。2015年のショパンコンクールの優勝者が演奏に使ったピアノは「Steinway & Sons」のピアノであった。2位になったピアニストが使ったピアノは「YAMAHA」のピアノであった。3位4位5位のピアニストが演奏に使ったピアノは「Steinway & Sons」のピアノであった。世界最高峰のピアノと評される「Steinway & Sons」の面目躍如と言った結果であった。

この結果を見て、私は「Steinway & Sons」のピアノの調律師が「Steinway & Sonsのピアノは普遍的です」と語ったことの"重み”をしみじみと感じた。4つのピアノメーカーのピアノを78人の演奏者が演奏した。1次審査に臨む際には36人のピアニストがYAMAHAのピアノを選んだが、結果として1〜5位のうち4人までがファイナルではSteinway & Sonsのピアノを弾いた。私は、これは単なる偶然では無いと思う。「Steinway & Sons」のピアノには、多くの優秀なピアニストが選ぶに値する「何か」があったのだと思う。その何かとは、調律師が語った「普遍性」だと思う。

(49)に記したが、1〜3次審査までYAMAHAのピアノを弾いたピアニスト7人がファイナルに進んだ。しかし、その内の2人がファイナルでピアノをSteinway & Sonsに変更した。その結果、ファイナルの演奏者10人の内YAMAHAを弾く人5人、Steinway & Sons5人と同数になった。結果は上に記したように、1〜5位の5人のうちの4人がSteinway & Sonsで演奏したピアニストであった。優勝したチェ・ソンジンは最初から最後までSteinway & Sonsで演奏した。

ファイナルを迎える直前に面白いエピソードがあった。YAMAHAからSteinway & Sonsに変更した一人の女性ピアニスト(3位になったエリック・ルーだったと思う)に対して、Steinway & Sonsの調律師が「貴女の為の調整をして上げることができない」と伝えているシーンがあった。直前に演奏するピアニストもSteinway & Sonsを使う為、微調整をする時間が無いからである。もし、前の演奏者がYAMAHAを弾くピアニストであれば、その間にピアノの微調整をすることが可能なのである。調律師が調整を行うことによってタッチを変えることもできるし、音の鳴り方を微妙に変えることも出来るのである。しかし、直前に演奏するピアニストが同じピアノを使う場合にはそれができない。

調律師から「貴女の為に調整して上げることができない」と告げられたエリック・ルーは、「大丈夫。私がピアノに合わせて弾くから」と笑顔で答えていた。私はトップレベルのアーティストのレベルの高さに心打たれた。ファイナルでピアノを変更するというのはもの凄く大きな賭けだそうである。野球のバッターが最終打席だけバットを変えるとか、ゴルファーが最終ホールだけパターを変えるなどというとはあり得ないだろう(ゴルフの場合14本のクラブの中にあらかじめパターを2本入れていなければルール的に不可能であるがたとえ話として)。フィーリングが変わってしまうから。しかし、エリック・ルーは見事にその賭けに勝ち3位入賞という栄誉を手にした。彼女は「ピアノに合わせて演奏する」能力の持ち主であったばかりで無く、心から素直にピアノに合わせて演奏することを選べる「普遍性」の高いピアニストだったからだと思う。

これらすべてのエピソードを見ていて思ったことは、「Steinway & Sonsのピアノは普遍的です」と語った調律師の言葉の深さである。ピアニストはみな個性を持っている。好きなタイプのピアノも異なる。タッチが重めのピアノを好むピアニストもいるし、軽いのが好きなピアニストもいる。ファイナルでピアノを変えた日本人女性ピアニストは、3次予選までは「重い」雰囲気の曲を演奏したからYAMAHAの方が合っていたが、ファイナルでは「ブリリアント」な曲を演奏するのでSteinway & Sonsに変えたと変更の理由を説明した。ショパンを演奏すると言うことはそれほどまでに微妙なことなのだろう(ショパンに限らずピアノ演奏、ひいては楽器演奏のすべてがそうなのだろうけれど)。

様々な「好み」を持ったピアニスト一人一人が自分の好みに合わせたカスタムメードのピアノで演奏したわけでは無い。同じピアノでの演奏が続いたという事情もあって、基本的には1台のピアノを5人のピアニストがほとんど同じ調整で弾いたのである。その結果、上位5位に入賞したピアニストの内の4人がSteinway & Sonsのピアノで演奏していたのである。ファイナルの直前にSteinway & Sonsの調律師が「Steinway & Sonsのピアノは普遍的です」と語ったことが証明されたと言っても良いだろう。「普遍性」とは「すべての物事に通じる性質」という意味である。Steinway & Sonsのピアノは「すべての」ピアニストの要求に応える「普遍性」を持ったピアノであったと言うことである。

ここでもう一度2位になったカナダ人のピアニストのシャルル・リシャール=アムランの言葉を思い出して欲しい。彼は「YAMAHAのピアノには癖が無く、100%ピアニストの個性を発揮することができる」と語った。「癖が無い」ということは「普遍的」であるための必要条件である。ピアノ自体に過分な個性があったのではピアニストの個性を100%発揮することができないと言うことである。ファイナリストの半数は「癖が無い」YAMAHAのピアノを選び、残りの半数は「普遍的」なSteinway & Sonsのピアノを選んだ。ここには偶然とは言えない必然性が孕まれていたと私は思う。ちなみに、一番最初78人のピアニストの誰一人からも選んでもらえなかった「FAZIOLI」は自社の個性を打ち出したピアノを持ち込んだ。その結果唯一人のピアニストからさえ選んでもらえず、調律師は他の3社の傾向に近い音になるようピアノの「心臓部」をそっくり入れ替えた。

この話を「モノクロ写真」に応用して考えてみたらどういうことが言えるだろうか?

(つづく)


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by dialogue2017 | 2017-12-31 18:00 | 閑話 | Comments(0)

閑話(49)

10代の終わり頃からテレビを見なくなった。20代30代40代の30年間はまったくテレビを見なかった。子どもがテレビを見るようになった関係で、ここ数年は子どもが見ているテレビを横目で見ることはちょくちょくある。それから、以前通っていた天然温泉施設のサウナにはテレビが無かったが、3年半前から通うようになった自宅近所の銭湯のサウナではテレビが掛かっている。私は、週に4〜5日はその銭湯にサウナ入浴しに通っているため、サウナ室にいる時間(合計で25〜30分)はテレビを見るようになった。そういう流れの中で、最近は時々自分でリモコンを手にしてテレビのスイッチを付けることがある。テレビ番組が見たいと言うことでも無いのだが、時々なんとなくテレビを付ける。しかし、そんな時に限って偶然面白い番組がやっていたりするのである(ああそうか、だから最近は時々テレビのスイッチを付けるようになったんだな)。

先ほどもなんとはなしにテレビのスイッチを入れた。するとBS-NHKで「もうひとつのショパンコンクール〜ピアノ調律師たちの闘い」という番組がやっていた。いろいろな意味でとても面白い番組であった。番組の内容について詳しい説明するのは面倒なので省くが、ポーランドで5年に一度行われるショパンコンクールに「裏方」として臨む調律師たちにスポットを当てた番組である。

ショパンコンクールでは4台のピアノが用意され、出場者はその4台のピアノを弾き比べて自分が演奏に使うピアノを自由に選ぶことができる。故に、ピアノメーカーと調律師にとってもショパンコンクールは出演者たちに勝るとも劣らぬ「闘い」の場なのである。その年(2015年)にエントリーしていた4つのメーカーは「Steinway & Sons」「YAMAHA 」「KAWAI」「FAZIOLI」の4社であった。私は「FAZIOLI」と言うピアノメーカーの名前を初めて耳にしたが、1981年に創業されたイタリアのピアノメーカーである。

番組の前半は、このFAZIOLIの調律師に焦点を当てて進行する。イタリアのピアノメーカーであるが、抜擢された調律師が日本人なのである。前半では、もうひとりKAWAIのベテラン調律師も大きくクローズアップされる。ショパンコンクールというのは3次予選まであり、それを勝ち抜いた10人がファイナルに進出する。この年の参加者は78人。その中から上位6人が入賞する。78人の出演者は1次予選の前に4台のピアノを弾いた上で本番に使うピアノを選ぶ。番組の前半で焦点が当てられたFAZIOLIは最初一人のピアニストからも選んでもらえなかった(だから物語の前半の「主役」になった)。最終的には中国人の女性ピアニスト一人がFAZIOLIを選んだ。

YAMAHAは78人中36人から選ばれるという快挙を成し遂げた。最終的にファイナルに進出した10人のピアニストが3次予選までに弾いていたピアノは、YAMAHA7人、Steinway & Sons3人であった。物語前半の「主役」であったFAZIOLIとKAWAIのピアノを弾いたピアニストからはファイナリストは出なかった。「神々の楽器」とまで形容されるSteinway & Sonsを倍する評価を得たYAMAHA関係者はYAMAHAを弾くピアニストから優勝者が出ることを求め入念な準備を進める。ピアニストたちの「闘い」に劣らぬレベルで「調律師たち」(メーカー)の「闘い」が繰り広げられるのである。これは見ていてかなり面白かった。

ファイナルにはドラマが待っていた。3次予選までYAMAHAのピアノを弾いたピアニストの内の2人が、ファイナルでピアノをSteinway & Sonsに変更したのである。3次予選まではピアノソロでの演奏なのだが、ファイナルはオーケストラとの共演となる。ソロの演奏にはYAMAHAの方が適していると判断してYAMAHAを弾いたピアニストの内の2人が、オーケストラとのコラボレーションにおいてはSteinway & Sonsの方が適していると判断してピアノを変更したのである。この辺りの奥深さは実際に番組を見ないと感じ取ることができないだろう。

最終的に2位となったカナダ人のピアニストがなぜYAMAHAのピアノを選んだのかと問われた際の答えが私がこのブログで最後に書いてみたいと思っていた話しに通じるモノであった。彼は、「YAMAHAのピアノには癖が無く、100%ピアニストの個性を発揮することができるから」と答えた。1位になった韓国人ピアニスト(チェ・ソンジン)が弾いたピアノはSteinway & Sonsであった。Steinway & Sonsの調律師だけが日本人では無かった。コンクール開催地のポーランド人調律師であった(ショパンはポーランド人。念のため)。その調律師がSteinway & Sonsのピアノをたった一言で表した言葉が私にはとても印象的であった。「Steinway & Sonsのピアノは普遍的です」と彼は言った。

順位を分けたのは演奏者の技量であり、ピアノそのものが勝敗を決めたわけでは無い。しかし、優勝者や2位となったピアニストがそのピアノを選び演奏したと言うことは勝敗に小さくない影響を与えているだろう。私がこの話をここに書いた理由は、準優勝者が口にした「YAMAHAのピアノには癖が無く、100%ピアニストの個性を発揮することができるから」と言う言葉と、優勝者が使用したSteinway & Sonsの調律師が語った「Steinway & Sonsのピアノは普遍的です」と言う言葉をモノクロ写真愛好者に伝えたかったからである。

およそ芸術作品(楽器の演奏もそれに含まれると考えて良い)は「個性」が輝いていなければ高く評価されることは無い。しかし、その個性を生み出す土台は「癖が無い」ことであり「普遍的」であるということなのである。ここには「芸術」に関してのひとつの本質が孕まれていると思う。

なぜこんな話をしているかというと、私はこのエキサイトブログの「モノクロ写真」ジャンルのランキング上位者の少なくない人のモノクロ写真に生理的な違和感を覚えるからである。それは、彼らが普遍的な基礎をないがしろにしたところで「個性」を表現しているからである。もっと有り体な表現をすれば、もっとも大事な「基本」を重視していない(あるいは理解していない)ことへの違和感である。

(つづく)


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by dialogue2017 | 2017-12-31 15:00 | 閑話 | Comments(0)

来年はこういうスナップ写真を撮るのは辞めようと思う。

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by dialogue2017 | 2017-12-31 12:00 | モノクロ | Comments(0)

閑話(48)

私は、「モノクロ写真における表現手法を身につけるためにはゼラチンシルバープリントを焼いた経験が必要だと思う」と書いたが、これは厳密な表現では無い。デジタルモノクロプリントの表現手法を身につけるためにゼラチンシルバープリントを焼いた経験は必ずしも必要では無い。「不要だ」と言ってしまっても言いすぎでは無い。デジタルであろうと銀塩であろうと、「白」から「黒」に掛けての256階調で表現をしなくては成らないという点において何の違いも無いのだから。両者は本質的には同質だと言ってしまって問題無い。であれば、デジタルモノクロプリントの表現手法を確立するためにゼラチンシルバープリントを経験する必要はない。

そこまで分かっていながら私は二度ならず「モノクロ写真における表現手法を身につけるためにはゼラチンシルバープリントを焼いた経験が必要だと思う」と書いた。何故そのように書いたかというと、この文章を書いたとき、私はこのエキサイトブログの「モノクロ写真」のランキング上位者の写真を見た直後であったという事情がまずある。つまりこういうことである。今現在フィルムで写真をよく撮っている人やいまはあまりフィルムでは撮っていないがかつてゼラチンシルバープリントを経験したことのある人の写真と、ほぼデジタルカメラでモノクロ写真に取り組んでいる人の写真の「傾向」が大きく違うからである。

「モノクロ写真」ランキング上位20位の常連の方々がブログに掲載しているモノクロ写真は大きく分ければ二通りに分けることができると思う。分かりやすく言えばコントラストがはっきりしていてネット上での見栄えが「良い」タイプの写真と、ネット上で見るとインパクトが薄く少し「眠い」といえるような柔らかな写真である。誤解を避けるために付言しておくが、これは「敢えて大別すれば」という話である。この二つのどちらかにきっぱりと別れるわけでは無いことは言うまでも無いことである。一人の人の写真に、どちらのタイプもあるというケースも珍しくは無い。ただ、その上で大別すると二つの傾向だと言って良いと思う。

結論を先に書くと、好き嫌いという話では無く、モノクロ写真の基本という意味置いて、後者のタイプが「正道」である。そして、この「正道」な表現をしている人の多くは今でもフィルムで撮っている人やかつて銀塩プリントの経験をしている人が多い。そういう「現実」を踏まえて私は「モノクロ写真における表現手法を身につけるためにはゼラチンシルバープリントを焼いた経験が必要だと思う」という言い方をしたのである。

さて、ここまで読んできた人のほとんどが犯すであろう勘違いについてあらかじめ釘を刺しておこう。後者のタイプ(仮に「銀塩系」と呼んでおこう)が、前者のタイプ(仮に「デジタル系」と呼んでおこう)より良い写真を撮っていると言うことでは無い。「銀塩系」の方が撮影技量が高いと言うことでも無い。つまり、「銀塩系」と「デジタル系」の違いは写真の「上手い」「下手」という問題では無いのである。

では何が問題なのかというと、「表現手法」である。些か乱暴な話になるが、いまひとつパッとしない写真であってもとても綺麗なプリントを作ればそれなりの見栄えの写真になる。反対に、上手に撮れている写真であってもプリントが良くないとたいした写真には見えない。ようは「プリント」の作り方の問題である。写真は「プリント」という「形」で「表現」するのがもっとも一般的である。もちろん、現在のような環境にあってはネット上で完結させる「写真」表現はあり得る。いや、あり得るどころか、現在世界中に溢れている写真の90%以上はネット上で完結している。InsatagramやFlickrなどがその代表である。

私はネット上で完結する写真表現に対して否定的では無い。私自身まったくプリントをしないし、その一方でブログには大量に写真を掲載している(私の場合自分自身で見ることが最大の目的であるが)。しかし、もう少し狭義の「写真界」においては、「写真」=「プリント」である。これは今後も恐らく基本的には変わることが無いだろう。

私が言いたいことの一つは、デジタルモノクロに取り組んでいる人のブログ上の写真がモノクロ写真の「正道」から大きく外れていると言うことである。ハイコントラストであることに対する否定では無い。ハイコントラストであること自体が問題なのでは無く、ハイコントラストの見せ方が基本から逸脱しているということである。

(つづく)

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by dialogue2017 | 2017-12-30 18:00 | 閑話 | Comments(0)