2019年 07月 30日
記録としての家族写真(7)
2019年 07月 29日
記録としての家族写真(6)
※「アダルトチルドレン」という言葉は括弧付きで使っている。つまり、厳密な定義に即しての使用ではないということである。世間一般での「誤解」された解釈である「大人になれずに子供のままでいる大人」という意味での使用である(Adult Cildren of Alcoholicsの略で本来の定義はアルコール依存症者の保護者の元で育った子供のこと)。しかし、いずれにしろ「子供時代の行動パターンから脱却出来ない」という点において同じことである。その根底には「トラウマ」が介在しているという説が定説であったが、近年の諸研究により「トラウマ」という概念自体が「でっち上げ」られた概念だということで落ち着きそうである。もう20年以上前の話しであるが、ジュディス・ルイス・ハーマンの『心的外傷と回復』を読み込み、ある人権裁判をたたかっている弁護団に対して「書証」として提出すべきことを勧めた私としてはちょっと複雑な思いである。ちなみに、その裁判ではその「書証」も有力な「証拠」となり歴史的な勝訴となった。そのことを顧みると、なおさら複雑な思いである。ただ、私はハーマンの学説が100%無根拠だとは言い切れないと思う。フロイト理論と同じで、科学的には無根拠な学説であるが、臨床現場においては一定の有用性があるということである。
2019年 07月 29日
記録としての家族写真(5)
2019年 07月 29日
記録としての家族写真(4)
「IN and OUT 」
右があれば左もある。
晴れている日もあれば、雨が降っている日もある。
うまういくこともあれば、途方にくれることもある。
出会う人もいれば、別れる人もいる。
外に出たい日もあれば、家でじっとしていたい日もある。
何かが撮りたくて撮るんじゃなくて、
撮るために何かを探すことだってある。
何かを伝えるためじゃなく、
自分でもよくわからないけど撮ったもの。
何かを写したものじゃなくて、何かが写っているもの。
役割を持たされた写真じゃなくて、写真が写真である写真。
そんな写真を撮ってみたい。
渡部 さとる
凄いよね。写真作家が「何かを撮りたくて撮るんじゃなくて、撮るために何かを探す」んだと言ってしまうのだから。つまり、「撮りたいもの」があって撮るのじゃ無く、「撮る」という目的のためになんとか「何か」を探して撮っているんだと。そして、「何かを伝えるためじゃなく、自分でもよく分からないけど撮ったもの」を作品として展示したんだと。それは彼自身が「何かを写したもの」じゃなくて、「何かが写っているもの」である写真であると。彼と差しで話をしている時に聞いた話しを教えよう。渡部さんはあの展示写真をFUJIFILM GF670Wとい中判フィルムカメラで撮影したんだけれど、撮影する際、電車の先頭車両とか最後尾の車両の「窓」(米坂線の電車の運転席は「半分」になっていて残り半分は乗客が先頭部の窓に触れることが出来る構造になっているそうである)にカメラのレンズを押しつけて、適当に無造作にシャッターを切ったそうだ。
展示写真は動いている電車の中から撮った写真なので「流れ」(被写体ブレ)がある写真が多いのだけれど、その流れ(ブレ量)が一定していない。どうしてそうなったか聞いてみたら「デジカメと違って撮った直後に確認出来ないじゃない。撮り終わって東京に帰ってきてフィルムを現像してみないとどう写っているか分からない。どんな流れ方しているか自分でも全く分からないわけさ。で、適当にシャッタースピードを変えていろいろ撮ってみたの」つまり、撮影段階で「こういう写真にしよう」という意図がはっきりと反映されていないと言うことである。言い換えると「どう写っているか分からない写真を撮っている」と言うことである。だから、「何かを写したものじゃなく、何かが写っているもの」としての写真なのである。乱暴な言い方をしたら、作家が写真を撮っていると言うより「カメラ」が写真を撮っているというのに近い。
こうやって、2016年以来の渡部さとるさんの個展の作品の撮り方を振り返ってみると、彼は作者である自分の撮影意図を可能な限り棚上げして作品を撮っていることが分かる。「撮っている」どころか他人の撮った写真を自分の作品として展示さえしている(写真集の中にも収録している)。そして、今年の秋から年末に上梓される予定の新しい写真集のタイトルは「じゃない写真」だそうだ。「そんなの写真じゃない」の「じゃない」だそうである。「写真が写真である写真」の次は何処に一句のだろうと思っていたが、あれからおよそ半年で「じゃない写真」まで来た。いよいよ来るところまで来たという感じである(笑)。
長い話になってしまったけれど、「格好良い写真を撮る」(あるいは「撮れる」)ということはもうほとんど価値のない時代になってしまったと言うことである。私は一昨年の夏だったか、写真家の石川直樹さんが女子高校生に「写ルンです」で撮らせた写真の展示を行った写真展を富士フイルムスクエアで見たのだけれど("この展示")、同時に展示されている石川さんの写真より女子高生の撮った写真の方が断然素敵だった(失礼)。「邪心」がないということの凄さを目の当たりにした。「なにかを撮った」というレベルで撮影していないから素晴らしい写真になるわけだ。女子高生は「バカ」だからそんな作為はできない(笑)。でも(だから)、すごく良い写真が沢山あった。
それは「写真が写真である写真」だった。
(つづく)
2019年 07月 29日
記録としての家族写真(3)
2019年 07月 29日
記録としての家族写真(2)
2019年 07月 29日
記録としての家族写真(1)
2019年 07月 18日
汎通的な理解力

2019年 06月 20日
カラー写真とモノクロ写真の決定的な違い(shi-photo君へ)
2019年 01月 25日
フィルムで写真を撮ると言うこと(7)
