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字典と専門書

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白川静先生の辞書は1冊も持っていなかった。そもそも私はあまり辞書を引く人間ではなかったし、インターネットを利用するように成って以後は「ネット辞書」で済ませていた。しかし、中学生になった息子から質問された時、言葉の意味については説明できてもその由来などについて自分自身あまり深く理解していない言葉がかなりあることを気づかされることが増えてきた。で、漢和辞典の最高峰と言われる『字通』を買った。『字訓』『字統』と並ぶ白川辞書「三部作」の1冊である。世の中には辞書や事典を読む人がいるが、この字典は文字がもの凄く小さい上2,000ページを越えている。そういうものを前にすると1ページさえ読む気になれない。仮に毎日1ページずつ読んだとして読了するのに5年半掛かる。せめて、子どもたちから質問された言葉については調べて読もうと思っている。

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もし、人生をもう一度やり直せるとしたら医師になりたいと思う。いや、成りたいと思う"まっとうな職業"の筆頭が医師と言うことで、もう一度人生をやり直せるなら作家になりたい(笑)。医学には強い興味があって、できることなら基礎ぐらいは一通りきちんと勉強してみたいと思うのであるが、こういうことは他のことをしている片手間にやるようなことでは無いと思う故いままで手を付けていない。少なくとも1年間他の課題を一切棚上げにして「医学」だけについて学ぶと言うくらいの決意がなければやっても成果が薄いものに終わるだろう。そう思うと結局一生やらずに終わりそうでなんだかとても残念な気持ちになる。

長年そういう思いであったのでつい小児科医用のマニュアル書を買ってしまった。現役の医師のために作られた本であるので極めて実際的な内容である。症例の診断と治療について写真や図などで説明されている。こちらは391ページしかなく、ひとつの症例について2〜3ページで説明されていることが多い。扱われている症例は135。と言うことは、毎日1つの症例について読んでいけば4ヶ月半で読み終えることができる。時々サボっても半年あれば読み切れると言うことである。他にもいろいろな「専門科」ごとにこの手の本が出ているので、3年間読み続けるとそこそこ医療というものについて理解出来るだろう。本腰を入れてまで医学の勉強はできそうにないが、1日3ページ程度なら気軽にやれる。もう子どもたちがそれなりに大きくなったので強い必要性を感じてはいないが、それでも「病気」についての知識を持っておくことは有意義だと思う。

予断であるが、自分の病気や子どもの病気で受診した際に医師と話をしていて医師から「失礼ですが、あなたも医師ですか?」と聞かれたことが2度ある(笑)。いま掛かりつけの主治医は、診察を受けにいって話をすると私が当然知っているという前提でかなり専門的な話をしてくる。総合的な医学知識があるわけではないが、自分の病気や子どもが掛かった病気などについてはそれなりに専門的なレベルまで調べるので医師から大きな誤解を受ける。そうだ、今後一番必要なのは「老人」がかかる病気だな(笑)。

『現場で役立つ 小児救急アトラス』。適当に開いたページをiPhoneで撮ってみた。4枚目は自分の着ているシャツが写ってしまった(笑)。

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by dialogue2017 | 2019-03-11 17:00 | 読書 | Comments(0)

今日もamazonで購入した書籍が届いた。今日届いたのは単行本が3冊と雑誌が2冊。これで年が明けてからamazonで購入した書籍は79冊。雑誌は10冊。別途書店で購入したのは書籍が1冊で雑誌が2冊。合計で書籍80冊、雑誌12冊を購入しでいる。別途、重さが3kgほどある辞書を1冊と、厚さ2cmほどの小児科医用の緊急治療マニュアルを1冊買った。※計ってみたら『字通』(白川静)は3.4kgあった。

今年に成って今日でちょうど70日目であるから1日1冊ちょっとのペースで本を買っていることになる。一方、昨日までに読了した本の数は65冊。2月末に1日に4冊読んだ翌日から目の具合が著しく悪化して翌日から4日間全く本を読むことができなかった。その後も、なんとか1日1冊読むのがやっと。で、昨日の段階で借金4冊。今週中に借金は返済しておきたいと思っているが、目の調子次第だ。

80冊購入して読んだ数は65冊。未読が15冊。この位のペースはちょうど良い。見読書が増えていくということが「読まなければならない」というプレッシャーになるからである。もし、未読書が出ないペースで購入していたら、読むペースは半分ぐらいに落ちるだろうと思う。買って読まないのではお金を棄てるようなものである。そう思うから毎日1冊は読もうという気持ちになる。それでも未読書は貯まっていく。どこかで本腰を入れて、この5年間に購入して未読となっている本を全部片付けたいと思っている。しかし、それらの本は1冊で新書3冊分ぐらいの分量の本が多い上、難解な学術書も多いので読むのに時間が掛かる。月10冊のペースで読むのも厳しいだろう。と言うわけで、そういう歯ごたえのある本を先送りしているのだが、そろそろそういう本をやっつけておきたいと思っている。取りあえず今日は、先ほど届いた本の中の2冊を読もうと思う。

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by dialogue2017 | 2019-03-11 16:00 | 読書 | Comments(0)

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今年上半期の課題のひとつは「フランス現代思想」。フランス現代思想は好きでは無い。だいたいが哲学が好きでは無い。わざと難しく書いていることが腹立たしい。しかしそれも当然だ。世の中の多くの人が読んで「うん、そうだ。その通りだ」と思うような本を書くことになどほとんど意味が無いのだから。だから、その思想家の哲学的概念が難解であること自体は当たり前だと思う。私が腹立たしいのは、その難解な概念をことさら難解に叙述している点にある。もうほとんど「解読不能」なレベルで論述されている著作が多い。多かれ少なかれ全ての哲学書がそうだ。しかし、そんな中でもフランス現代思想はとりわけその傾向が顕著だと思う。だから私はフランス現代思想は好きでは無い。いや、嫌いだ。

過去、フランス現代思想を読んできちんと理解出来た書物がほとんど無い。いや、半分理解出来た本さえ無いかもしれない。クロード・レヴィ=ストロース、フェルディナン・ド・ソシュール、ジャック・ラカン、ルイ・アルセチュール、ミシェル・フーコー、ロラン・バルトらの代表作くらいは読んでいるが、どれもみな難解で理解に苦しんだ。一つには「翻訳」という「壁」があることも原因だと思う。20代の頃にヘーゲルを読んで良く理解出来なかった。30代の時に読んだある思想家の本の中に「ヘーゲルは翻訳で読んでも理解出来ない。ドイツ語で読むと理解出来る」という話が書いてあった。で、ドイツ語をやろうかと思った。ドイツ語を読めるようになればマルクスも原典で読むことができるし、カントもニーチェもフォイエルバッハも読むことができる。本気でやろうかと思った。しかし、そう思っている矢先に恋をしてしまった。ドイツ語の勉強と恋愛では勝負にならない(笑)。

で、私はドイツ語を勉強する機会を失った(その代わりとっびきりの美人と一緒に暮らすことになった)。しかし、しばらくして『ヘーゲル用語事典』なる書籍と出逢った。この本を参照しながらヘーゲルを読むとかなり理解出来た。やはり「翻訳」というものが難解な思想を更に難解にしているのである。しかし、カントはドイツ語で読んでも理解出来そうに思えない。フランス現代思想もフランス語で読んでも理解出来るとは思えない。とにかく、フランス現代思想は好きでは無い。ラカンもフーコーもバルトもウンザリする。読んでいて途中で本を投げつけてやりたくなる(笑)。「あんたさ〜、頭良いんだろ。もうちょっと理解出来る文章書いてくれよ」と言いたくなる。もし翻訳が正確であるとしたら、彼らはまともな文章を書いていない。もしかしたら、偉大な思想家というのは天才的な思考力を持っていたが、文章力を持っていなかったのでは無いかと思う。

そんなわけでフランス現代思想は嫌いなのであるが、今年はレヴィナスとブルデューを少し読もうと思っている。レヴィナスとブルデューは一度も読んだことがない。1月に読んでいた本の中にレヴィナスやブルデューからの引用があってちょっと興味を持った。まあ、またウンザリさせられることは火を見るより明らかだが、人間には恐いもの見たさというものがある(笑)。と言うわけで何冊か買ってみたのだが、一向に手を付ける気にならない。こういう本を読むときは一時期他の全てのことを投げ出して没頭しないと勝負にならない。そう、この類いの本を読むと言うのは「格闘」に他ならないのである。少なくとも、一月二月、寝食以外のコトを一切忘れて書物に「没入」していかない限り理解出来ない。いや、そこまでやっても書かれていることの2〜3割しか理解出来ないだろう。

ようするに、こんなブログをやっていたり、写真のコトを考えていたりしたのではこういう「怪物」たちとたたかうことは出来ないのである。だから昨年末でこのブログを終わりにして、今年は1月から読書に埋没しようと思っていたのであるが、そういう気になれなかった。極論すると、家庭生活など送っていたのではこの類いの本に没入することはできない。少なくとも、二三ヶ月「森の生活」でもしないかぎり読解していくことはできないと言っても良い。

と言うわけで、取りあえず第一四半期には手を付けないことにした。さていったいいつ手を付けることができるだろう? それは「他のこと」しだいである。本気でポートレートを撮ってみようなどと思っている間は手を付けられない。仮に読み始めたとしても脳みその表層を素通りしていくだけだ。天才たちが生涯を賭して煮詰めた思想を理解するというのは並大抵なことではない。若くてスリムでとびっきりチャーミングな女性にうつつを抜かしているようではとても取り組めない課題である。

なんて言うことを書くと取りあえず1冊読んでみたくなる(笑)。しかし、せめて3月になってからにしよう。今日手を付けてしまうと、今月の読了数はあと2冊で止まってしまうから。まあ、本当は読了数なんてどうでも良いんだけれど、昨年末に「来年は新書を1日1冊読む」という目標を立てたので、せめて第一四半期ぐらいはその目標を守ろうかと思っているのである。ページ数の多い本をそこそこ読んでいるので、既に新書換算にすれば「1日1冊」を超える量の本を読んではいるが、取りあえず「1日1冊」という単位で考えることにしたのでできればそれを維持したい。

まあ、ちょっと読む気になれば月に40冊程度は読むことができるので、2月末日段階でちょっと「借金」ができても3月末までには「貯金」を持つことができる。しかし、一月単位でも「借金無し」にしたいと思っていたので昨日がんばって3冊読んだ。今月は昨日までの読了冊数が20冊となった。今日から3日間で8冊読めば「借金」無しとなるのだが、いまの私には3日で8冊の本を読む気力が無い。せめてこの咳が止まってくれたらな〜。いや、老眼鏡問題の方が大きい。なんとかしないとな〜(溜息)。


by dialogue2017 | 2019-02-26 12:40 | 読書 | Comments(1)

書斎に積み上げている書籍が500冊を超えてしまった。書斎は2年程前から「物置」と化している。もっとも、私は一日中リビングで過ごしているので書斎が物置となっても特段困ることは無い。だからそうなってしまったのである。今年は少しプリントしようと思っていた。書斎を片付けてスッキリした環境に戻そうと思っていた。しかし、正月に一度プリントしたらもうプリントしたいという気持ちがなくなってしまった。だって、プリントしたあとどうすれば良いの? 自分の写真を飾ろうなどと言う気持ちは全くない。自分の写真を飾るくらいなら写真作家の作品を飾りたい。

プリントする気が無くなったので書斎を片付けるモチベーションがなくなった。しかし、このままの放置して置くわけにはいかないと思い続けている。この状態だと、段ボール箱の中に詰めてしまった本を読むことができない。私は、いろいろなジャンルの本を購入しているが、いくつかのジャンルについては纏めて購入している。この2年程は「明治維新史」と「太平洋戦争史」と「天皇」関連の書籍を多く買っている。来月から少し集中して「太平洋戦争史」の勉強をしようと思っている。そうなると、この段ボール箱のに詰めてしまった本が必要となる。やはり、書棚を設置してそこに本を収納しなくてはならない。よし、近日中に実行しよう。

書斎の床に積み上げられた書籍。右下の段ボール箱と同じサイズの段ボール箱が左側にもある。写真集や雑誌もそこそこの数つみ上げられているがほとんどは書籍である。たぶん、250〜300冊ぐらいはあると思う。

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書斎には「パソコンデスク」と「ライティングデスク」が並んでいる。ライティングデスクの上にも本が積み上げられている。写真に撮るとそれほどボリューム感はないが150冊以上ある。この150冊は読了済み。机の下に27インチのiMacが写っている。他に24インチのiMacが放置してある。どちらのHDDにも数万枚の写真が残っている。iMacの脇には正月にプリントした4Aのプリントを額装したフレームが置いてある。

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今の家の前に住んでいた家はとても広く、ピアノ「専用」の部屋があった。しかし、いま住んでいる家では他に置く場所がないためピアノは書斎においている。もう子どもたちはピアノを弾かなく成ってしまったので処分することを考えているのだが、まだ娘がピアノを習いに行く可能性が残っているので取りあえず残している。このピアノを処分してしまえばこの壁面に書棚を設置することができる。そうすれば1,500冊は楽に収納できる。使われていないピアノは「物置場」と化している。ここに写っている本は140冊程度。ピアノの上にあるプリンター(EPSON PX-7V)の上にカメラが7台置いてある。その隣にローライ2台。その左にあるのはSIGMA dp0 Quattro。

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事のついでにパソコンデスク周辺もご紹介しよう。モニタはEIZO ColorEdge CX240。プリンターはPIXUS PRO-1。正月にプリントした写真をフレームに入れて飾った。右上のピンク色の写真が入っているフレームは、あとにも先にも唯一私が飾っている自分が撮った写真。”この写真”の左下に写っている桜を撮った写真。雨が降っている時に撮った写真なのでとても地味な写真である。カーテンの代わりに「暗幕」を掛けている。日中プリント作業をするためなのだが、全然プリントしないので意味が無い。ただし、本気でプリントしようと思ったらいつでも取り組める環境はある。

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気になる人もいるだろうから机の上も見せておく(笑)。左のカメラは初代α7。その更に左にα7Ⅲが置いてある(上の写真には写っている)。α7の後にある4本のレンズはα7系用のレンズ。α7の隣にあるのはX-T2。右側にXFレンズが6本。その前にあるカメラはSIGMA dp1 Quattro。この写真を撮ったX-T20 + XF10-24mmF4 R OISも机の上に置いてある。書斎を出たところに大型防湿庫があって、その中にはカメラとレンズが沢山入っているが、使っているのはごく一部のレンズのみ。日常的に使っているのはX-T20だけ。

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by dialogue2017 | 2019-02-25 19:00 | 読書 | Comments(3)

現在住んでいる家は5年程前に引っ越してきたのであるが、窓が多く壁面が少ないため書棚を設置できる場所があまりない。やむなく階段の踊り場に書棚を設置したのだが、その後この5年間に購入した書籍(2,000以上)を収納するスペースがなく、家の何ヶ所かに積み上げている。一番多くつみあげているのは当然私の書斎である。左側にDOMKEのバッグが二つ。カーテンの前には先日プリントして額装した写真が放置されている。写真を飾る壁面は家中に沢山あるが、自分の写真を飾るつもりは全くない。この3年間、自転車にはほとんど乗っていない。※写真下に本文あり。

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新潟から帰ってきて咳が悪化した。一度収まった咳が再発することは過去にもあった。再発した場合だいたい悪化する。今回もそのパターンとなった。新潟滞在中から悪化し始めていたのだが、帰京後一気に悪化した。完全に咳喘息である。咳が酷いと何もやる気にならなくなる。老眼鏡が合わないことと「二重苦」になり本を読む気力がなくなった。で、2月17日から3日間全く本を読まなかった。3日読まないと読書に戻れなくなる。もちろん健康であれば問題ないのだが、その間も咳は悪化していたので本を読む気になれなかった。で、結局16日から20日までの5日間1冊も読了しなかった。その後21日に1冊読み、22日から3日間掛けて1冊読んだ。16日以後の9日間で2冊しか読まなかった。今月は14日までに15冊読んでいたので、昨日現在の読了冊数は17冊。今日を含めて今月は残り4日。毎日2冊ずつ読んだとしても今月の読了冊数は25冊。今月はマイナス3で終わる。いや、これは取らぬ狸の皮算用であって、実際には残り4日で4〜5冊しか読めないような気がする。5冊読んだとして今月は22冊。「1日1冊」というペースが2月末にして早くも崩れる。

2月22日の朝facebookを開くと「過去の思い出」が表示されそこに次のような文章が表示されていた。2年前、2017年2月22日の投稿である。

2月になってから読んだ明治維新史関連の書籍は33冊(1万4千ページほどなので新書版に換算すると70冊ほどになる)。昨年12月にも15冊ぐらい読んでいる。

近年は記憶力が著しく衰え、記憶自体はあっても前後関係とか時期が分からなく成っていることが多い。2年前の2月に結構なペースで本を読んでいたという記憶が全くない。2015年の1〜5月は250冊読んだ。2016年8月9日からその年の年末ぐらいに掛けても200冊近く読んだと思う。しかし、2017年に入ってからはぱたっと読むのをやめてしまったと言う記憶であった。しかし、実際は明治維新史や太平洋戦争史を読み続けていたようだ。

今年元旦から昨日までに購入した書籍は71冊。全部amazonで購入している。数冊の例外を除いて全て「古本」である。元旦から昨日までの55日間に読んだ本は49冊。この5年間は、実際に読む1.5倍ぐらい冊数を買っているので例年通りである。その年によって差があるが年に100〜150冊ほど「未読書」が積み上げられる。そういう「アーカイブ」があることは重要なのである。最近、何冊かどうしても読みたいと思った歴史関係の学術書の古本が5.000〜12,000円とかして二の足を踏んで購入しなかった。そういう本は今後更に値が上がる可能性がある。初版発行部数が少なく、増刷されなかった学術書の古本価格はかなり高額なものが少なくない。読みたい人がいるから高値がつくのである。今後、明治維新史と太平洋戦争史を読み続けていけば、いずれそういう本を読まないわけには行かなくなる。いま買っておいた方が賢明かもしれない。

値段のことはともかく、絶対に読んでおこうと思った本に関しては高額でない限りなるべく買っておくようにしている。もちろん読みたいと思う本を片端から買っていたらキリが無い。毎日10冊買ってもまだ足りない。しかし、「買いたいものリスト」に入れておくとそのまま埋もれてしまう。次から次への読みたい本が出てくるからである。良い本の場合、1冊読むと少なくても2〜3冊は読みたい本が出てくる。だから、本を読めば読むほど読みたい本の数はうなぎ登りに増えていくのである。できるだけ購入してアーカイブしておけば目に入る。目に入ると手が伸びると言うことが起こるので読みたいと思う本はできるだけ購入しておくことにしているのである。

さて、今月の読了数は昨日段階で17冊。今日から28日まで毎日2冊ずつ読んでせめて25冊にまではしておきたい。1月の32冊と合わせると57冊。2月末日時点で「1日1冊」にマイナス2冊となる。まあ、帳尻合わせをするつもりであれば200ページほどしかない本ばかりをピックアップして読めば残り4日で11冊は読める。それをやれば今月の読了数は28冊で月間ペースでも「1日1冊」をクリアできる。この先、何か別のことに熱中してほとんど読まない時期が絶対に出てくるので春までは少し「貯金」をしておくつもりであったのに2月段階で「借金」生活となりそうだ。まあいい。今更沢山本を読んだからといってどうなるものでもないのだ。とにかく、今日は2冊読んでおこう。

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by dialogue2017 | 2019-02-25 17:00 | 読書 | Comments(0)

新潟に行った日からほとんど本を読んでいない。2月16日に新潟に行った。その日は15時にホテルにチェックインしてホテルに籠もって本を読むつもりであった。しかし、ホテルの部屋のテレビで『チャーチル』という映画を見てしまった。私は映画を見ることは滅多にない。映画は素晴らしいと思うけれど見始めたらキリが無くなるので見ないことにしている。それでも時々これは見ておこうと思う映画に出逢うとamazonでDVDを購入する。そんな風に購入したDVDがそこそこの数あるのだが、数本しか見ていない。映画を見るくらいなら本を読んだ方が良いと思って本を手に取ってしまうのである。そんな私が映画を見たわけは、ここ最近また何冊か太平洋戦争史を読んでいたので「チャーチル」という題材であれば見たいと思ったからである。結局、その日はだらだらと他の映画を見たりテレビ番組を見たりしてしまい本は1時間ほどしか読まなかった。

下の写真はここ数日に届いた本。先日読んだ『明治維新 司馬史観という過ち』が面白かったので著者の原田伊織氏の本を3冊買った。最近「満州事変」について読んでいるので「石原莞爾」関連の本を4冊。中島岳志の『アジア主義』は面白そう。文庫本であるが603ページという大作。新書3冊分相当になる。サブタイトルは「西郷隆盛から石原莞爾へ」。

村上春樹『sydney!』はシドニーオリンピック観戦記とのことであるが、多分、脱線話が多いだろうと思って読んでみることにした。村上春樹はインタビュー集だとかエッセイも面白いのだが、そういうものに手を出す前に作品を読んでおいた方がいい。抜群に面白いが「何かを得られる」というわけではないので勧める積もりはない。読むとしたら『羊をめぐる冒険』から初め、長編作品を発表順序通りに読んでいくのがベストだと思う。『羊をめぐる冒険』『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』『ノルウェイの森』の3作品を読むと取りあえず村上春樹という作家を知ることができるだろう。くり返すが、抜群に面白いが「何かを得る」と結果はないと思っておいた方が良い。

この写真に写っている11冊の中では、福田和也の『地ひらく』(上・下)が一番面白いだろうと予想している。副題は「石原莞爾と昭和の夢」。福田は「右」的な思想の持ち主で、元「左」の私とは思想的には折り合えないが、著述家としては一流だと思う。彼が石原莞爾と昭和をどのように書いたか非常に興味がある。上巻458ページ、下巻478ページ、合計936ページの大作である。下巻巻末に掲げられている「文献目録」数は191冊。一人の人間の「伝記」を書くのにこれくらいの参考文献を読むというのは必ずしも珍しいことではないだろう。ここに掲載した以外にも読んでいるだろうから福田は300冊は読んでいるだろう。

福田はこの本を執筆するに当たって石原莞爾ゆかりの地を精力的に訪問している。日本国内は鶴岡、仙台、京都、舞鶴など各地。海外は満州、北京、ベルリン、ポツダム、ジュネーブなどなど。参照した文献の数と、足を使った取材によって書かれた本であること、そして著者の「眼力」は非常に高いので魅了される内容の本だろうと思う。自分とは対極的な思想の持ち主の書いた本であっても、「眼力」が高い人物が書いた本からは山のように多くのことを得ることができる。しかし、この本から手を付けると、今月残り4日は1日1冊ぐらいのペースで終わるだろう。良い本はゆっくりじっくり読みたくなるからである。

(1,303文字)

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by dialogue2017 | 2019-02-25 15:00 | 読書 | Comments(0)

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by dialogue2017 | 2019-02-14 15:10 | 読書

大変面白い本である。しかし、明治維新の「通史」に通じていない人が読んでもその面白さはまったく分からないだろう。

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昨晩は1:30に就寝した。平素3時〜4時に就寝するのだが体調不良でダウン。今朝は8:00に起床。6時間半睡眠は平素より30分長い。8時から9時まで布団の中で読書。9時に妻が玄関を出たのと入れ替わりでリビングに上がって朝食。10分で食事を終えて布団の中に戻って読書。しかし、30分ほど読んで寝落ち。11:30まで2時間ほど眠ってしまった。身体が「休息」することを求めているのだろう。しかし、そのおかげで朝より多少体調が良くなった気がする。再びリビングに上がって食パンを1枚食し、珈琲を入れる。毎朝朝食後に必ず珈琲を飲むのだが、今朝は飲む気にさえならず布団に戻った。珈琲を飲んだらちょっと身体がぴしっとした感じ。雲が切れ陽が射している。このまま根津まで写真展を見に行こうかとも思ったが、せっかく得た小康を崩すのも馬鹿な話なので今日は辞めておくことにした。

玄関に透明の封筒に2枚の形が違うカードが入った郵便物が届いていた。個展のDMだと分かった。泉大悟君からだろうと思って開封すると安達ロベルトさんからであった。2月20日〜3月9日までと、3月5日〜10日まで、二ヶ所の異なるギャラリーで展示が行われる。安達さんは大好きな作家なのでとても楽しみである。詳細については改めて紹介したい。

さて、体調が悪いだけでも本を読む気力が無くなるというのに、目のコンディションが悪い。いや、老眼鏡が合っていないのだ。合わない眼鏡で読書するなんていうことはどれほど馬鹿げたことか。それでも体調がまともであれば何とかなるのだが体調が悪いとちょっとした不調が増幅されて感じられる。人間って、身体も精神も複雑に絡み合い相互作用をしている。歯車が狂ったときと言うのは全般的に機能不全となる。そういうときには「軽い」本を読むことにしている。

今朝から読んでいるのは『徹底対論 明治維新 司馬史観という過ち』(悟空出版)。著者は作家の「原田伊織」氏と大阪学院大学教授の「森田健司」氏。原田伊織氏の著作はなにか1冊ぐらい読んでいるかもしれないがはっきりした記憶が無い。もしかしたら、雑誌か、あるいはネットでちょこっと読んだだけかもしれない。ほとんど記憶がないので当てにならない「偏見」かもしれないがちょっと「斜め」に歴史を捉えている人だというイメージが残っている。森田健司氏はどこかで名前ぐらい見たことがあるような気がするが定かではない。1974年生れの若い学者である。

原田伊織氏の書いた「はじめに」を読んでげんなりした。文章がひどいのである。私はきちんとした文章じゃないと強い「拒否感」を覚えてしまうのである。そもそも私は「作家」が示す「歴史解釈」に対しては強い疑問を感じている。作家が書く「歴史物」には「トンデモ本」が少なくない。流石に司馬遼太郎氏の著作を「トンデモ本」だとは思わないが、私は「司馬史観」は「過ち」が多いと思っている。だからこの本を読んでみたくなったわけだけれど「はじめに」を読んで「これは期待外れかも知れない」と思った。しかし、豈図らんやかなり素晴らしい内容であった。「対談」を起こしているので(もちろん両者が徹底的に手を入れているだろうが)とても読みやすい。体調不良で気力が衰えている頭にもすんなり内容が入ってくる。こういう時というのは「読みやすい」「分かりやすい」本が一番である。

しかし、感心したのは「読みやすさ」ではなくご両人の「説」に対してである。このブログを訪問してくれる人の中に「明治維新」に関心を持っている人など一人もいないだろうからこんな話を書いても仕方ないのだが、先般読んだ『明治六年政変』同様、「通説」がいかに多くの間違いを含んでいるかということが手に取るように理解出来る内容である。私は明治維新史についてはそこそこの量の本を読んではいるが、ピンポイントで深く掘り下げた研究書はほとんど読んでいない。そして、ここが肝心なコトなのだが、世の中に出回っている「歴史書」のほとんどは「通説」である。ようするに「勝者」によって書かれた「歴史」である。「通説」の範囲内においてもあれこれいろいろな見解・学説があるので必ずしも「通説」=「官製史観」とは言えないが、よほど熱心に勉強しない限り、「通説」の「裏側」まで学ぶことはできない。私はまだそこまではやっていない。

しかし、「通説」に対する小さくない「違和感」はずっと抱き続けていた。詳しいことを知らない人に分かりやすい表現をすれば、「西郷隆盛ってそんなに偉大な人間だったのか?」とか、西郷や大久保と島津久光の関係なんていうのはほぼ全面的に「西郷・大久保」サイドの「眼」でしか書かれていないのだろうというような「違和感」を持っていたと言うことである。徳川慶喜に対する評価も「官軍史観」と言って良いだろうと思っていた。慶喜に関しては大家・山岡荘八が6巻物の『徳川慶喜』を書いていて、この本は「通説」を裏返しにしたような内容である。しかし、それはそれであまりにも慶喜贔屓が過ぎる気がしてちょっとあり得ないんじゃないかという印象を持った。ではあるが、「通説」とは「反対側」から見た「歴史」に触れるということには大きな意義がある。そういうことをしていないと、歴史を一面的にしか見ることができなくなる。

多くの人々は本に書かれていることを割と無条件で信じる。学校で教わった歴史などと言うものは完全に「勝者」によって書かれた歴史でしかないにも関わらず、大多数の人々はそれが「真実の歴史」だと信じている。ほとんど全ての「明治維新史」と「明治史」は「官軍」と「明治政府」に都合が良いように書かれている。都合の悪いことは抹殺されているし、いくつもの「でっち上げ」が書かれている。

司馬遼太郎氏の歴史小説は「功罪併せ持つ」と言う以外にない。もし、『竜馬が行く』や『坂の上の雲』や『飛ぶが如く』などの小説がなければ、昭和以後に生まれた日本人は「明治維新」や「明治史」に対してまったくの無知である人が大多数であっただろう。少なくない日本人が「明治時代」や「明治人」についてのイメージをある程度持つことができたのは司馬遼太郎氏の小説のおかげだと言って間違いない。しかし、そこには大きなピットフォールがある。相当程度に「手前勝手」な歴史解釈が成されているからである。司馬遼太郎氏の作品は所詮「小説」なのであって「歴史書」ではないのである。しかし、私は基本的には肯定的に捉えている。司馬遼太郎氏の歴史小説は大好きだし素晴らしいと思っている。私は若い頃に『竜馬が行く』や『坂の上の雲』を読んで感銘を受けた。私の人格が「明治の軍人」のような人格となった原因の一つは間違いなく若い頃に読んだこれらの小説からの影響にある(持って生まれた個性が80%だろうが)。

まあ、近頃では司馬遼太郎氏の小説を読む若者は少なくなっているだろうし、読んだ人々が過てる「明治維新観」を抱いたからと言ってそれが今後の我が国の行く末に大きなダメージを与えると言うことにもならないだろうとは思う。明治維新の「真相」がどうであったのかなどと言うことは、今日では「マニア」が「重箱の隅をつつく」ようなことでしかないかもしれない(本気でそういう風に思っているわけでは無い)。しかし、今日の安倍政権のやっていることを見ていると(お友だち内閣・忖度)、明治政府のやっていたこととそっくりだと思う。いまだに「長州政権」だな〜という気がする。そういう意味では、「明治維新史」と「明治政治史」は、やはり「我が国」と「日本人」を理解するに当たって不可欠な課題なのである。そして、「明治維新史」と「明治政治史」はストレートに「天皇制」の問題とリンクしているし、それは「太平洋戦争」に直結している。

今後の我が国の行く末を抜本的に展望するに当たって「太平洋戦争」の徹底した「総括」は避けて通ることのできない課題である。「15年戦争」の中に、「日本」とは、「日本人」とはなんなのかという問いに対する答えが全部含まれていると言っても過言では無いだろう。そして、「太平洋戦争」に至る「前史」が「明治維新史」である。言うまでも無く、明治維新によって我が国は大きく変わった。まさに「御一新」だったわけである。徳川幕藩体制(封建制)が打ち倒され、近代国家(資本制社会)へと移り変わっていった「結節環」が明治維新であったわけである。

古いものの一切合切が一欠片も残されずに新しいものに変わったというわけではない。一つの民族の「民族的特質」というものはそんなに簡単に変わるものでは無い。「明治」という時代、そしてそれを担った「明治人」というのはまさに「古いもの」と「新たらしいもの」が渾然一体となった「両義性」を持っていた。それ故に、「明治史」と「明治人」を理解すると言うことは、「日本」と「日本人」を理解することに通じると言って良い。私がこの2年程「太平洋戦争史」を読む傍らに「明治維新史」を読んでいる理由はそこにある。つまり、私は「日本」という国と「日本人」を深く知るために「太平洋戦争史」と「明治維新史」を読んでいるのである。そして、両者を貫く「柱」が「天皇(制)」である。

ああ、こんな話を書いたって何の意味も無いよな〜。まあ、何人か読んでくれる人がいるだろうし、読んでくれた人はそれなりに何かを感じてくれただろうから100%無意味と言うことでは無いかもしれないけれど、書くほどのことでも無かった。まあ、やっと目が覚めた、というか身体が「覚めた」のでストレッチ代わりに書いたと言うことである。

いま1/3程読み進み島津久光に関する話しを読み終えたところである。「やはりな〜」と思った。自分が想像していた「方向性」での解釈であった。森田健司という若い学者は(今年45歳)「社会思想史」が専門なのだが、江戸時代の庶民思想研究に力を入れているそうである。氏は江戸時代の「瓦版」の収集者でありその分析では第一人者であるそうである。江戸時代の「瓦版」を大量に収集し読み込むという研究手法には絶大な価値があると思う。なぜなら、そこには「通史」に書かれなかった歴史的事実が沢山書かれているはずであるし、同時代の「庶民」が世の中をどのように認識していたかと言うことが明瞭に反映されているからである。「通史」の「嘘」を暴くにあたってこれほど有力な「資料」はないだろう。この本を読み終わったら、氏の著書を二三冊読んでみようと思う(学術書は高いのが難点)。

追記。夏目漱石が未だに読み継がれている一つの理由は、そこに「明治人」が描かれているからであろう。「明治人」は「古い日本人」と「新しい日本人」の間の「過渡期の日本人」であった。つまり、「明治人」、少なくとも初期の明治人は「アイデンティティ」の危機に襲われていたのである。「御一新」によって世の中が根底的にひっくり返った。しかし、フランスのブルジョワ革命とはことなり、明治維新は「市民革命」ではなかった。「お武家様」自身が「お武家様」の世の中をひっくり返したのであり、「庶民」は右往左往してそれを眺めていただけであった。それゆえ、「御一新」後の明治人は「我々はなにものなのだ?」「どうやって生きていけば良いのか?」という大きな「民族史的問い」の前に立たされた。それに対して、漱石は西洋(近代)を知る知識人の「責務」として、明治人に対して「これからの日本人像」を差し示したのである。故に、漱石の作品は、「明治時代」がどういう時代であったかという知識抜きでは理解出来ない。次回は『こころ』の書評でも書くか(笑)。

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by dialogue2017 | 2019-02-13 14:15 | 読書 | Comments(0)

下の写真は、2007年〜2011年に住んでいた家の私の書斎の書棚。1本に800〜1,000冊程収納できる大型の二重スライド書棚が3本並んでいる。分厚い学術書がかなりあるため3本で2,500冊程度じゃないかと思う。この家には2007年3月に引っ越してきたのだが、その前に住んでいた荒川区のマンションの書斎は壁3面がこの写真のような状態であった。2面はひとまわり小型の二重スライド書棚であったので蔵書数は6,,000冊程度だったのではないかと記憶している。その内の2,000冊ほどは処分したが、この5年間だけでも2,000冊以上増えているので現在でも6〜7,000冊ほどの蔵書があるものと思う。現在住んでいる家にはこのような大型書棚を設置するスペースがないが、限られたスペースに小さな書棚を分散して設置して、5,000冊程度の蔵書がいつでも読める環境を作りたいと思う。家中書棚にすれば何とかなるだろう(笑)。

図書館のラベルが付いている本があるが、友人が務める大学の図書館が廃棄処分した書籍をいただいたものである。妻の書棚は別にある。


親の書棚は子どもにとっての家庭内図書館である_e0367501_13252385.jpg


息子は2歳5ヶ月の時に、「ひらがな」「カタカナ」「アルファベット(大文字)」を間違えることなく全部読むことができた。3歳の誕生日を迎える頃には保育園のクラスメイトに絵本を読んで聴かせていた(担任がその間に書類整理できるととても喜んでいた)。5歳の頃には自宅から50mの場所にある図書館に一人で行き、本を10冊借りてきては数時間で読む子どもだった。そのうち「お父さん、一回に10冊以上借りるにはどうしたらよいの?」と聞いてきたので、私のカードを作って息子に使わせた。息子は1度に20冊の本を借りてくるようになった。そして一気に読み切った。

そんな早熟な読書家であった息子も、小学生になってサッカークラブに入ってから読書量が減った。それでも、5年生ぐらいまではそこそこの量の本を読んでいた。我が家では子どもにゲーム機を与えなかった。「クラスでゲーム機を持っていないのは僕一人」と言って息子は欲しがったが、それでも買い与えなかった。しかし、6年生の中頃、息子と別行動をすることが多くなったので私のお古のiPhoneを持たせた。予想通り「ネット漬け」となった。妻がペアレンタルコントロールアプリで1日の使用時間を2時間に設定したが、息子は私のMacBookのパスワードを「解析」して勝手に使うようになった。私はそのことを承知していたが放置していた。

この1年程息子はめっきり本を読まなくなった。それでも時々私の蔵書の中らから興味のある本を引っ張り出して読んでいる。小学5年生のころからそういうことを始めたのだが、私の蔵書のほとんどは中学生以下には理解することが難しいような本ばかりである。しかし、息子は時々私の本を引っ張り出して読んでいる。この2年程の間に、何十冊かの本を読んでいるだろう。たぶん、少し読んで放り出してしまったケースが多いだろうと思う。しかし、それで良いのだ。たとえ5ページでも10ページでも読んでみたことには大きな意義があるし、よく分からないなりに最後まで読み通した本も少なからずあるようだ。

よく分からない本を読むと言うことが大事なのだ。「全部よく分かった」本であれば読んだ意味は無い。中学生であれば半分ぐらい分かる本を読むと言うのが理想だと思うが、1/3程しか分からない本を20ページぐらい読んで放り投げてしまうことにも大きな意味がある。そうやって触れた「知識」の積み重ねが、読書力を作っていくのだから。極端なことを言えば、書名を見て興味を持って手に取り、3ページ読んで全く理解出来ずに放り投げても良いのである。その本を「手にした」という事実そのものが息子の「教養」の土台を形成するからである。興味を抱いて一度手にした本は、その後もう一度関心を持つことが多い。一度手にしているという事実は、二度目にその本にアクセスする可能性を高めるのである。そして、その時に「その本」が目の前にあれば手を伸ばして読むことができる!

親の蔵書を収納した書棚は、たとえそれが100冊でも200冊でも子どもにとっては「家庭内図書館」である。それは公共図書館とはまったくことなる存在である。たくさんの本のタイトルが子どもの目に毎日入る。子どもは毎日ほんの僅かずつ成長している。ある日突然、昨日まで全く気にならなかった1冊の本に興味が生まれる。その時そこに本があったから興味を抱くことが出来るのである。そして、子どもはその本に手を伸ばす。これは学校の図書館や市が運営している図書館には生み出すことのできない効用である。

あとどれくらいあとになるか分からないが、中学生の内に息子はまた本を読み出すだろう。その時に備えて、そろそろ「高校生」向けのレベルの本を買い込んで我が家の図書館に収納しておこうと思う。



by dialogue2017 | 2019-02-04 14:00 | 読書 | Comments(0)

再読の効用について

今月は昨日までにまだ2冊しか読んでいない。1日は本を読まなかった。そして昨日一昨日に1冊ずつ。1月の32冊と合わせて合計34冊。元旦から昨日までが34日間であるのでなんとか「1日1冊」のペースは維持しているが、まったくペースが上がらない。読んでいるときには熱中しているのだが、読み終わると「満腹感」に襲われ2冊目になかなか手が伸びない。いや、2冊目を手にして読み始めるのだが、すぐに辞めてしまう。原因の一つは合っていない老眼鏡を使っているからである。とにかく老眼鏡を作り直さないことには読書が捗らない。

読書に没入していきたいという希望はあるのだけれど、そこに踏み込んでいく覚悟がまだない。というのは、私にも「生活」があるからである。仕事はしていない。家事も夕食を作るだけだ。掃除洗濯は妻がしている。1日24時間のうち、控えめに言っても20時間は「自由時間」である。私は6時間睡眠なので少なくとも14時間は「自由時間」がある。実際には、ここ最近は毎日16時間ぐらいが「自由時間」という日々を過ごしてる。そんな生活をしていながら「私にも生活がある」などと宣うわけは、「精神上」の問題として語っているからである。

私は、なにかに「没頭」すると「寝食を忘れる」まで没頭する。もちろん、寝ること食べることを忘れることはないが、食事をするのももどかしいと感じることは珍しくないし、睡眠時間を切り縮めてまで本を読んでしまうということがある。「没入」する以上はそこまで行ってしまいたいし、望まなくてもそうなる。しかし、そうなるとたとえ僅かな時間であれ「家族」との関わりが「億劫」になる。「家事」には2時間しか使っていないとしても、子どもたちからあれこれと話しかけられることが何度もあるし、夕食の際には妻とも会話をする。何かに「没頭」するためにはそういう「時間」が「夾雑物」になるのである。

要するに、何もかもと切断された環境に身を置いて一人切りで生活しない限り、完全に読書に没入することはできないと言うことである。そこまでやれないと分かっているから、ノロノロと読んでいるわけである。実に困った性格である。毎日10時間きっちりと仕事をするように読むというようなやり方ができないのである。10時間読んだら歯止めが掛からなくなる。そこで終わりにできなくなる。そうなると子どもから声を掛けられてもろくに返事もしなくなる。食事を作るのも面倒になる。家族の生活のクオリティが下がる。だから読書に没入することに突き進んでいけずにいる。

こういう時には「助走的読書」になる。別の表現をすれば「柔らかい」本を読むということである。つまり「歯ごたえ」のある本を避け、「口当たりが良い」本ばかりを選んで読むということである。悪いことではない。これは十分意味のあることである。喩えるなら、シーズン前の「キャンプ」みたいなものだ。実際、私はこの2年程あまり本を読んでいなかった。昨年は200冊ほどしか読んでいない。だから、まず「リハビリ」から始める必要があるのである。いまは軽い走り込みの時期だと言うことだ。

こういうときには「再読」をするのが一番良い。自分の知的テンションを持ちあげてくれる本が沢山ある。そういう本をコツコツ読み続けると眠っていた「知的欲求」が目を覚ます。だから、書籍は図書館で借りず必ず購入して「蔵書」として所持することにしている。私は本を読むとき4Bの鉛筆を持って読む。文章の横にラインを引いたり、ひとくくりのパラグラフの上を括弧で括りその上に「※」などの印を記入する。再読する価値のあるページは耳を折っておく。そうすれば、自分の「知性」を刺激する文章だけを選んで「再読」することができる。

「再読」の場合、頭から最後までを通読したとしても短時間で読める場合が多い。一度読んでいる本はその概要を把握しているからである。中にはほとんど覚えていない本もある。そういう本を通読する場合には再読でも時間が掛かることがあるが、総じてみれば再読に掛かる時間は初読に費やした時間の半分ほどで済む。そして、再読の場合、今現在の自分の「必要」に合わせて読むことができるし、1冊読んだ後次に読む本が直ぐに見つかる。「蔵書」を持っていることのメリットの一つは有意義な「再読」ができることである。

by dialogue2017 | 2019-02-04 11:15 | 読書 | Comments(0)