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カテゴリ:写真論( 102 )

我が娘と同名の「ゆいちゃん」は2年生。笑顔が素敵だ。可愛らしい写真を沢山撮ってあげるね。

記録としての家族写真(7)_e0367501_13461049.jpg

13時も回ったというのに今日はなにもしていない。8時過ぎの起床だった。いった5時間なにをしていたのだろう? 決してボーッとしていたわけではないのだが。そうだ、昼前に今回の「旅行」で撮った写真の整理をした。21日のイベントで撮影した子供の写真ではなく、我が家の旅行の記録写真を整理した。娘のお友だちが一緒だったのでその子の親御さんにDVDで写真を差し上げるという事情もあって、写真の整理をした。

写真の整理をしていてこの先「家族写真」を撮る量も減っていくだろうと思った。いや、すでにいままでの半分以下になっている。息子は中学生になった昨春から基本的に家族旅行には同行しなくなった。昨年は夏の沖縄旅行と、冬に二度ほどスキーには同行したが、それ以外は一人で家に残った。今年はまだ一度も家族旅行に参加していない。そんなわけで妻と娘と3人で旅行に行くようになったのだが、娘がボルダリングに熱中していて、土日はコンペに参加したりレッスンがあったりして今年は旅行に行く機会自体が減った。そんなわけで「家族写真」を撮る枚数はすでに大幅に減っている。

娘は今週末も二週続きでコンペに参加する。今後週末にコンペに参加することは増えていくだろう。娘は、できるだけ沢山ボルダリングをやりたいのでお父さんとお母さんの二人で「茅野の家」に行っても良いと言う。おにいちゃんと二人で留守番出来るからと。流石に、小学4年生の娘を置いて旅行に行くというわけには行かないので旅行に行くことが減っている。いまは日常生活で家族の写真を撮ることはほぼ全く無い。娘が1年生ぐらいまでは日常生活においても沢山写真を撮っていたが、2年生ぐらいから激減し、3年生以後はほとんど撮らなくなった。それでいいと思っている。

私にとって撮る価値がある唯一の写真は「家族写真」であった。今後も、多少は撮る機会があるだろうし、「我が家の記録」を残しておくという範囲では今後も撮り続けると思うが、娘が中学生になったら、家族揃って旅行に行くということ自体が非常に少なくなるだろう。だから、私が「家族写真」を撮るのも概ねあと2年ぐらいだろう。家族の写真を撮れなくなることは悲しいことではない。家族の絆が壊れたわけではないのだから。中学生になったら子供は「一人の人間」としての自立への道を歩み始める。親は子供との関係を,一歩引いたところからバックアップをするスタイルに変えるべきである。私が最近書斎に籠もりきりになっている理由の一つは、子供との距離感をあけるためである。

7月21日に子どもの写真を沢山撮った。20人の子供の写真を撮ったのだが、10時〜16時の6時間撮り続けたのでかなりの枚数となった。もちろん6時間ずっと撮り続けていたわけではないが、1,000枚以上撮った(そんなにたくさん撮った理由は「ブランコ」や「縄跳び」をしているシーンは"連写”で撮ったからである)。イベントの記録を残すという目的で撮ったのでまずは子どもたちがその日の企画に取り組んでいる写真を撮った。この日は「ハイゼックス炊飯」と「木工」「秘密基地作り」がテーマだった。子どもたちが夢中になって企画に取り組んで作業をしているシーンの写真を沢山撮った。だから、「真剣な表情」の写真を沢山撮った。
「記録写真」を撮るというのは楽しいことである。それは「娯楽的」な「楽しさ」ではない。行われているイベント自体が有意義であることが、その記録写真を撮影することの価値を生み出している。沢山の参加者(子供・親・ボランティアを合わせると50人ほどが集まった)に、当日の写真を残して上げると言うことは有意義なことである。そして、有意義なことをすることは楽しいことである。

だれかの「役に立つ」ということは素敵なことである。
誰かに喜んでもらえるというのは幸せなことである。

だから、私は自分自身が楽しむために写真を撮るより、
誰かのために写真を撮ってあげる方が好きである。

写真館を始めた動機はそういうことであった。

誰かに喜んでもらうということは人間にとって最も大きな喜びだと思う。

誰もが恋人や自分の子供のために沢山のことをしてあげるよね。自分にとって大切な人間が喜んでくれるというのはとても嬉しいことだよね。それは、なにも自分にとって極めて大切な人に対してだけ感じる感情ではないと思う。誰かに何かをしてあげること、そのことによって誰かがとても喜んでくれること、生きていてこれ以上に嬉しいことは無いと思う。

21日は本当に久しぶりに写真を撮ったと感じた。なぜなら「人間」を撮ったからだ。私はスナップをして「充実感」を覚えると言うことは無い。撮っている時には楽しいし、撮った写真の中に気に入る写真があることもある。しかし、そのことによって「充実感」と言えるほどのものを感じることはない。そもそも、それを求めていない。何度も書いたことだけれど、私は「スナップをして歩く時間」が好きだからそれをしているのであって、結果としての「写真」に大きなこだわりは無い。だから、この10年間、自分が撮ったスナップフォトを1枚もプリントしたことが無い。私がプリントするのは"よそのお子さん”を撮ってあげた写真だけである。我が子の写真はプリントしない。

写真を撮ることは好きだ。とても好きである。しかし、新宿や渋谷や浅草に出向いてスナップをしたいとはあまり思わない。年に何度かそういうことをしているが、そのほとんどは新しいカメラやレンズを買った時で、言わば「テスト撮影」としてのスナップである。もちろん、過去に新宿や渋谷や浅草で「スナップをしたい」と思ってしたことが無いわけではない。「こんな風な写真を撮ってみたい」と思いつくことがあると東京でもスナップをすることはある。しかし、そういうことは稀である。東京でスナップ写真を撮っている時というのは、用事があって出向いた行き帰りに「ついで」で撮っていることがほとんどなのである。誰かの写真展を見に行った行き帰りにちょこちょこと撮りながら歩いた、そういう撮り方である。だから、出掛ける「用事」がないと何ヶ月でも写真を撮らないと言うことになる。事実、この2ヶ月間、イベントの記録写真撮影を担当したことと、それに参加するために「茅野」に行った際の「家族写真」以外に一度も写真を撮っていない。

江の島・鎌倉界隈界隈に行って写真を撮る一番大きな理由は、「そこへ行きたい」からである。カメラを持たずに行っても十分に楽しく過ごすことが出来る。事実、私は20代から40代始めに掛けての20年ちょっとの期間、カメラを持たずに鎌倉界隈界隈に通い続けていたのである。いまでもカメラを持たずに出かけても楽しい時間を過ごすことが出来る。ただ、カメラを手にして歩く方がなお楽しい。だから、私は江の島・鎌倉界隈界隈でばかり写真を撮っているのである。そこで撮る写真にそれほど大きな価値があるとは思っていない。私にとって大切なのは"そこで過ごす時間"なのである。他にあるとすれば、若くてスリムでとびっきりチャーミングな女の子と出会うことかな(笑)。

残念なことにこの春から撮る予定であったポートレートは、モデルさんが遠くに行ってしまったために撮影を断念した。その後すぐに、「彼女」よりもっと美人のモデルさんを見つけたのだけれど、「本気で撮りたい!」というエモーションは生まれなかった。いまはポートレートが撮れないことをあまり残念には思っていない。私は「ポートレート」が撮りたかったのでは無く、「彼女」が撮りたかったのである。「彼女」を撮るチャンスは残っている。もしかしたら、1年後に念願が叶うかもしれない。しかし、いまはそのことに対する「熱望」はない。写真を撮るということに対して覚めてしまったから。

しばらくの間、知人が月に一度開催している子供のためのイベントの写真を撮り続けて見ようと思う。私がやりたかったことは「若くてスリムでとびっきりチャーミングな女性」のポートレートフォトを撮ることだった。きっちりと"セッティング”したライトで撮りたいと思っていた。プロカメラマンとプロのモデルが創るポートレートフォトとは違う、プライベート感に充ち満ちたポートレートフォトを撮りたいと思った。ポイントは"セッティング’した撮影をすることだった。ギリギリまで光を計算してポートレートを撮ってみたいと思っていた。

子供の写真を撮るというのは私がやりたかったこととは全く違う。「あるがままに撮る」しか無いからだ。"セッティング”して撮るのとは対極的である。やってみたかったことでは無い。子供の写真は沢山撮った経験がある。自分の子供ではなく、見知らぬ他人の子供を沢山撮った。もう十分撮ったよ(笑)。自分の娘の写真も大量に撮ったしね。だから、一度も撮ったことが無かった「大人」の女性を撮ってみたかった。でも、当分の間、月に一度子供の写真を撮ってみようと思う。そう思った理由は、子どもたちの親御さんからもの凄く喜ばれるからである。喜んでくれる人のために写真を撮るというのは楽しいことである。しかも、お金を貰わずに撮れるのだから素晴らしい(笑)。お金を貰って撮影しても「お客さん」が喜んでくれればこちらも嬉しい気持になる。しかし、金銭が介在しないところにこそ「純粋な喜び」が生まれるのである。

子どもたちの笑顔の写真を沢山撮って上げようと思う。それはとても大切な「記録としての写真」になるだろう。自分の家族の写真ではなくても、その写真がその子の家族にとって大切な写真になるのであれば撮る価値は高い。

(おわり)



by dialogue2017 | 2019-07-30 14:00 | 写真論 | Comments(0)

別に言いたいことなど何もない。もう続きを書く必要も無い。なぜなら日が暮れたからである。つまり、もう「暇つぶし」をしなくても良くなったと言うことである。今からスポーツクラブに行って、家族が就寝した家に戻ってきて午前2時か3時までに本を1冊読めば本日の「ノルマ」終了というわけである。残っている「問題」は今晩読む本を選ぶことだけである。気力が衰えているので250ページまでの本にする。

別にそんなにしてまで本を読まなくても構わないのであるが、他にやりたいことが無い。だから、もし今夜本を読むことを辞めるとしたら、また文章を書くことになる。出来れば写真の話しじゃない方がいい。もうちょっと「高尚」な話を書いてみたい。「憲法改正」についての話しであるとか、対米従属を辞めた場合の国防はどうしたらよいか、「核武装」なしに独立国家として世界のパワーポリティクスの荒波をかいくぐって生き延びられるのか? というようなきな臭い話しも悪くない。あるいは、多くの人が信じないかもしれないが、実はあれでドナルド・トランプという人間は思いの外「平和主義者」であるということについて書いても良い。いや、括弧付きの平和主義者であって本物の平和主義者だと言っているわけでは無い。彼にとって「戦争」は「ディール」の「一手段」である。だから、戦争を避ける方が「得」であれば戦争を避けるだろう。そういう意味では、オバマよりもヒラリー・クリントンよりも「平和主義」的である可能性がある。トランプは、「実利」をもとめる人間であってオバマやヒラリーのように「理念」に拘束されていないからだ。トランプが登場したことによって世界が"ぐしゃぐしゃ"になりそうなイメージを持っている人間が多いが、存外、おおかたの予想とは大きく異なる展開も起こりそうだ。いや、北朝鮮問題である。最近そのあたりの「情報」を少し調べたのでちょっと書いてみたら面白いかなという思いもある。

「政治」の話しは辞めておこう。「DNA解析からみた日本人起源論」なんていう話題はどうだろう? かなり面白い話だと思うが。いや、最近読んだ本が面白かったのでその話をちょっと紹介してみようという程度の話しである(数年前までの「定説」が次々覆されていてスリリングな展開になっている)。話題はいくらでもある。ここ4〜5日に読んだ本の話題だけでも、「電力と国家」について問題、「近代アジアの精神史」について、「資本主義の克服」は可能か? などなどいくらでも話題がある。昨晩は「憲法」について読んだし、その前の日は「アレクシ・ド・トクヴィル」について読んだので「アメリカンデモクラシー」の本質についての話を書いても良い。

しかし、そんな「高尚」な話を読みたい読者は一人もいないだろう。「写真」についての話を書いてさえ「対話」が出来る読者が現れないのだ。「一人の読者」としての「特権」を所持しているshi-photo君さえ対話をするゆとりが全く無いというていたらくである。だから、ここに何を書いてもたいした意味は無い。しかし、ひとつだけ確実に達成されることがある。私の「暇な時間」が消化されると言うことだ。素晴らしい!

私にとって撮る価値のある写真は「家族の写真」だけである。しかも、それは「記録」として残すことが出来ればそれで十分に目的を達するものであって、それらの写真が綺麗に撮れている必要は無い。もちろん、できることなら「小綺麗」に撮れているに越したことはないが、それは別に私が特段の努力を払わなくても良いことである。よほど条件が悪くない限り、今のデジカメなら少なくとも7〜80%の写真は「小綺麗」に撮ってくれるからだ。だから、撮っておけばそれで良いのである。

確かに、私も娘の写真を「それらしく」撮ることに小さくない情熱を持っていた時期がある。しかし、娘は今日10歳になった。昨晩1日前倒しで誕生日を祝う食事会に出掛けたのだ、その際iPhoneで1枚写真を撮ろうとしたら「写真なんて撮らなくて良い」と拒否された。もう、プチ反抗期なのである。素晴らしいことである。少しずつ自我が確立されようとしているのだから喜ぶべきことである。娘はこれまで写真を撮られることを強く拒否したことは無かったが、私は昨春ぐらいから娘の写真をあまり撮らなくなった。旅先ではいまでも撮っているが、あくまで「記録」のための写真であって、以前のように「ポートレートフォト」風な写真を撮ることは無くなった。子供のそういう写真が素晴らしいのは小学生になる前の時期までだと思う。引っ張っても小学2〜3年生までではないかと思う。娘はいま小学4年生であるが、今後娘の「ポートレートフォト」風の写真を撮るようなことはもうほとんどないだろう。それは決して寂しいことではない。娘よ、ドンドン成長しろ。君が一人のしっかりとした人間として自立していくためには、とりあえず親なんか「うざったい」と思うようになる必要があるんだ。「写真なんて撮らないで」というのはとても正しい! 大丈夫だ、お父さんにはお前以外にとても素敵は被写体がいるから安心しろ(爆)。

と言うわけで、ついに「家族写真」は完全に「記録としての写真」として純化さる段階に至った。今後、「記録としての家族写真」を撮る枚数も激減していくだろう。それで良いのである。もう、子どもたちは自分たち自身の記憶に家族と過ごした時間のことを覚えて残せる年齢に達した。「記録としての家族写真」は最低限の範囲で撮っておけば十分である。戦後の日本人は間違いばかりを積み重ねてきたと言っても良いが、沢山の間違いの中でもっとも大きな間違いの一つとして「親子」の関係性を「ベタベタ」したものにしてしまったことを上げられるだろう。これは私の偏見ではない。非常に沢山の学者や識者が同じ指摘をしている。「ニート」や「引き籠もり」が激増した主要な原因のひとつは「親子関係」の崩壊にあると言って良い。親が子供を甘やかせて育て、親自身が子供に「もたれかかって」生きているのである。親が子供を「愛玩」の対象にした結果、社会に適応できない「子供」が大量に生み出されたのである。

元来「人間」は中学生ぐらいの年齢を迎えたら「反抗期」に入り親と「対立」するようになる。子供の側からすると親の言うことの全てが「疎ましく」感じられるようになり反発する。その時期に多少の個人差はあるが、多くの子どもたちがほぼ同じような時期に「反抗」し始めるには「生理学的」背景がある。「思春期」を迎えるとホルモンのバランスが変化するのである。ホルモンの組成の変化という生理学的機序を通じて心身共に「子供」から「大人」へと脱皮していくわけであるが、その過程には「産みの苦しみ」が伴う。古今東西、例外なく全ての「青少年」には「反抗期」があった。「社会(大人)」の側が子どもたちに「通過儀礼」を用意している社会がほとんどであった。長い人類史が生み出した「知恵」である。

しかし、20年程前から日本の子どもたちには「思春期」がなくなった。ベネッセコーポレーションが行った大規模なアンケート調査の結果によると、いまの日本人の子供の70%には「思春期」が無いそうである。つまり、親と「対立」しない「良い子」ばかりに成ったのである。その結果、子どもたちは永遠に大人とならず「アダルトチルドレン」(※)が量産された。もちろん、問題の原因としてはまず「社会的」な側面にもとめられるべきであるが、「親」がダメになったというのも決定的な原因である。戦後日本史をつぶさに検証すると、団塊世代が「友達親子」などという価値観で子育てを始めたところから間違いが始まったことが分かる。そうやって育てられた「腑抜け」の団塊ジュニア世代がいま子育てをしている。その結果、草食男子が増殖し、「亡国」が透けて見えるような国となった。ちなみに、こういう話しのベースは、沢山の社会学者や心理学者や教育学者や精神科医などの書いた書籍に依っている。もちろん、「事実」というのは「解釈」次第であるから様々な意見が出てくるわけであるが、概ね妥当だと言い切れるような否定しがたい「現実」というものはある。我が国では人間が「溶けている」。

※「アダルトチルドレン」という言葉は括弧付きで使っている。つまり、厳密な定義に即しての使用ではないということである。世間一般での「誤解」された解釈である「大人になれずに子供のままでいる大人」という意味での使用である(Adult Cildren of Alcoholicsの略で本来の定義はアルコール依存症者の保護者の元で育った子供のこと)。しかし、いずれにしろ「子供時代の行動パターンから脱却出来ない」という点において同じことである。その根底には「トラウマ」が介在しているという説が定説であったが、近年の諸研究により「トラウマ」という概念自体が「でっち上げ」られた概念だということで落ち着きそうである。もう20年以上前の話しであるが、ジュディス・ルイス・ハーマンの『心的外傷と回復』を読み込み、ある人権裁判をたたかっている弁護団に対して「書証」として提出すべきことを勧めた私としてはちょっと複雑な思いである。ちなみに、その裁判ではその「書証」も有力な「証拠」となり歴史的な勝訴となった。そのことを顧みると、なおさら複雑な思いである。ただ、私はハーマンの学説が100%無根拠だとは言い切れないと思う。フロイト理論と同じで、科学的には無根拠な学説であるが、臨床現場においては一定の有用性があるということである。

我が国において「人間が溶けている」というその一つの象徴的現れは、20代30代40代の青年たちがほぼまったく「政治」について語らなくなったことである。徹底した「政治」忌避という点において、いまの日本青年は世界の中でもただひとり突出した「異変種」であると言って良いだろう。この点については世界中のメディアが指摘していることである。一言で言って、1970年代以後に生まれた日本人の最大の行動原理は「他者との軋轢を徹底して回避する」ことである。いや、君たちが悪いわけではない。君たちをそういう人間に育ててしまった大人と社会が悪いのである。もちろん、その結果である君たちがダメ人間であることは否定し得ないが、一義的な責任を問われるべきは君たちの親と戦後日本社会である。

ああ、スポーツクラブに行く時間になった。と言っても足首と膝を痛めているので運動はお休み。サウナに入り、インターバルの際に露天ゾーンでデッキチェアに横になってボーッとして血圧を下げ、体調を整えて帰ってくるのである。そして、一気呵成に1冊読む。あまり素敵な生活じゃないな〜。しかし、「彼女」が遠くに行ってしまった段階で私は生活を「エンジョイ」することをペンディングしたのであるからこれで良いのである。

(つづく、かもしれない)


by dialogue2017 | 2019-07-29 21:30 | 写真論 | Comments(1)

なんだか(4)に至って「力説」しているような文章になってしまったけれど特に言いたいことがある訳ではない。と言うか、過去に書いた話の焼き直しでしかない。ようするに、本当に「暇つぶし」をしているだけなのである。文章を綴る代わりに、音楽を聴いても良いし、ビデオで映画を見ても良いし、散歩しながらスナップしても良い。ただ、それらのことをするよりは文章を書いている方が心地よいのでそうしていると言うだけのことである。なにか言いたいことがある訳では無い。そもそも、指が勝手に書いている文章なので私自身次の読点のあとにどのような文章が書かれるか全く分からない。分かっていたら書く気にならないと思う(笑)。

つまり「何かを書くために書いているのではない」文章である(笑)。「自分でもよく分からないけれど」書いたという文章である(笑)。と書いて、村上春樹さんの小説が思い浮かんだ(笑)。本当のところは、渡部さんの写真にしても、村上さんの小説にしても「何かを伝える」ということを全く棚上げしているわけではない(当たり前)。非常に大雑把なところでは伝えたいことがあるに決まっている。例えば渡部さんなら「何かを伝えるためじゃない写真を撮る」というかなり明確な目的がある(爆)。村上さんの場合にも全作品に共通する大きなテーマがある。しかし、個々の作品のストーリーや登場人物がどういう結末を迎えていくかは書いている途中でもよく分からないらしい。私は村上作品の中では『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が一番好きなのだが、あの小説だけは、最後主人公に「森」を抜け出させるか残らせるか決断が着かず何度も書き直したそうだ。うーん、やはり小説を書くというのは写真を撮るより深いと思う。

改行して1行空けて行頭にカーソルを持ってきたところで指が止まった。瞬間的に書くことを思い浮かべられなかったからではない。反対である。指に任せていたらキリが無いから「止めた」のである。つまり「考えずに書く」と言うことを辞めて、一端考えてから続きを書いてみようと思ったのである。しかし、すぐに再開した。だって、考えるのは面倒だから(笑)。いや、考えてまで書きたいわけじゃないのである。

あらゆることには共通する部分がある。いや「あらゆること」と言ってしまったら言い過ぎなので「多くの物事には」と言い換えておこう。私は、「オートマチック」に文章を書いている。ほとんど指が勝手に書いていて、私自身が考えて書いているという実感が薄い。何かに似ている。そう、写真を撮るときと似ている。私は「被写体」にレンズを向けて無造作にシャッターボタンを押す。文章を書くときよりは考えて撮っているような気がするのだが、最近は露出にはほとんど気を配らない。AE任せで露出補正無しで撮ってしまうことがほとんどになった。極端に輝度差があるとか、ハイキーやローキーに振りたいと言うようなケース以外は補正を掛けずに撮っている。カメラのAEの性能が高いのでそれであまり露出が外れないのだ。外れると分かっている時だけ補正を掛けているが、±1EV程度ならレタッチで処理しても同じことだ。まあ、実際には±0.33〜0.67EV程度しか外れないことが多いので補正を掛ける必要性があまりない。どのみちレタッチでレベル補正ぐらいは行うのだから、その時に調整すれば良い。

となると撮る時に考えていることはアングルぐらいだろう。それも頭で考えているというような感じではない。ほとんど「反射」的に決めている。というか、性格がいい加減なので「キッチリ」撮ろうと言う考え自体が無いのである。寧ろ、物事を「キッチリ」やると言うことを嫌ってさえいる。「優等生」が嫌いなのだ。生まれついての「やくざ」なのである(笑)。それでもなんとか写真が撮れるには二つのわけがある。一つ、カメラの性能が高いから。二つ、頭の中に「オートメーション」機能が出来上がっているから。息子が生まれた2005年8月から丸14年間写真を撮り続けてきた。2012年の9月から2014年の5月末までの1年9ヶ月間写真館を経営し仕事として写真撮影を重ねた。3人のプロフォトグラファーと一緒に仕事をした。写真館を開店させる前、渡部さとるさんさんからスタジオライティングを教わった。チーフカメラマンを務めて貰った逢坂君は、渡部さんをして「彼がいるならもうオレが手伝う必要は無い」と言わせたベテランカメラマンである。1年9ヶ月間の撮影の90%ぐらいの相棒であった泉大悟君は渡部さとるさんの最後のアシスタント出身カメラマンである。モノクロ作家としては、かの清家富雄さんが絶賛する逸材である。泉君と一緒に仕事をしたことは私にとって財産となった。

わずか1年9ヶ月間とは言え、仕事で写真を撮った経験は大きいと思う。と書いて思いついたことがある。私がいま撮っている写真は、飯塚達央君に「そんな才能があるとは」と褒められた2008年ごろの写真とそれほど変わっていない。だとしたら、「プロカメラマン」経験はあまり意味が無かったとも言える。しかし違う。確かに私が撮っている写真は2008年頃に撮っていた写真とあまり変わっていない。けれども、私の頭の中に「蓄積」された経験の量は圧倒的に増えた。それが何かの時に出ているはずである。

「技術」というものは「理解」するものではなく「体得」するものである。極論すれば「仕組み」を良く理解していなくても「操作」がきちんと出来れば良いと言うことである。しかし、「原理」を「理解」していれば強い。その上で、最終的には「体得」しなければならないのが「技術」である。だから、「場数」を踏む必要がある。なんのことはない、沢山写真を撮れば良いだけだ。と言っても、10年20年と撮り続けていてもからっきし下手くそな人もいる。人間には「向き不向き」がある。言い換えると「才能」のあるなしである。こればかりはどうにもならない。ただし、写真を撮るなどと言う程度のことはそれほど「才能」が必要なことでは無いと思う。少なくともミラーレスカメラは原理的には誰にでも奇麗な写真を撮れる仕組みの機械である。ただし、どういう写真が「美しい写真」であるかを理解していなければどうにもならない。ここだな。

文章を書くときと同じで、写真を撮るときもほとんど考えずに撮っている。そういうものじゃないのかな? 人のことは分からないけれど私にとっては考えるような営為では無いと思う。ただ被写体にレンズを向けてシャッターボタンを押しているだけだ。それだけ。私は「平凡な写真」が好きなのでそれ以上の「操作」をする必要はあまりない。絞りについてもあまり考えない。真剣に撮る必要があるときには開放からちょっと絞る。失敗しても構わない撮影なら開放でドンドン撮る。ああ、これは人物を撮る時の話しね。

私は基本的には「カメラに写真を撮って貰っている」。良い写真になるかどうかは、カメラとレンズ次第である。だから、良いカメラと良いレンズを使って写真を撮ることにしている。

※今日は娘の10歳の誕生日。いまからバースデーケーキを買いに行くので一端ここで「筆を置く」。「一時保存」しておいて続きを書いても良いのだが、私は書き終わったらどんどん投稿してしまいたい性格なので中途半端な終わり方であるが投稿してから買い物に行く。こんな「但し書き」を書いた理由は、このエントリー、なんだかスッキリしないのである。やはり「一時保存」にしておこうかな(笑)。



by dialogue2017 | 2019-07-29 18:00 | 写真論 | Comments(0)

口さがない物言いで恐縮であるが、そもそも私は「写真がうまい」などということにほとんど価値を感じていないのである。フィルムカメラの時代であればともかく、これほどまでに性能が高くなったデジタルカメラの場合、きちんとその「原理」を理解すれば「美しい写真」を撮ることは難しいことでは無いからである。煎じ詰めれば写真が奇麗に写る「光」で撮影すれば良いと言うだけのことである。プロカメラマンがやっていることはそういうことである。であれば、彼らと「同じ条件」で撮影すれば良いだけの話しである。彼らとてなにか特別なことをやっているわけでは無いのである。「奇麗な光」で写真を撮っているだけである。

"available”な(手に入る)ものとしての光で不十分な場合は、自分自身で光を創り足せば良いだけのことである。レフ板で光を返すとか、壁などからのリフレクションを利用して撮るとか、ストロボを使って撮ると言うことである。つまり「ライティング」した上で撮影すると言うことである。たしかに、それらのことは「技術」であるから一朝一夕で身につくことでは無い。しかし、昔と違い分かりやすいライティングの教科書が沢山出ているし、「イルコ」の動画のような理解しやすい「レッスン」を無料で「受ける」ことも出来る時代である。なんと言っても、デジタルカメラの場合、撮影した直後に撮影画像を確認することができるのだから、原理的には撮りたいと思うように撮ることは難しくは無いのである(ミラーレスカメラの場合、EVF内や背面モニタに表示されている画像が「撮影結果」画像である!)。露出の計算などはカメラが基本的にやってくれる。奇麗な写真が撮れるのは当たり前のことなのである。AI技術の進歩で、数年後にはほとんどの撮影はカメラが自動的に出来るようになり、プロカメラマンが必要とされるシーンは限られるだろうと言われている。いや、すでにもうそういうAIによる「プロカメラマンシステム」が出てきている。

一昨年末に安達ロベルトさんとじっくり話した際に彼が「もう、ストレートフォトでは作品として成り立たない時代ですね」と言っていた。つまり、いまでは誰にでも簡単に奇麗な写真が撮れるようになってしまったと言うことである。安達さんがこの1年程の間に、写真だけでは無く「絵画」や「音楽」とのコラボレーションという形での表現を始めたのもそういう状況を見据えてのことではないかと思う。「美しい写真が撮れる」というだけのことでは作家としてやっていけない時代になりつつあるのである。

そんなことは10年前には十分分かっていたことであるし、この4〜5年のデジタルカメラの飛躍的な性能向上(具体的にはミラーレスカメラの登場)によって、最後的に「だめ押し」され終わっていたことである。「綺麗な写真を撮ることが出来る」というのはもう「特別な技術」ではなくなってしまったのである(いまや下手くそに撮ることが特殊技術だ)。実際、最近は大学生ぐらいの若い人が生まれて初めてカメラを手にして写真を撮り始めて、即座に写真作家並みの作品を撮ってしまうと言う人がどんどん出てきている。その一方で、既存の写真作家の中では今までと違う撮影手法を探すという試みが増えている。渡部さとるさんから聞いた話なので作家の名前を覚えていないが、ある写真家が若い女性の自宅(自室)にカメラをセッティングさせてもらい、赤外線センサーが反応すると自動的にシャッターが切れるように設定して、そうやって撮影した写真を「作品」として展示したそうだ。いったいその「作品」は誰が撮影したのだろう? もう、そこまで来てしまったのである。渡部さんはこの件をひとつの象徴として語ったのだが、それは作家の「作家性」などというものが成り立たない時代になって来たという話しである。

そういう認識があるからか、2年程前から渡部さん自身作品の「作り方」をどんどん変えている。2016年1月の個展「Demain」では自分が子供時代の写真を展示したり、100%無縁の他人のアルバムの写真(たしかどこかで拾ったアルバムの写真)を複写して展示するという「荒技」を成し遂げ写真作家の中に賛否の論議を生んだ。しかしである。自分が撮った写真を展示して「おれこういう写真が好きなんだよね」と見せることと、誰か他人の写真を"選んで”複写して「おれこういう写真が好きなんだよね」と見せることはその本質においてはほとんど同じことかもしれない。

2018年1月の個展「2Bとマンデリン ーそして僕はこの町を離れるー」では8×10で撮った写真の「ベタ焼き」の展示をメインにした。なぜそういうやり方をしたのか聞いてみたのだが「8×10だと作家の意図なんてほとんど持ち込めないから」という返答だった。「馬鹿でかい三脚に大きくて重いカメラを載せて街を歩くだけでもう大変。どこかでセッティングして1枚撮るだけで大変なんだよ。こう撮ろう、ああ撮ろうなんて作品性を込める余裕なんてほとんどなくなる。目の前にある物を撮るだけで精一杯なんだよ」と言うことだった。つまり、彼は「こう撮ろう」という作家自身の「意図」を排除して作品を撮ろうと考えたわけである。初めは長年撮り続けてきたRolleiflexで撮り始めたそうだ。しかし、すぐに8×10に切り替えた。「だってさ、Rolleiだと撮れちゃうんだよ。もう、適当に撮っても撮れちゃう。ほら、あそこにローライで撮った写真があるでしょう(と言って展示写真を指差し)、格好いいだろう? 適当に撮っても格好良く撮れちゃうんだよ。そんな写真撮っても意味ないんだよ。もう、格好いいなんて格好良くないんだよ。だから8×10なわけ」と説明してくれた(昨年の個展の初日の開場直後の話し)。

そして今年1月の個展「IN and OUT」では「写真が写真である写真」がテーマだった。個展のステートメントには次のように記されていた。


「IN and OUT 」

右があれば左もある。

晴れている日もあれば、雨が降っている日もある。

うまういくこともあれば、途方にくれることもある。

出会う人もいれば、別れる人もいる。

外に出たい日もあれば、家でじっとしていたい日もある。


何かが撮りたくて撮るんじゃなくて、

撮るために何かを探すことだってある。


何かを伝えるためじゃなく、

自分でもよくわからないけど撮ったもの。

何かを写したものじゃなくて、何かが写っているもの。

役割を持たされた写真じゃなくて、写真が写真である写真。

そんな写真を撮ってみたい。


渡部 さとる


凄いよね。写真作家が「何かを撮りたくて撮るんじゃなくて、撮るために何かを探す」んだと言ってしまうのだから。つまり、「撮りたいもの」があって撮るのじゃ無く、「撮る」という目的のためになんとか「何か」を探して撮っているんだと。そして、「何かを伝えるためじゃなく、自分でもよく分からないけど撮ったもの」を作品として展示したんだと。それは彼自身が「何かを写したもの」じゃなくて、「何かが写っているもの」である写真であると。彼と差しで話をしている時に聞いた話しを教えよう。渡部さんはあの展示写真をFUJIFILM GF670Wとい中判フィルムカメラで撮影したんだけれど、撮影する際、電車の先頭車両とか最後尾の車両の「窓」(米坂線の電車の運転席は「半分」になっていて残り半分は乗客が先頭部の窓に触れることが出来る構造になっているそうである)にカメラのレンズを押しつけて、適当に無造作にシャッターを切ったそうだ。


展示写真は動いている電車の中から撮った写真なので「流れ」(被写体ブレ)がある写真が多いのだけれど、その流れ(ブレ量)が一定していない。どうしてそうなったか聞いてみたら「デジカメと違って撮った直後に確認出来ないじゃない。撮り終わって東京に帰ってきてフィルムを現像してみないとどう写っているか分からない。どんな流れ方しているか自分でも全く分からないわけさ。で、適当にシャッタースピードを変えていろいろ撮ってみたの」つまり、撮影段階で「こういう写真にしよう」という意図がはっきりと反映されていないと言うことである。言い換えると「どう写っているか分からない写真を撮っている」と言うことである。だから、「何かを写したものじゃなく、何かが写っているもの」としての写真なのである。乱暴な言い方をしたら、作家が写真を撮っていると言うより「カメラ」が写真を撮っているというのに近い。


こうやって、2016年以来の渡部さとるさんの個展の作品の撮り方を振り返ってみると、彼は作者である自分の撮影意図を可能な限り棚上げして作品を撮っていることが分かる。「撮っている」どころか他人の撮った写真を自分の作品として展示さえしている(写真集の中にも収録している)。そして、今年の秋から年末に上梓される予定の新しい写真集のタイトルは「じゃない写真」だそうだ。「そんなの写真じゃない」の「じゃない」だそうである。「写真が写真である写真」の次は何処に一句のだろうと思っていたが、あれからおよそ半年で「じゃない写真」まで来た。いよいよ来るところまで来たという感じである(笑)。


長い話になってしまったけれど、「格好良い写真を撮る」(あるいは「撮れる」)ということはもうほとんど価値のない時代になってしまったと言うことである。私は一昨年の夏だったか、写真家の石川直樹さんが女子高校生に「写ルンです」で撮らせた写真の展示を行った写真展を富士フイルムスクエアで見たのだけれど("この展示")、同時に展示されている石川さんの写真より女子高生の撮った写真の方が断然素敵だった(失礼)。「邪心」がないということの凄さを目の当たりにした。「なにかを撮った」というレベルで撮影していないから素晴らしい写真になるわけだ。女子高生は「バカ」だからそんな作為はできない(笑)。でも(だから)、すごく良い写真が沢山あった。


それは「写真が写真である写真」だった。


(つづく)




by dialogue2017 | 2019-07-29 17:00 | 写真論 | Comments(0)

この話は過去に一度ならず書いたことがある話しであるが、ここで語ろうとしていることに深く関連する話しなので、多分3度目となるが、簡単に書いておくことにする。(2)の中に記したように、写真家の飯塚達央君は2010年4月に東京で個展を開催した。たしか2009年末であったと思うが、翌年春に予定している個展に展示する予定の写真に自信が持てなかった飯塚君は、先輩写真家である渡部さとるさんを訪ねて自分の写真についての講評をしてもらうために上京した。その時の詳しい話しはどこかに書いたのでここでは書かない。

いまは無き江古田の「2B」での飯塚君の写真の講評が終わった後、渡部さんが「じゃあ、一杯やりに行こうか」と提案してくれて我々3人は江古田駅前の焼き鳥屋で飲んだ(夕刻から終電間際まで飲んだ)。私と渡部さんはこの時が初対面ではない。その前年に飯塚君と二人で渡部さんの個展を見に行った際に飲み会に参加し、渡部さんと差し向かいで話しをしたことがあった。しかし、それは作家とファンという間柄でありプライベートな交流はなかった。プライベートなふれあいという意味ではこの時が最初である。

「2B」のあった「グリーンマンション」の階段を降りて江古田駅に向かって歩き始めるとすぐに渡部さんに声を掛けられた。「Hさん(私のこと)も写真やってるの?」「いえ、やっていません。僕は、家族の写真と旅行の写真ぐらいしか撮りません」と答えた。すると間髪を置かず渡部さんが言った。「正しい。それが一番正しい写真の撮り方だ!」と。後に渡部さんともっと親しくなってからこのことについて話題にしたことがあるが、その際、渡部さんは改めては「写真なんて『家族写真』と『旅行写真』を撮れば十分だと思う」と語った。それが「一番正しい写真だ」と。

正直な話しをすれば私は「家族写真」と「旅行写真」しか撮っていなかったわけではない。当時も年に2〜3回は鎌倉界隈になど出向いてスナップをすることがあったし自宅近辺で、中判フィルムカメラを使ってスナップをすると言うこともあった。ただ、私には「写真をやっている」という実感は無かった。まず、私は自分でプリントを焼いた経験が無い。当時はデジタルカメラで撮った画像はそのまま保存していてレタッチさえしていなかった。ブログを始めていなかったので撮った写真を「発表」する場所が無かったのでレタッチする必要性が全く無かったのである。ちなみに、私が最初のブログを始めたのは2010年の1月1日からのことで、直接的なきっかけはその数日前に渡部さとるさんから頂いたメールであった。渡部さんから「Hさんは文章がとても上手い。説得力がある。文章で表現しないのはもったいない」というようなことをメールに書いてくれたのを読んだことがブログを始める動機となったのである。

私はスナップも時々はしていたし、飯塚達央君の写真が好きだったのでそれを真似て「風景写真」のような写真を撮ったことも何度かあった。息子が生まれてからも息子を背負って山登りをしていたので、そういう機会に山の写真などを撮ったことがあった。しかし、そういう写真も「旅行中」に撮ることがほとんどであったし、「いつか発表したい」というような思いは全く無かった。

つまり、私には写真を「作品」として発表したいという気持が全く無かったのである。私にとって撮る「必要性」があるのは「家族の写真」だけであった。「旅行写真」の90%までは「家族旅行」中に撮るので「家族写真」の範疇に含めてしまっても良いと思う。私にとっては「家族写真」だけが撮る「価値」がある写真であって、それ以外の写真はほんのちょっとした「遊び」でしかなく、「自己表現」とはほど遠いものであった。そういう点で、私は渡部さんや飯塚君のような「作家」とはまったく違った。だから私は渡部さんから「Hさんも写真をやっているの?」と聞かれたとき「やっていません」と答えたのである。

写真を撮ることはとても好きだ。それ以上にカメラが好きである。私にとって「どういう写真を撮るか」ということはそれほど大事なことでは無い。私が興味を持つことは、「このカメラはどんな風に写るのか?」ということと「このレンズはどういう描写をするのか?」という二つのことである。自分自身の「表現力」を通して何かを「表現したい」という気持はほとんど無い。カメラやレンズがどういう写真を「作るか」と言うことに興味があって、自分自身がどういう写真を撮るかということにはそれほど強い執着が無いのである。

だから、ある意味ではなにを撮っても楽しいと思う。なにしろ「どういう写真を撮りたい」というような思いはあまりないのである。だから被写体を選ばない。なにを撮ってもいいのである。私は、カメラやレンズがどういう「描写」をするかに興味があるのである。つまり、自分が何かを「作り出す」ことへの興味ではなく「カメラ」や「レンズ」が「生み出してくれるもの」に興味があるのである。そのため、私は"美しい写真"を撮りたいというこだわりも強くない。写真のどこか一箇所の描写されかただけを楽しみにして撮っていることが多い。例えば、「ボケ味」であるとか、「ハイライト」のにじみ方であるとか、そういうカメラやレンズの「描写力」が現れる「部分」だけに興味を持って撮っていることが多い。

私は写真を撮ることがとても好きだし、カメラやレンズは大好きである。しかし、やれLEICAだハッセルだというブランド志向は全く無い。私はカメラに限らず有名ブランドが嫌いであるし、ブランド好きの人間も嫌いである。私は有名レンズに興味があるわけではないし、オールドレンズになどなんの興味も無い。確かに、Zeissのレンズに対する「愛好」はある。しかし、それはZeissというブランドに対する「愛好」ではなく、自分が雑誌などで目にした写真の中で「いいな」「素晴らしいな」と思った写真の多くがZeissのレンズで撮られていた写真だったので使い始めたということに過ぎない。私は純粋にZeissのレンズの「作る絵」に興味を覚え愛好を抱くようになったのである。

今回Planar 50mm F1.4 ZAとDistagon 35mm F1.4 ZAをちょこっと使ってみてこの2本のレンズの描写性能が極めて高いことに改めて驚いた。この2本のレンズで撮ればいつでも素晴らしい写真になるという話しではない(魔法のレンズではないのだ)。しかし、レンズの実力をきちんと引き出すような写真を撮ると「違うな」と思う写真が出てくる。私はFUJINONレンズがとても気に入っていて、XF35mm F1.4 R、XF56mm F1.2 R、XF90mm F2 R LM WRの3本は本当に素晴らしいレンズだと思っている。残りの人生のスナップにはこの3本だけがあればそれで十分だと思うほど気に入っている。カメラもX-T20で十分である(出来ればX-T30に変えたいけれど)。それほどFUJIFILMのカメラとレンズにべた惚れであるが、今回Distagon 35mm F1.4 ZAで撮った写真を見てしみじみ「違うな〜」と感じさせられた。

ただし、スナップをするのに必要だとは思わないし、家族の写真を撮るためであればFUJIFILMのカメラとレンズでなんの不足も無い。仮にα7ⅢとPlanarやDistagonを手放してしまったとしても、後ろ髪引かれること無くX-T20にXF35mmやXF56mmで家族の写真を撮り旅行の記録写真を撮っていくだろう。なぜなら、私にとって「家族の写真」は「作品」ではなく「記録」だからである。別に、格好いい写真である必要など無いのだ。もちろん、きれいにとれている方が良いに決まっているし、時々は「素敵!」と言われるようなレベルの写真を撮って見たいとは思う。しかし、そんなのはたまにあれば十分だし、とくに意識しなくても、奇麗な光が差している場所に出逢ったときにはシャッターボタンを押すだけで美しい写真が出来上がるのである。そういう機会に恵まれたら素敵な家族写真が生まれる。それ以外の時には「普通の家族写真」で十分である。

そもそも、私が撮っている「家族写真」は、私がこの世を去った後、妻や子どもたちに観て貰うために撮っているのである。もちろん、私自身も生きている間にはそれらの写真をくり返し見るだろうし、人生の晩年、死の足音が聞こえだした頃には深い感慨を抱いてそれらの写真を眺めることだろうと思う。しかし、私は自分自身のために撮っている訳では無い。二人の子どもたちに残して上げたいと思って撮っているのである。だから、「格好いい写真」である必要もないし「美しい写真」である必要もない。

そこに私の愛する家族が写っている限りにおいて、その写真は私とっては十分なまでに「美しい」のである。

(つづく)



by dialogue2017 | 2019-07-29 15:30 | 写真論 | Comments(0)

自分の"写真歴"について書きたいわけでは無い。昨日書いた「35mmレンズと50mmレンズの使い道」の末尾に出した「問題」の解答を書いておこうと思って書きだしたのだった。で、いつもどおり見事に脱線したということである(笑)。

ようするに「暇つぶし」をしているのである。55日間途切れることなく毎日1冊の本を読了するという私の人生史上初めての「勤勉」な日々を過ごした。その間に82冊読んだ。1日約1.5冊のペースである。数年前までなら1日2冊でも「どうってことない」ペースであったが、いまは目のコンディションが悪く長い時間続けて読むことが出来ないため1日1.5冊ぐらいが「限界」になっている。1日3冊読む日もあるけれど平均したら1日1.5冊ぐらいが無理の無いところである。55日間連続記録が途切れたら気持が切れた。本を読む気にならないと言うことではないが、ちょっとの間本から離れていたい程度までには気持が切れた。それでも1日1冊は読んでいる。昨晩は『憲法改正大闘論』(中曽根康弘・西部邁・松本健一)を読んだ。

しかし、朝から本を読む気にはなれない。いや、昼間も読む気になれない。梅雨が明けて暑くなったせいもあるだろう。ここ数日は禁を破って書斎のエアコンを掛けているのだが、それでも読む気になれない。読もうと腹をくくれば読めるけれど、腹をくくってまで読もうと思えない。と言うわけで、当面は夜に1冊だけ読むことにした。そんなわけで日中が丸々「暇」になった。で、ブログを書いていると言うことである(笑)本を読むときには老眼鏡を使わなければ読めないが、パソコンで文章を書くときには老眼鏡無しでも書くことが出来る。老眼鏡なしは快適である。

どこかに出掛けたいという気持はない。歩くことが好きなのだがこの暑い中歩く気にはなれない。仮に涼しかったとしてもスナップをしたいという気持が全くない。だから文章を書いている。私は写真を撮るより文章を書くことの方が好きなのだ。

閑話休題。

2005年に写真家の飯塚達央君と親しくなった。2010年に彼が東京での個展開催を前に、展示予定の作品の講評してもらうため先輩写真家の渡部さとるさんを訪ねた。飯塚君はシャイな男で一人で渡部さんを訪ねることに気後れして私に「同伴して欲しい」と頼んできた。渡部さとるさんは大好きな写真家だったので私は喜んで同伴した。それが契機となって渡部さんとの交流が始まった。同じ時期、小澤太一君とも親しくなり、それが縁で塙真一さんとも親しくなった。その数年前から森谷修さんとも交流があった。2010年〜2012年ぐらいに掛けて私は「写真業界」の人間が集まるような場に顔を出す機会が増えた。

昨日書いた「子供のポートレートは難しい」の中で、土屋勝義さん、渡部さとるさん、飯塚達央君、小澤太一君と5人で飲んだ時の話を書いたが、これも2010年のことであった。当時、この4人の中では飯塚君が一番売れていたんじゃないかという時期だった。もちろん他の3人の方がキャリアも実績も上ではあったがこの頃は飯塚君が注目を集めていた。ちなみに土屋・渡部・小澤の3人はみな日大芸術学部写真学科卒であるが、飯塚君は静岡大学を卒業した後ふつうのサラリーマンになったという経歴。2〜3年でサラリーマンを辞め、僅かな退職金を持って大好きな北海道にツーリングに行き、そのまま住み着いてしまい写真家になったのである。彼は写真学校に行ったことはなく、著名写真家のアシスタント経験もない。ただの写真好きのアマチュアが独学の末にプロフォトグラファーになったという経歴である。才能があればそういうことが必ずしも困難では無い職業である。プロフォトグラファーの誰もが口にしているが「写真にプロもアマもない」のである。ヘタなプロより上手いアマチュアなんて沢山いる。しかし、そういう人はだいたいプロになってしまう。

話しが戻るが、2010年頃には写真業界の人が集まるような席に顔を出すことが沢山あった。上に書いた4人の写真家と飲んだ晩のことだが、どういう話しの流れだったかわすれたが、私が「オレは業界人じゃないから」と言ったらたいちゃん(小澤君)から「なに言っているんですが、Hさんは事実上業界人ですよ。そう想っている人も少なくないですし」と反論された(笑)。これは私が写真館を始める2年も前のことである。2011年の「CP+」の際には、ある著名写真家から「Hさん、○○さんと親しくされいるんですよね? 紹介していただけますか」と頼まれ、著名写真家を著名写真家に紹介する労を執ったなどという笑い話のような出来事もあった。ある写真家の個展のオープニングパーティーのあとの二次会の席で、3人の写真家から「同業者だと思っていました」と言われたこともあった(笑)。それくらい「業界人」が集まる場に良く顔を出していたのである。

そんなわけで写真業界には割と沢山の伝手が出来た。カメラメーカーの方とも交流があった。そういう事情であったため、私がプロフォトグラファーを目指したり、あるいは写真作家を目指していたらそちらに歩むためのいくつものルートがあった。また一つエピソードを上げると、2011年だったか2012年だったかに銀座の「キヤノンギャラリー」に個展を見に行った際の話しである。大きなサイズのプリントが展示されていて、そのプリントのクォリティーの高さが目を引いた。私は作家に「どこのラボでプリントして貰ったんですか?」と尋ねた。「○×▽でお世話になりました」「ああ、あそこは○□△さんのこだわりが半端じゃないからね。いま東京で一番じゃない」と話すと「○□△さんをご存じなんですか?」と聞かれた。「いや、それほど親しくしているわけではないけれど、まあ少なくとも挨拶を交わすような間柄です」と答えた。なんと、その会話の1分後にその場に○□△さんが現れ私を見つけるなりに「ああ、Hさんお久しぶりです」と私に声を掛けたので、その展示をやっていた写真家は目を丸くしていた。そのあと○□△さんとああだこうだと話をしたのだが、展示をしていた作家より私の方が業界の事情に通じていたのである。その作家は、数年後まで私を同業者だと思っていたと言う話を後日聞いた(笑)。

まあ、そんなわけで、2010年〜2012年ぐらいに掛けて、私は何人かの写真家と親しく交流することを通じて「写真業界」の一端を垣間見る機会に恵まれた。当時、数人の写真家やカメラメーカーの方のブログに私の名前が登場したりしていたほどである(笑)。私が「写真業界」との交流を断ったのは、自分が写真館の経営を初めた後である。「街の写真屋」さん稼業を初めて「写真業界」に違和感を覚えたのである。いや「違和感」というか、両者は同じように「写真」を生業としているが似て非なる「業界」である。一言で言って、町の写真屋は"コンシューマー"相手の仕事であって、コマーシャリズムとは無縁である。

私がやりたかったのはコマーシャルベースのことではなく、一人一人の「顧客」の「記録としての家族写真」を残す手伝いだったのである。

(つづく)

懐かしい写真を掲載しておこう。写真右上より時計回りに土屋勝義さん、小澤太一君、私、飯塚達央君、渡部さとるさん。当日の小澤太一君のブログに掲載されていた写真である。これは当時小澤君が良くやっていた撮り方なのだけれど、テーブルの上にタイマーをセットしたRICOH GRDを置いてみなが立ち上がって真上からカメラを覗き込むのである。2010年4月24日撮影(だと思う)。

記録としての家族写真(2)_e0367501_13521153.jpg


by dialogue2017 | 2019-07-29 14:00 | 写真論 | Comments(0)

なんどもなんどもくどいほど書いたことだけれど、私にとって大切なのは"記録としての写真”だけである。そもそも写真を日常的に撮るようになったのは14年前に息子が生まれたときからである。息子が生まれるまでの5年間は妻と二人で暮らしていた。その頃には年間15回以上旅行に行った。そのうちの10〜12回ぐらいは山登りで、下山した後に温泉宿に泊まるというパターンであった。場合によっては二つの山を登ったり、観光旅行と組み合わせて2泊3泊することも多かった。そういう旅行の時には写真を撮っていた。一緒に暮らし始めた翌月、妻はまだ"はしり”の時代であったデジタルカメラを買った。2001年2月の話しであるが、240万画素しかなかった。しかし、当時はそれでも79,800円もした。

そのデジカメで旅行中写真を撮ったのだが、1日に30枚ぐらいしか撮らないことが多かった。今考えるとどうしてそんなに少ししか撮らなかったのか不思議である。いまなら1日に300枚撮ることだって珍しくない(今年からは50枚とか撮っても100枚程度になったが)。私はそのチープな写りのコンデジにあまり強い興味を持てなかったのだ。コンデジは妻が使うことが多かったので私は山ではフィルムで写真を撮った。妻が学生時代に使っていたEOS KISSを借りて使った。レンズは安物の高倍率ズーム(TAMRONの28-300mm)。フィルムはPROVIAを使うことが多かった。妻と二人で暮らしていた5年間だけで100回に手が届くほど旅行に出掛けた。しかし、撮った写真の枚数は少ない。その当時、私は旅行を楽しむと言うことだけで十分で、写真は最低限の「記録」として撮っていただけだった。写真を撮る目的は「記録を残す」ことでしかなかった。

写真をたくさん撮るようになったのは2005年に息子が生まれてからである。私は毎日息子の写真を撮った。デジタルカメラでも撮ったが、フィルムでも撮った。「記録を残す」と言うことが最大の目的であったが、だんだん写真を撮ることそのものに夢中になり出した。写真を撮ることに本当に熱中し始めたのはEOS 5D(初代)を使い始めてからである。5Dを使う前は安物のズームレンズで写真を撮っていたのだが、5Dを使い始めてから単焦点レンズで撮るようになった。と言っても、その当時愛用していたのはEF50mm F1.8 Ⅱだった。「日本一安い一眼レフ用レンズ」と呼ばれていたレンズである。私は新品を8,400円で買った。プラスチック鏡胴の安っぽいレンズだけれど私はそのレンズが気に入って5Dに付けっぱなしとなった(軽いのが良いのだ)。ズームレンズもSIGMAの18-50mm F2.8に変えた(良いレンズだった)。2007年のことである。

2010年に写真家の小澤太一君からSIGMA 50mm F1.4と85mm F1.4の2本のレンズを借りたことが私の人生を変えたと言っても良い。この2本のレンズを借りたその日から、私は、それ以前にも増して写真を撮ることに熱中するようになった。挙げ句、2012年の秋から写真館まで始めてしまった。小澤君からレンズを借りていなければ写真館はやっていなかっただろうと思う。彼から2本のレンズを借りて沢山写真を撮ったことが写真館開業へと繋がった。いや、それだけでは写真館はやらなかっただろう。2012年3月末に渡部さとるさんから「オレが手伝うからやろうよ」と声を掛けて貰っていなかったら私は写真館を始めてはいなかっただろう。

もうひとつ「遠因」があった。息子が3歳になる前後のことだったので2008年のことだったと思う。息子の保育園の遠足で上野動物園に行った。クラスの子どもたちの写真を沢山撮ってプリントして親御さんに配ってあげた。すると保育園の事務長から呼び出された。「クラスメイトのご家庭に写真を差し上げるのは構いませんが、業者さんの写真販売が終わった後にして下さい。悠太君のクラスの写真がまったく売れなくなってしまい写真屋さんから苦情が届きました」とのことだった。私が撮った写真の方が断然素敵だったのだ。「ユウタパパの写真の方が断然素敵。比べものにならない」と喜ばれたのである。自分で言うのも何だが、歴然とした違いがあった。それはそうだ。私は本気になって素晴らしい写真を撮ってあげようと思って撮っていたのだから「お仕事」で撮っているカメラマンになど負けるわけがない。それにこっちはEOS 5Dだ(笑)。

息子の保育園でこんなことあったんだよと言う話を北海道の写真家である飯塚達央君にメールした(彼とは2005年以来非常に親しくしていた)。その時、「こんな写真を撮ったんだ」と3枚の写真をメールに添付した。すぐに返事が届いた。「まさかHさんがこんなに大きな才能を持っていたなんてまったく気がつきませんでした。スナップを見せて貰っていたときにはなんとも思っていませんでしたが、今回の子供の写真を見て、その才能の凄さに驚きました。完全にプロレベルの実力です」と書かれてあった。飯塚君は私の写真を絶賛してくれたのである。スナップ写真はただの一度も褒められたことがなかったので、お世辞ではないことは明らかだった。

いま飯塚君は旭川市内でハウススタジオスタイルの写真館を経営している。彼は一時期、EPSONのプリンターのイメージキャラクターには抜擢されるし、NIKON、SONY、RICOHなどから新発売のカメラのカタログ掲載作例写真の依頼が重なって舞い込んだり、『カメラマガジン』や『F5.6』になんども作品が掲載されたり、「PC+」のプレゼンテーターにも引っ張り出されたりかなりの売れっ子だった。彼自身が写真家としての「出世」を目指していたら今頃相当な売れっ子写真家になっていただろう。しかし、彼はそれを望まなかった。そして、中央の「写真業界」とは距離を置いて北海道で写真館経営を続けている。今年3月突然「東川町会議員選挙」に出馬してビックリした。なんと"トップ当選"してしまい更に驚いた。

話しを2008年に戻すが、当時飯塚君はまだスタジオを持っておらずブライダル撮影をメインに仕事をしていた。富良野や美瑛などのフィールドで撮影するブライダルフォトは大人気で全国からお客さんが集まった。ブライダルを撮る一方で、「草原写真館」と題して、美瑛などの草原で「家族写真」を撮ってフォトブックにする仕事もしていた。その写真が実に素晴らしかった。私は彼の「作品」も大好きであったがそれ以上に彼が撮る「家族写真」が好きだった。で、彼から貰ったメールへの返信の中に「僕も飯塚君がやっている『草原写真館』のような仕事をしてみたいと思っているんだ」と書き送った。すると彼から「是非やって下さい。Hさんならお客さんが喜ぶ写真を間違いなく撮れると思います。ただし、きちんとお金を取って仕事としてやって下さいね。Hさんならボランティアとして無料で撮って上げそうだから。そういうことされちゃうと我々プロはこまりますから(笑)」という返事が届いた。

それを読んだときにも、私には仕事として写真を撮りたいという気持ちは全く無かった。飯塚君が予想したとおり私は息子のクラスメイトの子どもたちなどの写真を無料で撮ってプリントを差し上げ続けていた。たくさんの人々が喜んでくれた。私はそれで十分だった。その後、娘が生まれたりして撮って差し上げる機会がドンドン増えていった。息子が5歳になった年にクラスメイトの親御さんから「七五三の写真を撮っていただきたい」という依頼が届いた。「きちんとお金をお支払いします」とのことだった。2010年のことである。その時小澤太一君に相談した。私は依然として「日本一安い一眼レフ用レンズ」である8,400円のEF50mm F1.8 Ⅱしか持っていなかったのだ。Twitterでやりとりしていたら偶然近くにいることが分かり小澤君から「EOS学園の授業が始まるまで暇な時間があるのでお茶でもしましょうか?」と誘って貰いEOS学園の教室があるビルの直ぐ下の喫茶店で彼と会った。

「実は相談があるだんけどさ…」
「なんですか?」
「息子のクラスメイトの親御さんから七五三の写真を撮って欲しいと頼まれたんだよ」
「へーっ、撮ってあげればいいじゃないですか。Hさんなら撮れるでしょう」
「レンズがないんだよ。いくらなんでもEF50mm F1.8 Ⅱじゃね」
「別に構わないんじゃないですか。十分だと思いますよ」
「でも、ポートレートだから85mmで撮ってみたいんだよね」
「まあ、85mmがあった方が撮りやすいのは確かですよね」
「で、SIGMAの85mmと50mmを買おうと思っているんだよ」
「2本とも良いレンズですよ」
「でも、CanonのEF85mm F1.2Lとどちらにしようか迷っているんだ」
「取りあえず使ってみます? 今日SIGMAの方なら2本とも車のラゲッジに積んでいますから」
「えっ、いいの?」
「構いませんよ、使ってみて気に入るかどうか、取りあえず撮ってみて下さい」
「それはありがたい。遠慮なく借りるよ」

ということで、小澤君からSIGMAの85mmと50mmの2本を借りた。

この時"たいちゃん”(小澤君は友人たちからは"たいちゃん”と呼ばれている。私もそう呼んでいる)から2本のレンズを借りて七五三の写真を撮ったことがその2年後に写真館を始めてしまうことに繋がっていったのである。その時撮った七五三の写真が息子のクラスメイトの親御さんの間で「凄い! まるでプロカメラマン」と評判になったのだ。神社の境内でロケ撮りした写真なのだけれどとても立派に撮れていたのである。

(つづく)

by dialogue2017 | 2019-07-29 11:30 | 写真論 | Comments(0)

汎通的な理解力

※人に見せるつもりで撮った写真ではない。ましてブログに掲載することなど全く考えていなかった。しかし、写真を見てshi-photo君の参考になる話を書くことが出来ると思ったので書いてみた。shi-photo君「一人」のために書いた話である。

何も考えずにパッと撮ってきた写真である(実際玄関を出て15秒で撮ってきた。この写真の10秒ほど前にもう1カット別の花ビラを撮っている。それ以上いると蚊に刺されるので逃げてきた。でも2箇所刺された)。いや、一応奥のボケ具合を見たいということは考えていた。だからF8ではなくF5.6で撮りたかった。しかし、F5.6では白い雄蕊のピンぼけぶりが目立つだろうからF8まで絞った。そのため、ボケの量が少なくなった。庭にはこの花ぐらいしか撮るものがなかったから撮ったと言うだけのことで、最低限のまとまりさえない写真になることは撮る前から分かっていた。そもそもこの「雄蕊」が邪魔なのである。と言って雄蕊にピントを合わせて下の2枚の「花ビラ」にピントが合っていないというのも見苦しい。F11まで絞ればギリギリ雄蕊と花ビラの両方にピントが合うかもしれないが、そうすると狙った"葉のボケ"が足りなくなる。ようするに、初めから「絵にならない」被写体なのである。そんなことは、センサーサイズが大きなカメラを手にしたときから分かっていたことである。

どういうことかというと、画角中央に「面一(つらいち)」となるピント面がないと言うことである。大きなセンサーと柔らかい描写のレンズを持ち出したわけだから、できればそれを活かした写真を撮りたい。つまり、「前ボケ」や「後ろボケ」を奇麗に配した写真にしたい。しかし、合わせるべきところにはきちんとピントを合わせないと見苦しい写真になる。つまり、背景を品良くぼかした写真を撮りたいわけだけれど、前面はきちんとピントを合わせる必要がある。しかし、この被写体の場合それがなり立たないのである。画角の中央部分を「面一」でピントが合わせられない被写体では持ち出したカメラのセンサーやレンズの持ち味が生かせないということである。

以上のような理由から、絵にならない、つまり奇麗に纏まった写真にすることができない被写体だということは分かった上で撮っている。それは撮ってみなくても分かる。もし、この花をもう少し奇麗に撮ろうと思ったら別のレンズを使う(120mm Macro)。このレンズの最短撮影距離では思ったような写真が撮れないことは分かっているのである。だから、この写真は写真にしようと思って撮っているわけでは無いのである。今年一度も使っていないレンズなので久しぶりにこのレンズの写り具合をちょっと見て見たいという動機で撮ったのである。そういう意味ではF5.6で撮った方が良かったと思う。左側の「花ビラ」のすぐ上の葉のボケ具合が変わってくるからだ。それでも右側の「花ビラ」の下2枚目の葉とか、画角右端に写っている葉のボケ具合にはこのレンズの良さが良く出ている。いや、レンズの力と言うよりセンサーの描写力に与る部分の方が大きいかもしれない。

花の写真は難しい。プロフォトグラファーにも「花は苦手」と言う人は多い。持って生まれたセンスが飛び抜けて良いか、よほど沢山撮り込まないと花の写真は難しい。ほんの僅かなアングルの違いで見え方が大きく変わるからである。本当に奇麗な花の写真というのはじっくり撮らない限りそうそう撮れるものではない。花自体が美しいので、マクロレンズとかでぼかして撮ればそれなりの写真は簡単に撮れるが、そういうレベルの写真ではなく、本当に美しい花の写真というのはある程度苦心の末じゃないと撮れないと思う。三脚を立てて、しっかりとアングルを固定して、少しずつアングルを変えた別カットを撮ってその中から選ぶというようなことをしないときっちりと決まった写真を撮るのは難しいと思う。

実際、花をメインに撮っているプロフォトグラファーはそういう撮り方をすることが多い。手持ちでファインダーを覗いている時には「近視眼」的になりやすいのである。いや、それは三脚を立てたからと言って逃れられるものでは無い。花の写真に限らず、風景写真でも同じことだが、ファインダーのサイズで捉えた光景と、例えば15インチのディスプレイに表示した光景では見え方が変わってくる。だから、風景写真家の場合も三脚を立ててしっかりと構図を固めた上で僅かにアングルを変えた別カットを撮ることが多い。大きなディスプレイで確認したり、プリントを創って並べて見ないと見えてこない部分が写真にはあるのである。

単純にマクロレンズでボケボケの写真にして纏めてしまうのは難しくないけれど、そういう写真は「それなり」の写真でしか無いと思う。別にそういう写真がいけないという話ではない。アマチュアがそういう写真を楽しむことは構わないだろう。私が論じているのはプロフェッショナルなレベルで高い評価を下せるような花の写真についての話である。そのレベルの花の写真は、じっくりと時間を掛けて撮らないと簡単には撮れるものでは無い。作品として花を撮り続けている写真家を二人ほど知っているが、二人とも実に地道に大量に撮リ続けている。私は花を撮ることは好きだけれど、そこまでの執念を持って撮りたいとは思わない。いや、花の写真に限らず、私はどんな写真であれ執念を持って撮ろうと言う気持はない。私にとって「写真」は暇つぶし。「暇つぶし、そう、暇つぶしだよね」なのである。

さて、わざわざ同じ写真のノートリミング版を掲載した理由は、ひとつ前のエントリーで「前ボケ」の話しに触れたからである。私はこの写真を撮るとき「前ボケ」に関してはまったく考えていなかった。そもそも画角の「周囲」はほぼノーマークで撮った。つまり四周の確認をせずに撮ったと言うことである。私の関心はあくまで「葉」のボケ具合であった。できればもっと寄って撮りたかったのだがこれがこのレンズの最短撮影距離なのでもう1cmだって寄ることが出来ない。標準レンズで撮る様な被写体じゃ無いのである。

左上隅のピンクの花ビラの「前ボケ」は撮った後になって初めて気がついた。平素写真を撮る際にはファインダーの四周はしっかりと確認する。それは習慣になっている。しかし、この写真を撮るときは全く気にしていなかった。なぜなら自分で選んだ「範囲」を撮っている訳では無く、レンズの最短撮影距離に強制された範囲を撮っているのだから。初めから自分の意図を実現できない条件で撮影しているのであり、そのことはカメラとレンズを持ち出したときから承知の上のことである。

そんな風に、ただ撮ったと言うだけの写真なのだが、この写真を見てこのレンズの「前ボケ」は奇麗だと思った。いや、そんなことは知っていることではあったが、私は意図して「前ボケ」を入れて撮る様なことはあまりないし、このカメラとレンズは随分と長い間使っていなかったので、久しぶりにこのレンズの「前ボケ」を見て改めて「ああ、いいな〜」と思ったと言う話である。で、梅雨が明ける前に一度このカメラとレンズで写真を撮ってみたいと思ったのである。どうして梅雨明け前なのかというと、このカメラとレンズは「夏向き」じゃない気がするのである(笑)。ちょっとアンダー気味で「湿度」が感じられるような写真を撮ったときにこのカメラのセンサーとレンズの持ち味が一番はっきりと出るのではないか、そう思っているのである。

いまのデジタルカメラはどんなカメラでも良く写る。レンズだってみな優秀である。iPhoneのあの小さなセンサーと極小のレンズでさえ素晴らしい写真が撮れる。もう、「美しい写真」を撮るなどと言うことは特別なコトじゃなくなったのだ。でも、この写真を、じっくり見るのではなく、モニタから目を離して全体として眺めてみると、やはり素晴らしい描写性能の片鱗が現れていると思う。その「素晴らしい描写性能」がどこに現れているかというと、画角の周囲にである。真ん中の白い雄蕊を手で隠してしまってその周囲だけを見て貰うと分かると思う。柔らかくて上品なのにどことなく深みが感じられる描写である。APS-Cセンサーだとこういう絵は逆立ちしても出てこない。

この写真は、画角中央の「雄蕊」が不要なのである。それさえなければ上品な写りの写真になっていた。色合いとしても落ち着いた。(と言って、別にたいした写真ではないが、描写としては優秀だ)。私は、作品としての写真を撮ろうと言う気持がないが、もし「作品」を撮るとしたら、この写真の「周囲」のような落ち着いていて品が良くしかも深みのあるような絵を撮りたいと思う。たぶん、そういう感覚というのは「手焼き」でプリントを創る経験の中から身につけるものなのだろうと思う。デジカメで写真を撮ってブログに掲載して終わりと言うことをくり返してもなかなかそういう感覚は身につかないだろうと思う。って、私自身がそういうレベルで写真を終わらせているけれど(笑)。

アマチュア写真愛好家と「作家」の写真に対する向き合い方は全く違うと思う。明確な目的意識を持たずにただ撮り続けることによっては達し得ないレベルがあるのだと思う。そこに到達するために必要なのは「テクニック」では無いと思う。「向き合い方」なのである。そして、そのベースとなるのは「理解力」だと思う。それは単に写真に対する理解力と言うことでは無く、"汎通的”な理解力である。


汎通的な理解力_e0367501_16342196.jpg

by dialogue2017 | 2019-07-18 18:30 | 写真論 | Comments(1)

10枚写真を掲載したら自分でゲップが出てしまった。立派な写真ならまだしも、たいした写真じゃないしね。新宿で撮った枚数は78枚だったけれど、自宅から最寄り駅まで歩く間にもちょこっと撮った。そして、帰りに最寄り駅から自宅まで少し回り道をして普段歩かない道を歩いたのでその時に割と沢山撮った。沢山撮ったわけは途中で立ち寄った公園に何種類もの花が咲いていたから(しかも夕暮れの淡い斜光に照らされて!)。そんなわけで、花の写真とかも君に見せて上げようと思って16日に撮った写真は全部で61枚もレタッチした。新宿で撮った写真78枚の内38枚をレタッチしたのだけれど、その内の24枚はモノクロバージョンも作った。というのは、それらの写真は撮る時にモノクロ前提で撮っていたから。そんなわけで、61枚の写真にモノクロバージョンの24枚を加え合計85枚も写真を作った。その全部を掲載しないまでも、半分ぐらいは君に見せて上げようと思ったのだけれど(そもそもそのために撮った)、もうすっかりその気持がなくなってしまった。何度も書いたことだけれど、写真を撮ったその日か次の日ぐらいまではブログに載せる気になるのだけれど、3日以上立つとその気が薄れてしまう。

僕は、スナップなんて「その場限り」のことという感覚。僕の場合、撮っている時が楽しいから撮っているので、結果としての写真はそんなに重要ではない。僕にとって意味があるのは写真を撮りながら過ごす「時間」。東京で写真を撮ることがあまり好きでは無い理由は、東京の光景が好きじゃないと言うこともあるけれど、都心で過ごす「時間」を楽しいと思えないから。僕はよく江の島・鎌倉界隈界隈で写真を撮っているけれど、それはそこで過ごす「時間」を楽しいと感じることが出来るから。「都会」ではなかなかそういう気になれない。僕にとって写真を撮ることの意味は「楽しい時間」を過ごすこと。「写真」そのものに関して言うならば、僕にとって「大切」なのは「記録としての写真」だけである。

すでに何度も書いたことだけれど、「都心」や「自宅周辺」で写真を撮っている時というのは、ある意味ですべて「テスト撮影」をしていると言ってもいい。僕はそれを「レンズ遊び」という言葉で表現しているけれど、どういうことかというと"1枚の写真"としてきちんと撮ると言うことはどうでも良くて、そのレンズの「持ち味」を出すために撮っていたり、「好みの光」だけを撮っていたりするということ。運良くドンピシャと言える被写体に出逢うことがあれば、1枚の写真として「完成」した写真になるけれど、そういう被写体とはそんなに高い確率で出逢うものでは無い(プロの写真作家でもそうだ)。僕の場合、都会の光景は基本的には好きでは無いので東京でスナップしている限り好みの被写体と出逢うことは滅多に無い。だから、ついつい「レンズ遊び」に成ってしまうと言うわけである。1枚の写真としてのトータルなまとまりを考えたらF2.5で撮った方が良い光景を僕はあえてF1.4で撮ったりする。その理由は、1枚の写真としての「完成度」はどうでもよく、「ボケ」の部分だけを見て見たいと思って撮っているから。(10)に掲載した"この写真"なんかはまさにそういう撮り方をしている。1枚の写真として纏めようと思ったらF2.8で撮る(理由は左半分にもっとキッチリピントを合わせたいから)。開けたとしてもF2.0まで。そんなことは撮る時に分かっていてあえて開放で撮っている。

実は、あの写真は君に右半分を見てもらうために撮ったのである。あの右側のボケている部分の”雰囲気”こそXF35mm F1.4 Rというレンズの「魅力」だということを君に伝えようと思って撮ったのである。XF35mm F1.4 Rというレンズの一番の素晴らしさは開放で撮ったときの「ボケ」にある。しかし、「ボケ」と言うのはピントを合わせた部分との距離で出方が変わってくるし、色とか被写体の属性(例えば金属であるか植物であるか人間であるか)によって雰囲気の違いが生まれる。特に、「距離」によるボケの出方の違いは大きい。だから僕は、その「魅力」を見るためにちょくちょく「ボケ」だけを見るために写真を撮っている。それが頭の中に「データ」として蓄積することによって「写真力」「表現力」が高まるからだ。ただし、「データ」は「感覚」のレベルに落とし込んで身につけないと咄嗟には生かせない。だから、ことある毎にいろいろな「距離」で「ボケ」を撮ってみると言うことをやっている。実は、XF35mm F1.4 Rの開放での「ボケ味」の美しさを見せるには「色」が大きなポイントなんだよ。だから、気になる「色」を「ぼかして」撮ってみる。ある色のボケを写真の奥に入れたとき、XF35mm F1.4 Rというレンズの真価が発揮されるんだよ。内田ユキオさんならこういう話しに「うんうん」「そうそう」と身を乗り出して頷くだろう(笑)。

話のついでだから、「カラー写真」についての話をしておこう。大雑把に言って、カラー写真の場合「色」「絵柄」「光」が3大ポイントだと思う。カラー写真の「見栄え」を決めるのは「色」「絵柄」「光」の三要素だと言って良い。絞りがいくつかとか、露出をどうするとか、どういうアングルで撮るかと言うことは「撮影技量」の話であって「被写体」はそういう撮り手の判断とは無関係に目の前にある。「それ」が無い限り写真を撮ることは出来ない。だから、カラー写真は「色」や「絵柄」や「光」が良い「被写体」と出逢わないと良い写真を撮ることが出来ない。ただし、それを「見出す」のは撮り手の「能力」でもある。気がつかない人が素通りしてしまう「光景」が「素晴らしい写真になる光景」だということに気づきそれを見出すのは撮り手の「能力」である。

モノクロが「簡単」である理由は、まず「色」という要素が不要だからだ。このことがどれほど大きなことであるかを知らない写真愛好家がもの凄く多い。深く自覚している写真愛好家は極めてまれである。カラー写真の場合、「色」だけで成り立っててしまうことがあるほど「色」の持つ重みが大きい。その反面、「色」に恵まれていなかったり、色の「組み合わせ」に恵まれていない写真の場合もの凄く「凡庸」な写真になってしまう。モノクロで上手な写真を撮っている人にはカラー写真がからっきし下手くそだと言う人がかなり高い比率で存在している。主にモノクロ写真を載せているブログで、モノクロ写真はかなり良いできなのに、時々載せるカラー写真が無様なまでに下手くそだという人はとても多い。モノクロばかり撮っているから「色の組み合わせ」ということに対する感覚が「鈍磨」しているのだと思う。いや、初めからそういう認識がないのだろう。

極論するとモノクロの場合「絵柄」もさして重要では無い。実際、素晴らしいと評価されているモノクロ作家の写真には「絵柄」的にはつまらないものがかなり多い。以前「モノクロ写真というのは"奇麗な光"を撮ってるだけ。変態だよ」だという渡部さとるさんの話を紹介したけれど、その通りなんだよね。モノクロ写真というのは「光」さえ奇麗なら成り立つ。「絵柄」が良ければプラスアルファ。「絵柄」が平凡でも「光」の方がとびきり奇麗であればそれで十分成り立ってしまう。覚えれば良いことは「奇麗な光」の撮り方だけ。

しかし、カラー写真の場合「光」だけでは成り立たない。なぜなら不可避的に「色」という要素が含まれてくるから。凄く奇麗な光を撮っているのだけれど「色」が良くない場合写真としては今ひとつの写真になる。例えば、光の端境となる逆光で一人の女の子の写真を撮ったとしよう。光は抜群に奇麗なのだけれど、その女子の服の色が良くないとダメ。その女の子の服の色が良かったとしても、背景にゴチャゴチャといろいろな色があったりしたらアウト。ところが、モノクロの場合そういうことから「逃げる」ことが可能になる。だから、モノクロの方が「簡単」。モノクロ写真として奇麗に見える「光」を覚えてしまえば、あとは「馬鹿の一つ覚え」でそれなりのレベルの写真を量産することができるようになる。モノクロ写真ばかりをブログに掲載している人にはそういう人が多いからモノクロ写真のレベルとしてはそれなりのレベルの人間が結構いる。しかし、3ヶ月も見続けたら飽きる。完全にワンパターンで撮っているから。そういう人の場合「絵柄」にも幅がない。自分の「好み」だけを撮っているから、写真の幅がドンドン狭くなっていく。あえて乱暴なことを言えば、モノクロは単純な「パターン認識」だけで撮れるようになる。撮り手のビビッドな感性というのはさほど必要ない。もちろん、本物のモノクロ作家には豊かな感性がある。だから見飽きない写真を撮る。しかし、多くのアマチュアのモノクロ写真はワンパターンな「パターン認識」で撮っているので見飽きる。もちろん、モノクロに限らず「写真表現」というもの自体が「パターン認識」で成り立つ部分が大きいが、程度の問題である。

モノクロオンリーの人のブログにありがちなのは、1枚1枚の写真のレベルはそれなりに高いのだけれど、トータルなものとしての「その人の写真」はつまらないと言うケース。一言で言って見飽きるのだ。見飽きる理由の一つは、モノクロには「季節感」が無いからだと思う。我々日本人は季節の移り変わりを愛でる感性を身につけている。モノクロ写真には季節感がない。春先にモノクロ写真ばかり見ていると「干からびた」ものに見えてくる。心が豊かだと「自然」にもの凄く反応するものだ。食べ物だって「季節もの」が一番美味しいし、それを食べることによって大きな喜びを感じる。本来、人間自身が自然の一部であり、人間と自然は密接にむすびつ居ている。だから、人間の感性の根っこには「自然」に対する強い感受性がある。これは「私見」だと言っておくが、「季節感」がまったく感じられないブログは面白くない。いくら写真のレベルが高くても見飽きる。

スナップ愛好家にはモノクロばかり撮る人が結構多い。楽だから。「色」に邪魔されることがないから。「絵柄」もそれほど煮詰めなくて良いから。君がカラー写真よりモノクロの方が断然上手な訳はそういうこと。カラー写真の場合、「光」と「絵柄」が良い光景を見つけても、「色」が写真を台無しにするケースがとても多い。台無しにしないまでも「色」が足を引っ張っていることは多い。

カラー写真の場合、「色」「絵柄」「光」の三要素が揃わないとそれなりのレベルの写真にはならない。

僕は17日に新宿で撮った78枚の写真の中では(1)に掲載した"この写真”が一番気に入っているのだけれど、この右側に座っている女の子の服の色が「黒」だというのは大きな欠点だと思う。この服がパステル調の色合いだったらこの写真はもっと良くなっている。パッと見て、写真のそういう部分がすぐに分からないようでは良いカラー写真を撮れるようにはならない。

さて、君に僕の写真を見せることの意味がどれくらいあるだろうか? こんな話を書くつもりは全く無かった。そもそも書き始めた時には「一月ぶりに写真を撮った(11)」として書き始めたのだった。例によって筆が勝手に文章を書いた。そして、自分が書いた文章を読んで気がついた。「パッと見て、写真のそういう部分がすぐに分からないようでは良いカラー写真を撮れるようにはならない」という一文である。いくら写真を見ても「そういう部分」に気がつかなければその写真を見た意味は無い。いや、無いとまで断言してしまうのは言い過ぎだろう。なにか感じることがあれば見た意味が多少はあるかもしれない。しかし、最終的には「そういう部分」を見て取れないと写真を見た意味が無い。なかなか「完璧」な写真を撮ることはできない。ちょっとしたスナップの場合、それなりに良い写真でもどこかに明確な「欠点」があるものだ。それを瞬時に「ここがなければね〜」とか「ここがこうだったらね〜」と見つけられないうちは初心者だ。「欠点」って一番最初に目に入るものだから。

結局は、ものごとを「対象化」する能力次第だ。

16日は君に見せるために写真を撮ってきた。だから君に合わせてX-T20 + XF35mm F1.4 Rで撮った。しかし、新宿界隈には僕が好むような光景はない。モノクロならいくらでも絵に出来るのだけれど、カラー写真になると絵に出来るような光景とはほとんど出逢わない。理由は簡単である。都会は色がゴチャゴチャしているのだ。例えば、人々(若い女性)を入れた写真を撮ったとしても、絵柄や光が良くても、人々の着ている服の色が良くなければパッとしない写真になる(反対に服の色の美しさだけで絵になる写真もある)。もうひとつ。新宿のような人の多いところで写真を撮っていると、邪魔になる人がもの凄く多い。そこに写っているだれか一人が写っていなければ絵柄として纏まった写真になるのに邪魔な一人が入ってしまって写真がダメになると言うことが多いのだ。

例えば新宿のような街で写真を撮ると次のような事になる。「奇麗な色の服を着た可愛らしい女性がいたのでレンズを向けた。その瞬間、別の人間が画角に入ってしまった。その人が通り過ぎたときにはその可愛らしい女性は3歩歩いていて奇麗な光が当たらない場所に移動していた」と言う具合である。僕はスナップで「人物」を捉えるとき、「光の端境」で捉えることが多い。だから、2歩歩かれたらそこから外れてしまう。しかし、沢山人がいると「その瞬間」には邪魔な人間が画角に入る。あるいはまた、「絵柄」も「光」も奇麗で邪魔な人間もいない、しかし、写真に写る人物の一人が真っ白な服を着ていてそこが強いハイライトになってしまう(最悪白飛び)、これでNGだ。(2)と(8)に掲載した写真はそういう写真である。(2)の場合、白い服の女性が写っているがあの服が白(黄色オレンジ)以外の色であれば写真として「完成」している。写真を見て、その部分を理解出来るかどうかである。ほとんどの人はそこまで気がつかないものだ。物事を深く分析的に見ることの出来る人間は少ないから。

結局、"小さな違い”が決定的なのだと言うことを理解出来るかどうかなんだ。

僕が江の島・鎌倉界隈界隈で写真を撮る理由は、写真以前のこととして江の島・鎌倉界隈界隈が好きだということが一番大きな理由だけれど、「人工物」が少ないと言う理由もある。つまり、都心のように「色がゴチャゴチャ」していない空間であるということである。そして、真夏の浜辺を別にしたら、人がゴチャゴチャしていない空間も多い(平日に行けば特に)。つまり、カラー写真を撮る時に「邪魔になる」ものを排除しやすいと言うことである。僕の場合、都会が嫌いで自然のあるところが好きなので、本気で写真を撮ろうと思ったら、中判カメラを使って風景写真を撮ると思う。いまはそんなことをしてみたいという気持は全く無くなったけれどね。

今まで、用事があって都心に出掛けたときにはよくスナップをしていたけれど、90%まではモノクロで撮っていた。あえて「ケバケバしい」東京の姿を撮りたいと言うことでもない限り、東京はモノクロの方が遙かに撮り易いと思う。カラーでは写真にならなくてもモノクロだと写真になる。東京と言うことに限らず、カラーはよほど上手に撮れていない限り「現実的」だよね。実際見たのと同じように写るわけだから。現実「まんま」じゃアートじゃないよね(笑)。ところがモノクロは「非現実的」。だって、実際には色があるのに写真では色がないのだから。「非現実」的である方がアーティスティックに見える。だからモノクロは「簡単」でカラー写真は難しい。そこそこの技量があれば、モノクロで撮っておけばそれなりに絵になってしまう。まあ、「それなりに」だけれどね。

いままで東京でカラー写真を撮ることはあまりなかった(まあ、そこそこは撮っているけれどね)。新宿なんて、色が氾濫していてあえてその「禍々しさ」を表現しようと思うのでも無い限り、カラー写真で奇麗な写真を撮るのは難しい。「新宿」「池袋」「渋谷」はよほど表現力を持った撮り手じゃないと色に負ける。カラー写真を撮るなら、「代官山」とか「青山」あたりに行った方が良い。路地裏には色がごちゃついていない空間があるし、ショーウインドウとかには奇麗に揃えられた色が君を待っている(笑)。代官山とか青山の場合、店舗の周りとかは奇麗にコーディネートされた色で構成されているんだよ。浅草や新宿とは違って「上品」なんだよ(笑)。

君は、浅草周辺でばかり撮っているよね。僕が「飼い犬のような生活」と言ったのはそのこと。犬は自宅から近い決まった狭い範囲しか散歩をしない。「浅草」周辺はどちらかというとモノクロ向きゾーンだよね。よほど実力が無い限り、奇麗なカラー写真を量産するのは難しいゾーンだと思う。まだカラー写真のツボを全く理解していない君が、そういうモノクロゾーンでカラー写真を撮っているのだからいくら撮っても「何も目途は立っていない」という情況から一歩も抜け出せないのは理の当然である。極単純に考えて、カラー写真は「色の美しさ」が命なのだから、美しい色のあるところこ出掛けて撮って見るべきなんだよ。君にはそういう発想がない。たしか、以前に「出掛けてまで撮りたいという気持ちがない」と書いていたよね。だったら、別に写真なんて撮らなくても良いと思う。渡部さとるさんが次のように言っていたけれど、至言だね。

写真は技術じゃなくて"そこ"に行ったかどうか。

もう、この文章が君への最後のアドバイスでも良いかなという気持になってきたので、そのものズバリ書くね。君は良い写真を撮ろうと言う大きな努力をまだ一度もしていないと思う。たしかに、僕のアドバイスに従って3台もカメラを買ったし、君なりに真剣に撮ってきたとは思う。よーいドンから、奇麗なモノクロ写真を撮るための「光」を意識して撮り始めた点はとても素晴らしかったと思う。あの時点で「5人組」の中でものになるのは君一人だと思った。他の4人には家庭があるから仕方ないとは言え、撮る量があまりにも少ないし、ブログに載せる量(つまりレタッチする量)も少ない(家庭があっても毎日更新している人は沢山いる)。はっきり言って、あのペースで撮っていたのでは上手になるのに10年は掛かる。そもそも「素質」の点でも君は他の4人よりは抜きん出ていたと思う。そして、独身であるアドバンテージを活かして君は沢山撮った。その点は評価する。

しかし、君は「飼い犬の散歩ゾーン」でしか写真を撮らなかった。もう8ヶ月以上の交流になるが、「凄いな。やったな」と思わされるようなチャレンジを君は一度もしなかった。結果としての写真の出来映えはどうでもいい。問われていることは、大きなチャレンジをしたかどうかなんだよ。例えばさ、3泊4日でバンコックに行って写真を撮ってきたとか、やる奴ならそういうチャレンジをすると思うんだ。そういう奴はいくらでもいる。海外まで行かなくてもいい。京都でも良いし北海道でも沖縄でもいい。いや、せめて横浜に行って撮ってくるとか、鎌倉に行って撮ってくるとか、そういうことを何度もやってみれば良かった。それを君に勧めたことがあったのよね? 「横浜」を撮るのと「鎌倉」を撮るのは違うし、同じ「鎌倉」でも「海辺」で撮るのと「社寺の境内」で撮るのでは全く違う。朝早くから鎌倉に行けばどちらででも撮ることが出来る。鎌倉は住宅街の路地裏や商店街だって東京都とは全く雰囲気が違う。でも、君は自分のテリトリーでしか写真を撮らない。そうなんだ、「飼い犬」は遠くまで散歩に行かないのだ。たまには「海が見たい」とか、「山の清々しさに触れてみたい」とか、「奇麗な夕焼け」の写真を撮りたいとか、そういう感性って良い写真を撮るための原動力だと思う。

渡部さとるさんの名著のタイトルは『旅するカメラ』。彼はいままでの作品のほぼ全てを「旅先」で撮ってきた。多少例外はあるけれど基本的には「旅先」で撮った写真で作品を作ってきた。人間ってさ、「旅先」に行くと「気持」が変わるんだよ。あえて言ってしまうと「ピュア」な気持になる。少なくともそういう「気分」になる。それはそうだよ。「日常」って「手垢」がついたものだから。「手垢」がついた範囲で撮って良い写真にするのは難しい(出来ないわけじゃないけれどもの凄く高い能力が必要だ)。旅先で写真を撮るのはとても楽しい。京都とか沖縄で写真を撮るのは凄く楽しいし、鄙びた温泉場で夜スナップするのもとても楽しい(笑)。人間がやること、まして「表現行為」の場合、制作しているときの「気持」というものは間違い無く作品に反映すると思う。多くの写真作家が「旅先」で「作品」を撮っているのはただたんにそこの光景が好きだというだけではないだろう。彼らは、旅先に身を置くことで自分の気持ち自体が大きく変わるということを経験として知っているのだと思う。もちろん、身の回りで作品を撮ることを否定するわけでは無いが、条件としては難しい。「手垢」の付いた「日常」から離れた世界には「解放感」がある。だから、多くの作家は海外で作品を撮っていると言うことだ。あるいは国内における「旅先」で。

ついでながら言っておくと、もし、いま僕が手持ちの写真だけで個展を開くとか写真集のようなものを作るとしたら、僕は2012年より前に撮った写真でそれを行うと思う。理由は簡単で2012年以前は年に数回一人旅に出掛け旅先で写真を撮っていたから。2013年以後はそういうことをほとんどしなくなった。だから、この5〜6年に撮った写真はつまらない写真ばかり。自分自身の写真で良い写真だと思える写真は2012年以前の写真に集中している。やはり「旅先」で撮った写真が一番素敵だと思う。自宅周辺や新宿とかで撮ってもね(笑)。

ああ、話が「カラー写真」のことから更に大きな枠組みにまで広がってきてしまった。もうこの後書き続けると、際限なく「写真論」を書くことになってしまうのでこれで終わりにしようと思う。(1)から(10)までの全ての写真にコメントを貰い、それを読んでいくつものことが分かった。君がどういう写真を撮ったら良いかまったく見えてこない理由は、自分が何をしたいのか分かっていないからだ。君に限らず、1980年以降に生まれた日本人の多くがそうなのだけれど、「自分」というものが「稀薄」なんだ。写真は「表現行為」。「自己表現」だと言っても良い(僕自身はあまりそう感じていないけれど)。だとしたら、まず「自分」というものがないと何をどう表現して良いか分からないに決まっている。それが解決するのは、写真を撮り続けることによってではないだろう。「自分」が確立されなければいくら撮っても永遠に同じ状態が続くだろう。

写真は80%までは「理論」で理解出来る。実際に写真を撮るときに問題となるのは「撮影の仕方」である。つまり「撮影技量」。それは簡単に教えることが出来る。だってさ、基本的には「絞り」と「シャッタースピード」ぐらいしかないんだよ。デジカメの場合ホワイトバランスはRawで撮っておけばどうにでも成る(いまはJPEGでもかなり自由になる)。あとは被写体をどう捉えるかだよね。これだってポイントは3つしかない。「間合い」と「アングル」と「光の捉え方」だけだ。「アングル」に無自覚な撮り手がもの凄く多いと思う。写真は立ったままで撮るのと腰を30cm落として撮るのでは全く変わると言うことを知らない人が多い。僕は、スナップでは胸の前とか腹の前あたりにカメラを構えてノーファインダーで撮ることが多い。街中で腰を落として写真を撮っている姿は格好良くないからね(笑)。僕がそういう撮り方を多用する理由は「レベル」で撮りたいから。自分の目線だと若干俯瞰になってしまうケースでそれを避けるために胸の前で撮っている。

例えば、絞り込んで遠景までの写真を撮る場合でも、立ったままの目線で撮るか、ちょっと腰を落として撮るか、しゃがみ込んで撮るか、背伸びをして撮るかで写真は大きく変わる。そういうことがいつでも頭の中にあるかどうか。それは理屈じゃなく、沢山写真を撮ることによって当たり前の感覚として身につく。何度も何度も諄いほどくり返し書いたことだけれど、ある程度大量に撮るという経験を経ないと到達できないレベルがある。そういう意味では、from_vixen君や0123okkun君は厳しいと思う。あのペースで撮っていたのでは、よほど高い感性を持っているか、抜きん出て高い対象化能力の持ち主でも無い限り、最初の壁を越えるまで5年以上掛かると思う。森山大道さんが言うように「量の無い質はあり得ない」。でも、僕はfrom_vixen君はいまのままで良いと思っている。彼が撮るお子さんの写真はとても良い写真だと思う。それで十分だと僕は思う。0123okkun君はfrom_vixen君とは違って明確に写真チャレンジしようとしている。しかし、やむないこととは思うけれど、いまのペースでやっていたら10年掛かる。それから、彼も君も同じだと思うけれど、師について具体的に指導を受けて行かないと厳しいと思う。「独学」で高いレベルに行けるのは一握りの高い才能を持った人間だけだ。凡人が独学で高見を得ようと思ったら、血を吐くような思いでチャレンジする以外にない。「寝食を忘れて」撮りまくるぐらいじゃないと無理だ。森山大道さんとかのレベルに達した写真家も若い頃は食費を削ってでもフィルムを買って撮っていた。1980年以後に生まれた日本人にはそういう「ハングリー」さを持った人間はほとんどいない。

このブログの過去の記事に、プロレベルの写真を撮るにはどうしたらよいか、そのポイントになる事柄についてはかなり突っ込んで書いた。何度も書いたけれど、プロの場合セッティングして撮影することが多いので、そのレベルと同じ写真を撮るためにはセッティングして撮る以外にない。スタジオ撮影のレベルと同じ写真を撮るためにはスタジオで撮る必要がある。プロのポートレートで綺麗な写真を見るとハウススタジオで撮っているものが少なくない。ハウススタジオは奇麗な採光性に作られている上、ストロボやレフ板などフィルインライトを使って撮ることも多い。ああいう写真を撮りたいと思ったら基本的にはハウススタジオで撮るしか無い(ハウススタジオの場合、ホテルとか自宅で代用可能な部分はあるが)。

しかし、仮に100%アベイラブルライトで撮る場合、プロとアマチュアの条件は全く一緒だ。そういう撮り方をする場合、プロであっても特別なことをしているわけじゃない。結局は「光の捉え方」「絵柄の作り方」「露出の決め方」でほぼ全てが決まる。そういう意味では、ストロボライティングという「特殊技術」を別に考えたときには、写真ってプロとアマの垣根がほとんど無い世界なんだよね。実際、もうそんな垣根はほとんど無くなってきている。現実に、アマチュアでプロレベルの写真を撮れる人って膨大にいるよ。ライティングができるアマチュアも多くなったしね。まあ、とてもよいライティングの教科書とか沢山出ている時代だから当然だよね。「イルコ動画」のようなものもあるしね。

そうそうもうひとつ書き足しておこう(ここは後から書いた)。プロのポートレートフォトグラファーの場合、オフの日にあちこち出歩いて「ロケハン」している。ポートレートに限らず写真は「背景」がもの凄く重要になる。「奇麗な光」「奇麗な絵柄」「奇麗な色合い」で写真を撮ることが出来る「ロケ地」をプロは絶えず探して歩いている。ストロボやレフ板を使わないとしても「ロケ地」そのものが半ば「セッティング」されていると言うことだ。オマケにレフを使ったり軽くストロボを入れたりして撮るから、彼らのポートレートはアマチュアのそれよりワンランク上になる。もちろん、レベルの高いプロの場合「出たとこ勝負」をさせてもそれなりの写真を撮るけれど、やはり「舞台」というのは決定的なのである。撮影時間以上に「ロケハン」に時間を使っているプロだって珍しくないだろう。そういうことの蓄積が、どんな場所で撮った際にも、その周りで一番綺麗に写真を撮れる場所を探す能力になっている。プロとアマの決定的な違いは、そういう「アンダーグラウンド」の部分での努力だと思う。見えないところで努力をしているのがプロなんだよ。って、僕は生まれてこの方努力なんてしたことないけれど。努力するの嫌いなんだ(笑)。

話を戻して終わりにするけれど、君のカラー写真がモノクロ写真に比べて大きく劣っている理由は、「光」に対する意識がモノクロを撮るときより数段曖昧だからだと思う。写真を見ていると、カラー写真を撮っている時には「絵柄」に惹かれて撮っていることが多いと思う。モノクロを撮っているときはほとんど「光を撮る」ことをだけを考えて撮っているのが伝わってくるけれど、カラーになると途端にそれが見えなくなる。光がすべてだと言うつもりは無いけれど、写真の肝は「光」だと思う。考え方は色々あって良いと思う。人それぞれでいい。写真なんて結局のところ好き好きだ。僕は「美しいハイライト」こそが写真の肝だと思っている。今回君に見せた10枚の写真は、きっちり撮れている写真はほとんど無いけれど(だって、そういう写真を撮ることが出来る光景自体がほとんど無かったのだから)、まずは「光」の美しさの重要性は伝えられていると思う。もう一つは、XF35mm F1.4 Rの最大の素晴らしさは開放で撮ったときの「ボケ」にあると言うこともある程度は伝えていると思う。実際には、F2.0〜F2.5ぐらいで撮った方が良い写真も多い。開放というのはそれがキッチリ生きる時に撮ってこそだ。だから、今回見せた写真のうち開放で撮っているものは「ボケ」の部分だけを見て欲しい。

いや〜、随分長々と書いてしまったな〜(笑)。以上のことを「最後のレッスン」だと思って良く考え君なりに頭の中に入れた上で、カラー写真に再挑戦して下さい。一番肝心なコトは「新しいフィールド」に出掛けて行って撮ること。ベトナムとかに行って撮ってきたら一発で"開眼”するかもしれないよ(笑)。ベトナムはちょっと旅費が掛かるから、ソウルとかバンコクとか香港とか台北あたりがいいかな(笑)。まあ、海外に行かないまでも、一度鎌倉あたりまで行って撮ってきたら良いと思うし、東京で撮るとしてもしばらく浅草界隈は止めて、代官山とか青山とかで撮ってみたら良いと思う。とにかく「飼い犬」のような生活を卒業しようよ。「殻」を脱ぎ捨てないことには何も始まらないから。

自分を変えようと思ったらまず"環境"を変えることだ。

君に足りないのはチャレンジ精神。まだ全然チャレンジしていないと思う。まあ、写真なんて上手くなってもたいした価値があるとは思わないけれど、自分に自信が持てない人間の場合、何かひとつ人より達者なことが出来たら、ましてそのことに対して「一家言」を持てるほどになったら、自分という人間に対する自信も出てくるだろうと思う。そういう意味ではやる価値があるけれど、トコトンやるつもりが無ければ時間の無駄だ。

ほとんどの場合、初めから自分に自信がある人間は写真が上手くなることになんてそれほど興味を持たない(爆)。およそほとんどの「表現行為」の一番大きな動機が「劣等補償」であるということは定説である。まあ、自分に自信がある人間なんて少数派なんだから、表現行為に秀でることを通じて「劣等報償」することは悪いことでは無いと思うけれど、そういう動機の場合、なかなかそのレベルを超えられないというのもまた動かしがたい事実だ。写真に取り組む時間「英会話」でもやった方が価値があるかもしれないよ(笑)。

以上、"パトス”に駆られ一気呵成に書いた文章なので脈絡がないけれど、君の参考になるとは思う。

では、がんばって!

※君一人のために書いた11,836文字。久しぶりに一気に1万字書いたよ(笑)。

森山さんの話をもう少し聞きたければ→『路上スナップのススメ』



by dialogue2017 | 2019-06-20 18:00 | 写真論 | Comments(1)

2017年12月に撮ったフィルムと、2018年4月に撮ったフィルムと、10年ぐらい前に撮ったフィルム。

フィルムで写真を撮ると言うこと(7)_e0367501_12135716.jpg

上の写真に写っているフィルムの内「PRO400H」4本の内の3本は2017年12月に撮影したもの。下の列に写っている「400PRESTO」も同じ日に撮影したもの。「PRO400H」の内の2本は2018年4月に撮影したもの。下の列右端の「fortia」と左端の「ASTIA」は10年ぐらい前に撮影したもの。どちらもすでに廃版となったフィルムである。撮影後10年も経ったフィルムを今から現像したらかなり「脱色」しているだろう。何が写っているか全く記憶にないので現像に出したら楽しいだろう。そして、脱色してしまったスリーブというのも面白いだろうと思う。

まず「フィルムで写真を撮ること(7)」というタイトルについてだが、「フィルムで写真を撮ること(6)」までがあるからそういうタイトルになった。そんなタイトルの過去ログがあることは覚えていなかったのだが、フィルムで写真を撮ることについてなにか話を書いた記憶はあった。で、調べてみたらそういうエントリーが6つもあった。そればかりか、「フィルム」という「タグ」を付けたエントリーが20本もあるのに驚いた。全部見ていないが、多分全てのエントリーにフィルムで撮った写真が掲載されているのだろうと思う(その通りだった)。

私はデジタルカメラで写真を撮り始めたのでフィルムで撮っていたという「時代」はない。中学生2年生の夏休みから高校1年生の夏休みまでの2年間に7〜8回SLの写真を撮りに行ったことがある。当時(1971〜1973年)はデジカメなどというものが無かったので当然フィルムで撮った。自分のカメラを持っていた。当時「国民機」とまで言われたPENTAX SPである。レンズは50mmと200mmの2本しか持っていなかった。中学3年生の時、学校の遠足の写真などを撮影していた写真屋のおじさんから6×9のカメラを譲って貰った。中学生で中判カメラユーザーとなった。しかし、私はSL以外何も撮らなかった。だから、私のフィルム撮影経験は7〜8回しかない。スナップは全く撮らなかった。SL以外で唯一写真を撮ったのは中学の修学旅行の時だが、フィルム2本ぐらいしか撮らなかったと思う。

1年程前におよそ8年ぶりにフィルムで写真を撮った。2018年12月6日のことだ。「過去ログ」を見ると判る。ブログは「日記帳」代わりなのである。同じ日のエントリーに「期限切れのフィルム」の話が書いてあった。その次のエントリーには「10年ぶりにフィルムを買った」話が書いてあった。およそ8年ぶりでフィルムで写真を撮った時に使ったカメラはRolleicordであった。"ここ”に書いてある。その日は、RolleicordとLEICA X1を使って写真を撮ったのだが、その日のベストショットはiPhone5sで撮った写真だった。"ここ”に書いてある。このブログは私自身のための「日記帳」なのである。

フィルムで写真を撮ったのは8年ぶりだった。撮ってみようと思うことはちょくちょくあるのだが、今更フィルムで撮る理由がないから撮らない。しかし、フィルムで撮るとしたら中判カメラだ。135判で撮る面白さというのもあるが、今更135判フィルムで撮ろうという気にはならない。8年ぶりに使ったRolleicordというカメラは"こんな”カメラである。二眼レフカメラというのはなかなか楽しいものである。しかも、軽いのである。

さて、ここまでに書いた文章の中に6つハイパーリンクを張った。リンク先のエントリーは「ファン限定公開」から「公開」に切り替えておいた。これで6本の過去ログを「開けた」ことになる。別に私の方から「是非見て頂きたい」とは思っていない。何度もくり返して恐縮であるが、このブログは「私自身」が見るためにやっているブログなのである。誰かに観て貰いたいという気持ちが無い訳では無いが、多くの人に見て欲しいという気持ちはない。寧ろ、"つまらない人間"には観て貰いたくない。本当に写真が好きで、"心が真っ直ぐ"な人数人が見て楽しんでくれたらそれで十分である。

「心が真っ直ぐ」ということが大事だ。近頃は、心がねじ曲がった人間が多すぎる。一見感じがよく見える人間でも相当程度に心が「屈折」している人間が増えていると思う。しかたない、人間がそうなる世の中なのだ。しかし、そういう人とは交流したくない。だから、私はあまり大勢の人にブログを見て欲しいという気持ちを持っていない。たとえ「いい人」であっても「上っ面だけ」の交流に興味は無い。互いに「お追従」を言い合うような交流に何の意味も無いから。

ここ数日に届いた「ファン申請」には、現在閲覧可能な記事を読んで、文章にも写真にもとても惹かれたので是非「ファン限定公開」記事も拝見したいという丁寧なお申し込みがあった。そういう申し出はお受けしない訳にはいかないと思うが、いろいろと思うところがあり、いまは「ファン」をshi-photo君一人という状態にしておきたいのである。で、その代わりになるかどうか判らないが、今日からちょっとずつ過去ログを開けていくことにした次第である。

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by dialogue2017 | 2019-01-25 13:00 | 写真論 | Comments(0)