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私とはなんなのか?

以下の文章は、ひとつ前のエントリーで紹介した「脱・奴隷の生き方」についての「補足」として書いた文章である。同じ2010年1月3日のエントリーの全文である。

「私とはなんだろう?」 2010年1月3日


 以下は「読書のすすめ・001」への付記として。

 一度根底的に自分自身を対象化してみると良いと思う。「自分とは何か」「私は何者か」と。「私」は限りなくオリジナルに近い存在であろうか? もしかしたら既製品なのではないだろうか? あなたは、自分固有の価値観・世界観と言えるだけのものを持っているであろうか? 自分自身では自分の価値観だと思っているものが、実はテレビや新聞や書物や世論や親や教師や友人からの影響の複合物でしかなくはないであろうか? 人が自らの価値観なり世界観に関してある程度以上のオリジナリティを主張できるとすれば、少なくとも数年間にわたる徹底した自己対象化と哲学的問答の積み重ねを経る必要があると思う。そこまでしなければ、オリジナルな「私」を確立することなど不可能だ。

 一昔前の日本人にはキムチが苦手な人が少なく無かった。しかし、韓国という土地に生まれ育った人間の大半はキムチが好きになる。日本人はキムチを「臭い」というが、韓国人はたくあんを「臭い」という。人間はどの国に生まれたかで異なった存在になる。同じ国に生まれても、地方ごとに好む食べ物が違ったり感性が異なったりする。東京人と大阪人の感性は少なからず異なる。また、同じ国に生まれてもどの時代に生まれ育つかによって差が出る。最近の韓国の若者にはキムチ嫌いが増えているそうだ。このように、食べ物に対する好き嫌いひとつとっても、それが自己のオリジナルと言えるかどうか怪しいのであるからして、ましてや価値観・世界観といったレベルになると、生まれ育つ間に「なんとなく」身につけた以上のものではないであろうであるとしたら、「私」は外から「植え付けられた」価値観に基づいてものを見、生きていると言うことになる。これでは「私」がいるとは言えない。

 50歳にもなると、人生というものが意外に短いもののように思えてくる。ただ一度の、やり直しの出来ない人生なのだから、本当に自分らしく生きたいと思いませんか? そのためには、もっと自分をよく知った方が良いと思う。

私とはなんなのか?_a0157107_1431310.jpg

by dialogue2017 | 2019-02-09 15:05 | 古いブログから | Comments(1)

2010年1月1日に初めてのブログをスタートした。『魂との対話』というタイトルである。この話については「ブログについての話(2)」の中に書いた。そのブログの開設3日目のエントリーの一つをここに紹介する。私自身、このエントリーを読むのは7〜8年ぶりのことである。末尾に書いた「自分のアウトプットが、それを必要としている他者のインプットになる、これこそが『人間性』だと思う」という言葉を読んで、いま自分がやっていることもその一部だと思った。

「読書のすすめ 001」 2010年1月3日

 いったいどうやってこのブログを見つけてくれたのか、開設2日目にもかかわらず昨日数十人の方が訪れてくださっている。しかし、元旦に開設したばかりのブログなのでまだエントリーが3つしかない。どういう偶然からなのかここにたどり着いてくださる方々がいるようなので、早急にエントリーを増やして体裁を整えたいと思う。といって、昨日のように我が家の日常生活ばかり記しても致し方ないので、最近読んだ書籍の中から面白かったものをいくつか紹介してみようと思う。


(一部略)

 今後、書籍の紹介はこのブログの一つの柱になっていくと思う。興味を抱いてくださった読者の方々に気軽に手にして頂くことを考え当面「新書」を中心に紹介したい。杉田玄白の『解体新書』をもじって「買いたい新書」とでもネーミングしようと考えたが、「おやじギャグ」レベルなので止めにした。

「脱・奴隷の生き方」 2010年1月3日のブログエントリーから_a0157107_1325082.jpg






【読書のすすめ・その1】

『テレビは見てはいけない 脱・奴隷の生き方』 PHP新書629 苫米地英人
 著者は脳機能学者。他に計算言語学者、認知心理学者、分析哲学者の肩書きを持つ。


 もう20年以上テレビをほとんど見ない生活を続けている。見ない理由は至って簡単で見るに値する番組が無いからである。NHKのドキュメント系の番組は好きだし、見るに値するものが沢山あると思うが、すでにテレビを見る習慣を失ってしまっているので見ることはほとんど無い。『テレビを見てはいけない』はまさに「我が意」であり、この多数の肩書きを持つ「学者」がどういう論理でそれを展開しているのかに興味を持ってこの本を購入した。

 タイトルとサブタイトルを見れば本の内容は想像がつく。たぶん、大方は私自身の考えと似たようなものであろう。しかし著者は博識の学者。自分とは異なった視点が提示されているであろうことを大いに期待して読んだ。
「テレビを見ていけない」理由を著者は次のように語る——「いまの日本のキー局が放送するもののなかに、大人が見る価値のある番組はほとんどないと私は思います。私が勧めるのは、衛星放送の『ディスカバリーチャンネル』です」。全く同感。私も一時期ディスカバリーチャンネルを見ていた。少なくとも日本のキー局の放送を見るように時間の無駄に終わることはない。子供がもう少し大きくなったら見せようと思っている。

 著者が本書を通じて読者に語っていることは「脱・奴隷の生き方」。著者の提言を一言に切り縮めてしまえば、メディアが垂れ流す情報に洗脳され踊らされて生きるのを止めようと言うこと。
 著者はかつてオウム真理教信者の脱洗脳を行ったことで有名であり、『洗脳原論』『脳と心の洗い方』などの著書を持つ「洗脳学」の専門家。人間というのは外界からの影響を受けやすい存在で、日々接する情報に知らず知らずのうちに洗脳され踊らされているというのは疑いもない事実。著者は、我々日本人は踊らされやすい国民性を持つと指摘する。「大東亜戦争」を時代背景とした映画などを見ると、人間が如何に簡単に「世論」に洗脳され踊らされやすい存在であるか手に取るように分かる。今日から振り返ると、一億の国民みながあのような荒唐無稽なイデオロギーにそっくり踊らされてしまったことが不思議に思える。国民の大半が完全に洗脳されていたのだ。

 著者は言う——「日本人は昔から、自分を束縛してくれる教えを好む傾向があります。私の言葉で言えば『奴隷の思想』なのですが、歴史的にもずっと日本人は『お上』のいうことを聞くのをよしとしてきましたので、民族的に『奴隷の思想』が骨肉化しているのかもしれません」
 世間には日本(人)に対する「悪口」に接すると生理的に反発する人々が沢山存在するが、自国の負の面についてきちんと認識すると言うことは自国を向上させる基礎となることであって間違ったことではない。欠点のない人間がいないように、欠点の無い国や民族は存在しない。「自虐」と「反省的自己認識」とはまったく異なるものなのだ。

 私たちはいつもメディアに踊らされている。メディアが作り出す「流行」を追いかけそれに飛びつき「トレンディ」な生き方を追い求める。今から振り返るとバブル期の日本人の生き方は極めてみっともないものにしか見えない。まだ戦前の「一億総特攻」時代の方が根底に「まとも」なものがあったかもしれない。「滅私奉公」が成り立つ基礎として「利己主義」を否定する「利他心」があったからだ。国全体としては間違った方向に向かっていたし、国民みなが間違っていたのだが、それでもあの戦争の困難な時代を庶民は助け合いながら生き抜いた。そこには「相互扶助」の精神があった。しかし、バブル以後の「一億総消費」が生み出したものは「拝金主義」であり「自己中心主義」である。戦前の国民総洗脳の根底には人間が本来不可欠とする「共同性」に根ざした「助け合い」の精神があったが、昨今の日本人はその「助け合い」の精神を失い、自分が良ければよいと言う生き方をいよいよ普遍化させている。

 著者がこの本を記した動機に我が国の現状と未来に対する大きな憂慮があることは間違いない。著者が本書を通じて読者に語りたかったことは次の言葉に集約されていると思う。

 しかし人間を人間たらしめているのは、物理的な臨場感空間に縛られずに、精神世界で自由を享受し、またそこでも臨場感空間を共有できることです。物理的な空間を超越した抽象空間でなんらかの価値を感じ取り、自分以外の利益に対しても意義を感じることができるのが、人間の人間たる所以なのです。
 つまり、他人の強制ではなく、みずから進んで「自分のためではなく他人のために尽くす」ことが、人間の本性なのです。(P189)
 これからの時代は、自分のアウトプットを自分のためだけに使うお金に換えるような生き方は、軽蔑されるようになっていくでしょう。自分のアウトプットを、ほかの人のアウトプットにかえるような活動をしていくべきなのです。(P207)

 著者の苫米地英人氏は1959年生まれ。昨年ちょうど50歳になられている。私は氏より二歳上の52歳。私はこれまでの人生であまり同世代と付き合ってこなかった。なぜなら気骨があり「社会性」をしっかりと持った人間がなかなか見あたらないからである。故に、私は二十歳前後からワンゼネレーション上の「団塊の世代」との付き合いがメインとなるという変わった人生を歩んできたが、本書を読んで、私は同世代の苫米地氏に小さくないシンパシーを抱いた。私も、我が国の現状と将来に強い危惧の念を抱いている。そして、私が今後の人生において最もやりたいと思っていることこそが「自分のためにではなく他人のために尽くす」活動である。自分のアウトプットが、それを必要としている他者のインプットになる、これこそが「人間性」だと思う。

 最後に、私自身も信条としている著者の次の言葉を引用して本書の紹介を結びたい。

 他人に信頼されるための条件は、なによりも「本音で生きること」だと私は思っています。裏表のない、カッコつけない生き方が一番信頼されます。多くの人はそれが分かっているはずなのですが、なぜか世間の体裁を気にしてしまう。

「脱・奴隷の生き方」 2010年1月3日のブログエントリーから_a0157107_1335265.jpg



by dialogue2017 | 2019-02-09 15:00 | 古いブログから | Comments(0)