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書いたのにアップしなかったエントリーが沢山ある。先週「一時保存」してあるエントリーを20本ほど捨てた。昨年に書いたものなので今更アップする気にはなれないからである。いま「一時保存」してあるエントリーは17本残っている。今年になってから書いてアップしなかったものである。アップしなかった理由は色々あるが、一番大きな理由は「長文」だからである。ほとんどは5,000字以上のエントリーである。

昼過ぎから「X-T30を触ってきた」という話を書いていた。途中食事などをしながらではあるが2時間以上書き続けた。まだ書き終えていないのだがすでに7,000字を超えてしまっている。で、取りあえず最後まで書くのをやめて「一時保存」した。どうしてそれほど長い話になってしまったかというと、「使用目的」に合ったカメラを選ぶことが一番賢明だと言う話を書いたからである。フルサイズセンサーの必要性についての話や、中判カメラの画質についての話を書いた。それとの比較でAPS-Cセンサーのカメラの性能と使用目的について論じたら長文となってしまった。プロが何故フルサイズセンサーのカメラを使うのか、その理由を詳しく書いた。

プロは「ギリギリ」のところで勝負している。どんな世界のプロもそうである。「ライバルに」1秒でも、1mmでも勝つために互いにしのぎを削っている。それがプロフェッショナルな世界である。そのため、多くのプロは最高のカメラやレンズを使うのである。しかし、それらの多くは「楽しみ」で写真を撮るアマチュア写真愛好家にとっては「無用の長物」である。EOS 1Dxが必要なアマチュアなんて言うのは基本的にはいるわけが無いのである。プロでさえ必要としているカメラマンはごく僅かなのだから。

私は長年フルサイズセンサーのカメラを使い続けて来た。APS-Cセンサーのカメラも何台も所有しているがほとんどEOS 5D・5D3で写真を撮ってきた。EOS 5D系の画質が大変優れているからだ。それに、5D系は操作性が非常に良いのである。実に使い勝手の良いカメラである。私は元々は「NIKON党」であった。Canonなんて馬鹿にしていた(笑)。しかし、デジタルカメラでは断然Canon派でNIKONは眼中にない。EOSが一番綺麗な色を出すからだ。私は著名なポートレートフォトグラファーでNIKONで撮っている人を知らない。NIKONの開発担当者が「キヤノンさんの肌の色には叶わない」と公言した事実があるほどなのだから当然である。親しいあるカメラマンは、D810と5D3を使って仕事をしていた。数年前の話だが、彼に「どうやって使いわけているの?」と尋ねたことがある。返ってきた返答は「5D3はポートレート撮影の時だけ使い、それ以外の仕事は全部NIKON」というものであった。ちなみに彼はNIKONとかなり親密な関係のカメラマンである。このエピソードが全てを語っていると思う。

私が5D3から離れられなかった理由は色が奇麗だからである。やっと乗り換えても良いと思えたカメラがFUJIFILM X-T2であった。FUJIFILMのカメラの色合いはEOSに勝るとも劣らないと思う。しかも、5D3より便利だと思う点がある。フィルムシミュレーションである。PROVIAとASTIAはぱっと見見分けが付かない程度の違いである(フィルムの時は違いが分かった)。しかし、その僅かな差が重要なのである。何度も書いたように写真は「僅かな差」が大きいのである。PROVIA、ASTIA、PRO Neg.Hi、PRO Neg.Std、Velviaを使いわけられるというのはもの凄く大きなメリットである。私はEOSの「ピクチャースタイル」は「忠実設定」と「スタンダード」以外は使わなかった。だって「風景」とか「ポートレート」は奇麗じゃないんだもの。α7Ⅲの「クリエイティブスタイル」には嵌まっている。単純に楽しい(笑)。EOSの「ピクチャースタイル」より使い道があると思う。しかし、ポートレートフォトの多様な表現と言うことを真面目に考えたら「フィルムシミュレーション」の方が断然価値が高いと思う。

X-T30についての話は7,000字以上書いたのでもう一度書く気にはならないが、AFの性能が飛躍的に向上した。4〜5回シャッターを切っただけなので確かなことは言えないがα7Ⅲより早いと感じた。「瞳AF」の性能もα7Ⅲより上だと思う。プライベートに使うなら私は迷うことなくX-T30を選ぶ。XF35mm F1.4 RとXF56mm F1.2 Rの2本あればそれで十分だと思える。この組み合わせで十分「本気」のポートレートだって撮れると思う。プライベートで使うのにα7Ⅲが欲しいとは思わない。大口径単焦点レンズを使うので無い限りα7Ⅲの真価は発揮させられない。それ以下のレンズならX-T30にXF35mmやXF56mmで互角以上に勝負できると思う。そりゃ、フルサイズセンサーの方が有利に決まっているけれど、小型軽量であることのメリットはそれ以上にあるだろう。総合的に考えたら、絶対にX-T30を使った方が良い写真を撮れると思うし、使っていて快適だ。

X-T30とX-T3のどちらを選ぶべきかは好き好きで良いと思うが、一番重要なのはどちらが手に馴染むかである。私の手にはX-T30の方が馴染む。小さくて軽い方が快適だ。1/8000が切れると言うことと、AFポイントの移動に「ジョイスティック」が使えると言うことがX-T2の大きなメリットであったので私は最初X-T2を購入した。しかし、X-T30には「ジョイスティック」が搭載された。F1.4のレンズを日中に開放前後で使う場合1/8000でもオーバーになることが多い。どのみちNDフィルターを使うことになるのだから1/8000はなくても良い。もし、私にX-T3の必要性が出てくるとしたら、α7Ⅲを捨ててFUJIFILMのカメラでポートレートを撮ることにした場合「縦位置バッテリーグリップ」を使う可能性が出てくることぐらいだ。

X-T20とX-T30は全くの別物。外観は丸っきり同じに見えるが中身が違う。AF性能が桁違いに向上した。「瞳AF」の精度はα7Ⅲより上なのではないかという印象を持った。ギリギリの領域で勝負するのでなければ、XF35mm F1.4 RとXF56mm F1.2 Rで十分だ。α7ⅢにPlanar 50mmやDistagon 35mmやFE85mmなどを使う理由があるとしたら、プロと互角以上の写真を撮ろうと思う場合に限ると思う。そこまでの目的が無いのであればα7Ⅲなんて「無用の長物」だと思う。X-T30はアマチュア写真愛好家にとって現時点でのもっとも理想的なカメラでは無いかと思う。もちろん、使用目的によって理想的なカメラは異なる。ストリートスナップがメインならGRⅢの方が理想的だろう。

カメラなんて好きなものを買えば良いと思う。使用目的によって理想のカメラは異なる。ただ、「値段」(コストパフォーマンス)という言うことも含めて考えた場合、若い写真愛好家や小さな子どもがいるお父さんカメラマンにとって、X-T30は最も理想的なカメラだと思う。高性能で、小型軽量で、バランスが取れていて、優秀なレンズラインナップがあり、コストパフォーマンスに優れているからだ。他にこれだけの条件を満たしたカメラがあるだろうか? もう一つ決定的に優れた点がある。「色合い」が抜群に素晴らしい。特に「肌の色」の出方はピカイチだと思う。

(2,648文字)


by dialogue2017 | 2019-03-28 15:00 | ブログ | Comments(5)

2018年2月26日撮影。SIGMA dp0 Quattro。私はこういう「黒い」写真を撮ることは少ないがこのカメラの黒い写真は素敵だ

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今日は午前中のアクセス数が多かった。平素の1.5倍以上であった。土日祝日は訪問者が減るのだがこの3連休は微増している。オマケに、一時ちょこっと落ちたページビュー数がここ数日また増えて1,500を超えている。新しい訪問者の中に古いページに遡って開いてくれている方がいるのだろう。文章を読んでいる人は少ないと思うのだが、現実にはこの半月ほどは写真を掲載せずに文章だけを書いたエントリーへのアクセス数の方が多い。個別エントリーへのアクセス数としては数日前に書いた「人生で最も大切なこと」がブログ開設以来最高数となった。タイトルが気になってアクセスした人がいたのだろう。

話が飛ぶが、ここ最近ほとんど写真を撮っていない。昨日久しぶりにスナップをしたが撮ったのは1枚だけ。その前に写真を撮ったのは「枯れた薔薇の花」。写真を撮らない時には古い写真を観たりすることがある。ブログはそのためにあると言っても良い。昨日から掲載している「SIGMA dp0 Quattro」で撮った写真は『LUZ e SOMBRA』から拾ってきたもの。あのブログにはつまらない写真も沢山載せているが、結構素敵な写真もある。shi-photo君などモノクロを撮っている人には参考になるモノクロ写真もあるだろうと思う。



by dialogue2017 | 2019-02-11 16:00 | ブログ | Comments(0)

2013年4月に初めての「写真ブログ」を始めた。始めるときには「写真ブログ」を始めるという積もりではなかった。何となく撮った1枚の写真が気に入って、文章を書かずに写真だけを掲載する「アルバム帳」のようなブログを作ってみようと思ったのである。作った当初はほとんど更新しなかった。作った月から「5枚」「5枚」「2枚」「2枚」「4枚」「8枚」「5枚」「1枚」と8ヶ月で32枚しか写真を掲載しなかった。そしてその翌月から1年程まったく更新しなかった。同じ時期に『魂との対話』をやっていてあくまでそちらがメインブログであった上に、息子のブログも娘のブログも毎日更新していたのでただ写真を載せるブログなんてどうでも良かったのである。

1年程休んだ後再開して「2枚」「1枚」と二月更新してまた放り投げてしまった。2014年11月から2016年2月まで16ヶ月そのブログは放置されていた。そして2016年の6月に再び再開した。再開した理由は、SONY α7にLEICA Mマウントレンズを装着するためのマントアダプターを買って写真を撮ったからである。『魂との対話』は2014年4月の投稿を最後に閉鎖してしまっていたし、息子のブログと娘のブログは2016年3月末に両方とも閉鎖してしまっていた。「写真館ブログ」も「会社ブログ」も同じ時期に閉鎖していた。私は2014年春にブログを全部閉鎖したのである。

しかし、この「写真ブログ」だけは閉鎖せず残していた。なぜなら、35枚の写真が掲載されているだけで、文章も書いていなかったのであえて閉鎖する必要が無かったのである。2016年6月にSONY α7にLEICA Mマウントレンズを装着するためのマントアダプターを買って写真を撮ったときには私にはこのブログしか残っていなかった。で、このブログに撮った写真を載せた。それが『午後からの陽射し』である。

写真は常時撮っていた。年に10回は家族旅行に行っていたし、日帰りで出かけることもあった。用事があって都心に出た際にちょこっとスナップをすると言うこともあったし、自宅近所でスナップをすることもあった。この頃には年に数回ではあったが「江の島・鎌倉界隈界隈」に出向いた際にもスナップをしていた。撮った写真は「見ることができる」状態にしておきたい。で、『午後の陽射し』を「アルバム帳」にすることにしたのである。

初めのうちは気に入った写真を「貼って」ごく短い文章を書くだけであったが、家族旅行に行った際の写真もここに載せる以外になく、そういう場合にはあれこれと「記録的文章」を書いた。二度目の再開をした「2016年6月」には21枚の写真を掲載した。別にどうといったことのない「平凡な写真」である。私は「平凡な写真」が一番好きなのである。ひとつだけ尾瀬に行ったときの写真を載せたエントリーに1,109文字に文章を書いたが、他のエントリーにはほとんど文章を書いていない。

しかし、翌月2016年7月には72ものエントリーを書き、少しずつ長い文書を書くようになった。何かを「伝えたかった」というより、「文章を書きたかった」と言うことだと思う。文章を書くことが好きなのである。いや、「好き」とか「嫌い」とか言うことでは無くて、文章を書くと言うことは私にとっては「生活」に当然含まれるものなのである。何人かの写真好きの人からコメントを貰ったことが契機となり、私は「写真」についてあれこれと語るようになった。

しかし、その年の年末には自分で「辟易」してしまい、『午後の陽射し』は2016年12月31日で閉じた。もう「写真ブログ」はやらないつもりであったが「一人の読者」からの要望があって、2017年1月14日に私はブログを再開した。それがこのブログ(『一人の読者との対話』)である。

本当は、このあと私が『午後の陽射し』と『一人の読者』という「写真ブログ」をやっていた「動機」が那辺にあったかということについて書いてみようと思ってこの「ブログについての話し」を書き始めたのだが、それを書くと相当長い話になる。それを書くつもりで書き始めたのだが、ここまでの「前説」が終わり、いよいよ「本論」を書く段となったら「気が遠い」思いとなった。なぜなら、それは私が「写真」というものについてどのように考えているかという話しに他ならないからである。

私が昨年末に辞めるはずであったこのブログを取りあえず続けることにした理由は、渡部さとるさんの語った「写真が写真である写真」についての話しを書きたいと思ったからである。いや、私は1月4日に「渡部さとる写真展『IN and OUT』 本日より1月26日(金)まで」を書いた後、続けてその話を書いた。かなり長い話になったが最後まで書ききる前に「辞めておこう」と思って筆を止めた。というのは、すでに書いたことであるが「ネタばらし」になると思ったからである。で、個展が終わった翌日にその話を書くことにして書いた話をアップするのはやめておいた。

私は、1月26日の個展が終わった直後に渡部さんと会って「写真が写真である写真」とはどういう写真か? なぜそういう写真で個展をやろうと思ったのか? と言うことについて、彼に2〜3時間インタビューして聞き出した話を丁寧に纏めてこのブログで発表しようと思っていた。しかし、それも止めることにした。昨年末このブログの閲覧権限を求めた「五人組」のうち0123okkun以外の誰からも「渡部さんの写真展を見てきました」という話が届かなかったからである。

私が、ここ数日、こうやって「過去」を振り返るような話を含めて毎日せっせと書いている理由は、近日中にこのブログを閉鎖する前に「ひとまとまり」のことを語っておこうと思っているからである。だから、「写真が写真である写真」に関することは数日中に別のエントリーを立てて書く。ただし、もう「写真が写真である写真」そのものについては書くつもりは無い。0123okkun以外の誰も関心を抱いていないのだから書いても仕方ない。ただ、なぜ私がこの話しに「こだわり」を持っていたのかと言うことについてだけある程度書いておこうと思う。

なんにしろ、近日にこのブログは終わりにするつもりである。あと一週間ほどで終わりにするかもしれないし、切りよく今月いっぱいは書くかもしれない。気まぐれで3月末まで続けるかもしれない。しかし、どんなに長く続けても春までだろう。いま、私は自分そのものを「留保」しているのである。全てを「春になってから」と棚上げしているのである。だから、「ペンディング」期間中はこのブログを続けても構わない。しかし、春になったら「暮らし」を「御一新」するつもりである。

4月以後ブログをやるかどうか分からない。自分自身が写真を見るための「アルバム帳」は必要だし、「文章を書く場」も欲しい。しかし、それは必ずしも「ブログ」という形である必要は無いわけで、もしかしたらまったく別の形でそれを行うかもしれない。一番肝心なことは「リセット」することである。2019年3月末までのことを「リセット」しようと思っているのである。だから「御一新」なのである。

こうやって初めてのブログ以来のことを振り返った話を書いているのも、この8年間のことを振り返り、それを「封印」しようと考えているからである。これは「ブログについての話し」であるから、「写真」の話はこれ以上しない。あと1回か2回「ブログ」についての話を書いて終わりにしようと思う。「写真」についての話は、来週にでも改めて書くつもりである。もしかしたら、それは「決別の辞」となるかもしれない。

長い間「低調」な日々を送ってきた。そもそも、「社会変革」ということに「絶望」して以来、私は個人的な人生の目的を失っていたのである。ここで言う「個人的」というのは「家族の事」を離れて「一人の人間として」という意味合いである。私は、一人の人間としての「目的」であるとか「欲望」などというものは「不要」だと考えるようになって久しい。私が生きる目的は「家族の為」以外不要だと思っていた。しかし、そう「腹を括って」しまって以後の私はずっと「低迷」していた。最近、残る人生を今のまま「低迷」して生きていくのもなんだと思うようになった。で、2019年3月末に一度「リセット」を掛けて、2019年4月からもっと充実した生活を始めようと考えている。

いまはもの凄く「低調」である。私は冬場はあまりコンディションが良くないのである。5年程前から冬場には身体が凄く冷えるようになった。かなりの冷え性になった。単なる老化ではなくいくつか持病があるため体調がパッとしない日々が続いている。「冷え」が主要な原因だとは言わないが、このことは考えている以上に私に「低迷」を強いる原因になっているとは思う。で、新しいスタートを「春」に設定したのである。春は一番好きな季節である。花々が芽吹くように私の心も熱い想いを芽吹いてくれると信じている。いや、そうなろうと思っている。

脈絡のない話しになってしまったが、要するに私は0123okkun(たち)に「最後の言葉」を送ろうと思って長々と脈絡のない話を書いていると言うことである。

(つづく)。(3,307文字)



by dialogue2017 | 2019-02-07 18:15 | ブログ | Comments(3)

承前。

と言うわけで、私は2010年の1月1日から『魂との対話』と名付けたブログを始めた。そのブログには何でも書いた。自分と自分の家族に関するあらゆることを書いた。本名も、住所も、電話番号も、メールアドレスも明らかにして、日々の暮らしを写真入りで丸々記録した。のちに何人ものブログの読者と実際に会う機会を得たが、誰もが「初めて会った気がしない」と言った。ある方は、「だって、私はHさんのお宅の昨晩の夕食の内容まで知っているんですから」と言って笑った。私はそのブログにあらゆることを書いた。ブログには「全人格的ブログ」というサブタイトルを付けた。なにか個々のテーマについて語るのではなく、自分の「全人格」を掛けて『魂との対話』をするブログと位置づけ始めたのであった。

2011年4月10日以後は、「東日本大震災」の被災地支援活動を報告することがメインとなった。私は2011年4月10日から2012年2月初旬まで、毎週末被災地に通った。最初に行ったときには被災地はまだ道路が寸断されているような情況であった。南三陸町、気仙沼市、陸前高田市などは市街地が丸々「廃墟」となっていた。陸前高田市の市街地はまるで原爆を投下されたような光景であった。海から5kmも内陸に入ったところの鉄道の橋梁が津波によってねじ曲がっていた。それは信じがたい光景であった。


私は、現地から次々と写真をブログにアップし、それをtwitterで流した。iPhoneからはリツイートを知らせる「チャイム」が流れ続けた。1日の訪問者数は常時1,000を超え、2,000を超えることもあった。当時エキサイトブログは6万件のユーザーがいたが、「総合ランキング」で「25位」になったことがあるほどアクセス数が多かった。このブログは、2014年3月末まで4年3ヶ月続けた。ほぼ毎日更新した。6,383のエントリーが残っている。

その後、私はいくつものブログをやった。二つ目に始めたのは息子のブログであった。『魂との対話』を始めてからおよそ二年後、2012年1月18日に息子のブログ『悠太の日記』を始めた。始めた理由は、「おとうさん、オレのブログも作ってよ」と息子が言ってきたからである。当時息子は5歳、保育園の年長組であった。初日のブログに息子は「ブログをはじめました。しばらくはおとうさんにタイプしてもらいます。かぜをひいてねています。ボサボサあたまでちょっとかっこうわるいです」と書いた(現在閉鎖中だが"開設日のエントリー"のみ開けておく)。

その後息子は毎日欠かさず自分で「日記」を書いた。まだ保育園児だったのでほぼひらがなだけで書いていたがスラスラと書いていた。私は毎日書かさず息子の写真を撮って息子の書いた文章に添えた。息子は小学校に入学した翌日にサッカーのクラブチームに入った。かなり本格的なチームであった。コーチ(監督)はスペインリーグでプロサッカー選手でとしてやっていた人である。最初はシンガポールのプロチームでやっていたが、スペインの下部リーグのチームからオファーが来て移籍した。弟さんは現在もJリーガーである。3つの部門でJリーグ1位になった記録を持っている。数年前はJ1の某チームで「10番」を付けていた。ちなみに、Jリーガーである弟さんより息子のチームのコーチである兄の方が才能は上である。怪我か何かの事情で若いときに引退しているが、そのままやっていたらそれなりに名前が知れたJリーガーになっていたことは間違いない。

そんなわけで息子のサッカーはかなり「本格的」なものとなった。1年生は試合がなかったのだが、息子は一人だけ2年生の試合に出して貰った。その時はディフェンダーであったが、2年生に進級したとき私のアドバイスでフォワードに転向した。2年生は沢山試合があった。息子は"ワントップ”を任され、2年生3年生の2年間、チームの得点の70%ぐらいを一人でたたき出した。2年生の時には、コーチは、「ボールを持ったら直ぐにゆうたに出せ」と選手たちに指示していた。それがチームの「戦術」だった。相手のチームの監督が、自分のチームのディフェンダーの選手二人に対して「○○と▽▽の二人は、9番をマークしてろ。付きっきりでいい。他に何もしなくていいから」指示しているというようなこともあった。息子は足も遅いし運動神経もあまり良くないのだが、とにかく「点が取れる」選手だったのである。

そういう事情のため、『悠太の日記』は息子が小学生になって以後はサッカーの話しばかりになった。初めのうちは息子自身が書いていたが、途中から私が書くようになった。試合の内容を、沢山の写真とビデオを添付して記録した。1試合の「解説文」が1万字を超えることが何度もあった。息子のブログは2016年3月18日まで4年2ヶ月毎日欠かさず更新した。1,234のエントリーが残った。膨大な写真と膨大な文章が残っている。息子の小学生時代はこのブログでほぼ全てが分かると言って過言では無い。

息子のブログを作った翌月、2012年2月に娘のブログ『ゆいのにっき』をスタートした。開設の理由は言うまでも無く「ゆいちゃんのブログも作って!」と要求されたからである。娘のブログは写真中心のブログとなった。息子のブログを終わりにしたのと同じ2016年3月まで4年1ヶ月間続けて1,042のエントリーを書いた。1日も欠かしていないはずだ。掲載した写真は7,000枚ほどだろう。(現在閉鎖中だが、どれほど写真を載せていたかが分かるエントリーを二つ開けておく。「運動会1」「運動会2」。娘が保育園の年中組の時の運動会の記録である。写真がぼやけて見えるのは当時はRetina Display用のファイルサイズでアップしていなかったため。この時に撮った写真はこの何倍もある)。

2016年3月末に息子のブログと娘のブログを同時に辞めた。4年生の3月、息子のチームは初めて市の大会で優勝した。それまで準優勝や3位はあったが市の大会で優勝するのは初めてであった。準決勝戦では前年の準優勝チームをPK戦の末に破った。決勝戦の相手は前年の優勝チームであった。この両チームが数年間にわたって優勝・準優勝を独占していた。決勝戦は0-0で延長戦になった。延長戦の前半にも得点が入らず、延長後半に入った。このまま試合が終わって決勝戦もPK戦になるかと思った。小学4年生に決勝戦のPK戦は酷だと思って見ていた。

試合終了2分前、左サイドバックの選手とボランチが上手なパスのやりとりをして相手を崩した。ボールさばきの上手いボランチの選手が相手のボランチの頭越しにふんわりと柔らかいボールゴール前に入れた。ゴール前にいるのはワントップの息子である。この試合、息子には相手チームのセンターバック2人が付きっきりだった。相手チームの監督は息子さえ封じれば点を取られないと分かっていたからだ。息子は頭の上から落ちてくるボールを相手ディフェンダー2人と競った。どちららもボールを収めることができず、こぼれたボールの奪い合いとなった。

息子は相手ディフェンダー二人の間に身体をこじ入れ右足を伸ばした。息子の右足のつま先がボールをつついた。転がったボールはゴール左のポストに当たった後白いゴールラインの上を転がった。相手GKがそのボールに手を伸ばしたとき、ボールはライン上からゴールの中に転がった。恰好良いゴールではなかったが、息子が小学生時代に決めた100ゴールを越えるゴールの中でもっとも「値千金」のゴールとなった。執念のゴールであった。息子のチームはチーム結成以来初めて市の大会で優勝した。もちろん、息子は最優秀選手賞を貰った。この話を書いて、息子のブログは終わりにした。娘のブログもやっていたし、もう書き切れないと思った。このあとは、「写真」と「ビデオ」を撮り残し、記録は将来ゆっくりと纏め直すことにした。

息子と娘のブログをやっている時期、それとは別に『唯的世界』というブログを始めた。「唯」というのは娘の名前であるが、娘のブログではなかった。このブログは「我が家の山登りの記録」の為のブログであった。しかし、写真も話しも「娘」を中心にして記録することにしたので『唯的世界』とした。このブログは、2014年2月から2016年4月まで2年2ヶ月ほど続けた。1,215のエントリーが残った。辞めた理由は山登りに行く回数が増えとても記録しきれなくなったからである。1度の「山行記録」は100〜150枚の写真とともに、10のエントリーにわけて詳細に記録していた。家を出たときから家に帰ってくるまでの全てを写真に撮り、その間の全行動を記録していた。このブログにも膨大な写真と文章がある。

私は『魂との対話』をやっているときに、同時に『悠太の日記』と『ゆいの日記』をやっていた。3つのブログとも毎日更新していた。そして、更に山登り記録のブログである『唯的世界』を追加した。そして、同じ時期に「写真館ブログ」と「会社ブログ」までやっていた。どのブログにも沢山の写真を掲載したが、いわゆる「写真ブログ」はひとつも無かった。

私にとって「写真」はあくまでも「記録」という目的でしか無かったのである。だから、私は個人的趣味として撮った写真を掲載するための「写真ブログ」をやろうとは一度も思わなかった。

(つづく)(3,498文字)


by dialogue2017 | 2019-02-07 16:00 | ブログ | Comments(0)

初めてブログを始めたのは2010年であった。それまでに「ブログをやろう」と思ったことは無かった。そんなことはまったく考えていなかったのだが、2009年の年末に写真家の渡部さとるさんからもらったメールに書かれていた言葉に触発されてブログを始めることにした。その当時、私は渡部さんとはまだ個人的な交流はしていなかった。面識はあった。渡部さんの個展の打ち上げか何かの場で、彼と少し話したことはあったが、その程度の間柄であった。無論、私は彼の大ファンであった。写真も好きであったが、彼の著書『旅するカメラ』が大好きだったのである。

2009年の秋だったと思うが、「2B」のグループ展を巡ってちょっとしたトラブルがあった。展示のタイトルが「2.26事件」を「揶揄」していると言って右翼からクレームを付けられたのである。で、私は渡部さんにメールを差し上げた。「こじれたら連絡して下さい。僕が話を付けて差し上げます」と。私はそういうことが得意なのである。それに対して渡部さんからお礼のメールが届いた。その件については渡部さんは自力で解決した。そういうことをきちんと解決する力を持っている人なのである。

どんな理由であったか忘れたが、その年の年末にもう一度メールのやりとりをした。単なる年の瀬の挨拶程度のものであったように思う。渡部さんから届いたメールの中に、「Hさんは文章が上手だと思う。とても伝わってくる文章を書く」というようなことが書いてあった。はっきり覚えていないが「なにか書いたらいいと思います」ということも書かれてあったような気がする。とにかく、渡部さんは私の「文章力」を高く評価してくれたのである。

不遜な物言いで恐縮であるが、渡部さんから褒められなくても自分に高い文章力があることは自覚していた。小学5年生の時には、「学校ではこの子に理屈で叶う先生は一人もいない」と言われるほどの「理屈屋」だったのである。いや、3歳の時にしてすでに「この子は将来日本一の弁護士になるだろう」と言われるほど口達者だったのである。私は幼少の頃から「はんぱなく」言葉に長けていたのである。「天才」とまで言われていた。

20代の終わりの頃、ある場所でちょっとした「講演」のようなことをしたことがあった。「講演」が終わった後、一人の人が私のところにやってきて「いや〜、お話し上手ですね。生まれてこの方出逢った方の中で一番話が上手だと思いました。上手だと言うことだけで十分凄いと思いましたが、もっと驚いたのは、お話しを録音して起こしたらそのまま本になるしゃべりだったことです」と言われた。

「しゃべり言葉」というものはあまり理路整然としていないものである。私もテープ起こしというものを何度かやったことがあるが、起こした文書をそのまま本にするなどということはまずできない。一つのセンテンスにおいて、主語と述語の関係がきちんと対応していないなどということは珍しいことでは無いのである。人の「しゃべり」というのは以外と「非論理的」なのである。しかし、聴く方はそれをきちんと解釈して聴いている。喩えるなら聞き手はきちんと「翻訳」して聴いているのである。だから、少々語順がおかしかろうが、形容詞の使い方が不適切であろうが、話しに脈絡がなかろうが、聞き手はそれらを上手に「組み立てて」、トータルなものとして「話し」の内容をかなりきちんと理解するのである。

かなり話が上手な人の場合でも、「話し言葉」というものはそのまま「文章」に置き換わるようなものではない。よほどの達人を別にしたら、手直ししないと「読める文章」にはならないものである。話が下手な人の場合、テープ起こしをするより、その内容を元にして書き下ろした方が早いほどである。ひとの「話し」というものは、それほど「乱れた」ものなのである。

「講演」が終わった後私に話しかけてきた男性が、「実は、私はこういう仕事をしているのですが」と言って名刺を下さった。「(株)○○ 第二出版部 編集長 ○▽□☆」と記されていた。知らぬ人はいない大手出版社の第二編集部の編集長であった。その方はその後も私の話の巧さに本当に感心したと言うような話をあれこれした後、「よろしければ、本を書いて頂けませんか?」と言ってきた。その日私が話した「あるジャンル」についての本を書いて欲しいという依頼であった。当時(1985年ぐらいだったと思う)、そのジャンルは社会的ブームになっていて、そのジャンルに関する本は山のように出版されていた。で、そのことを指摘して「今更このジャンルについて本を出してもたいして売れないでしょう」と伝えた。すると、「あなたが書いたらまったく違う本になる。売れると思います。是非書いて下さい」と言われた。

結局、「一度ゆっくりとお話しを聴いて下さい」ということで、3日後にその方とお会いすることになった。その日、待ち合わせ場所に行くとその方の横に二人の男性が立っていた。「あとで紹介します」ということで、我々四人はその編集長が予約しておいてくれた中華料理屋に行った。編集長が同伴してきた二人の方の一人は、テレビ番組の制作会社の社長であった。本の出版にも携わっているとの話である。本の制作過程で、この会社に間に入って貰うかもしれないので連れてきたと言うことであった。もう一人の方はライターであった。私が本の執筆を引き受けた場合、コーディネーターとしてサポートする係を担当して貰う予定の方であるとのことであった。

驚いた。私はまだ執筆の依頼を了解してはいないのである。「一度ゆっくり話を聞いて下さい」と言われたのでやってきただけなのである。知らない業界の話を聞けるのは面白と思い、出てきただけなのである。最初にその編集長と会った日にはそれほど色々と話をしたわけではない。「一度ゆっくりと」ということで、その日にはあまり多くのコトは話さなかった。ことの順序からしたら、この日は、その編集長が私を「口説く」場であって、私が彼からの執筆の依頼を受諾したあとに初めて、間に入って貰う会社であるとかコーディネーターの話が出てくるのが順番というものであろう。しかし、彼(編集長)はもう話をそこまで具体的に進めてしまっていた。私が「受ける」と確信していたのであろう。

後から考えると、このくらい積極的なのは普通のことなのだろう。大手出版社の編集長にもなろうという人間が「やり手」でないはずがない。そして、彼がそこまで話を進めていたのには二つの事情があったと思う。まず、世の中には「本を書く」機会を求めている人が星の数ほどいて、大手出版社から本を出せるなどと言うのは「夢のようなこと」に属する「幸運」であるということだ。つまり、断る人など滅多にいないのだろう。彼は断られた経験がほとんど無かったのだと思う。二つ目は、彼が私に対して「破格の条件」を用意していたためである。彼は、私が「喜び勇んで飛びついてくる」だろうほどの好条件を用意していたのである。だから、彼は100%話は纏まると決めてかかっていたのである。それ故、「下請け」のテレビ番組制作会社の社長とコーディネーターを連れてきたのである。まあ、これも「だめ押し」効果を狙ってのことだったのかもしれない。

実は、私はこの話を受けるつもりは全くなかった。その理由は明確で、私は「そのジャンル」についての本を書きたいとは全く思っていなかったからである。で、断るつもりでいたのだが、話がいきなりこんな状況になって流石に驚いた。私は「実社会」とほとんど接することなく生きていた。23歳から「仕事」はしていたが、ほとんど「社会」と接する必要の無い「仕事」をしていた。私は、「日本社会」にたいしては背を向けて生きていたのでこういう経験をしたのは初めてのことだった。戸惑いはしなかったが驚いた。

コーディネーター氏は控えめな人であった。まあ、立場上も控えるべき立場ではあったが、人柄そのものが控えめな人であった。編集長は快活でやり手であった。しかし、人間的には平凡な人であった。つまり、「仕事人間」である。面白かったのはテレビ番組制作会社の社長である。個性的な人だった。とても魅力的な人物であった。編集長もこのテレビ番組制作会社の社長も私より10歳ほど年上だった。団塊の世代である。あの世代には押しの強い人間が多い。そして、個性溢れる人間が多い。このテレビ番組制作会社の社長は個性的であったが癖が強いという感じでは無く、洗練された感じの人間だった。

そういう人物が混じっていたおかげで、会食はとても楽しいものとなった。「執筆」に関する話題が出る前に、あれこれ長々と「雑談」が続いた。どんなことを話したか全部忘れたが、とても楽しく談笑したことは覚えている。で、「執筆」の件の話となった。編集長は100%受けてらえると信じていたと思う。で、「どんな本にしましょうか?」という話から始まった。待ってくれ! 私はまだ引き受けてはいないのだ。そう思ったが、彼はもう私が書くことを前提に話を進めた。私は些か不快であった。まだ若かったし、私は「大資本」が嫌いであった(なにしろその6年程前までは「革命家」だったのだから・笑)。で、バッサリ断ろうと思った。しかし、目の前の編集長が「バラ色」の笑顔で話しているのを見て、ストレートに断ることが気の毒に思えた。いま思うと、彼は「ヒット作」を出せると信じて浮き浮きしていたのだろうと思う。

私は、「書いてもいいんですけれど、通り一遍の内容で済ませるというのは好きじゃないんですよ。書くならトコトン煎じ詰めて書いてみたい」と言ってみた。すると、「イイネですね。素晴らしい。それで行きましょう」と返ってきた。予想外の反応だった。で、「トコトン書くとしたら、1冊じゃ済みませんよ。少なくとも3巻ぐらいになる」と言ってみた。「構いません。それでやりましょう」と即決されてしまった。「いや、3巻でも中途半端だな〜。10巻ものぐらいがいいかな。書くことはいくらでもあるんですよ。あっちからもこっちからも、いろんな角度から論じることが出来ますから」と言ってみた。すると、「10巻ですか。それは凄い。素晴らしい!」と返ってきた。「この人本気か?」と思った。「10巻という前提で考えて貰ってもかまいません。Hさんならそれくらい間違いなく書けるでしょう」と太鼓判を押されてしまった。

ちなみに、私は本を書いた経験など無かった。彼(編集長)は私の書いた「文章」を原稿用紙一枚分さえ読んだことがなかった。どんな文章を書く人間かまったく未知である人間にたいして彼は「10巻ものの書籍の執筆を依頼しているのである」。私はそのことを彼に指摘してみた。すると「大丈夫です。先日1時間半もお話しを聞かせて貰っていますから。あの話を聞けばHさんの文章力がどれほどのものかは分かります。私だってプロですから、書けると分かる人以外に仕事の依頼はしません」と言われた。彼は「私は絶対に売れると確信しています」と言い放った。

私は「二の句が付けない」気持ちになった。ここまで買われてしまうと断りづらい。実は、私は、頼まれたことを断ることがとても苦手なのである。何かを「託される」とか、人から「頼られる」ということは人間としてとても幸せなことだと思う。だから、頼まれごとを断ることは「罪」だと思っているのである。で、私ははっきりと断り損ねてしまった。「ちょっと考えさせて下さい」とお茶を濁した。すると彼は「もちろんです。じっくりと考えて下さい」と言ったうえで、「書いて頂けることになった場合ですが、資料集めとかはAさん(コーディネーター氏)が全部引き受けます。その他必要なことは何でも彼に相談して下さい。彼もプロですから力になれると思います」とのこと。

まあ、とにかくあれこれ驚いたのだが、最後にもう一つ驚きが残っていた。もうお開きに成る直前に彼(編集長)がこう言った。「海外取材って必要じゃないですかね? 10巻、まあ取りあえず3巻ぐらいで考えたとしても、海外事情も挟んで書いたら本に厚みが出ますよね? 海外取材どうですか?」と言われた。「うーん、それはあった方がいいでしょうけれど、取りあえず無くても書けますが…」と答えると、「いや、あった方がイイナ〜。取材経費は前金でお渡しいたします。まあ、それほど大金は出せませんが、とりあえず100万円ほどはお出しできます」。いや〜、本当にビックリしたよ。

まあ、もう30年以上前の話なので細かい部分は覚えていないが、上に書いた話は概ね事実に即して書いている。長い話をコンパクトに書いているので話しが「凝縮」されてはいるが、事実についての誇張は全くない。「事実は小説よりも奇なり」というが、世の中にはこういう話があるのである。当時はバブル経済に向かっていく過程で、「テレビ業界」とか「出版業界」は金があったのだろう。たぶん、この手の話は「希有」という程までには特別なことでは無かったのかもしれない。まあ、それにしても、1時間半ほど話を聞いただけの男に良くもまあ…

いや違う。彼(編集長)は極めて有能な男だったのである。私の話をきいただけで、「この人は書ける」と見抜いたのだ。しかも、10巻程度まで話を「膨らませる」力があることも見抜いた。私だって、1時間半も話を聞けば、その人にどれくらいの「力」があるかだいたい分かる。必ず分かると言うことでは無い。人には「隠れた才能」というものがあるので、才能が表に出にくい人もいる。

反対に、溢れる才能がほとばしるような話をする人がいる。あるジャンルについての話をする際に、最初から最後までそのジャンルの話をする人は(学術会議でも無い限り)ペケである。話があっちに飛んだりこっちに飛んだり、一瞬元の話を忘れてしまうほど楽しく話を拡げておいて、最後にきちんと本題で「落とせる」人であれば間違いなく豊かな才能の持ち主である。

希有な才能の持ち主というのは、一発で分かるのである。

まあ、とんでもない「自慢話」になってしまったが、私が28歳の時の話である。だから、今更渡部さとるさんから「Hさんは文章が上手だと思う。とても伝わってくる文章を書く」褒められるまでもなく、私はその10倍100倍という評価を受けたことがあったのである。しかし、私は渡部さんからそのように褒められたことがとても嬉しかった。なぜなら、私は彼の大ファンであったから。人間、自分が好きな相手から褒められたり認められたりすることは最高に嬉しいことである。好きでも無い女の子から「あなたは素敵」と言われるより、好きな女の子から「素敵」と言われる方が100倍うれしいでしょう?

で、私は2009年の年末に渡部さんから貰ったメールを読んで、「よし、何か書こう」と思い、翌年の元旦からブログを始めたのである。2010年1月1日から始めた『魂との対話』が私にとって初めてのブログであった。現在は閉鎖されていて閲覧できないが、このブログには「6383」ものエントリーがある。

(つづく)(5,528文字)


by dialogue2017 | 2019-02-07 12:10 | ブログ | Comments(1)

不思議なことにここ数日またページビューが増えている。昨年11〜12月の頃のページビューは1日1,500〜1,700ぐらいだった。ときどき2,000を超える日があった。今年になっても1日のページビューは1,000以上あった。しかし、ちょっと前に昨年までのエントリーを全て「ファン限定公開」に切り替えて以後ページビューは3桁に落ちた。当然である。閲覧出来るページがないのだからページビューは上がらない。昨年末のページビューが多かった理由は、「五人組」が毎日せっせと過去ログを読んでいたからである。私のブログの特徴なのだが、時々ページビューが跳ね上がる。このブログと出会った誰かが過去ロブを読み始めるのだろうと思う。1週間とか半月するとページビューが元に戻る。そういうことが年に何度か必ずある。

現在訪問者数は多くない。昨年10月頃には1日400人ほどの訪問者があった。あるサイトでこのブログが紹介されたため訪問者数が増えたのである。1日1,000人を超えると言うこともあった。今は100人をちょっと超える程度しかない。しかし、私にしてみればいまだに100人もの人が訪問していることの方が不思議だ。「卑屈」な人間が読むと気分を悪くするブログだから(笑)。

1月18日に6人の「ファン」の内の5人を「解除」した。そのため、現在「ファン」はshi-photo君一人である。いや、本当のことを言うと他に2人「ファン」がいる。一人は写真作家の千葉桜洋さん。ありがたいというか恥ずかしいとい言うか、ほとんどの記事に目を通してくれている。先日お会いした際もブログに書いた話についていろいろと質問された。写真とは関係ない私の個人的な話を書いた件についての質問などもあった。私も親しく交流している友人の「個人的」なことには興味があるので、千葉桜洋さんが私と同じようなタイプの人であることに深い親しみを覚える。彼はもの凄く深く「対話」ができる人間である。彼がそういう人間であろうことは彼の作品(「指先の羅針盤」)を見た時に十分想像出来た。人間としてきちんと「一本の柱」が立っていない人間が撮れる写真では無いからだ。そして、「一本の柱」が立っている人間であれば「対話」が成り立つ。

というわけで、現在「ファン限定公開」記事を閲覧出来る人間は3人しかいないわけであるが、shi-photo君以外のお二人がせっせと過去ログを読んでいるとは思えないし、shi-photo君もそれほど熱心に過去ログを読んではいないと思う(彼は物事に「感性的」にアプローチする人間であって「論理的」に立ち向かうことがあまり得意ではないから)。昨年末にページビューが多かった理由は0123okkunさんが毎日過去ログを読み込んでくれていたためである。0123okkunさんの「ファン権限」は1月18日に解除したので彼はその後過去ログを読むことができなくなった。18日は5人の人をファンから解除したのだが、その5人だけで毎日相当数のページビューを稼いでいただろう。彼らを「排除」してしまったのだから、もう過去ログを読んでいる人などほとんどいないはずなのに数日前からまたページビューが1,000を超えている。

訪問者とかページビューが気になるというわけでは無い。私は「古い人間」であるからバーチャルな人間交流と言うことに大きな関心を持っていない。このブログにしたところで、「一人の読者」と出会えたら楽しいだろうと思ってやっていたくらいである。私は毎日10,000人が訪問してくれたとしてもまったく嬉しいとは思わない。何の意味も無いことだから。それよりも、0123okkunさんのように毎日過去ログをじっくりと読んでくれるような「一人の読者」がいることの方が遙かに嬉しいことだ。「薄っぺらい」交流などになんの価値もない。

訪問者が一人になっても悲しいとは思わないし、ページビューが10しか無かったとしても構わない。なぜなら、このブログの最高の「一人の読者」は私自身だからである。私は私自身が読むためにこのブログをやっているのである。私自身が見るために写真を掲載しているのである。このブログは私の「日記帳」であり、「アルバム帳」なのである。はっきり言ってしまえば「読者」との交流なんて"二の次”のことでしかない。

ページビューに関しては気になったのでは無く「不思議」に思ったと言うことである。昨年までの記事を全部閉鎖しているにも関わらずページビューが増えると言うことが不思議だったのである。理由は分かった。とても単純なことだった。ここ数日書いている「書き下ろし」のエントリーに対するページビューが多いのである。その日に書き下ろした個別のエントリーに対するページビューは過去2年間のどの時期よりかなり多い。どうしてそういうことになっているのかは判らないが、一つ一つのエントリーへの訪問が3桁になっている。

どうしてそういうことになったのかは判らないが、一定の数の人々が、毎日書き下ろされる個別のエントリーに対してアクセスしてくれていることは事実であるし、ここ数日数件の「ファン申請」が届いている。そうい事情があるので、「ファン限定公開」にしてしまったエントリーの中から、毎日いくつかの記事を選んで「公開」しようと思う。

元々この2年間、全てのエントリーは「公開」されていた。「ファン限定公開」を始めたのは昨年の12月になってのことである。本当は昨年末でこのブログを「閉鎖」するつもりであった。しかし、何人かの方々から「過去ログを読んでいるので閉鎖はしばらく猶予して欲しい」という希望が届いた。で、その方たちだけに過去ログを読んで貰えるように「ファン限定公開」としたのである。

昨年末で辞めるつもりであったブログを継続している理由についてはすでに一度書いたが、渡部さとるさんの写真展を見て思ったことについて書いておきたいからである。私は渡部さん本人からいろいろなことを聴いているので、個展期間中に書いてしまうと「ネタばらし」になってしまう話もあるので個展が終わるまで書くのを自粛していたが、明日で個展が終わるので書くことが出来る。

ブログを続けた理由はあと2つほどある。ひとつは、安達ロベルトさんが「まだ見ぬ写真」についての話を語った文章を読んだことである。この話は「『写真が写真である写真』『まだ見ぬ写真』『本当の写真』とはどういう写真か?」で詳しく書いた。安達さんの言葉は私の胸深く届いた。安達さんの「気持ち」は私に乗り移った。私も「まだ見ぬ写真を撮ろうよ!」と語らなくてはならないと強く思った。で、「『まだ見ぬ写真を撮ってみようよ!』という思いを届けたい」という話を書いた。

ここではくり返さないが、「写真が写真である写真」の話というのはとても深い話である。本当に写真が好きな人であれば「写真が写真である写真」という言葉を聞いて「えっ? それってどういう写真?」と思わないはずが無いし、そういう写真がどういう写真であるかを見るために渡部さんの写真展に足を運ぶだろう。私は先週の水曜日と今週の水曜日に個展会場に足を運んだが、そこでは何人もの写真を愛する人々が渡部さんと「対話」をしていた。

渡部さんは午前11時のオープンから19時の閉店までずっと個展会場に座っている。写真を見に来てくれた人と「対話」するためである。会社勤めをしている人の場合平日の19時までに足を運ぶことができない人も多いだろう。そのため、渡部さんは水曜日は21時までギャラリーを開けて貰っている。渡部さんにだけ許される「特例」である。渡部さんは水曜日にはワインと簡単なつまみを用意して訪問者を待っている。先週の水曜日は20人を超えるファンが詰めかけちょっとした宴会になった。今週の水曜日も同じようになっていただろう(私は18時に会場を後にしたので見ていないが)。当然のことながら、その場では「写真が写真である写真」について様々な「対話」が行われただろう(それは私も実際見たし聴いた)。

「写真が写真である写真」についての話は一両日中に書くが、結論を先に書いてしまうと「なかなか理解できない」だろうと思う。なぜなら、それは「行き着いた」人の写真だからである。どういう写真なのかというと、「どうといったことない」「平凡な」写真である。「えっ? これが『写真が写真である写真』なの?」「どこがどう凄いの?」と想う人が少なくないだろうと思う。そのとおり、別にどこも凄くないのである(笑)。「なんだか、こういう写真なら私だって撮れそうだ」と思うだろう。そう、その通り、特別な写真じゃないから「誰でも撮れそう」な写真である。

ああ、これ以上続けるとあれこれ書いてしまうので辞めておこう。

丁寧で礼儀を知った「ファン申請」が数件届いている。面倒なので「2,800件」のエントリー全てを「公開」に戻してしまっても良いのだが、毎日いくつかのエントリーを選んで「開けていく」方が楽しそうなのでそうしようと思う。でも、その前に「今日のエントリー」をひとつふたつ書きたいと思う。

(3,300文字)



by dialogue2017 | 2019-01-25 12:00 | ブログ | Comments(1)

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by dialogue2017 | 2019-01-05 19:00 | ブログ

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