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今日も古いエントリーを再掲する。特に選んでいる訳では無い。適当に開いたページから拾っている。このエントリーには「渡部さとる」さんのブログのひとつのエントリーを丸々紹介している。とても面白い話だと思ったから紹介したのである。渡部さんは「賦と写真は似ている。何も足さない、何も引かない。ただそのものを描写する」と書いている。「何も足さない、何も引かない。ただそのものを描写する」というのは「究極」の撮り方だと思う。そこが写真家が「行き着く先」なのである。

この話が書かれたのは2017年10月31日である。そのころ渡部さんは翌年1月の個展の為の作品を撮っていた。最初彼は使いなれたRolleiflexで作品を撮り始めたのだが、直ぐにカメラを8×10に換えた。その理由は、「思うように撮れない」カメラを使いたかったからである。使い慣れたRolleiflexでは「思うような写真」が撮れてしまうのである。それでは「我」の入った写真になってしまう。渡部さんが撮ろうと思ったのは「作者の我のない」写真である。そのために「大きくて使いづらいカメラ」を使って撮ったのである。それは「何も足さない、何も引かない。ただそのものを描写する」写真である。2018年1月の『2Bとマンデリンーーそして僕はこの町を離れるーー』で展示された8×10の作品はそういう意図で撮られた作品であった。そして、それを更に追求して撮った作品が、今回の個展『IN and OUT』で展示された10枚の線路の写真である。


2017年11月1日 「閑話(32)」

10年以上前であることは確かであるが、いつ撮った写真であるかはっきり覚えていない。フィルムはASTIAだったと言う記憶であるがPROVIAかもしれない。スキャンした段階で色味が変わっているのでこれを見ても判別できない。ぼやけ見える理由はフィルムで撮ったからではない。古いブログから拾ってきた解像度の低いファイルを掲載しているからだ。写っているのは江の島・シーキャンドル。

いま、昔フィルムで撮った写真のネガやポジのスリーブは手元に無い。もう、少なくとも8年間ぐらいは見たことさえ無い。6年前ぐらいまで使っていたiMacの中にはフィルムで撮った写真をスキャンした画像がある程度あったと思うが、いまそのiMacをどこに保管しているか思い出せない。多分会社の倉庫だろうとは思うけれど。

古いブログにも、フィルムをスキャンした画像は指折り数えるほどしか掲載してない。そんなわけで、こんな写真しか見つけ出せなかった。別に、どうしてもフィルムで撮った写真を掲載しなければならない必要性があるわけで無いのだけれど、渡部さんが書いている話がフィルムで写真を撮る話なので、私もフィルムで撮った写真を載せておきたいのである。この写真、スライドボックスの上で見ると綺麗なんだけれどな〜。

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(31)で書こうと思った写真家・渡部さとるさんの日記の話し。とりあえず、以下に10月31日付けの日記の全文を掲載する。彼の日記にしてはかなり長文の部類に入る。コピーペーストするのでフォントが変わる。なお、現物をご覧になりたい方は→『写真生活』

渡部さとるさんの書く話には昔から面白い話が多かったが、この1〜2年、その面白さに新しい領域が加わってきた。それは少々オカルティックな話である(笑)。今日(10月31日)の話はオカルティックという程では無いが、スピリチュアルとは言えるだろう(笑)。この日記を読んで私が思ったことについて書きたいのだが、引用文自体がある程度長文なので、私の感想は(33)に回そうと思う。

時間ができるとエイトバイテンという大型カメラで江古田を撮影している。フィルムの大きさはB5ノートくらい(20センチx25センチ)もある。


撮っているのはごく普通の駅前とか商店だ。何か特別なものではない。来年この町を離れることになったので撮りたくなった。ノスタルジーの感情とは違う。


カメラも重いが三脚も重い。カメラをセットし た状態で持ち歩くとバランスが悪くてふらふらする。担いでいると鎖骨にぶつかって痛くなるし、翌日は体がギシギシしてくる。フィルムコストは1枚あたり1600円だ。笑ってしまう。


自分の暗室ではエイトバイテンフィルムの引き伸ばしができないので、プリントはベタ焼きになる。ネガフィルムを直接印画紙に載せて上から光を当てるだけ。


そんな大きなフィルムを使ったからといって仕上がりがとんでもなく素晴らしいかというとそうでもない。フィルムの質が悪かった40年前ならいざしらず、今なら67カメラ(6センチx7センチ)からプリントした方がエイトバイテンのベタ焼きよりずっときれいだ。


つまり仕上がりのクオリティを求めて使っているのではない。


多くの写真家がいまだに大型カメラを使い続けている。軽くて使いやすくて性能がいいカメラが普及しているのにもかかわらず、大きくて重くて使いづらいほうをあえて選んでいる。


そういえば僕がポートレートを撮ろうと思った時も、最新のカメラの方が仕上がりは良いと分かっていながら出来るだけ使いづらいカメラを使おうとする。


ストリートスナップを撮る写真家も目立たないカメラではなく、大きくて使いづらいカメラを選ぶのだそうだ。長いこと路上を撮っている人ほどその傾向にあると聞いた。今なら音がしないカメラもあるのに使おうとはしない。


なぜ多くの写真家は面倒なことを好むのだろうか。そこには現代アートのロジックとは違うものがあるように思えてくる。


「写真家である」と自らを規定するものにとって、カメラは表現に使う便利なツールとして利用しているのではなく、祭事のための儀礼道具と考えているのではないだろうか。


中国に「賦」と呼ばれる詩の形がある。そこにメロディをつけると唱歌と呼ばれるものになる。小学校で習うやつだ。


「早春賦」

春は名のみの 風の寒さや

谷のうぐいす 歌は思えど

時にあらずと 声もたてず

時にあらずと 声もたてず

氷融け去り 葦はつのぐむ

さては時ぞと 思うあやにく

今日も昨日も 雪の空

今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを

聞けばせかるる 胸の思いを

いかにせよと この頃か

いかにせよと この頃


ただただ春の状況を描写しているだけだ。作者の我はそこにはない。この詩はなんのために作られたのか。


春への祝福である。冬が終わり春の到来への祝福の思いなのだ。


賦と写真は似ている。何も足さない、何も引かない。ただそのものを描写する。


もうひとつ


「ふるさと」

兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川

夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷


如何にいます父母 恙なしや友がき

雨に風につけても 思いいずる故郷


こころざしをはたして いつの日にか帰らん

山はあおき故郷 水は清き故郷



これはただのノスタルジーなのか?違う、ふるさとの山河を祝福している詩なのだ。失われたものへの追憶の感情だけはない。祈りすら感じる。



そうか、僕が江古田を撮るのも、ポートレートを撮るのも対象への祝福なのだ。


つまり写真家とは祝福を与える人たちのことなのだよ。


そして時にそれは鎮魂であり、祈りとなる。決して対象を呪う装置としては用いない。だからどこか宗教的な要素を持ち合わせているように感じられるのだ。


ただ生きるためではなく、よりよく生きるために儀礼や祭事は必要であり、そこには大がかりな装置が必要になる。簡便な儀礼というものは存在しない。


そう思うとカメラのシャッター音は、お参りのときの柏手(かしわで)と似ている。パシンと響く音が対象への呼びかけとなるのだ。


大きくて重くて使いづらいカメラを使うのは、祝福を与えるための儀式。僕はそう思うことにした。


呪ったり呪われたりして生きていくのは御免だ。僕は頼まれなくとも写真を撮ることで勝手に祝福を与え続ける。


写真を何かに利用したり、呪いの装置にはすまい。僕はひたすら祝福を込めて対象を撮るのだ。


それでいいのだ。


(引用文を除き1,321文字)


by dialogue2017 | 2019-01-28 12:00 | 古いエントリー再掲 | Comments(0)

2017年12月14日のエントリー。初出時に「2008年春頃に撮った写真だと思う」と書いているが、もしかしたら2007年かもしれないし2006年かもしれない。いずれにしろ10年以上前に撮った写真であることは間違いない。こうやって見るとフィルムって凄いと思う。今どきのデジタルカメラの写りに遜色ないと思う。135判フィルムでもこれだけキッチリ写るのだから4×5だとどれほど写るのか。一度4×5で撮ってみたい。文中「佇まい」という表現があるが、昨年末(2018年12月29日)に横木安良夫さんに「4×5の良さってなんですか?」と聞いたら「佇まい」返ってきた。同じように感じているんだと思った。8×10までは使ってみたいと思わないけれど、4×5で山の写真を撮ってみたい。リンホフ買おうかな(笑)。

「フィルムで写真を撮るということ(4)」

2008年春頃に撮った写真だと思う。JR常磐線三河島駅のホーム。下り電車から降りると目の前に保線員の方々が立っていた。労働しない私は働く人の姿を美しいと思う。ちょうど上り電車が入ってきたので咄嗟に撮った。カメラがBESSA R3Aであったことは覚えているがレンズがなんであったかの記憶が無い。たぶん、NOKTON Classic 40mm F1.4 SCだろうと思う。電車が流れてくれたおかげで絵になったように思う。

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この写真を見て「デジタルと比べて遜色ないな〜」と思った。デジタルカメラが出始めたばかりの頃は、まだフィルムにはとうてい及ばないと言われた。数年後にはフィルムに追いついたと言われ、それからすぐフィルムを追い越したと言われた。それでもまだ、中判カメラならフィルムの方が上だと言う人々がいたが、フルサイズセンサーのカメラの性能が上がっていくと「いまや確実に中判カメラを超えた」と言われるようになり、いまでは中判デジタルカメラなら大判カメラさえも超えているという意見が大勢を占めるまでになった。

デジタルカメラが、何を持ってフィルムカメラを「超えた」と評価されているのかよく知らないが、その最も大きな基準が「解像度」であるとしたら、現在の中判デジタルカメラは間違いなく大判カメラのそれを超えていると思う。プロの写真家の中には「いや、まだフィルムの大判カメラの方が情報量が多い」と言いきる人もいるが、一方「そんなもの中判デジタルの方が上に決まっている」と断言するプロも沢山いる。拙見を明かせば、現在の中判デジタルカメラはほとんどの点においてフィルムカメラを凌駕していると思う。

私は自分ではモノクロ写真(ゼラチンシルバープリント)をやったことがないが、友人に何人かの作家がいると言うこともあって、優秀なモノクロ作品をそれなりにじっくりと見ている。彼らが8×10などの大判カメラで撮影した写真も見ている。大判カメラで撮影した写真には独特な「佇まい」があると思う。中判カメラで撮られた作品の中に1枚だけ大判カメラで撮った作品を交えて展示すると、その写真だけが強い「存在感」を放っている。大判カメラには見る者を「圧倒」する力があると思う(それを生んでいる理由は、フォーマットの大きさと"レンズ”にあると思う)。

しかし、いまの中判デジタルカメラは大判カメラに勝る高い描写性能を持っていると思う。昨年2月、PHASEONEから1億1千万画素のデジタルカメラが発売された。680万円だというからクラウンより高い。詳しい話は何も知らないが(というか興味が無い)、解像度という点において大判カメラを凌いでいることは間違いない。センサーサイズはフルサイズセンサーの2倍とのことである。そこまでセンサーサイズが大きくなればダイナミックレンジはかなり広いだろう。

ギャランティーの高いコマーシャルフォトを撮っているプロフォトグラファーの多くがPHASEONEやLeeafなどの中判カメラ用デジタルバックを使っている理由は、高解像度ということもあるが、それ以上に階調の豊かさ故のことである。ディティールの出方が全く違うと言うフォトグラファーは非常に多い(例えばポートレートの場合、髪の毛のディティールの出方が大きく違うと言われる)。

PHOSEONEやLeeafといった「化け物」級のカメラは別として、コンシューマー用中判デジタルカメラについて一言書いておく。この秋、私はたまたま立ち寄ったFUJIFILM SQUAREでFUJIFILM GFX50sで撮影されたモノクロポートレートの展示を見た。数名の欧米のプロフォトグラファーが撮影したモノクロポートレート写真の展示であったのだが、その圧倒的な「説得力」に驚いた(しかも展示写真は撮りっぱなしだと言う)。

「説得力」ということについて言葉で説明するのは難しいのだが、上記展示写真の場合、単純に「迫力がある」ということではないし、「圧倒される」という感じとも違った。寧ろ、そういう押しつけがましい感じは薄く、「柔らか」な印象であった。実際には圧倒されるような迫力を持った写真であるのだけれど、それが前面には出てこない「心地よさ」があった。そう感じさせる理由は階調の豊かさなのだろうと思う。「柔らかさ」と「心地よさ」はあえて言えば「フィルムライク」ということになる。70年間以上に渡ってフィルムを作り続けてきた富士フイルムならではの表現力だと思った。

書こうと思ったことは、いまのデジタルカメラの「表現力」はフィルムの表現力を大きく超えていると思うということ。だから、冒頭に掲載した写真を見たときの感想が「デジタルと比べて遜色ないな〜」なのである。冒頭の写真は35mmフィルムで撮影した写真である。大判カメラは言うに及ばず中判カメラに比べても情報量は圧倒的に少ない。しかし、私が抱いた印象としては最近のデジタルカメラで撮ったモノクロ写真と比べて遜色ないというものである。今から数十年前に、いまのデジタルカメラの表現力に近い表現力をフィルムが実現していたことに今更ながら驚かされた。

続けると話はいつまでたっても終わらないので、無理矢理終わらせることにしよう。いまや、表現力という点においてデジタルカメラは間違いなくフィルムを凌駕していると思う。暴言との誹りを恐れずストレートに言わせて貰うが、本気で「写真表現」をやろうというのであれば中判デジタルカメラを使うのが一番良いと思う。なぜならば、フィルムよりも、そしてフルサイズセンサー以下のセンサーを搭載したデジタルカメラよりも表現できる幅が圧倒的に広いからである。

しかし、私はフィルムで写真を撮ると言うことの意義を否定しているわけではない。フィルムにはデジタルカメラでは簡単には真似し得ない大きな長所がある。それは、「写りすぎない」と言うことだ。

「写りすぎない」という話しについて論じ始めると、上に書いた分量より多くの文章を書かなくてはならなくなるし、ゼラチンシルバープリントを制作したことがない私の話では説得力が無い。私がこの問題について説得力ある論説を行うためには、何人ものモノクロ作家たちの「証言」を引用してくる必要がある。この件について、(賛否はさておき)読者が納得できる話を書くためには、少なくとも5,000字ぐらいは要すると思う。と言うわけで、その話はまたの機会に譲ることにしておく。

結論。冒頭の写真を見た率直な感想は「デジタルカメラに遜色ない」であった。であれば、私としてはフィルムで撮る理由は何もない。

(つづく)


by dialogue2017 | 2019-01-27 14:00 | 古いエントリー再掲 | Comments(0)

※2017年12月13日のエントリー。フィルムのASTIAは好きだった。もう無くなってしまったフィルムだ。ネット上に上げてしまうとフィルムもデジタルもあまり変わらないな〜。ライトボックスの上で見るとモニタで見るより遙かに美しいのにね。

「フィルムで写真を撮るということ(3)」


2008年の撮影だと思う。江ノ島シーキャンドル。後にも先にもこの時しか登ったことがない。ポジをスキャンするといまのデジカメとあまり変わらない気がする。X-T2のPROVIAで撮ったと言われたら信じるだろう(笑)。

Rolleiflex SLX + Planar2,8/80 T* RAP(ASTIA) こんなに周辺減光したという記憶は無いんだけれどな〜 もしかして蹴られ?

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(1)の中で「今更フィルムで撮る理由が無いと思う一番の理由は、私が写真をプリントしないからである」と書いた。それだけであれば私の個人的な思いなので問題ない。しかし、私は「柔らかい光」の中で、「プリントの美しさと比べたとき、ネット上で見るネガカラーで撮った写真は『まがい物』的にしか見えない」とまで書いた。「まがい物」という表現は些か言い過ぎだったと思う。これは、その前段で一度同じ話に言及した際には「プリントの美しさと比べてみるとどうしても見劣りする」と書いているように、あくまでプリントの美しさとの比較においてという話である。

その上で、些か言葉が過ぎたことを謝っておきたいと思う。というのは、ここ最近何度か「いいね!」を付けて下さった方のブログに掲載されていた「午後の紅茶」というnatura 1600で撮影された写真がなかなか綺麗であったのである。「なかなか」という言い方は大変失礼であるが、スキャン画像ではネガフィルムの味わいを十分には再現できないことを考えての「なかなか」であって、とても素敵な写真だと思った。

その方のブログは、最初に「いいね!」を頂いて以後、ちょくちょく拝見しているのであるが、「フィルムで撮った写真はいいな〜」と感じさせられる。フィルム党というとモノクロの人が圧倒的に多いが、その方はモノクロも撮っているがカラーでも沢山撮っている。いろいろなフィルムで撮っておられるが、個人的にはやはりPRTORA 160で撮った写真が一番素敵だと思う。前言を翻すようで恐縮であるが、スキャン画像でもPRTORA 160の発色の美しさは十分に伝わっていると思う。その上で思うのであるが、同じ写真をプリントで見たらもっと美しいだろうと思う。

私は、2001年から2008年ぐらいの間にフィルムで写真を撮っていた。とは言え、2006年春以後は極たまにしか撮らなくなった。その理由は(2)に書いたようにEOS 5Dを使い始めたためであった。中判カメラを3台も所有していたが、3台合わせても撮影本数は50本に達していないのでは無いかと思う。むしろ、息子が生まれる前の2001〜2004年に35mm判カメラで撮っていたときの方が本数はずっと多いと思う(それでも100本行っていないと思う)。そのうちモノクロは10本に満たないほどである。ほとんどをカラーリバーサルフィルムで撮っていた。ネガカラーも指折り数えられるほどしか撮っていない。貴重な経験としては「コダクローム」で撮っていることぐらいだ。

もしいまフィルムで写真を撮るとしたらネガカラーで撮ると思う(6日はPRO 400Hで3本撮った)。その理由を分かりやすく言ってしまうと、ポジフィルムのスキャン画像はデジカメ画像とそう大きくは違わないと思うからである。それに比べて、ネガカラーの画像はたとえスキャン画像でも一発でフィルムと分かる。ネガカラーであれば、現像に出した際にプリントまで作って貰うという選択肢もあると思う。ブローニーのポジとなると、ネットに載せるにしろデジタルプリントにしろ、まずフィルムスキャンをしなければならないが私は今更そんな面倒なことをしたくない。

フィルムで撮ると言うことにはデジカメで撮るのでは味わうことのできない楽しさがあると思う。これは間違いない。ただし、撮影そのものは根本的には変わらない。露出と構図を決めてシャッターボタンを押すという点において何も変わるところがない。ミラーレスカメラのように撮影前に撮影結果を見ることが出来ないどころか、撮影後でさえ現像に出さない限り撮影結果を知ることができないというのはデジカメと大きく事情が異なるが、その点については、私にとってはそれほど大きな違いだとは思えない。

私はX-T2やX-T20で撮った後ほとんどプレビューを見ない。今年の3月末まではデジタル一眼レフ(EOS 5D MarkⅢ)で写真を撮っていたので、撮影前にモニタで撮影結果を見ることは出来なかった(私はライブビュー撮影は全くやらない)。また、私は撮影後プレビューを見て露出を変えて撮り直すと言うことも余りやらない。だから、フィルムで撮っても特段の違和感はない。135判の一眼レフカメラであれば、デジタルカメラとほとんど同じ感覚で写真を撮ることが出来ると思う(AE搭載のフィルムカメラであれば理屈上デジタルカメラとの違いは無い)。

フィルムで撮ることの楽しさというのはあると思う。人によってはスローテンポで撮るようになることに心地よさを感じるだろう。しかし、私には性に合わない。十数年間デジタルカメラを使い続けた私は、すっかり「撮り散らかす」スタイルが身に染みついてしまっている。私はスローテンポで撮ることがすっかり苦手になった(この10年で性格がもの凄くせっかちになった)。

であるから、私にとってフィルムで撮ることに意味があるとしたら、撮影時ではなく、撮影後にである。つまり、プリントという点にしか意義を見いだせないと言うことである。フィルムで撮った写真を手間を掛けてスキャンしてインクジェットプリントにしたり、ブログなどに掲載するぐらいなら、私は最初からデジタルカメラで撮る。インクジェットプリントであれ、ネット上への掲載であれ、「デジタル出力」にはデジタル入力の方が親和性が高い。あえてアナログでの撮影を行うのであれば、出力までアナログで一貫させなければ中途半端だと思う。もちろん、これは私自身にとっての話であって、他者がアナログ入力→デジタル出力というやり方を行うことに対して批判するつもりはない。

私が今更フィルムで撮る意味が無いと思う理由は、詰まるところ私が写真をプリントにしたいと思っていないからである。ブログ・Facebook・Instagramなどのネット上以外において自分の写真を他者に見せると言うことを全く考えていないので、プリントを作る理由が何一つ無いのである。

それでも、私はしばらくの間月に1〜2度はフィルムで写真を撮ってみようかと思っている。その理由は、デジタルカメラで撮るときとは違って、被写体を選ぶからである。デジタルカメラで写真を撮るときにはなんでもかんでも撮っているが、フィルムで撮るときには撮るものを選ぶ。現像代やプリント代が掛かるのであるから、きちんと写らないと分かっている物を撮ることは避ける。それは平素撮り散らかしている私にとって、なんらかの意味を持つだろうと思う。

(つづく)


by dialogue2017 | 2019-01-27 12:00 | 古いエントリー再掲 | Comments(0)

※2017年12月12日のエントリー。Rolleiflex、Yashica-Contax、Contax-Gと3つのマウントのPlanarを使っていた。ポジフィルムいいな〜。

「フィルムで写真を撮るということ(2)」

2005年7月の写真 息子が生まれる前月 石廊崎灯台 CONTAX G1 + Carl Zeiss Planar2/45 T* Velvia スリーブはもっと蒼い

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私は、フィルムからデジタルカメラに移行したのではない。デジタルカメラで写真を撮り始めた後、ほんのちょこっっとフィルムで遊んでいたというだけである。中学2年生の夏休みから高校1年生の夏休みに掛けての2年間、私はあちらこちらにSLを撮りに行っていた。当時はこの世にデジタルカメラなど無かったから当然フィルムで写真を撮った。しかし、2年間にSLを撮りに行った回数はせいぜい7〜8回しかなく、それ以外には全く写真を撮らなかったのでフィルムの経験があると言える程ではない。

23歳の時、Nikon F3を衝動買いした(F3が発売された1980年)。SL少年時代Nikon F2に憧れていたが手が届かない存在だった。自分で収入を得るようになって往年のあこがれであるNikon F2の代わりに当時世界最高峰のカメラと言われたF3を買ったというわけである。しかし、カメラを買った直後にその当時の妻の写真をネガカラーで2本撮ったらなにも撮りたいものがないことに気がついた。3月ほどのち祖母が亡くなった。かなり大規模な葬儀であった。その模様をモノクロフィルムで10本ぐらい撮った。F3でそれ以外に何を撮ったか全く思い出せない。多分何も撮っていない。私は「カメラ」にあこがれを抱いていただけで、写真を撮ることにほとんど興味を持っていなかったのである。結局、F3は程なくして手放した。

フィルムで撮り始めたのは2001年春頃からだったと思う。とは言え、その当時は写真を撮ることに対する興味はあまり強くなく、単に旅行先や山登りの際の記録として撮っていただけである。2001年2月に妻がデジタルカメラを買ったが、私はあまり興味を持たなかった。中学生の頃に一眼レフカメラを使った経験のある私は、チープなコンパクトデジタルカメラにまったく魅力を感じなかった。それに、デジタルカメラはまだ黎明期で画質的に魅力を感じなかった。私は、妻が学生時代に使っていたEOS Kissにポジフィルムを詰めて写真を撮っていたが、そんなに枚数は撮らなかった。

その後、2003年11月末に旅先の京都で妻のコンデジが壊れ、私は京都でEOS 10Dを買った。このカメラを買ったことで私は写真を撮ることに対して興味を持つようになった(それが一眼レフカメラであったが故に!)。その翌年だったと思うが、北海道に住む写真家の飯塚達央君のブログと出会った。当時の彼はまだ「駆け出し」とさえ言えない無名の写真家であったが、私は彼の撮る風景写真に魅了された。

当時の飯塚君はデジタルカメラ(EOS 20D)を使い始めていたとは言え、フィルムをメインに美瑛周辺の風景写真を撮っていた。彼はCONTAX 645を使っていた。私も真似をしてCONTAX 645を買おうと思ったが、私ごときがそんな立派なカメラを買うのは分不相応だと考え、PENTAX 645を買った(「CO」が「PE」に変わるだけで値段が数分の一になったのも理由)。しかし、2005年に息子が生まれ、私は風景写真を撮りに出掛けるようなゆとりを無くした。結局、PENTAX 645は家族旅行先で何度か使った程度であった。フィルム10本ぐらいしか通していないだろう。

妻は出産後3ヶ月で復職した。当時務めていた事務所のボスは東京で3本の指に入ると言われたワーカーホリックであったため、妻の帰宅時刻は22時23時が普通で、ちょくちょく午前様となった。だから、生後4ヶ月目からは私が息子の面倒を見た。それなりに大変な事はあったが、私は初めての子どもである息子との日々がとても楽しかった。私は毎日欠かさず息子の写真を撮った。その大半はデジタルカメラでの撮影であったが、息子が生まれる前年にヤフオクで買い漁った何台かのフィルムカメラでも息子の写真を撮った。

息子が3歳になる前後にEOS 5Dを買った。このカメラを手にしたことでようやく私は「写真」に熱中し始めた。EOS 10Dを使っていたときは28-300mmの高倍率ズームを使っていたが、5Dを買った後は単焦点レンズを使うようになった。と言っても、日本一安い一眼レフカメラ用単焦点レンズで、新品で8,400円だった。EF 50mm F1.8。しかし、私にはこのレンズで十分であった。今でもこのレンズを良いレンズだと思う。

5Dを使うようになって以後、フィルムで写真を撮ることがどんどん少なくなっていった。ちょこまかと動き回るようになった息子を撮影するにはAFのデジタルカメラの方が断然効率的であったから。私の記憶では、息子が4歳の誕生日を迎える前ぐらいに撮った写真が最後にフィルムで写真を撮った機会だったと思う。娘は、生まれてこの方一度もフィルムで写真を撮って上げたことがない。

(つづく)


by dialogue2017 | 2019-01-27 09:00 | 古いエントリー再掲 | Comments(0)