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このブログの写真の表示サイズは長辺800pixである。しかし、Retina Displayは高精細であるため、実際の表示サイズの二倍の大きさのファイルをアップしないと写真がぼやけて見える。自分自身がRetina Displayであると言うことはともかく、いまどきMacやiPadなどでネットサーフィンしている人は数百万人いるだろう。であれば、ネット上で写真を見せる際Retina Display対策を行うことは礼儀でさえあると思う。だって、人にぼやけた写真を見せるなんて失礼じゃないか。本当に写真が好きな人だったら、自分の写真がぼやけて見られるのは嫌だろうと思う。しかし、個人レベルのブログを見るとほとんどのブログがRetina DIsplayに対応したファイルを掲載していない。「良い写真なのにぼけて見えて残念だな〜」と思うブログが沢山ある。もしかしたらぼやけている方が好都合だという人もいるのかな?(爆)。

下に掲載した写真は古いブログから拾ってきた写真であるため、ファイルサイズは長辺800pixしかない。Retina Displayでぼやけて見えないようにするためには1600pix必要である。しかし、元ファイルが何処にあるか分からないので800pixのファイルをそのまま掲載した。ぼやけて見えないようにするためには長辺400pixで表示するようしないといけないわけであるが、この「カラー写真は『引き出し』の数がものを言う」シリーズは写真を見せることが目的ではないのでぼやけていることを承知で掲載する。あしからず。

2013年7月25日撮影。江ノ島。EOS 5D MarkⅢ + EF17-40mm F4L ISO200 F11 1/200 -0.33EV マニュアルWB JPEG

カラー写真は「引き出し」の数がものを言う(3)_e0367501_15145977.jpg

「カラー写真は『引き出し』の数がものを言う(3)」は夕刻前に一度書いた。1時間半も掛けて書いたのだが、「公開」ボタンを押すと「不正なパラメーターが実行されました」という表示が出て文章は消えて無くなった。ひとつ前のエントリーに書いたように、力作だった。このブログ史上最高傑作だったような気がする(笑)。「自分ではない『何か』が後押しして書かせてくれた文章」であることは事実であるが、書いたのは私自身であるし、どういう話を書いたかは概ね記憶に残っている。

しかし、今更同じ話を書き直そうとは思わない。「消えた」というのは"神の思し召し"だから従った方が良い(笑)。書き直したらまた1時間半掛かるし、絶対にクオリティーが落ちる。最初に書いた70%のクオリティーで書くのが精一杯だろう。なぜなら、記憶を頼りに書くからである。記憶を頼りに書く文章に力は無い。「頭」で書く文章だから。最初に書いた文章は頭で書いた文章ではなかった。なにかに「憑かれて」書いた文章であった。私が書いたのだがそれは「憑き物」が私に書かせたと言うことである。いまはなにも「憑いて」いない。だから、無味乾燥な中身の薄い話を書くことにする。毎回「憑かれる」と「疲れる」から(笑)。

最初の(3)はshi-photo君ひとりのために書いた。話の初めの方の1/3は彼の写真についてあれこれ書いた。しかし、この書き直しの(3)では最初に書いた話には一切触れずに書く。ただ、この書き直しの(3)もshi-photo君のために書いていくことにするということだけを明記しておく。いや、そもそもこの「カラー写真は『引き出し』の数がものを言う」はsihi-photo君にアドバイスするために書こうと思ったのである(もちろんfrom_vixen君と0123okkun君はむろんsunnyday君さえ念頭に置いてはいるが)。(1)を書いたときは1回で書き切るつもりで書き始めた。しかし、話が長くなりそうだったので分割することにした。だから、(1)の末尾は「長い話しになりそうなので何回かに分けて書き進めることにしよう」と結ばれている。つまり、(1)はこの話の「導入部」であるのだが、取りあえずその部分を分割して出したと言うことである。伝えようと思ったことはこの話の「全体」を通して初めて伝えられることであって(1)はその断片に過ぎない。そのあと(2)を書いた。(2)も断片に過ぎない。私が書こうと思ったことはカラー写真を撮るための「テクニック」についてでは無かった。表向きはそういう体裁であるが、私自身が書こうと思っていた話はもっと抽象的なことであった。

実は、このブログは「入れ子」に成っている。

どういうことかというと、shi-photo君やfrom_vixen君や0123okkun君がこの先読み直す度に「理解」するポイントが変わってくるような構造の文章を書いているのである。いま読んだときと、半年後に読んだときと、1年後に読んだときの「理解」が変わってくる文章を書いているのである。もし、単純に「テクニック」についてだけ書いたらそういうことは絶対に起こらない。例えば、「逆光でレフ板もストロボも使わず人物を撮る時には+1.0EVほどで撮りましょう」という話は、いま読んでも半年後に読んでも1年後に読んでも同じように解釈する以外にない。書いたとおりの意味しか含まれていないからである。そこには他の含意は一切ない。

「行間を読む」という表現があるが、「行間」まで読ませるというのはハードルが高い。読む力がないと一生読めるようにならないのが「行間」である。だから、私はもう少しストレートなやり方で書いている。つまり、「地の文」の中に主題とは別の「含意」を書き込んでいるのである。「読者」というのは、自分が「知りたい」ことと「理解出来ること」だけを読んで、その時のレベルでは良く理解出来ない部分は通り抜けて行ってしまうのである。日本語は「婉曲」表現に長けた言語である。我が民族は奥ゆかしい「忖度」文化の民族であるから(笑)。文章というのはほんのちょっとした「言い回し」の中に「言外」の意味を含めることができる。これが「行間」と言うことであるが、「地の文章」に文字にして書いた文章であっても「読者」は読み逃す部分がある。文章というのは読み手の「知性」のレベルで読まれるものであるからである。「知性」が足りないと読み落としが多くなる。だから、何度書いてもまったく伝わらない人というのがいる(ほとんどの人がそうだけれど。読書もしない、文章も書かないで生きていれば「読解力」が育まれるはずがないから)。

「読者」が物事の「表層」しか見ない人であれば「行間」に書いたことは絶対に伝わらない。しかし、文章というモノは書いてあること以上に「書かなかったこと」に大きな意味がある場合があるのである。それこそがまさに「行間」である。「行間を読む」ということは「言外」に「語られた」ことを読むと言うことである。「言外に書かれたこと」というのは実際には「書かれていない」。だから「行間を読む」というのは「書かれていないこと」を読むと言うことである。ほんのちょっとの言い回しにメッセージが込められている。前に書いたが、「も」一つ入れると意味が全く変わる。「そう思う」と書くか「そうも思う」と書くかで意味は大きく変わる。

まあそんなことはどうでもいい。そういう「難しい」話はともかく、誰にでも「いま理解出来ること」と「いま理解出来ないこと」がある。その中間に「何となく分かるような気がすること」がある。私は君たちが「いま理解出来ること」についてはストレートに書いている。簡単なことと言うのは簡単だから(笑)。「テクニック」というものはだいたい簡単な事である。それを上手に「扱える」かどうかと言うことについては「習熟」ということが条件となるが、「そういう風にやれば良いんだ」ということを理解することはそれほど難しくない。要するに「スキル」というものは誰にでも理解出来るものであるし、習得可能なものである。写真というモノは80%ぐらいは「スキル」の組み合わせだと思う。しかし、100%が「スキル」ではない。100%スキルであるとしたら、写真には些かの芸術性もないと言うことになる。100%スキルだとしたら、写真を撮ると言うことは「電気工事」を行うことと等しい行為だと言うことになる。

書くのが面倒になってきたから唐突に結論を言うが、問われているのは残りの20%である。その部分を「才能」とか「感性」とか言ってしまうともはや語り得ぬものになる。パーセンテージについては措いておくが、確かに「スキル」以外の部分が「才能」とか「感性」という領域であることは間違いない。しかし、「才能」とか「感性」と言う言葉で語ってしまうともうなにも教えることはできない。「才能」とか「感性」なんて自分で磨くしかないし、そもそも「天賦」のモノだから。しかし、私はこの領域にアプローチする方法があると思っている。「才能」を磨くことや「感性」を高めるためにはどうやったら良いのだろう?  一番知りたいことはここだよね? 「写真の撮り方(スキル)」を知りたいのであれば本屋に行って「教科書」を買ってきて読めばいいわけだ。ネット上にも「スキル」に関して書かれたサイトは沢山ある。そんなものを読んで上手くなれるなら世の中プロ並みの人だらけになるよ(笑)。

しかし、技術だけではそれほど良い写真は撮れない。私は写真を「芸術」だとはあまり思っていないのだけど、そこに「芸術性」が孕まれることは否定しない。さて、「芸術」ってなんだろう? 「芸術」というのは「表現物」が「鑑賞者」の心を揺さぶるもののことである。「表現者」が「表現物」に込めた「思い」に「鑑賞者」が「感応」することによって初めて「表現物」は「芸術」たり得る。これはどう考えても「技術」に還元できる営為ではなく、「精神」の作用の問題である。難しい話じゃないんだ。ようは「いいな〜」って思うかどうかと言う話である。どんなに奇麗に撮れていても「綺麗に撮れているな」としか感じない写真もある。そんなに上手に撮れていない写真なのに「素敵だな」と思ったり「好きだな〜」って思う写真もある。それどころか明らかに「下手くそ」なんだけれど「いいな〜」「好きだな〜」と思える写真がある。その差ってなんなのだろう? なにが違いを生み出しているんだろう? 一番面白い話はここについての話だよね? みんなが一番知りたいことなのに、そんな話しを書いている人ってほとんどいないよね? 何故だと思う? 

実は、そんなことを知りたいと想っている人はあまりいないんだよ。

本気になって「良い写真」を撮りたいと想っている人なんてごく僅かしかいないんだよ。求めているのは「本物」ではなく「イミテーション」。

ここまでの話は取りあえずここで終わり。最初に書いた話しとほとんど被る内容がない全く別の話しになった(笑)。

shi-photo君へ。冒頭に掲載した写真は君が好きそうなタイプの写真だと思って古いブログから持ってきた。多分、君はまだあまりこういうタイプの写真を見たことが無いのではないかと思う。君が「へ〜っ、こんな撮り方があるんだ」と思ってくれたとしたらそれだけでこの写真を持ってきて載せた意味があると思う。それだけの理由で持ってきたのだから。

僕はシンプルな写真が好きで、一時期「モノトーン」のカラー写真を撮ろうとしていた時期があったんだ。それまでは「写実的」(僕に言わせれば写真が「写実的」っておかしな表現だけれど)な写真が一番好きだったんだけれど、2012〜2013年頃、一つの試みとして「絵画的」な写真を撮ってみようと思ったんだよ。それは「遊び」でもあったし、「実験」でもあった。そもそも僕には写真を「探求」しようなんていう気持は全くなかった。だから所詮は遊びだよね。この頃はモノトーンな写真を撮ったり、極端にアンダーな写真を撮ったりしていた。そういうのばかり撮っていたわけじゃ無いけれど。いや、そういう写真は少ししか撮らなかった。「違和感」を覚えつつ撮っていたから。この頃は安達ロベルトさんの写真に惹かれていたんだ。だから極端にアンダーなの(爆)。ほら、例の「千鳥ヶ淵の桜」の写真みたいにさ。ちなみに、安達さんのああいう作風というのは上田義彦さんからの影響だと思う。まあ、この辺の話は安達さんから直接聞いているんだけれど、その話はまたいずれ。

この写真はマニュアルホワイトバランスで撮っている。もう5年以上前のことなのでどうやってセッティングしたか記憶にない。ケルビン値で指定したかもしれないし、プリセットの「電球光」とかで撮ったのかもしれない。いずれにしろ、色温度の高い写真を狙って撮ったということ。やったことはただホワイトバランスの設定で色温度を高くしたと言うことと、レタッチでかなりアンダーに落としただけ(もう全く記憶にないけれど)。やっていることはとても単純。「手口」とか言うほどのことではない。しかしね、写真を撮る「スキル」なんてほとんどが単純で簡単なことばかりなんだよ。はっきりってしまうけれど、難しいことってほとんど無いです。まあ、複雑なスタジオライティングとかブツ撮りの技術とかはちょっと別な話だけれど、カメラマンが一人で撮る写真なんて複雑なことはそうそうできない。だから、「引き出し」の中身は「そんなこと」という程度のことばかり。でもね、それでいいわけ。

一つ一つの「手口」は簡単で単純な「そんなこと」で構わない。そういう「手口」を沢山持っていることが肝心だと言うこと。問題はどこでその「カード」を使うかという「判断力」だから。スキルって、知っているから使えるというものじゃないんだよね。使う時と場所を間違えることも多いし。一つ一つのスキルは「その程度のこと」なんだけれど、沢山ある「カード」(手口・引き出し)の中からいまここでどのカードを使うかを咄嗟に判断できるかどうかが問われているわけ。シャッターチャンスって一瞬しか無いこともあるしね。日没間際の浜辺で撮っていたりすると1分で条件が変わってしまうから。そういう情況の中でどれだけ自分のベストを発揮できるかというのが「実力」。「引き出し」は実力の「ストックヤード」。そういうこと(笑)。

ああ、「入れ子」の話だけれど、実際にこのブログの「過去ログ」(いまは君一人しか読むことができないのだけれど)を君が半年後、一年後、三年後にもし読んだとしたら、「えっ? こんな話が書いてあったの? 3度も読んでいるのにどうして気がつかなかったんだろう?」という話が沢山書いてあるはず。きっと君は驚くと思う(たぶん、既に君もfrom_vixen君も0123okkun君もそういう感触を得ていると思うけれど)。

僕は「スキル」について語ることになんて全く興味が無いんだよ。何度も書いたことだけれど、僕は「実務」レベルのことにはなんの関心も無い。僕にとって関心の対象はどんなことの場合でも「理念」的な領域だけ。このブログには君たち「初心者」にもっとも初歩的な「スキル」を教える話を沢山書いているけれど、その同じエントリーの中に僕の「理念」を書き込んでいる。いまの君たちは「スキル」レベルのことにしか関心が無いからそこに集中して読んでいる(それで正しい)。でも、スキルを一通り理解し身につけたときに「じゃあどうやって表現すればいいんだ?」という「難題」にぶつかると思う。その「難題」という密林をかき分けて進んでいく「ヒント」を僕は沢山書き込んでいるということ。スキルの話なんて誰でも書けるじゃないか。そんな話を書いても仕方ない。でも、抽象的な理念だけを書いたら君たちは読むのを辞めちゃう(笑)。だから、スキルの話として書いていると言うだけ。もちろん、取りあえず君たちに一番重要なことは基礎的なスキルを身につけること。基礎的な「理論」を理解すること。がんばって!

追記。そのうち「ファン限定公開記事」で「秘密の暴露」をちょこっとやるよ(笑)。例えばさ、「カラー写真は『引き出し』の数がものを言う(1)」の本当の意味は、スタジオライティングの話なのよ。Velviaを使って「現実より奇麗な色」にするというような話じゃないわけ。春になったらスタジオを組もうと思っている。まあ、僕のことだから実行するかどうか分からないけれど。もしスタジオを組んだら呼んであげる。スタジオライティングを経験すると世界が広がるから。乱暴なことを言ってしまうと、プロとアマチュアの違いはプロは「スタジオライティング」を知っているというところにあると言っても過言では無い。アマチュアがもっとも持ち得ない「引き出し」が「スタジオライティング」。この「引き出し」には入っている物がどっさりなんだよ(笑)。別にストロボ建ててライトを打つだけなんだけれどね(爆)。じゃあまた。

(5,984文字)やはり「一口上」5,000字だな(笑)。


by dialogue2017 | 2019-03-21 22:15 | 考えていること | Comments(2)

0123okkun君へ。

1Dxを手放すというのは忍びないだろうと思います。しかし、未練を断って小型軽量のAPS-Cセンサー搭載カメラに換える方が良いと思います。よく知りませんが、昨日FUJIFILM X-T30が発売になったらしいですね。君自身の選んだ候補はSONY α6400とFUJIFILM X-30と言うことですね。そのどちらかが妥当なところだと思います。僕は、近年カメラにはあまり興味がなくて、カメラ雑誌も写真雑誌ももう5〜6年買っていません。ネットなどでも新しいカメラの情報を調べることはありません。興味が無いどころか、次々と新製品が出てくることに辟易しています。

そんな訳で、α6400についてはなんの情報も持っていません。そもそも僕はSONYのカメラにはまるっきり興味が無かったんです。なんだかんだ言って、使えるのはCanonとNIKONだと思っていましたから。渡部さとるさんがα7を買ったと聞いたとき、なんと酔狂なと思いました。しかも、遊び用ではなく仕事用として買ったと聞いて理解出来ませんでした。彼も僕同様EOS 5D MarkⅢを使っていましたが、どう考えたって仕事カメラとしては5D3の方が上です(後に彼が5D3をα7に換えた理由が分かりました。彼は失明寸前の危機を経験していて視力が極端に低いんです。AF頼りって恐いんですよね。いざとなったらマニュアルフォーカスの方が信頼できます。マニュアルでピントを合わせるならα7の方が断然簡単なんです。彼はピントの正確性を期してAFを辞めてマニュアルフォーカスに換えたと言うことです)。

ひょんなことから2014年10月に渡部さんからα7を借りました。ついていたレンズは古いマニュアルフォーカスのZeissのレンズでした。僕は、古いZeissのレンズを11本所有しているのですが、EOSのファインダーはピントの山が見にくくてマニュアルフォーカスレンズを使うのは現実的ではありません。そんなわけでZiessのレンズは「防湿庫の肥やし」となって久しい情況でした。しかし、α7に装着すると簡単にピント合わせができることを知りました。で、渡部さんからα7を借りた翌日にα7を買いました(笑)。よくぞあのサイズでフルサイズセンサーのカメラを作ったものだと感心しました。ある意味、SONYが純然たるカメラメーカーじゃないからこそ実現できたことだと思います。CanonやNIKONのミラーレスカメラは後出しでα7より大きいですから。SONYにはCanonやNIKONにはない技術力と開発力がありますね。

α7を使ってみて思ったことは、「SONYは数年後にはCanon・NIKONを抜くだろうな」ということでした。僕はミラーレスカメラに対してネガティブな印象を抱いていました。光学ファインダーの視認性の素晴らしさと言うことはカメラにとって譲れないモノだと思っていたからです。しかし、α7を使っていてEVFに対するアレルギーがなくなりました。初代α7と比べたら、5D3などの一眼レフデジタルカメラの方が優れている点が多かったですが、α7が改良され進化を続けた先の姿をイメージしたら、これからの時代は完全にミラーレスカメラの時代になるだろうと思いました。友人たちのそのことを言って歩きました(笑)。α7Ⅲが出る頃にはNIKON・Canonを抜くだろうと思っていました。実際そうなりましたね。当然だと思います。※フルサイズセンサーミラーレスカメラでは「SONYの牙城」と言われる現状です。

α7Ⅲはとても良いカメラだと思います(まだ1,000枚撮っていないのでよく分からないですが)。ただし、カメラの性能を十分活かそうと思ったら高級レンズを使う必要があります。α7Ⅲを使うと言うことは、100万単位のお金をつぎ込むということだと言うことなんです。α7Ⅲにズームレンズ1本なんていう使い方には全く意味が無いと思います。2月に新潟でα7ⅢにFE24-105mm F4 Gを付けてスナップしてみました。良く撮れていますがどうってこと無いです。普通です。「X-T2やX-T20とは違うな〜」なんて全然感じませんでした。もちろんこれは「画像」についての話です。

カメラとしての使いやすさ、使い心地の良さという点ではα7Ⅲの方が上です。しかし、その代償として大きくて重い。「旅カメラ」「スナップカメラ」として使うにはデカすぎます。と言って、コンパクトなレンズを付けたのではα7Ⅲを使う意味が無いんですよね。「チープ」なレンズで撮るくらいなら、初代α7に古いマニュアルフォーカスのZeissのPlanarだとかDistagonを付けて撮った方がいい絵が出ます。結局、写真ってもの凄く「レンズ次第」なんですよ。

何度も書いたことなので詳しい説明はしませんが、アマチュアにとってフルサイズセンサーに拘る理由なんてほとんど無いと思います。X-T20にXF23mm F1.4 RやXF35mm F1.4 RやXF56mm F1.2 Rを付けて撮った写真を沢山観て貰いましたが、あれで十分でしょう? 僕は十分です。僕はフルサイズセンサー信奉者でしたがX-T2・X-T20の画質には満足しています。X-T30でまた少し良くなったでしょう。

さて、君がカメラを購入してしまう前に僕の意見を伝えておこうと思います。本当はヨドバシカメラに行ってα6400を触ってきてから伝えようと思ったのですが、そんな機会が作れなかったのでいま現在分かる範囲で重要だと思うことを伝えます。つい先ほど、α6400の「スペシャルギャラリー」を見ました。開いた瞬間「これはないや」と思いました。僕自身がカメラを買うのだとしたら、「スペシャルギャラリー」を開いた段階でα6400は選択肢から外れるでしょう。ぱっと見、センサーサイズの小さなコンパクトデジタルカメラで撮った画像のように見えました。

1枚1枚拡大してみてみましたが、X-T2・X-T20より「確実に」画質は下だと思いました。やはりSONYのAPS-Cセンサー用のレンズは良くないんだな〜と思ったのですが、なんと、FE85mm F1.4 GMで撮った写真が3枚、Planar 50mm F1.4 ZAで撮った写真が1枚、FE24-70mm F2.8 GMで撮った写真が1枚ありました(作例は全部で7枚。この3本のレンズで50万以上!)。僕はFE85mm F1.4 GMとPlanar 50mm F1.4 ZAは所有しています。どちらもほとんど使っていませんが、もっともっと写るレンズです。作例はちょっと信じられないレベルの写真です。X-T20にXF56mm F1.2 Rで撮った写真の方が上だと言う印象です。もちろん、捕り手次第という面はありますが、撮影情況から判断して撮り手の問題ではないと言って良いです。カメラの「絵作り」が良くないんです。そして決定的なのは「発色」です。なんにせよ、これがSONYが公式に出してきたα6400の「作例」です。僕的にはα6400はありえないです。

AF性能ではα6400の方が断然なのだろうと思っていました。α9に比する性能だと言われていますから。ところが、このエントリーを書き始める直前にネットで検索したところ"こういう記事"がありました。結論部分だけ引用すると「連写時のAFではX-T30がα6400を上回っている。しかも成功率は100%だ。α6400はさらに高価なレンズを装着しても、成功率は約80%である」ということです。僕は連写はしませんが、連写時でのAF成功率が100%であると言うことは連写しない場合も当然100%だと言うことです。まさかX-T30のAF性能がα6400より上だとは夢にも思いませんでした。FUJIFILMは「絵作り」は上手ですが、「カメラ作り」は上手じゃない面があります。SONYは上手です。だから、画質以外の面ではα6400の方が一つ上のカメラだろうと思っていました。どちらも触ったことさえないから確かなことは言えませんが、僕の判断としてはα6400はX-T30の比較の対象でさえないです。絵が奇麗じゃないですから。オマケにAFで負けているのじゃ話しになりません。

いや、いくら何でも言い過ぎという書き方をしてしまいましたが、僕の率直な印象です。EOS 5D3やX-T2・X-T20の「肌の色」を見慣れているとSONYのセンサーの肌の色にはどうしても違和感を覚えるんですよね。α7Ⅲではまだあまりポートレートを撮っていないので確かなイメージが出来上がっていませんが、それほど悪くない印象です。α7Ⅲで撮るポートレートに関しては、Raw現像時にキッチリカラーマネージメントをやる前提で導入しています。しかし、α6400だと無理そうな気がします。「スペシャルギャラリー」の作例を前提にするとあそこから弄るのはとても面倒な気がします。僕の技量ではどうにもならない気がします。というか、そもそも可能な限りカメラに絵作りを任せたいわけですよ。「JPEG撮って出し」が理想ですから(笑)。

僕はSONYのAPS-Cセンサー用のレンズについては何も知りません。しかし、優秀な絵を出してくるレンズが有れば、かならずアンテナに引っかかってきます。一度も引っかかってきたことがないんですよね。α6400の「スペシャルギャラリー」の作例写真を見て、もしかしたらSONYは研究開発のリソースをフルサイズセンサーカメラに集中しているのでは無いかと思いました。α7系だけで勝負していく腹づもりなのではないかと。そして、「その先」に関してはもっと「上」のカメラを出してくるのではないかと感じます。スマホのカメラの性能がドンドン上がっている中、今後デジタルカメラ市場でもっとも収益が上げられるのはフルサイズセンサーミラーレスカメラだろうと思います。SONYは完全にそこにターゲットを絞っているように感じられます。そう思ってしまうほどα7Ⅲの絵とα6400の絵に落差があると思いました。

以上、α6400の作例写真を見た率直な感想です。僕はSONYと言うメーカーは高く評価しています。CanonやNIKONには無い豊かな発想と独自の技術力があると思います。α7系のカメラは優秀です。レンズラインナップも充実しています。フルサイズセンサー用のレンズの性能はピカイチだと思います。しかし、APS-Cセンサー搭載カメラには魅力を感じません。実際に自分で撮ってみないと確かなことは言えません。自分でα6400を持って由比ヶ浜に行ってポートレートをったら「なんだ、ちゃんと写るじゃん!」って成るかもしれません(笑)。でも作例を見た限りでは「嘘でしょう?」でした。

以上、取り急ぎ。

(3,766文字)


by dialogue2017 | 2019-03-21 15:00 | 考えていること | Comments(9)

「写真(iPhoto)」の昨年2月18日の写真のサムネイル。SIGMA dp0 Quattroで撮った写真とX-T2で撮った写真が混在している(数枚妻がE-PL6で撮った写真も混ざっている)。ここに写っている70枚の内「縦位置」で撮った写真は3枚だけである。実は、この日dp0 QuattroとX-T2で280枚ほど撮影しているのだが「縦位置」では5枚しか撮っていない。私は人物写真を別にしたら「縦位置」で写真を撮ることはかなり少ない。


写真表現における「陰影」の奥深い使い方_e0367501_22013300.jpg


SIGMA dp0 Quattroに魅了されているflom_vixenさんから「SIGMA dp 0Quattro カラー(1)」にコメントを頂いたのでそれに返信を書いた。有意義なやりとりだと思うので紹介しておくことにする。

flou_vixenさんからのコメントは次のようなものであった。

この写真からもすごく立体感を感じます。木々や荒れた雪肌の精細さは流石SIGMAだと思うとともにそれを生かす露出を選べるかが重要なのだなという気がします。

光と陰で作った奥行きはやはり立体感が違うように思えるのですが、手前には覆い被さるような木や大きな陰があり奥に行くに従って日向になっているからそう感じるのでしょうか。

私は取り急ぎ次のような簡単な返事を差し上げた。

from_vixenさん
コメントありがとう。そんな風にしっかり写真を見てもらえて嬉しく思います。
僕自身は、あまり何も考えず淡々と撮っています。

立体感が出ている理由はいくつかあると思いますが、
一つには、手前に「影」が入っていることが大きいと思います。
ここに影が入っていないと明るすぎて目がそこに奪われてしまいます。
手前にこれだけシャドーを入れていることがこの写真のポイントです。

奥行きを感じる一番の理由は21mmを縦位置で使っていることだと思います。 ←追記。超広角のパースペクティヴ。
僕は人物写真は別として縦位置で撮ることはかなり少ないです。
街スナップで縦位置で撮ることはまずないと言って良いほどです。
縦位置で撮るのが一番多いのは「高い樹木」を入れたカットです。
左側の樹木が手前から奥に小さくなっていきながら連なっている、
このラインが「奥行き」を見せる効果を持っています。

モノクロ写真を撮っている人には「光と影」を撮っている人が少なくない。私もよく撮る。しかし、「風景写真についての話し(5)」の中で書いたように「いかにも光と影を撮りました」というタイプの写真ばかりを撮っているのでは能が無いと思う。私も「光と影」をよく撮る。かなり撮っている。しかし、本当にモノクロが上手い人というのはいかにも光と影を撮りましたという写真ではなく、見るモノに光と影をそれほど強く感じさせない写真でありながら、実は光と影を巧みに使った写真を撮っているものである。ストレートに「光と影」を撮るというのはとても簡単なことなのでそれでは「陳腐」だと思うから工夫をするわけである。

カラー写真でも「光と影」は写真を見せる上での大きなポイントとなる。私はカラー写真を撮るときにも「光と影」を意識して撮る。結局のところ写真というモノは「光」を撮っている訳だから「光」を意識して撮るのは当たり前の事であるし、その「光」と「対」になっている「影」の方に気を配るのも当然のことである。両者はいつでもワンセットになっている。「光」と「影」は対極的である。「明」と「暗」である。「明暗を分ける」という言葉があるくらいで、両者は「正」と「否」として捉えられていると言っても良い。

しかし、私は「光と影」を「対比的」なものとばかりは見ていない。両者は相互規定的な関係であると考えている。「光」というものは常に「影」によって「演出」されていると思っている。そして「影」もまた「光」次第でその表情を変える。決していつでも「光」が「主役」で「影」が「脇役」である訳では無い。時には「影」が主役であることもある。

私は「光と影」については、単純に「明暗比」の問題だとは思っていない。光と影は「立体感」を生み出す源である。そして、flou_vixenさんが指摘しているように光と影は「奥行き」を作り出してくれる。「風景写真」の場合、「立体感」がある写真である方がリアリティを持つ。そして「奥行き」が感じられる写真は見る者を引きつける。なぜなら、人間の目というのは「立体感」を把握するような構造になっていて、人間は平素「平面」ではなく「立体」を見て暮らしているからである。「あいつは平板な人間だ」などと「平板」という言葉が否定的な評価をする際の比喩として使われるように、人間にとって「平板」なものは魅力的では無いのである。言葉を換えると「薄っぺらい」と言うことである。

さて「光と影」であるが、光と影を撮っていてもあまり「立体感」が感じられない写真というものがある。平面上に明るいところと暗いところがあるだけだと言う写真である。光と影を撮っていると一見すると美しく見える。しかし、写真を見る眼がある人間が見るとただ光と影だけを撮っている写真は「薄っぺら」に見える。豊かな表現方法を理解している写真家は、ストレートに光と影を撮らない。陳腐であるからである。さりげなく上手に光と影を撮る。

私はカラー写真を撮る際には「色合い」というものに拘る。写真を撮る際には当然「絵柄」も重視する。まずそこが重要だと思っている。ただ単に「光と影」だけを撮ったのでは「いかにも」という「低俗」な表現にしか成らないので、まず「絵柄」や「色味」に目が行くような写真を撮ることを心がけている。しかし、実のところはハイライトやシャドウをどう使うかと言うことについて一番拘っている。画角の端の方に僅かに柔らかいハイライトを入れているというただそれだけのことで写真が美しくなることもあるし、上手にシャドーを配置してあげることによって、写真に奥行きが生まれることもある。

「光と影」それ自体を見せるというのはあまりに単純なやり方である。「光と影」が"演出"することによって「写真」全体にリアリティを生み出したり、色合いの爽やかさを引き立てたり、写真全体に「安定感」を与えるような、そういう「光と影」の使い方が洗練された表現方法であると思う。単純に「光と影」を見せてしまうとそれは「記号」的な写真になってしまう。風景写真の場合、「風景」そのものの美しさを伝えることが一番大切なことであって、「光と影」はあくまで「風景」の演出者でありそれ自体が「見世物」であってはならないと思う。

ちょっと奥が深い話だよね。こういう話が書いてあるのは日本中探してもここだけ(笑)。

(2,346文字)

by dialogue2017 | 2019-02-24 22:30 | 考えていること | Comments(2)

ディーラーから自宅まで2.5kmを歩いて帰ってきた。34分掛かった。その間に31枚写真を撮った。望み通り「どうでもいいような写真」ばかりを撮った。面白いものではっきり「どうでもいい」と思って撮ると平素以上に粗雑に撮ると知った(笑)。今更ながら、「気の持ちよう」が行動に及ぼす影響がどれほど大きいかを学んだ。「どうでもいいような写真」を撮りたいというのは本心であるが、今日やったことを振り返って、写真を撮ると言うこと自体が「どうでもいいような」ことになっていることに気がついた。

年が明けてからほとんど写真を撮っていない。1月の6〜8日の3日間、自宅の周辺で少し撮った。3日とも初代のα7に古いツアイスのマニュアルフォーカスレンズを付けて撮影した。初代のα7がどれくらい写るものか知りたかったのである。1年ほど使っていなかったのでイメージが薄くなっていたのである。結果は、予想通りα7Ⅲとさほど変わらぬ写りだった。まあ、当然のことである。今どきどんなカメラでも良く写る。

そのあと、家族旅行で出掛けた長野で写真を撮った。1月17日に妻と子どもがスキーをしている間ひとりで「遠見尾根」に上がって写真を撮った。最初、小遠見山まで登るつもりであったがラッセル跡がなく諦めた。で、下の方を歩きながら写真を撮った。98枚撮ったのだけれど、途中からはホワイトアウトしてしまい真っ白な写真が量産された(笑)。しかし、9ヶ月ぶりの雪山は楽しかった。再チャレンジしたい。

1月23日に、新大久保から中野まで歩いた。1時間ちょっと歩いたにも関わらず18枚しか撮らなかった。その次に写真を撮ったのは28日。庭に咲いている薔薇の花と枯れている薔薇の花を切ってきて花瓶に挿してリビングで撮った。楽しかった。で、29日30日も同じ薔薇の花をリビングで少し撮った。2月5日にまた枯れた薔薇の花を8枚撮った。そして、そのあと写真を撮ったのは2月17日の新潟であった。あいだの約半月まったく撮らなかった。だからその期間、このブログには古いエントリーの写真の再掲載などをしていた。

1月6〜8日の3日間はスナップを楽しんだという感じでは無かった。α7と古いツアイスのレンズでどれくらい写真が撮れるかを「テスト」したようなものだった(まあ、それなりに楽しかったけれど)。この「テスト撮影」と家族旅行の写真、そして家の中で薔薇の花を撮った写真を別にすると、1月17日に遠見尾根で撮った98枚と、23日に新大久保から中野まで歩いた時の18枚と、2月17日に新潟で撮った112枚、そして今日撮った31枚が「楽しみとして撮った」写真となる。回数で言うと4回、撮影枚数の合計は259枚である。私は江の島・鎌倉界隈界隈に行くと一日で300枚ぐらい撮ることも珍しくない。2泊3日の家族旅行で1,000枚以上撮ることもある。それから考えたら、年明け53日間で259枚というのは異様なほど少ない。

要するに、あまり写真を撮りたいと思っていないのである。いや、撮りたいと思っていない訳ではない。意図して撮るのを辞めているのである。春が来て「本気」でポートレート撮影を始めるまで写真を撮ることから離れていようと思っているのである。だから、今年はまだ一度も江の島・鎌倉界隈界隈に行っていない。スナップ系の写真の半分ぐらいは江の島・鎌倉界隈界隈に出向いたときに撮っているので一度も行っていなければ撮影枚数が上がらない訳である。

撮るのを辞めている理由は、「つまらない写真」を撮ることに飽きてしまったからである。撮るのであれば「本気」で撮ってみたいのだ。しかし、いろいろ事情があって春になるまで撮影に入れない。で、つまらない写真を撮るくらいなら春まで撮らずに過ごそうかと考えたのである。

「本気で撮る」と決めてしまったので予定通り撮ろうと思ってはいるが、煎じ詰めて考えれば、「本気で撮る」必要なんて全くない。まあ、自分なりにどこまで撮れるかチャレンジしてみたいという思いはあるが、どうしてもやってみたいと言うほどのことでは無い。その理由はただ一言、「たかが写真じゃないか」ということである。

「男が」なんていう言葉は好きでは無いのだが、敢えて使えば、男が自分を掛けるにふさわしいものってもっと大きなものであるべきだと思う。この間また明治維新史や太平洋戦争史をちょこちょこと読んでいるのだが、良いとか悪いとか言うことを取りあえず棚上げして論じれば、「維新の志士」であるとか「明治昭和の軍人」には沢山「人物」がいたし、敬服に値する「生き様」を見せてくれた男たちが沢山いる。それは「天下国家」のために命を賭けた生き様であった。結局、私が「本気」になれることは「天下国家」のことだけなのである。煎じ詰めれば文字通りの意味で「命を賭して」取り組める課題だけが「魅力的」なのである。だから、写真なんて「たかが」の内にさえ入らないのである。

でもまあ、「本気で撮る」と公言してしまったので春に成ったら撮ってみようとは思っている。ただ、私自身にはほとんど意味の無いことなのだろうと思う。一度本気で撮ったらすぱっと趣味としての写真は棄ててしまおうかなどとも思っている。もう老い先長くはない。命を掛けることができないまでも、もう少し「重たい」課題に取り組みたい。

自分自身の楽しみのために本気になることなんてそれほど素敵なことじゃない。


by dialogue2017 | 2019-02-21 23:00 | 考えていること | Comments(2)

駅からの帰り道に撮った。iPhoneって便利だな〜。

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昨晩就寝したのは3:20頃。今朝は7:25に起きた。スキーに行く妻と娘を国立駅まで送っていった。今回は私は同行せず知人の運転で長野に向かう。妻はペーパードライバーなので知人と合流する国立駅前まで送って行ったという次第。帰りは電車で帰ってきた。我が家は最寄り駅から1.6kmも離れている。雪がちらつく中時速5.5km程のスピードで歩いて帰ってきたら身体が少し暖かくなった。最近体力が衰えてきて時速6kmで歩くのがちょっとしんどくなってきた。

帰宅後、昨晩の「水炊き」のスープの残りでうどんを作って食べた。身体が温まった。4時間しか眠っていないため身体の芯がちょっとだるい。しかし、二度寝をするのは好きじゃない。

珈琲を入れながら「五人組」のブログを閲覧する。基本的に毎日見ている。「いいね!」やコメントを入れるのはほぼshi-photo君に対してだけであるが、「退学者」のブログも毎日欠かさず見ている。必要があればアドバイスをしようと思っているが、いまのところ「静観」している。

「展開が早くて追いつかない」とか「しっぽを振っていくな」というような言葉を読んで、やはり一度きちんと書いておこうかと思ったが、やめておこうと直ぐに思った。私は彼らに自分を「理解して欲しい」と思っていない。酷く誤解されたとしても構わない。私の側からは彼らをまったく必要としていないからだ。

彼らはこのブログに私が書いたことや、私の撮った写真を通じてしか私という人間を知ることができない。私は自分の人間性がかなりあからさまに出るような話を沢山書いてきたので、彼らが「理解」した私の人間像の少なくとも半分は間違っていないだろう。しかし、このブログに書いたことは何処まで行っても私という人間の「一面」でしかない。彼らが実際に私と会ったら、「考えていたのとはちょっと違う人だった」と言う感想を抱くかも知れない。

私は基本的には人当たりが良い。フレンドリーなのだ。誰に対しても優しいし、過剰なほどに気配りをする。このブログに書かれた文章だけで思い浮かべた私の人物像と実際の私との間には小さくないイメージの違いがあるだろう。しかしそんなことはどうでもよい。いまのところ、私が彼らと会う可能性はとても小さいだろうと思うし。

人間には「自分を理解して貰いたい」という思いがある。それは「本質的」な欲求である。この世に自分を理解してくれる人が一人もいなければ人生はかなり辛いだろう。幸いにも、私は多くの友人から過分なまでに理解して貰っている。いや、たんに理解して貰っているというばかりか、私は少なくない友人たちから過分なまでに沢山のものを貰っている。この40年間、私は途切れることなく私に多大な「贈与」をしてくれる友人を持ち続けてきた。いつも、「献身的」に私を支えてくれる友人が何人もいた。私はそういう人生を歩んできた。私が「好き放題」に生きてこられたのは彼らの「献身」があったからである。

こんな話をしても、あまりにも非日常的で、信じられないという人の方が多いだろうが、私には「命を共にできる」友人が何人かいる。いや、「何人も」と言った方が良い程度にいる。命を共に」というのは文字通りの意味である。互いに「命を託し合える」と言うことである。これは「比喩」ではなく、そのものズバリである。もちろん、それは「ことと次第」であるが、ことと次第では命を託し合える友人が何人もいる。

分かりやすい話をしよう。我が国でファシズム勢力がクーデターを起こしたとしよう(今後そういうことが絶対に無いという保証は無い。いや、20年というスパンで考えればそういうことが起こる可能性は十分にある)。「ヒトラー」のような人物が登場して、我が国がナチスドイツのような国になりそうになったとしよう。当然、それを阻止しようとする大きなたたかいも巻き起こるだろう。そういう情況になったら間違いなく私も立つ。最先頭に立つつもりだ。ファシズムがどれほど大きな悲劇を生むかを知っているからだ。「ファシズム」と「反ファシズム」のたたかいは内乱的激闘を不可避とする。たたかいは「命懸け」とならざるを得ない。

私はすでに61歳。沢山恋をした。4人の女性と合計32年も暮らした。そして素晴らしい子どもたちにも恵まれた。もう、人生にそれほど大きな未練は無い。まだ娘は9歳であるし、息子もまだ13歳だ。彼らがもう少し成長するまではできることなら「平凡」に生きていきたいと思う。しかし、仮に今すぐであったとしても、私は「大義」の為であれば家族を顧みず命を掛ける。躊躇わないだろう。「大義」に背を向けることができない性分に生まれたのだ。それだけのことである。

私が大義のために命を掛けのたたかいに立てば、共に立つ友人が何人もいる。彼らは間違いなく私と「命を共にする」だろう。少なくともそういう友が7〜8人はいる。私は彼らと「親兄弟」以上に深い紐帯で結びついている。

話を戻そう。我が国にファシズムクーデターが起きる可能性についてだ。いま現在、差し迫った危機はない。ここ数年の内にそういうことが起こる可能性はほぼ無いと考えて良いだろう。しかし、10年先に同じ情況であるという保証は無い。いま現在、ファシズム勢力が社会の前面に登場して我が国を牛耳る可能性はないが、ファシズム勢力がジワジワと増強しだしていることは間違いない事実である。

私は、安倍晋三が推し進める復古的な政治など屁とも思っていない。彼は人間があまりに小さい。あの程度の人間に世の中を根底的にひっくり返すような力は無い。歴史は時計の振り子のように一定の振り幅の中で振れながら進んでいくものであるから、ある一時期に大きく「右」に振れたところで、振れた振り子はまた反対側に戻ってくる。ただし、「限界」を超えてしまうと事情が変わる。「歯止め」の内側で振り子が振れている分には、どんなに右に振れようと左に振れようと案ずるに及ばない。しかし、「歯止め」を外してしまえば危険な状況が生まれる。

我が国の「歯止め」は、良い悪いという評価に関わらず「平和憲法」である。戦後70余年、我が国が平和で繁栄を続けてこられた「基礎」は「平和憲法」にあった。私は護憲派ではない。時代の変化に合わせて憲法を変えることは合理的なことである。しかし、自民党の「憲法草案」は歴史の歯車を反対側に回す極めて愚かなものであると思う。ここで憲法を論じるつもりはない。論じたところで憲法についてのイロハを知っている読者さえ一人もいないだろうから。

現行の日本国憲法の制定過程を知っている人間なんてほとんどいない。私の妻は弁護士であるから憲法についてよく知っているし、「憲法論」もある程度は理解しているだろう。しかし、彼女は日本国憲法の制定過程についてごく僅かな通り一遍の知識しか持っていない。大半の弁護士がそうだろう。「憲法論」を専門とする法学者でも無い限り、その事情に通じている人は少ない。しかし、我が国の憲法をどうするかということを論ずるに当たっては、現行憲法の制定過程を知っておく必要がある。

「憲法改正」は自由民主党の「党是」である。「アメリカに押しつけられた憲法だ。自分たちの国の憲法は自分たちで作り直そう」というのが彼らの言い分である。「自主憲法制定」である。言っていること自体に間違いは無い。現行憲法はGHQ民生局によって「原本」が作られ我が国に押しつけられたものである。しかし、ある面それを「渡りに船」と「積極的」に受け入れたという歴史的事実もあるし、戦後70余年、我が国はそれを「金科玉条」として扱ってきたという事実もある。このような歴史的事実に鑑みれば、「押しつけられたモノ」という一面的な理解は成り立たないし、「押しつけられたモノだから変えよう」という論理も短絡的である。

憲法論はやめよう。やったところで理解出来る読者はいないだろうから。前提となる最低限の知識さえ持っていないだろう。「歯止め」の話しに戻る。「憲法」が変わると「歯止め」が外れる。「憲法」というのは「最高法規」であるのだから当然である。憲法改正を巡っては「第九条」の問題ばかりがクローズアップアップされるが、実は最大の問題点は「第一条」である。

現行の日本国憲法第一条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する国民の総意に基づく」となっている。自民党の憲法草案ではこれが「天皇は、日本国の元首であり、日本国民および日本国統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」となっている。変わる点は「天皇」が「日本国の元首」となることである。

ここで「国家元首」とは何かという話しはしない。それは純然たる学問上の定義を巡る論議になり、それなりの知識がなければ論じることが出来ない。話を「一般国民」に分かるレベルで語ろう。天皇が「元首」とされてなにがどう変わるかと言う問題である。天皇が「日本国統合の象徴」であことを謳っているいる点は変わっていない。しかし、これは「国民の目を欺くための仕掛け」である。狙いは天皇を「国家元首」に据えることである。一旦天皇を「元首」と定めてしまえば、天皇を政治的利用する可能性の扉が開かれるのである。

「天皇」というものには「魔力」がある。天皇を「国家元首」の地位に祭り上げておけば、その「魔力」を利用して「国粋主義」的な政治勢力が政治の舞台の前面に登場し、我が国の「権力」を手中に収めうる「可能性」が生じるのである。その危険性を誰よりもよく知っているのは今上天皇である。だから、天皇は2016年8月8日に「お言葉」を発せられたのである。ここではその「実情」について記すことをしないが、今上天皇が現行憲法護持派であることはこれまでの数々の「お言葉」から疑いの余地もなく明らかである。それは、天皇は何故あのタイミングで「お言葉」を発せられたかを考えれば歴然としている。

天皇が2016年8月8日に「お言葉」を発することがスクープされたのは7月13日であった。その3日前の7月10日に第24回参議院議員選挙が行われ「自公」が2/3を超える議席を獲得した。それは憲法改正に向かっての大きな前進であった。天皇は現法憲法改正の現実性に強い危機感を覚え、「象徴天皇制」を守ることの必要性を直接国民に訴えるためにあの「お言葉」を発せられたのである。これが疑いもない事実であることを「論証」する「事実」はたくさんある。ここには記さないが、必要であればいくらでも詳細に事実を証明しよう。

昭和天皇は生前「皇太子」(今上天皇)と月に一度二人きりで会食をされていたそうである。息子であり次期天皇となる皇太子に「言っておきたい」ことがあったから毎月二人だけで会食されたのであろう。その内容はほとんど明らかにされていないが、昭和天皇の数々の「発言録」から判断して、昭和天皇が、戦前軍部によって政治利用されあの悲惨な戦争を行ってしまった歴史的事実に強い「悔悟」と「不満」を覚えていたことに疑いはない。

昭和天皇は、おそらく「息子」に対して、「絶対に象徴天皇制を守り抜け。そうしないと政治利用される。天皇が政治利用されるシステムが確立されてしまえば戦争への道を止める方法がなくなる。いいか、絶対に象徴天皇制を守り抜け」ということを滔々と言って聞かせたと考えて間違いないだろう。今上天皇自身は太平洋戦争を経験している。「疎開」の経験もある。空襲で焼け野原となった首都東京を目にしている。戦争がいかに悲惨であるかを骨の髄まで承知している。戦争が国民にどれほど大きな苦しみを強いることになるかを知っている。今上天皇がこの30年間、どれほど熱心に「平和」の為に「おつとめ」を果たしてきたかは広く国民の承知していることである。

これらの事実に鑑みて考えた場合、そして天皇と親交の深い元「ご学友」が公表した話しを合わせて考えた際、あの8月8日の「お言葉」の真意が安倍政権の推し進める「憲法改正」に対する「反対の意思」を国民に明らかにすることであったことに疑いを差し挟む余地はない。

これは私の想像であるが、「生前退位」なされる「本音」は、自分の眼の黒いうちに「息子」を天皇の地位に付け、絶対に政治利用されない「象徴天皇制」を次期天皇の時代にも引き継がれるよう「目を光らせる」積もりからであろう。父である昭和天皇の死によって自らが「天皇」となった過程のさまざまな大変さを承知している今上天皇は、自分の眼の黒いうちに「安定した」かたちで「息子」の象徴天皇としての地位を盤石なものとして確立しておこうと考えたのだろうと思う。なぜなら、息子であり次期天皇となる皇太子は戦争を知らないからである。戦争の悲惨さを「肌身」で知っている今上天皇にすれば、「心許ない」ところがあるのだろう。「親心」とはそういうものである。

企業の創業社長が、早々と息子に「社長」の地位を譲り、「会長」として目を光らせる期間を通して息子の「社長」としての盤石な地位を確立するというのと理屈は同じだ。それが「親心」である。そして、今上天皇はなんとしても「象徴天皇制」を守り抜くことが日本国民の平和と幸福にとって不可欠だと確信しているのである。そのことに強い「使命感」を持っておられる。

今上天皇は「利用される」おそれのある立場であるが故に「きな臭い」匂いをはっきりとかぎ取っておられるのである。いや、それは誰の目にも明らかなモノとして露骨に立ち現れている。安倍晋三の支持母体である「日本会議」などを筆頭にして「復古主義」勢力が声を大きくしている。しかし、一番恐ろしいのは天皇が「元首」の位置に付けば「武力」を持った勢力がクーデーターを引き起こす可能性が大きくなると言うことである。

自民党草案の憲法が実現したとしても、即座に「ファシズム国家」になるわけでは無い。そこは勘違いしない方が良い。何が問題なのかというと、天皇を「国家元首」の地位に就けたとき、それを「政治利用」する可能性が拡大すると言うことである。自民党政治家などはおそるに足りない。所詮「戦後民主主義」の枠内の勢力に過ぎない。しかし、「平和憲法」という歯止めを外してしまったとき、我が国を大きな危機に陥れるファシズム勢力の登場に道が開かれるのである。問題の核心はここにある。

世界経済は混沌としている。10年20年先の世界はまったく見通せない。10年後、我が国の経済が大きく落ち込んでいる可能性は十分ある。なぜなら、これから世界経済の牽引車となる「AI」の研究において中国にさえ大きく立ち後れているからである。現在ですら格差が広がり「貧困」層が増えている現実から考えれば、10年後、我が国には生活がままならない国民が沢山生み出されている可能性は十分にある。「不満を抱えた国民」こそがファシズムの温床なのである。ヒトラーのナチス政権はクーデーターで成立した政権ではない。選挙を通じて国民によって選ばれて成立した政権であった。

こんな話を書くつもりは全くなかった。しかし、これからは10年先が見通せない時代である。米中ロの覇権争いがより大きな対立に発展する可能性は十分ある。欧米国家とイスラム国家の対立の激化と言うことも大いに予想される(というよりそれは不可避である)。核兵器が抑止力となっているのは事実であるが、互いに核兵器を使わず通常兵器によって大戦争を行うというシナリオは論理的には十分にあり得ることである。世界経済のブロック化は、戦争の火種である。

我が国が、再び戦争に巻き込まれるようなことにならないために現行「平和憲法」を守る必要を誰よりも強く感じられたからこそ今上天皇は「お言葉」を発せられ、象徴天皇制を揺るがぬモノとして継続させるために、自らの目の黒いうちに「代替わり」をしておこうとされているのである。間違いない。問題は国民が「お言葉」に応えることができるかどうかである。しかし、我が国民は「自公」に2/3の議席を与え続けている。なぜか? 無知蒙昧で、羊のように従順に飼い慣らされたからである。

いや、我が国民が政治的に無関心な最大の理由は、「消費」におぼれているからである。憲法」のことより「新しいiPhone」や「SONY α7Ⅲ」のことの方が大きな関心なのだ。「消費」の喜びというモノは、人間を堕落させる。「消費」は目の前の楽しさだけを追い求める人間を作り出す。

言うまでも無く、私は「消費」自体を否定しているわけでは無い。しかし、限られた資源を使いつくし(大国が資源の奪い合いをしている。それも戦争の誘因である)、大量生産し、大量消費し、大量廃棄し、自然環境を破壊し続けている。現今の「消費」はそういう破壊的な過程として進行し続けている。

iPhone7がiPone8になろうと、α7Ⅱがα7Ⅲになろうと、その内実はほとんど変わっていない。しかし、現代人は「最新のガジェット」に心奪われるのである。実質的な必要性がなくても新しい製品を欲しがり買い換えるのである。グローバリズムは人間を「消費奴隷」に飼い慣らし上げたのである。「消費」は人間に「目の前の快楽」だけを追わせる。

気の毒なのは若い世代である。10年後には超高齢社会は更に進んでいる。もうこれまでのようにやっていくことは絶対にできない。しかし、あいかわらずツケは先送りされ続けている。私たちの子どもの世代がそれを全て背負わされる。過酷な4K職場の担い手はいない(いまの若者はそういう仕事を徹底的に嫌っている)。「移民労働力」に頼るしかないだろうし、そういう方向で準備が進んでいる。日本国民の「閉鎖性」に鑑みれば、移民の増加は大きな社会的摩擦を生み出さずにはおかないだろう。民族摩擦が起きれば必ず「排外主義」「エスノセントリズム」が大きくなる。そこからは必ずファシズムが生まれてくる。

社会が立ちゆかなくなり、多くの国民が不満を上げる時代には必ずファシズムが台頭する。「国民の不満」こそがファシズムの最大の温床なのである。この先10年の内に、一気に歴史の流れが変わる可能性は十分にある。その時になってでは遅い。すでに安倍政権の周りには安倍晋三を一回りも二回りも上回るウルトラ国家主義者、国粋主義者が沢山いる。そこからファシズムが台頭する可能性は小さくない。いや、彼らはそれを実現するため、一生懸命になって準備を進めている。

世界情勢は混沌としている。米中ロの覇権争いは一層進むだろう。そのことによって我が国の国際的な地位は下落するだろう。欧州内においても対立は深まっている。イスラム文化と欧米文化の対立も激化していくだろう。局地的な戦争が世界の何ヶ所かで同時に勃発する可能性は決して小さくない。水面下で「一触即発」と言える情況が進んでいる。世界経済は出口のない混迷に向かっている。世界経済のブロック化は対立を激化させ戦争の火種となりつつある。

私は、自分の「出番」を待っているわけではない。いくつもの病気を抱えているので今更大きなものを背負いたいとは思わない。できることなら余生を平凡に生きたい。しかし、もし不幸にしてファシズム勢力の台頭という歴史の曲がり角に立ち会うことになってしまったら、立つ以外にない。私は、子どもたちの世代に「平和」なこの国を渡したいと思う。それは大人としての責任である。だから、ファシズム勢力が登場してきたら私は命を掛けてたたかう。その時、「一緒にやりましょう」と命を預けてくれる友が何人もいる。

私は「しっぽを振ってくる」ような人間になんの関心も無い。私が必要としている人間は「命を預け合える」人間だけである。そのレベルの男(女でもいいんだけれど)以外の人間から自分がどう思われるかについてなんの関心も無い。

ところで、他人が「しっぽを振っている」のを見て、しっぽを振らない自分が「上」だと思ったら大間違いだ。場合によっては「しっぽを振っている」男の方が「本物」だという場合もある。なぜなら「瓢箪から駒が出る」ということは珍しいことでは無いからである。

極論を言えば、人は「しっぽを振る」ことからしか本当の自己変革を行うことはできない。

自分より遙かに偉大な存在に出逢い、その前に頭を垂れ「しっぽを振る」ところから本当の自己変革を始めると言うことは必ずしも悪いことではない。大きな存在に「帰依」せずに自分自身の意思で無様な自分を変えられる人間などまずいないだろう。そんなことができる人間であれば、無様な存在であるわけがないからだ。

他人の頭の周りを飛んでいるハエの心配をする前に、自分の頭の周りを飛んでいるハエの心配をするのが真っ当な人間の発想である。「ハエ」というのは、現実の無様な「自分」のことに他ならない。多くの場合、他人を見下しているときに人間は慢心している。一人の男がトコトン一人の男に惚れ込むというのはそんなに簡単なことではない。誰かが誰かを無条件に「師」として仰ぐのを脇から見ていて、それに対して斜めに見るのは、自分にそれだけの「賭け」ができる「強さ」を持たないからである。

無知で無教養で考える力が小さい人間が成長していくためには、自分を引き上げてくれる「師」を持つ以外に方法は無い。しかし、ここにパラドクスがある。無知で無教養で考える力が小さい人間には「間違いない師」を選ぶ「眼力」など無いのだ。だが、それを前提としたら自分を引き上げてくれる「師」とは一生出会うことはない。

結局の所、自分の「直感」を信じて「賭ける」以外に無いのである。

そもそも、人生そのものが、「直感」をたよりに「賭ける」ことばかりであるのだ。だれか一人の異性を選んで生涯を共にすることも、その異性との間に「未知なる」子どもを作ることも、全部「賭け」である。どうしようもないろくでなしの子どもが生まれてくる可能性だってあるのだから。男と女なんて、「こんなはずじゃなかった」となりがちなのだ(3組に1組が離婚している)。

つまるところ人生は「直感」で「賭ける」ことの連続だ。「賭けて」失敗をする危険性は絶えず付いて回る。しかし、「賭ける」ことが出来ない人間は「果実」を手にすることもない。それで構わないと思う。人間の80%ぐらいは「俗物」なのだから。俗物は俗物として生きればいい。そうする以外にないのだ。なぜなら俗物の最大の特徴は「勇気」を持たないことだから。

私はこんなところで出逢った人間になんの興味も無い。私と誰かの「関係」を気にしているなどと言うのは自意識過剰も甚だしい。私自身は、一人一人と向き合っている。私は自分が向き合っている一人一人に特段の関心は無い。はっきり言うが「書類選考」で落ちるレベルの人たちだ。しかし、動機だとか目的だとか、そんなものとは無関係な話だ。私はひまだった。だから暇つぶしでこんな馬鹿馬鹿しいブログをやってきた。しかし、こんな馬鹿馬鹿しいブログに書かれた話に惹かれた男たちが何人かいたい。私はあと一二ヶ月は暇が残っているから、私を慕ってくれた人間と向き合っていると言うだけの話だ。

何も期待していない。昨日は1%の可能性と記したが、実際は0.1%の可能性も感じていない。しかし「可能性はゼロだ」とは言えない。私は0.1%の為に暇つぶしすることを無駄だとは思わない。いますぐにはなんの成果も生み出されないとしても、歴史が大きな曲がり角を向かえたときに蒔いた種から芽が出る可能性はある。歴史の大きな曲がり角というのは、沢山の「普通の人間」を「勇者」に変えてしまうのである。それは歴史が証明している。子どもたちの未来を考えたとき、私は一粒でも多く種を蒔いておくべきだと思っている。それは大人の責任である。

自分の子どものためにではない。私の二人の子どもは少なくとも80%の確率で「勝ち残る」ことが出来るだろう。悪くても弁護士か医者程度になる能力はある。だから、自分の子どものことはそれほど心配していない。

私はただ単に「責任」を感じているだけである。自分より若い世代にいまより悪い社会を手渡すことに罪悪感を覚えているのである。ただそれだけの話だ。

私に「しっぽを振っている」男がいるのだとしたら、私のそのような心情に共感を覚えていると言うことだろう。「しっぽを振っている」男は、そのように指摘されても笑ってしっぽを振り続けるだろう。彼は自分の「直感」を信じてしっぽを振っているのだから。心配は要らない。私はこんなところで出逢った柔な男に興味は無い。私の方から立ち去っていくから誰かが私に利用されるようなことはない。しかし、しっぽを振った男は私から何かを学ぶだろう。なぜなら、彼は確信を持ってしっぽを振っているのだから。

長い話になった。一度も両手の指を止めることなくここまで一気に書いた。「きちんと話をしなければいけないと思うのだけれど」書くことは大変なので避けていた。やはり書かなければいけないと思いこういうタイトルで書き始めたが、やはり書く必要など無いと思った。

私は自分が本を読むことに没頭したい。勉強が足りない。もっと考える力を高くしたい。

※書き始める前に「きちんと話をしなければいけないと思うのだけれど…」というタイトルを付けてから書き始めた。最後まで書き終えて「しっぽを振ったっていいじゃないか」というタイトルに変えた。

(9,356文字) 久しぶりに1万字書いたと思ったがちょっと足りなかった。


by dialogue2017 | 2019-02-09 12:45 | 考えていること | Comments(1)

話を(5)の冒頭に戻そうと言っておきながら、戻るなりに離れてしまった。もう一度戻る。私は(5)の冒頭には次のように記した。

今日はあまり文章を書く気になれない。なぜなら、書きたいと思うことが沢山あるからだ。書きたいと思う具体的な事柄がある時にはあまり文章を書かない。書き始める前から「気が遠くなる」からである。

(6)で戻るつもりの話がいきなり脱線してしまったわけは、「書きたいと思うことが沢山」生まれた原因が今朝「楽しい」本を読んだことにあったからである。で、「楽しい」本を読むことの意義についての話しを書いてしまった。話はたえず「脱線」を求めているのである。

今日はあまり文章を書く気になれない。なぜなら、書きたいと思うことが沢山あるからだ」という文章を読んで「えっ?」と想った人がいるのでは無いかと思う。そう思った人は「人は書きたいことがあるから文章を書く」ものだと想っている人である。もちろん、「書きたいこと」があって文章を書くこともある。いや、一般的にはそういうケースの方が圧倒的に多いだろう。しかし、私が文章を書くもっとも主要な動機は、「頭の中を引っかき回す」ためである。言葉を換えれば「考えるために」文章を書くと言うことであるが、私の場合、「考える」以前の「頭の中をひっかき回す」作業がしたくて文章を書いている。

まず単純に、「頭の中をひっかき回す」とスッキリする。だから、私は文章を書くことを、「ストレッチ」のようなものだと言い続けてきたのである。「ジョギングするようなものだ」という比喩もなんども使っているが、走った後というのは心身ともにスッキリするものである。実は、今朝読んだ本は村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』という文庫本なのだが、村上はその本の中で「走ること」と「小説を書くこと」には「通底」するものがあると言うことを書いている(そしてそれは「生きる」ことそのものなのだと)。ちなみに、ここまでに今朝読んだ本の書名を記さなかったわけは、書名を明かせばshi-photo君だとか0123okkunだとかが直ぐに買って読む「恐れ」があるからである(笑)。

読むことに意味はあると思うが、私はいまこの本を二人に勧めたいとは全く思わない。だから書名を伏せていた。この本を理解するためにはshi-photo君はあまりにも若い。この本を理解するためには、少なくとも「老い」の実感が無くてはならないからだ。もちろん、若い人が読んでも得ることはあるし、理解出来ることもある。それに、本を読んで「全てを理解」する必要はない。むしろ、理解出来ない部分が残る本の方が価値がある。読んで、「うんそうだ。そのとおりだ。僕もそう思っていた」で終わったしまう本は読んだ意味がほとんど無い。そういう意味では、まだ「老い」などと言うことに欠片ほどの実感もない年齢の時にこの本を読むことには大きな意味があると思う。20代の時にこの本を読み、50歳前後になって読み直したら、全く違う読み方(解釈)をするだろうから。

また話が脱線しかけているので戻そう。文章というのは「考えたこと」を書くのでは無く「考える」ために書くのである。この本の中で、村上は次のように書いている。

前にも書いたが、職業的にものを書く人間の多くがおそらくそうであるように、僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章をつくりながらものを考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思考を深めていく。

まったくその通りである。村上が指摘しているように「職業的にものを書く人間のおおく」は間違いなくそう思っているだろう。学術論文などの場合には、執筆前にかなり綿密なサマリーを作り、すでに「纏まっている考え」を叙述していくということが多いだろうと思う。純然たる学術論文の場合そういう書かれ方がされるケースの方が多いのでは無いかと思う(よく知らないけれど)。しかし、少なくとも「文学者」の場合、「考えたことを文書にする」という書き方をする人はほとんどいないだろう。そういう書き方をした文章には「感染力」が生まれないからである。まったく「感染力」がない「文学」というのは「文学」ではない。読んだ人間が「物語」に「感染」させられてしまう「文学」が最高の文学なのである。そういう意味で村上春樹は現代作家の最高峰に位置する作家である(世界レベルでの話し)。

まだ、村上春樹の小説を読んだことがない人には、私は彼の事実上のデビュー作である『羊をめぐる冒険』を勧める。私自身は『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の方が好きであるが、村上の作品はある意味で全作品が「連作」と言って良いので、まず最初に読む作品としては事実上のデビュー作である『羊をめぐる冒険』から入るのがベストだと思う。※今すぐ読めと勧めているわけではない。

さて、もう一度(5)の冒頭に戻るが、私は「書きたいと思う具体的な事柄がある時にはあまり文章を書かない」。なぜなら、まずもって「面白くない」からである。自分がこれから書こうと思っている内容がある程度以上にはっきりと頭の中で形になっていることと言うのは、本人にとっては書く意味が無い。それはすでに頭の中で書き終えていることだから。頭の中に出来上がっている「文章」をタイプするという作業は「実務」である。それは私が一番嫌いな作業である。

だから、私は「書こう」と思った話を書き始めるなりに毎回脱線するのである。「書こう」と思っている話はすでにある程度以上形になっている。それを書くと言うことは全然楽しいことでは無いのである。だってそれは「実務」だから。

誰かに向かって、なにか「実際的なこと」を伝えるために文章を書くというのはあまり楽しいことではない。なぜなら、そういう文章を書いているときには「ときめき」がまったく生じないからである。「ときめき」というのは些か素敵すぎる表現である。「驚き」と言った方が実感に即しているだろう。自分自身が何を書くか分かっていないことを書くことは楽しい。「どんな話になるんだろう?」という「ときめき」があるから。そして、「へ〜っ、そうなんだ!」という驚きがある。指に任せて紡がれた文章を読むと、「オレって、そんなこと思っていたんだ。いままでまったく気がつかなかった」と言う「驚き」がある。「驚き」とは「気づき」のことである。ひとは「気づき」を得るために文章を書くのである。

なんで人様のために貴重な時間を潰してまで、面白くもない「実際的」な話を書く必要があるだろうか? そんな時間があったら1冊でも余分に本を読んだ方がいい。しかし、正直なことを言うと、私はこの文章を「人様」の為に書いている。この(7)のここまでの文章を書いてきて、私はいちども「ときめき」を覚えなかったし、「驚き」もなかった。なぜなら、ここまでの文章に新しい「気づき」は何一つ無いからだ。自分にとってあまりにも当たり前の「既知」なることを「書き写した」に過ぎない。頭の中からパソコンのモニタ上に書き写すというかなり「実務的」な作業をしただけである。

それでも、そのような「実務作業」のバックグラウンドで、私の「脳みそ」は少なからず「シャッフル」されている。私自身が、何度も「脱線」しながら「本線」に戻ってくる努力をしていることによって書かれた文章は私自身にとっては面白味のない話になっているが、「脳みそ」の方は「マルチタスク」で作動しているので、私の頭の中では、ここに「書かれた」こととは「別のこと」に対する「思考」が沢山生まれているのである。だから、なんの得にもならないにもかかわらず、「人様」に向かって語りかけるという「ボランティア」活動を「耐える」ことが出来るのである。

そういうことなんだよ。

(つづく)(2,853文字)ちょっと調子が出てきたな(笑)。


by dialogue2017 | 2019-02-06 16:00 | 考えていること | Comments(4)

「いま思っていること、いま考えていること」というタイトルは便宜的なものである。(1)を書いたときには、「いま思っていること、いま考えていること」を書こうと思って書いたが、(2)からは便宜的にこのタイトルを使った。いつだって文章を書くときには「いま思っていること、いま考えていること」を書くことになるのだから妥当なタイトルであると言っても良いように思える。しかし、(2)〜(5)を書いたときには「いま思っていること、いま考えていること」を書こうと思って書いたわけでは無かった。

話を(5)の冒頭に戻そう。別にあの話の続きがしたいというわけでもないのだけれど、もしかしたら、あの話がちょっと「引っかかっている」人がいるような気もするので。(5)の冒頭には次のように記した。

今日はあまり文章を書く気になれない。なぜなら、書きたいと思うことが沢山あるからだ。書きたいと思う具体的な事柄がある時にはあまり文章を書かない。書き始める前から「気が遠くなる」からである。

午前中本を読んでいるとき、あれこれと様々なことを思念した。「思念した」と書くと「自発的」で「能動的」なイメージになる。正確には「思念させられた」と言うべきだろう。そもそも「読む」ということはそういうことだ。我々は、自ら「考える」前に"テクスト”によって「考えさせられる」のである。我々は「考えさせられる」ために本を読むのである。たくさんのことを「考えさせられる」本は良い本である。人は本を読まないとあまり物事を深く考えることをしない。「思考」というものは本質的に「対話的」なものなのである。


午前中本を読んでいてたくさんのことを考えた。本によって「考えさせられた」のであるが、単純に著者の意見に共感したり同意して終わった訳では無く、「共感」と「同意」に触発され「それ以上」のことについて「考えた」。この「考えた」という部分は私の「固有」の「思考」にはなると思うが、もしその本を読んでいなければ、私は今日そのようなことを考えなかったであろう。人は、自分の頭の中だけで思考するより、テクストと「対話」することを通じてそれを行う方が遙かに「広く」「深く」それを行うことが出来る。私に言わせれば、本を読まずに生きると言うことは、何も考えずに生きると言うことと同じことである。

本を読む「目的」を大別すれば、「楽しむ」ためか「学ぶ」ためである。今朝の(と言っても昼過ぎまで読んでいたが)読書は「楽しむ」ための読書であった。そういう本を読んだのは実に久しぶりのことであった。「楽しむ」ために本を読むというのはとても「楽しい」ことだと思った(同語反復)。しかし、私はこの本の中からいろいろと「学んだ」。学んだ内容は「学問的」なことがらではない。強いて表現すれば「生き方」についてである。読んだのは「文学書」ではないが、文学者が書いた本である。「生き方」については「学術書」からよりも「文学書」からの方が多くを学ぶことができる。

「楽しむ」為に読むか「学ぶ」為に読むかと書いたが、両者は対立的である訳では無い。「学術書」を読んでいるときに非常に「楽しい」と感じることは少なくない。いや、多い。反対に、「楽しむ」ために読んだ本からも多くのコトを「学ぶ」。私の場合、ただ単に楽しいだけで学びの無いような「娯楽本」を読むことはほとんど無い。だから、どちらの本を読んでも「楽しい」と感じるし、「学び」がある。その上で、やはり「楽しむ」ための本を読んでいるときには本当に「楽しい」し、「学ぶ」ための本を読んでいるときには刺激されることのない「領域」に強い刺激を受ける。

少々図式的に言ってしまえば、学術書から受ける「刺激」は「理念的」であり、文学書から受ける刺激は「感性的」である。学術書ばかりを読んでいると、「感性的」刺激が不足する。随分と久しぶりに「文学書」(実際は「エッセイ」と言って良い本であるが優れた文学者が書いた本である)を読んでそのことを痛感した。「悩」に「栄養」を与えるばかりではなく、「心」に栄養を与えることの必要性を強く感じた。よりよい人生を生きていくために必要なのは、まず後者である。

(つづく)(1,497文字)


by dialogue2017 | 2019-02-06 15:00 | 考えていること | Comments(0)

今日はあまり文章を書く気になれない。なぜなら、書きたいと思うことが沢山あるからだ。書きたいと思う具体的な事柄がある時にはあまり文章を書かない。書き始める前から「気が遠くなる」からである。そんなわけで、今日は珍しく朝食を済ませたあと直ぐに本を読み始めた。昨晩半分ほど読んだ本の続きを読んだ。久しぶりに非学術系書籍を読んだのでとても楽しかった。

全くの「非学術系書籍」を読んだのは久しぶりのことである。元旦から一昨日までに読んだ36冊の本の中に純然たる学術書は1冊もない。しかし、読んだ36冊の本の著者は1冊の例外もなく学者である。中には「学術書籍」とも言えないような「エッセイ」的な本も含まれているが、それらの本も「非学術書籍」とまで言い切れない。学者が書いた本なので基本的には「学術的視点」から語られているし、そこには現代思想家、たとえばソシュールであるとかヴィトゲンシュタインであるとかミシェル・フーコーであるとかレヴィ・ストロースであるとかジャック・デリダなどの難解な文章の引用が頻繁に出てきて、それを著者がまた「回りくどい」言葉で解説していたりするので「非学術的書籍」とは言えないということである。

考えてみると、この2年半ほどはまったくの「非学術系書籍」というものをほとんど読んでいない。そもそも、購入している本の8〜9割は学者が書いた本である。私自身は学者では無いし、特定の「専門」もない。だから、純然たる学術書を読むことは多くないが、かといって通俗的な「解説書」レベルの本はあまり読まない。そういう「大衆向け」の書籍よりはいくらか「学術的」な本を一番多く読んでいる。難しいか難しくないかという話ではない。「基準」は「どこまで掘り下げているか」ということと解釈してもらえればよい。

例えば、数日前に読んだ『明治六年政変』(中公新書・毛利敏彦)は新書であるから「一般向け」に書かれている。内容的にも難しいところは一ヶ所もない。ただし、かなり深く掘り下げた研究の成果が纏められた本である。だから、「明治維新史」にまったく通じていない人が読んでも面白いとは感じないだろう。いや、明治維新について通り一遍のことを知ったとしてもその程度の「前提」ではこの本に「唸る」ことは無いだろう。なぜなら、この本は「明治六年政変」についての「通説」を根底から覆した書物であるからである。つまり、「通説」を知らない人が読んでもその「凄さ」が分からないと言うことである。「通説」を「信じていた」期間が長い人ほど「目から鱗が落ちる」思いを強くするだろう。

私は長年「明治六年政変」についての「通説」には大きな違和感を覚えていた。まず、西郷隆盛が「征韓論者」であったということが腑に落ちなかった。しかし、私は「明治維新史」はそれなりに読み込んでいるが、「維新後」、つまり「明治史」「明治政治史」についてはあまり読んでいない。もちろん全く読んでいないと言うわけではないが、通り一遍の知識しか持っていない。そのため「西南戦争」というものについても深く理解出来ていなかった。私の「明治史」に対する知識は、「通り一遍の知識」、つまり「通説」のレベルを超えていなかったのである。

しかし、「通説」というのは歴史の勝者によって「書かれた」ものであると言うことを知っているが故に、それを「真に受けて」いたわけではない。多くの場合「通説」が「俗説」に過ぎないこともよく承知している。だが、私は「明治政治史」そのものについて深く勉強したことはなかった。そのため、「明治六年政変」から「西南戦争」の過程については、恐らく「通説」は「俗説」に過ぎないだろうという「予断」を持つことで済ませていた。それは、「恐らく事実は通説とは反対だろう」という予断である。果たして、今回『明治六年政変』を読んで、自分の「予断」が正しかったことを確認した。非常に説得力のある学説であった。久しぶりに「本物の学者」の凄さを感じさせて貰った。

『明治六年政変』は純然たる「学術書」ではない。一般向けに書かれた「新書」である。しかし、その内容は極めて優れた研究業績が纏められたものである。「学術書籍」と言ったら失礼に当たるほど「学術的」な本である。学会的レベルでどう位置づけられるかという形式的な問題を捨象して評価すれば「学術書」と言うべき書物であろう。しかし、私はこのレベルの書籍をとりあえず「学術系書籍」としてカテゴライズしている。大学生レベルを想定して書かれているもっと一般的な「新書」からこの『明治六年政変』レベルの事実上「学術書」と言って良いレベルまでの本を一括して「学術系書籍」とひとくくりにしているのであるが、私の読んでいる本の70〜80%はこのカテゴリーの本である。

私はこの2年半ほど「非学術系書籍」をほとんど読んでいなかった。昨晩から今日に書けて読んだ本はある「作家」の「エッセイ」である。ご本人は「後書き」の中で「僕はこの本を『メモワール』のようなものだと考えている。個人史というほど大層なものでもないが、エッセイというタイトルでくくるには無理がある」と書いている。ご本人がそのように書いているのだからその通りだと思うが、読み手の立場からの感想を言わせていただけばやはり「エッセイ」に近い。もっとも、そんな「定義づけ」には何の意味も無い。この本はとても面白かったし、「深い」話が書かれていた。そして、この1冊の本を読んで私の「気持ち」に小さくない変化が生まれた。

(つづく)(2,005文字)


by dialogue2017 | 2019-02-06 14:00 | 考えていること | Comments(0)

もう写真は撮り尽くされてしまっていると思う。しかし、そう思っているにも関わらず、私は安達さんの言葉に強いシンパシーを覚えた。「『まだ見ぬ写真』を撮ることの可能性」という言葉に私は心打たれた。だって、素敵じゃないか! 

私はこのタイトルを読んだだけで素晴らしいと思った。本文を読まなくても「『まだ見ぬ写真』を撮ること」にチャレンジしようよと言う話だと言うことが分かったから。安達さんが「『まだ見ぬ写真』を撮ることの可能性」をはっきりとつかみ取っているのだと言うことが分かったから。

私に言わせれば、安達さんが語ったことは、私がこの数年間ブログの中で語り続けてきたことと同じことである。「まだ見ぬ写真を撮ろうよ!」ということは、「もう、見飽きた写真を撮るのは卒業しようよ!」と言っているのと同じことである。安達さんは、「撮り尽くされている」「いい写真」を撮るのはもう辞めようよ、「フォトジェニックな写真、黄金律の構図で撮るのは、もうみんなやっている」、そういう写真はもう卒業して、「ハッとする」「まだ見ぬ写真」を撮ろうよと呼びかけたのである。(嘘だと思ったらもう一度"この文章”をよく読んで欲しい)。私が言い続けてきたことと同じじゃないか。

「撮り尽くされている」「いい写真」ってどういう写真のことだろうか? ネット上に溢れている写真のことだよ。身近なところでは「エキサイトブログ」の「カメラ」ジャンルや「モノクロ写真」ジャンルに登録されているブログに掲載されている写真の様な写真のことだよ。もちろん、全部が全部そうだというわけじゃないけれど、多くの写真がそういう写真だよね。

みなで似たり寄ったりの写真を撮ったって面白くないじゃない。「撮り尽くされている」他人の写真と同じような写真ばかり撮っている人があまりに多すぎると思う。中には、自分の写真自体が「撮り尽くされた写真」の人までいる。どういうことかというと、毎日毎日更新される写真が「金太郎飴」のように「似たような写真」ばかりであるということ。同じような場所を、同じようなトーンでばかり撮っている。まあ、本人がそれで楽しいのであれば他人がとやかくいう必要は無いとは思うけれど、はっきり言ってつまらないよね。その写真が美しいトーンの写真であったとしても、そんな写真を見ても心に感じるものは何もない。そんな写真じゃなくて、見た人が「ハッとする」写真を撮る方が素敵なことだと思う。私はそう思う。

今夜はここまで。今から本を1冊読む。

(つづく)(936文字)


by dialogue2017 | 2019-02-05 23:30 | 考えていること | Comments(0)

「『まだ見ぬ写真』を撮ることの可能性」という言葉に私は心打たれた。「安達さん、『まだ見ぬ写真』なんてないよ。いや、100%無いと断言するつもりはないけれど、仮にそういう写真があったとしてもそれは『突拍子もない』写真であって、そんな写真に価値があるとは思えない。だから、『まだ見ぬ写真』なんてもう無いと思うよ。もう全てが撮り尽くされてしまっているんだよ」ーー私は安達さんにそう語りかけてみたい。いや、近いうちに彼に会って実際にそう語りかけてみようと思っている。彼がなんと答えてくれるかとても楽しみだ。

もう写真は撮り尽くされてしまっていると思う。もちろん、世の中には「同じ写真」なんてない。しかし、そんなことを言ったらすべての写真が「まだ見ぬ写真」だと言うことになってしまう。もちろん、「似たような写真」は「同じ写真」ではないと考えることもできる。しかし、ほとんどの写真は「似たような写真」であって「まだ見ぬ写真」を目にすることなんてほとんど無いと思う。みなが、同じようなものを、同じような"やり方"で撮っている。しかし、それは当たり前のことなのだ。「『まだ見ぬ写真を撮ってみよう!』という思いを届けたい」の中にも書いたけれど、写真機というのは「コピー機」なのだから、同じような写真をたくさん生み出すことは写真機の本質なのである。

「『作品としての写真』とはなにか?」という話を書いたときに紹介したが、写真家の五味彬さんは次のような主旨のことを語られたーー「オレは写真なんて凄いと思っていない。単なるコピーじゃないか。自分の手で筆を持って真っ白なキャンバスに絵を描くのとは全く次元が違う。写真なんて誰にだって簡単に撮れる。シャッターボタンを押すだけだよ」。まことに身も蓋もない話である。しかし、私は100%同意見である。10人の人間が同じ場所に三脚を立て、その上に同じレンズを付けた同じカメラを載せて、同じ露出で写真を撮ったら「そっくり同じ写真」が出来上がる。それが写真だ。しかし、10人の人間が並んで、目の前の風景の「絵」を書いたら「同じ絵」には絶対にならない。

日本中の写真家と写真愛好家を敵に回すような話かも知れないが、私も「写真なんて凄いと思っていない」。「単なるコピーじゃないか」とまで言ってしまったら言い過ぎかもしれないが、この言葉は写真の本質を穿っていると思う私たちが写真を撮るとき、私たちは私たちの「目の前の光景」を「コピー」しているのである。これは否定しようが無い事実だ。「写真」とはそういうものなのだ。

コピーの「仕方」は色々とある。「構図」の取り方は一人一人違うだろうし、「露出」を変えることも出来る。「ホワイトバランス」を選ぶこともできるし、「クリエイティブスタイル」なんていうものもある。モノクロフィルムで撮るとしたら、Yeフィルターを使うか、Rフィルターを使うか、フィルターを使わないかで撮影結果は変わる。しかし、いずれにしろ撮影した写真がレンズを向けた「実際の光景」のコピーであることに変わりは無い。写真は現実のコピーなのだ。「目の前」に「現実」がなければ写真を撮ることは出来ない。

しかし、「目の前」に「現実の光景」がなくても絵を描くことはできる。「放浪の画家」山下清は、放浪中に見た「光景」を、放浪を終えて「八幡学園」に帰った後に画いた。そのタイムラグは数ヶ月とか数年あった(山下清は、数年前に見た光景をかなり正確に記憶しておくことができる特殊な能力の持ち主であった)画家は自分の「目の前」に「現実の光景」がなくても絵を描くことができる。実在しないものを画くことも出来る。つまり、「絵画」というものは「現実の光景のコピー」ではないのである。仮に目の前の「現実の光景」を画いたとしても、書き手による表現の「差」がはっきりと出る。時には、同じ光景を画いたとは思えないほど異なることさえある。絵画には消しがたいまでに「作者」の「個性」が反映される。

むろん「写真」にだって「作者」の「個性」は反映される。森山大道さんの写真や、清家冨夫さんの写真などは一見して誰の写真であるか分かる(ものが多い)。お二人に限らず少なからぬ作家の写真には作者の個性が反映されている。しかし、写真の場合、比較的簡単に「模倣」することが可能である。いかにも森山大道さんが撮った写真のような写真を誰もが撮ることが出来る。森山さんの写真や清家さんの写真のような写真がネット上には溢れている。中には、「本物?」と思わされるほど上手に模倣している写真もある。それが「写真」の「本質」なのである。なぜなら写真というものは「コピー」だから。

(つづく)(1,694文字)


by dialogue2017 | 2019-02-05 23:00 | 考えていること | Comments(0)