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カテゴリ:写真とカメラの話し( 457 )

ひとつ前のエントリーに掲載した写真の”元ファイル”である。これをモノクロ化した。カラーは撮影した直後に一度このブログに掲載したと思う。普通カラー写真よりモノクロ写真の方が「光」が感じられる写真になりやすい。"このエントリー”で取り上げたshi-photo君の撮ったスナップ写真なんて、カラーよりモノクロの方が遙かに光が感じられる写真である。shi-photo君が撮ったカラー写真は色温度が高いため冷ややな感じの写真であるが、モノクロにするとその冷たい感じが無くなり「光」が「暖かい陽射し」に見える。

モノクロの方が「光と影」が眼に入って来やすくなる。人間はカラー写真だと色に目を奪われるので「光」に対する意識がその分薄くなる。だから、モノクロで撮る「光景」とカラーで撮る「光景」は異なる場合が多い。カラーでもモノクロでもどちらでも素敵な写真になるというケースも決して少なくはない。しかし、モノクロを撮るのであれば、「この写真は絶対にモノクロの方が素敵」と言い切れるような写真を撮るべきである。カラー写真を撮るときも「この写真はモノクロじゃ生きない。カラーでこそ」という写真を撮るべきだ。もちろん、どちでも良いという写真は少なくない。このカメラの写真もモノクロでもカラーでもきちんと成立している。どちらにも固有の良さがある。

カラー写真だとレンズに当たった光が奇麗に発色するので美しく見える。こういう写真を撮るときにはレンズの光の反射が奇麗に出るアングルを探して撮影する。それが"セッティング”すると言うことである。ストロボやレフ板を使わなくても、「被写体」に当たる光を調整したり、「被写体」から反射してくる「光」を「拾う」アングルを調整することができる。それが"セッティング”しての撮影である。私自身はこういう「物撮り」写真を撮ることは滅多にない。カメラの写真をブログに掲載する時ぐらいしか「物撮り」はやらない。「物撮り」と言っても「自然光」だけで撮る。仕事でカタログ写真を撮る訳じゃないのでレフ板を使うこともまずない。"アベイラブルライト”で撮るのが好きなのだ。

今年はほとんどスナップに出掛けなかった。しかし、10月以後は茅野の「山小屋」で散歩をするときに写真を撮っていた。茅野は車をちょこっと走らせれば美しい景色のところにすぐに行くことが出来る。東山魁夷の描いた「緑響く」で有名な「御射鹿池」まで30分程である。早朝であれば「霧ヶ峰」だって30分ほどで行ける。しかも、東京と違って車の量も少ないし、信号があまりないので快適なドライブが出来る。道中の景色もよいので30分なんてあっという間だ。しかし、私はこの一年間、写真を撮ると言う目的でどこかに出向いたことは一度も無かった。どこかに出向いてまで写真を撮りたいという気持ちにならなかったのである。

来年は少し写真を撮ってみようと思う。眼の具合がかなり悪くなってきたので、最近は本を読むことが辛くなってきた。で、来年はいままであまりやらなかったことをやってみようと決めた。その一つが「写真を撮る」こと。いままでも写真は撮っていた。かなり沢山撮っていた。しかし、真剣に写真を撮ると言うことはほとんどなかった。だって、真剣に撮る必要なんて欠片も無いのだから。もし、「個展」をやろうと思ったら、私だってもうすこし「真剣」に撮ると思う(いや、今と同じスタイルでしか撮れないかもしれない)。雑誌に掲載する写真を撮って欲しいと頼まれたら多分真剣に撮る(笑)。美人女優やモデルさんを撮らせてもらえるなら"超真剣”に撮る(笑)。でも、スナップを真剣に撮る気にはならない。

来年は少しであるが「真剣に」写真を撮ってみようと思っている。だから、「いままであまりやらなかったこと」に該当するのである。寒い内は出歩いて写真を撮る気になれないので、春が来るまでは時々「物撮り」をやってみようかと思っている(って10分程前に思いついたことだけれど)。今までと同じように「アベイラブルライト」で撮ることをメインに撮影しようと思うが、「ライティング」した上での「物撮り」も少しやってみようと思う。難しい被写体の物撮りを重ねたら「撮影技量」は上がる。本当に微妙な「光の使い方」を覚えるから。

この5年半ほどは写真を真剣に撮る機会がまったくなかった。ときどき「七五三」や「お百日」の写真を頼まれて「仕事」として撮影することがあるが、そういう写真は「家族写真」を撮るのと同じことだから肩肘張ることなく気楽に撮ることができる。沢山撮ってきたのでもう「習い性」になっている。だから、撮影には「緊張感」はまったくない。自分の家族を撮る時より"ピント”に気を配るぐらいである。

そうだ。茅野の「山小屋」の2階の一角に小さな物撮りスペースを作ってそこで「物撮り」をやってみようかな。「小物」の撮影用のセットであれば狭い範囲で作れるので常設しておける。さてなにを撮ろうか? 防湿庫の中で数年間ずっと眠っているカメラを持っていって、1台1台「カタログ」写真を撮るつもりで撮ってみようかな。「花」を撮るのも楽しいだろう。よし、1月から早速始めよう。

このブログは年内で終わりにする予定である。来年いくつかの新しいブログを始めるつもりであるがまだ具体的なプランは煮詰めていない。いま思いついたのだけれど「物撮り」だけを載せるブログというのも面白そうだ。そうなるとGFX 50sが欲しくなるな〜(笑)。

物撮りブログをやってみようかな_e0367501_08435245.jpg



by dialogue2017 | 2019-12-28 10:00 | 写真とカメラの話し | Comments(1)

綺麗な写真を撮ろうと思ったら"セッティング”して撮れば良い。必ずしも手間暇が掛かると言うことではない。この写真は、リビングの床の上に妻のパジャマのズボンを敷いて、その上にカメラを置いて、南向きの掃き出し窓から入ってくる自然光で撮影した。私にしては極めて珍しいことに、三脚を立てて撮影している。画質のことを考えてISOは800で止めておきたかったので三脚を使った。こういう写真は絞り込んで撮るのでシャッタースピードが遅くなるのである。1秒なんて言う長時間露光は指折り数えるほどしかやったことが無い。レタッチで多少手を入れてはいるが、ハイライトとシャドーの調整をした程度である。"セッティング"と言っても床の上に置いたカメラに当たる光の角度を調節しただけのことである。しかも、「こんなもんかな?」と床に置いて一発撮りである。それでもこんな風に美しいトーンの写真になる。

FUJIFILM X-T2 + FUJINON XF 56mmF1.2 R ISO800 F13 1.0秒 -0.67EV JPEG それにしても美しいカメラだ

セッティングして撮ると言うこと_e0367501_22464436.jpg

by dialogue2017 | 2019-12-28 05:00 | 写真とカメラの話し | Comments(1)

poppn1971君へ。

僕は「モノクロ写真」に取り組んだことが一度もありません。遊びでモノクロを撮ることはありますが、本気でモノクロ写真に取り組んだことはありません。「本気で取り組む」というのがどういうことか、そのもっとも大きな要素は「プリント」を作るかどうかだと思います。これは僕の考えですが、やはり"ゼラチンシルバープリント”を焼くという経験がモノクロ写真を理解するに当たって一番資するだろうと思います。僕は1枚も焼いたことがありません。それどころか、僕は自分が撮った写真のモノクロプリントをインクジェットプリントでさえほとんど作ったことがありません。

「モノクロ写真」は「プリント」という形にしないと「不完全」だと思います。例えば僕がブログにモノクロ写真を掲載しても、閲覧する人のモニタと僕のモニタでは「輝度」も違いますし、コントラストも異なります。同じ写真が同じようには見えないわけです。仮に同一のモニタを使って観て貰うことが出来たとしても、やはりモノクロ写真はプリントにしてこそだと思います。「プリント用紙」の「白」の色合いだとか、紙の「テイスト」であるとか、マットの「余白」であるとか、そういう部分も含めて見せるのがモノクロ写真だと思うのです。プリントのサイズも極めて重要です。ネット上で見せるモノクロ写真にはこういう要素が全部欠落しています。大きささえ決められません。iPhoneで見ている人だっていますから。

モノクロであろうとカラーであろうと、僕はブログに掲載する写真に関しては「大雑把」にしか考えていません。閲覧するモニタによって見え方が変わってしまうと言うこともありますが、僕自身の「欲求」として「できる限り高いレベルで見せたい」という欲求がないからです。写真家や本格的にモノクロ写真をやっている人などのブログを読んでいると「じっくりと追い込んでみました」という言葉に出逢うことがあります。モノクロであれば納得できる「トーン」に仕上げたという意味です。僕はそこまでやろうとは思いません。だいたい、そのあたりまで写真を見ることが出来る人が訪問していないだろうと思いますから(笑)。そんなこと以前に、僕にとって写真はそこまで真剣になるような対象ではないんです。楽しければそれで十分です。そもそもいい加減に撮っていますし(笑)。

さて、「モノクロ写真(5)」のコメント欄に頂いた「質問」への「回答」の中に書いた件です。モノクロ写真は「トーン」だけで見せる写真です。スナップの場合"セッティング”して撮っている訳ではありませんので、自分が思ったとおりのトーンに撮れると言うことは滅多にないです。だから、「ハイライト」や「シャドー」の微調整をしていますが、「ハイライト」の一部だけを抑えたいとか、「シャドー」の一部だけを起こしたいというケースが出てきます。普通は「レイヤー」を作ってレタッチするのが一般的ですが、僕はそこまではやりません。弄りたい「一部」の部分を「覆い焼き」したり「焼き込み」して微調整の微調整を行います。まあ、そこまでやることは滅多にないですが。

下の写真は、上の写真のハイライトの一部を「焼き込んで」落としています。また、シャドーの一部を「覆い焼き」して起こしています。上下の写真を良く見比べて貰うとどのあたりに手を入れたかわかると思います。時間にして30秒程度の作業です。僕が使っているMacBook Proのディスプレイはコーティングが剥がれてしまっているので「黒」が奇麗に見えません。また、僕は最近本が読めないほど目の調子が悪いのでモノクロ写真のトーンが見えません。そんなわけで、この「レタッチ例」はあくまでこういやり方もあるということを説明するためのモノだと理解して下さい。

僕も長い間「モノクロ写真のトーン」をどうしたらよいのか疑問でした。2017年の晩秋からから2018年の初めに掛けての3〜4ヶ月の間に6〜7回モノクロ写真のスナップを重ねてみました。それを自分で「弄って」みて自分なりに一つの結論に達しました。モノクロ写真のトーンに「正解」はありません。最終的には「作者」の好みでトーンを決めるしかありません。もちろん、「ここからここまで」という「正解」の範囲はあります。その範囲に収まっていなければ正解とは言えないという「枠」はあります。しかし、その中でなら作者が好きに決めて良いものだと思っています。

ところが、話しはこれで終わりません。モノクロを弄っていると「結論」に達しないのです(笑)。あれこれといくつものバージョンを作ってしまい、どれが一番良いか分からなく成ります。「これだ!」と決める以外にないのですが、翌日になると「答え」が変わっていたりします(笑)。1年前の写真を見たらだいたいレタッチし直したくなります(爆)。

モノクロ作家はどうやって「トーン」を決めているのか不思議でした。すると、こういう話しに出逢いました。かの田中長徳さんが、1枚の写真のトーンを決めかねて2つのバージョンを焼いて、個展を行うギャラリーの主催者に選んで貰ったというのです。田中長徳さんほどの方でさえ自分の写真のトーンを決めかねることがあると言うことで長年の疑問に決着が付きました。モノクロ写真のトーンに「正解」など無いのだと言うことです。

しかし、これでスッキリしたわけではありません。では、モノクロ作家は個展で展示する写真の「トーン」を最終的にはどうやって決めているのかという疑問です。この疑問は昨春氷解しました。昨年の春、モノクロ作家の渡部さとるさんと飲んでいる時に彼に田中長徳さんの話しをしてみました。そして、「渡部さんにはこういうことはないの?」と質問してみました。「あるよ」と言う答えでした。「で、どうしているの?」と尋ねると彼は単純明快な答えを教えてくれました。はい、ここから先は「有料サイト」に会員登録してお読み下さい(爆)。

モノクロ写真は奥が深いです。「単純」だから奥が深いのです。モノクロ写真は「白」から「黒」にかけての256階調でしか表現できません。しかし、そこには「無限」の選択肢があります。2013年の8月に、3人のモノクロ作家と「モノクロ写真論」を語り合ったことがあります。森谷修さん、亀山仁さん、渡部さとるさんの3人と4時間ほど語り合いました。テーマは「ビンテージプリントか、モダンプリントか」というものでした。その話しは"ここ”に書きました。翌日のFacebookで森谷修さんが「なにげに深い」と書いていますが、確かに深い話でした。

僕は自分ではモノクロ写真に取り組んでいないのに、著名モノクロ作家と親しく交流している恩恵から理解を深めたことがいろいろあります。自分なりにひとつの結論に達しているのでモノクロで作品を撮るための準備は終わっています。ただ、デジタルカメラで撮ってインクジェットプリントで出すことに潔くなれないんです。だって、どう考えたってフィルムで撮ってゼラチンシルバープリントを焼くより「楽」ですから。デジタルの方が自由度が高いですし、いまの最高峰のプリンターを使ったらインクジェットプリントの方が奇麗です。インクジェットプリントは銀塩プリントを作ることに比べたら遙かに弄りやすいです。いまのPhotoshopは何でも出来ますからね(僕はレベル補正ぐらいしかできなけれど)。

僕が写真に熱中仕切れない理由には、デジタルカメラの「安易さ」ということがあります。ゼラチンシルバープリントは「手作り品」ですから「作品」なんだと思っています。厳密には2枚として同じプリントをつくることができないのです(まあ、事実上「同じ」レベルには作れますが)。そういう「手作り品」だけが「作品」だと思うんですよ。と言って、今更フィルムで撮って暗室に籠もってプリントを作ろうとまでは思えません。そもそも僕にとって写真の価値はどこまでいっても「記録」ということにあるんです。それ以外の写真は「遊び」です。

まあ、その上で、来年はフィルムで撮るつもりです。まだ具体的なことはなにも考えていませんが、できれば4×5で撮ってみたいと思っています。取りあえず、春になったら6×6で少し撮ってみようと思っています。カラーでもモノクロでも撮ってみようと思っています。フィルムで撮る以上「プリント」を作らなければ撮る意味がありません。しかし、まずは撮ってみようと思っています。もし、プリントしてみたいと思える写真が撮れたら、友人の誰かに焼いて貰います。友人には著名モノクロ作家が何人もいますから(笑)。

追記。iPhone8で見たら、下の2枚の写真の違いが判然としない。やはり写真は見せるサイズがとても重要だと思う。

モノクロ写真のトーンはどうやって決めるのか? (poppn1971君へ)_e0367501_00180288.jpg

上の写真は「左右」の「明るさ」の「バランス」が悪いと感じたのでその「差」を少し詰めてみた。これが「正解」だということではない。

モノクロ写真のトーンはどうやって決めるのか? (poppn1971君へ)_e0367501_00345291.jpg

by dialogue2017 | 2019-12-27 12:00 | 写真とカメラの話し | Comments(1)

shi-photo君へ。

モノクロ写真の「トーン」をどのように出すかというのはとても難しい「問題」だと思う。いや、僕自身は悩むことは少なくて割とすんなり落としどころが決まるのだけれど、ときどきどうしたらいいのか全く分からないという場合もある。君が今朝方ブログに掲載した"この写真"を見たとき、いくら何でも眠すぎると思った。実は少々"早合点”であった。僕は平素MacBook Proを使っているのだけれど、ディスプレイのコーティングが剥がれていて正常な状態に比べるとコントラストが落ちて見える。普通のコントラストの写真であればそれほど違和感を覚えることはないのだけれど、ローコントラストの写真の場合かなり「緩く」見える。寝起きに見たのでそのことを失念していた。

で、とりあえず1枚作ってみたのだけれど、ひどい出来映えだった(2枚目の写真)。日陰で撮っている上にフレアーが出ているという条件なのでコントラストの浅い写真になるは当然のこと。Photoshoを使えばいくらでもコントラストを上げることは出来るけれど、この光景がどういう光であるかを理解していて、ここをモノクロで撮ったらどういう写真になるかを頭に思い描ける人間の場合、大幅にコントラストを上げることには違和感を覚えると思う。初めから「眠い写真」になる場所を撮っているわけだから。それを承知の上で「明るさ」と「コントラスト」の両方を上げてみたのだけれど、やはり違和感を覚えた。で、君が作った元の写真に近いテイストでやり直してみたのだけれど、落としどころが見つからなかった。フレアーが入ってなければ簡単に「結論」が出るのだけれど、フレアーが入っているので上手くいかない。

直ぐ下の1枚目の写真が君がブログに掲載した「元ファイル」なのだけれど、僕のMacBook Proで見るとかなり眠い。あとからiPadmini 4で見直したらギリギリ「正解」の範囲に入るのかな〜、という感想だった。実は、昨晩このエントリーのあとにアップされる「モノクロ写真のトーンはどうやって決めるのか?」というエントリーを書いて午前2時前に「予約投稿」している。その中で詳しく書いたのだけれど、モノクロ写真のトーンに"一義的”な「正解」などない。最終的には"作者”の「好み」で決める以外にない。だから、同じネガをプリントにしたり、同じデジタルファイルをレタッチしてプリントにした場合、誰がそのプリントを作るかで出来上がるプリントの雰囲気は変わってくる。

この話は以前どこかに書いたので君も読んでいるかも知れないけれど、13年ほど前、モノクロ作家のネガから著名な「プリンター」(ゼラチンシルバープリントを焼くことを生業としている人)2人がそれぞれプリントを作り、それをならべて展示するという面白い企画があった。僕はそれを見に行ったのだけど、とても衝撃的だった。左右にならんだ2枚のプリントの雰囲気がまったく別だったのだ。例えば、片方は「白」と「黒」がはっきりした感じのコントラストの強いプリントであるのに対して、もう一方はかなり「眠い」感じのプリントだったんだよ。

そのプリントを焼いた「プリンター」はとても著名な人たちで、著名なプロ写真家の作品を手がけているような人だったんだ。そういう人たちがまったく対極的と言えるプリントを作っているのを見てほんとうに愕いた。もしどちらかが「正解」だとしたらもう一方は絶対に「不正解」と言う以外にないほど似ても似つかないトーンのプリントだったんだ。僕にはとても「どちらも正解」とは思えなかった。その企画では、何人ものモノクロ作家の作品(ネガ)を、何人ものプリンターがプリントして展示した。つまり、作家とプリンターの組み合わせが何通りもあったと言うこと。中には2枚のプリントが比較的「似ている」ケースもあったけれど、多くはかなり違った雰囲気のプリントになっていた。

もうあまりはっきりとは覚えていないけれど、「どちらも悪くない」と思うようなケースは無かったと思う。どちらか一方を「いいな」と思った写真は、もう片方は好きじゃなかった。「どちらもありだよな」と思ったケースはほとんどなかったという記憶。両方とも「えっ?」って思う写真はいくつかあった。著名なモノクロ作家の作品(ネガ)を著名なプリンターがプリントしているのだから素晴らしい写真ばかりだろうと思っていたのだけれど、全然素敵に見えない写真もあった。それも結構「衝撃的」だった(笑)。

この例に象徴されているように、"モノクロ写真のトーン”をどういう風に出すかというのは作家の「好き好き」だと言うこと。しかも、もしこの時の展示プリントを全部「正解」の範囲に含めるとしたら「正解」の幅は相当広いと言うことになる。もうほとんど「何でもあり」に近いという感じ。でも、その後、森谷修さんや渡部さとるさんとの交流を重ねていく中で、この時の展示は「例外」と考えた方が良く、オーソドックスなモノクロプリントのトーンの「幅」はそれほど広いものでは無いという解釈に至った。もちろん、なにが「正解」であるのかを決めることは誰にも出来ない。そういう判断をする「機関」があるわけじゃないし、現実としていろいろなトーンの作品がある。

しかし、少なくないモノクロプリントを見た結果、"オーソドックス”なモノクロプリントのトーンの幅はそんなに広いわけじゃないという結論に達した。ただし、「ここからここまで」の中ではかなりいろいろなトーンの出し方があるとは思う。参考までに言っておくと、僕の解釈では鬼海弘雄さんのプリントは「オーソドックスなモノクロプリント」の枠外だと思う。もちろん、だから「不正解」だと思っているわけでは無いけれど、ああいうのは「枠外」だと思っている。

ああ、こんな話しを書くつもりじゃなかったんだけれど…

君が撮ったこの光景はローコントラストの写真になる光景だよね。日陰を撮っている上に画角右上の方に太陽があってフレアーが出ているのだからしまった写真になるはずがない。絶対にフラットなトーンにしかならない。しかし、プリントを作るに当たってはいくらでもコントラストを上げることが出来るよね。ましてデジタルフォトであればPhotoshopでやりたい放題だ(笑)。でも、基本的な落としどころは、「ややアンダー気味」で「ローコントラスト」な写真なのだろうと思う。そういう場所を撮っているのだから。

その「ややアンダー気味」で「ローコントラスト」なトーンの写真(プリント)を作る上で「何処を見せるか?」と言うことになるよね。君の写真を見ていると「何処を見せるのか?」という意識がいつも稀薄だと思う。これも好き好きの問題だと思うけれど、この「絵柄」を素直に解釈すれば、4台の車のボディの「メタリック」な「質感」が見せ所だろうと思う。あとは、どのくらい「締めていくか」と言うことだと思う。それに付随して「フレアー」をどう「処理」するかだと思う。フレアーを抑えるという考え方もあるだろうし、「フレアーを見せる」というやり方もあると思う。

長話になったので一端打ち切ることにする。これ以上書き続けると、あと2,000字は一気に書いてしまうだろうから(笑)。2枚目以下の写真は僕にはすぐには「答え」が見つけられなかったという「証拠品」だと思ってもらえれば良い。念のために言っておく。僕もここの前を通ったら写真を撮ると思う。同じアングルで撮るだろう。しかし、少なくとも「作品」にしようとは絶対に思わないだろう。フレアーが出ていなければそれなりにまとまりのある写真になると思う。でも、フレアーが出ているのでもの凄くまとめづらいと思う。僕はフレアーは大好きでわざとフレアーを出した写真を撮るけれど、そういうときには「フレアー」を見せるという意図で撮るので「落としどころ」ははっきりしている。この写真のフレアーはアングルの関係から避けられずに出てしまったフレアーだと思う。やはりこの写真を奇麗にまとめるのは難しいと思う。もちろん、僕より実力のある人ならささささっと素敵なプリントを作ってしまうかもしれないけれど、僕は1時間ぐらい掛けて10枚ぐらい作ってみないと落としどころが見いだせないような気がする。

この話については、もう少し掘り下げて書いてみたいけれど、今日は昼頃から茅野の「山小屋」に行く。東京に戻ってくるのは大晦日。そして、元旦からまた旅行に出る予定。「山小屋」にはまだネット環境がないし、向こうに行ったらブログのことなんて忘れてしまうだろうから、続きを書くのは難しいかな。このあと午後にアップされる「モノクロ写真のトーンはどうやって決めるのか?」も合わせ読んで君なりによく「咀嚼」して下さい。その上で、3ヶ月ぐらい徹底してもモノクロ写真を大量に撮ってみるといいと思う。「理論」だけで理解するのは無理。大量に撮らない限りモノクロ写真のトーンなんてわからない。まあ、自分なりの「落としどころ」を見つけるのはそれほど難しいことじゃないけれど。

大事なことは、テーマを決めて撮ること。「なにを撮るか?」ではなく、どういう雰囲気の写真を撮るかを決めた上で撮ること。ただ漠然と撮ったのでは力が付かない。撮った写真からすぐに学べる人間なら3ヶ月も撮り続けたらひとまずの「結論」に達すると思うけれど、そういうひとは100人に1人もいないだろう。だから、「テーマ」をはっきりさせて撮ることが重要。大きなテーマとは別に、「今日の課題」を決めて撮るのが良いと思う。勿論僕はそんなことをやったことは一度も無いけれど(笑)。頑張って!

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by dialogue2017 | 2019-12-27 10:00 | 写真とカメラの話し | Comments(1)

昨日一昨日に「写真とカメラの話し」をいくつか書いた。私は「写真とカメラの話し」をするのが好きなのである。もちろん「写真とカメラ」自体が好きなのだけれど、私の場合「同好の士」とは通じるところが少ない(プロフォトグラファーとは話しが合う)。「写真ブログ」をやっているような"アマチュア写真愛好家”とは「対立的」でさえある。

なによりも、私にとって「写真」は「承認欲求」を満たすためのものではない。有り体に言えば、誰かに写真を「褒められたい」と思っていないと言うことである。それを否定するつもりは無いが、私は「人気ブログランキング」のようなものにはまったく興味がない。あらゆる領域において私は「人気」を得たいと思っていない。「自慢話」をしたいわけではないが、私は様々な点で「人気者」であり続けた人生を送ってきた。なによりも、若い頃からずっと女性にもて続ける人生であったし(いまでもまだモテる)、同性には沢山の「信者」が存在したほどの猛烈な人気ぶりであった。「○○さんが新興宗教の教祖になったら日本最大の教団が生まれるでしょう」と言われるほどのカリスマぶりであった。私は幼少のころから「神童」と評されていた。「天才」と言われることは普通のことで、「100年に一人の逸材」と言われるようなことも何度もあった。

私は父親から「おまえはお釈迦様だな」と言われたような人間である。「天上天下唯我独尊」を地で行くような人格としてこの世に生まれてきたのである。当然ながら「他者からの評価」なんてほとんど関心が無かった。なにしろ「唯我独尊」なのだから(笑)。「天上天下唯我独尊」って、「この世で私が一番尊い」ということだから(笑)。10代の半ば頃から20代の初めに掛けては「革命」を起こすことに人生を賭けていた。「革命」によって人間が解放されることがあり得ないことだと理解して以後はなにかに本気で熱中したことはなかった。「革命」という「人類史的大事業」にくらべたらどんなことだって取るに足りない「ちっぽけ」なことでしかない。まして「趣味」なんて間違っても熱中するようなものだとは思えない。30代半ばぐらいまでは「面白おかしい」ことを唾棄していたほどである。

「革命」以外で熱中したものは「恋」だけである。「恋と革命」に比べたらすべてのものごとは「どうでもいい」ようなことにしか感じられない。だから、たかが「写真」になど熱中したことはない。私は、今すぐこの場で自らの命を差し出すことを惜しいと思わない対象以外に強い関心を抱くことはできない。「命を賭けられる」ものだけが私にとって「大きな価値」であり「熱中」できる対象であって、それ以外の一切合切は「どうでもいい」ものでしかない。「革命」を捨てて久しい。「恋」はいまでもするがもう「厳しい」状況となり始めている(笑)。でも、それ以外のものにたいして強い興味を持つことはできない。

「写真とカメラ」は好きである。まず「カメラ」が好きだ。ただし、ブランドカメラは嫌いだけれど(笑)。いままでに買ったカメラはすべて手元に残している。40台ぐらい所有していると思う。中には、フィルムを1本も通したことがないカメラさえある。使わなくなって10年以上になるカメラやレンズが沢山ある。LEICAのような「高級品」こそないが、そこそこ良いカメラやレンズがあるので、全く使っていないものを売り払えば数十万円にはなる。いや、100万円を超えるだろう。1本5万円以上で売れるレンズだけでも何本も持っている。しかし売らない。愛着があるので使わなくても手元に残しておきたいのである。それほどカメラ好きである。

もちろん写真を撮ることも好きだ。最近は毎日は撮らなくなったが数年前までは365日1日も欠かさずに写真を撮っていた。「作品」を撮るわけじゃ無いので気軽に毎日撮ることが出来る。テーブルの上の「シクラメンの花」を10日間続けて撮っていても楽しいと思う。撮影する時間は1分でもいい。撮影枚数が5枚でも構わない。いや1枚でもいい。写真を撮れば楽しいと感じられるから。上手く撮れたり撮れなかったりするから面白い。しかし、最近のカメラはだいたい奇麗に撮れてしまうので面白味がなくなってきた。

ここ最近、「写真とカメラの話し」を何回も書いた。基本的には、shi-photo君、0123okkun君、from_vixen君、poppn1971君の4人になにかの参考になれば良いと思って書いている。あるいは彼らが読んで「楽しかった」と思ってくれればそれで良いと思って書いている。もしかしたらその他にも読んでいる人がいるかもしれないが、ここに書かれていることをきちんと理解し実践しようとまで想っている人はいないだろう。何故そんなことがわかるかというと、「写真」を見ればわかる。その人が写真に対してどの程度「本気」であるかはその人が撮った写真を見ればわかる。「本気」の人なんてほとんどいない。念のために書いておくが本気になんてならなくても構わないと思う。「遊び」で構わない。私自身写真になんかに「本気」になったことはない。所詮「遊び」である。

でも、とんでもない高いカメラやレンズを所有していたり、そんなに高くはなかったとしても沢山カメラやレンズを買ったりしている人は、せめてもう少し「向上心」を持ってもいいんじゃないかと思う。一つには純粋に撮影技量が足りない人が多い。二つ目には、技量はそれなりにあっても「写真がつまらない」人が多い。自分自身のための写真であれば「つまらない」写真で構わない。しかし、ブログとかに掲載して他者に見せる写真が「つまらない」というのはちょっと「痛い」。なまじ技量があって「つまらない」と観ていてつらい。そういう人のなにが「問題」かというと、「私の世界」でしか生きていないと言うことだ。頭の中には「私の世界」しかないのでそういう写真しか撮れないのである。

「私の世界」の写真を否定しているわけでは無い。むしろ、私自身は写真なんて「私の世界」を記録するためのものだと思っている。私は写真の「神髄」は「プライベートな世界」を撮った写真に現れると思っている。私自身一番沢山撮っているのは「私の世界」である。つまり、一番沢山撮っているのは妻や娘の写真である。しかし、そういう写真はあまりブログには掲載しない。そんなものは「私の世界」であって、他の写真愛好家との交流の題材としては不向きであるからだ。

10年ぐらい前のことである。ある非常に高い実力を持った写真家のブログを読んでいたら、「家族の写真ばかり載せているブログは最悪だと思う。はっきり言って、あんたの家族にはなんの関心も無い。たまに見せられるならともかく、年中家族の写真を見せられたのじゃたまらない。そういうブログは訪問したくなくなる」と書いてあった。この意見に全面的に同意するつもりは無いが、まあ気持ちはわかる。他人の妻や娘の写真を沢山みたい人なんてまずいないだろう。しかし、「私の世界」が「私の世界」を越えたレベルに達していればそれは最高レベルの写真だと思う。たとえば上田義彦さんの『at Home』がそうだ。あれは完全に「私の世界」の写真であるが観る人を強く魅了する。「私の世界」の写真ってああいうレベルまで達していないと人に見せるようなものじゃ無いと思う。

戦後生まれの日本人は「私の世界」でだけ生きる”小粒”な人間ばかりになった。いや、戦前に生まれた世代さえ長い戦後の歴史の中で「戦後生まれ」とおなじ"心性”を持つように変わった人が多い。みな、ちっぽけな「私の世界」で生きている。そういうひとの撮る写真は「つまらない」。写真は「私の世界」を越えていないと訴求力を持たない。他者の「琴線」を振るわせるためには、「私の世界」を提示したのでは弱いのである。「私の世界」を越えていないと「他者」の心を揺さぶることは出来ない。

撮っている対象が「私の世界」であっても構わない。被写体が「私的」なものであっても、それを撮った写真が「私的」であることを越え出ていればそれで良い。最低限そのレベルに達していないと「写真作家」とは言えない。アマチュア写真愛好家の「個展」や「グループ展」に展示される写真がいまひとつ面白くないのはその域に達していないからである。まあ、最近はプロフォトグラファーの個展でもおなじレベルの作品が珍しくないけれど。それはそうだ。日本人のほとんどが「小さな世界」でしか生きていないのだから。

「写真ブログ」を「作品」を見せる場として運営している人は沢山いる。しかし、「作品」を撮るって、「いいね!」が沢山欲しいというようなレベルのことじゃないんだよね。私自身はまったく「作品」を撮っていないけれど、著名な写真作家の友人が何人もいるので彼らがどれほどの思いで「作品」を撮っているかを私は知っている。一言で言って、みはそれなりのものを「賭けて」撮っている。丸々では無いにしろ、人生のかなりの部分を掛けて撮っている。写真のタイプによって好き嫌いはあるが、大きなものを掛けて撮っている人の写真には感じるものがある。

30の「写真ブログ」の29までが本人のちっぽけな承認欲求を満たすためのものであることを残念だとは思わない。「承認欲求」は人間にとってもっとも根源的な欲求の一つであるのだからそうなるのは避けようがない。しかし、せめて1つぐらいは、「こいつの写真凄いな〜」「この人の写真は違うな〜」と思うような写真が載っているブログがあると良いのだけれど。なかなかないよね。結局、「ブログ」だとか「Instagram」だとか「Facebook」などは「お手軽ツール」であって、そこに「本気」を発表するような場所じゃないと言うことだろう。だって、本気じゃない人間多数とつながって交流が始まってしまうから。

「あまりマジにはならない」というのは現代日本青年の"不文律”なのである。マジにならないことなんて面白くないだろうにね。まあ、そんな偉そうなことを言える立場じゃないけれどさ。私自身マジになんてなっていないのだから。それでも誰か一人くらいこのエキサイトブログを通じて「本気」で撮っている人間に出会えたらという小さな期待を抱いていたのだけれど、それは叶うはずのない夢であった。

率直に言う。あなたが本当に写真が好きなのであれば、もう少し真剣になって自分の写真のレベルを上げることに執着した方が良いと思う。


by dialogue2017 | 2019-12-25 05:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)

私は1枚撮ったら歩き出すことが多い。同じ場所で続けて何枚も撮ると言うことをあまりしない。もちろん、素晴らしい光景に出逢ったときにはアングルを変えたり寄ったり引いたりして何枚も撮ることはある。ただ、私は「写真」にたいして"執着心”がないので、熱心に撮ると言うことはあまりない。だから、「考えて撮る」ということをほとんどしない。同じ場所で何枚も撮る様な場合でも、ほとんどの場合5秒10秒の間に3〜4枚撮ってしまう。そんな僅かな時間に何枚も撮るのであるから「考えて撮る」ような暇はない。

ただし、すこし時間を掛けて同じ場所で「別の写真」を撮ることを意識して撮ることはある。そういうときには、同じ場所で30秒から1分ほど掛けて撮る。特にあれこれ考えて撮る訳では無い。考えるのではなく「間を開けて」撮るのである。その「間」に何かを考えるというわけではない。「間」を置くだけで良いのである。ようするに「仕切り直し」をしていると言うことである。それだけで次の写真が変わる。

同じ場所で、おなじカメラとおなじレンズを使って「似たような写真」ではない写真を撮るというのは思いの外難しいことである。当たり前である。同じ場所を撮っているのだから「似たような写真」になって当然なのである。全く同じ場所でも、カメラやレンズを変えれば写真の雰囲気は変わる。レンズを変えれば写る範囲が変わってくるのだから写真が変わるのは当然である(だから、ズームレンズで焦点距離を変えて撮影するというのは「レンズを変えた」のと同じである)。

私は散歩スナップをする際に"ズームレンズ”を使うということはほとんどない。スナップに"ズームレンズ”を使ったら楽しくないからだ。「不自由さ」があるということが写真を撮る上での大きな楽しみであるし、良い写真を撮るための"条件”だからである。ズームレンズはその「不自由さ」を排除してしまうので使わないのである(旅先ではズームレンズを使うことが多い。「旅の記録」を残す為には「便利」なレンズの方が良いに決まっているから)。

同じ場所で、おなじカメラにおなじ単焦点レンズを使って短い間に「似たような写真」ではない写真を何枚か撮ると言うのは思いの外難しい。「同じ場所」を撮っているのだから「絵柄」が似ていることは避けようがないのだ。だから、「似たような写真」になって当然なのである。しかし、そういう極めて制約された条件の中でも「雰囲気」が違う写真を撮るということはできる。私自身はそういうことはあまりやらないが、そういう「意図」を持ってスナップしてみると「絵を作る」力は上がるだろう。

下の3枚の写真は同じ場所で27秒間のあいだに撮った写真である。カメラもレンズもおなじ。立っている場所もほとんど同じ場所である。ただ、カメラアングルだけで「別の絵」に撮り分けたのである。2枚目と3枚目なんておなじ池を撮っているようには見えない。3枚目の写真の池は沢山の「枯れ葉」が水面を埋めているが、2枚目の写真では「枯れ葉」はほとんど目に入ってこない。水面に当たって反射する光を捉えるアングルを変えると「水面」はこれほど違って写る。年中書いていることだけれど「光の捉え方」が写真を決めるのである。

2枚目と3枚目の撮影間隔は15秒である。その15秒間は目の前の光景を眺めている時間である。「どんな風に撮ろうか」ということはあまり考えていない。「間」を置いたあとおもむろにカメラを構えシャッターボタンを押す。実際には私の「脳」が何かを考え、取捨選択してひとつの「構図」を選んでシャッターボタンを押しているのだが、その「内実」がどのようなものであるかについて私自身はあまりよく分からない。「無自覚」に撮っている訳では無いが、あまり考えずに撮っている。つまり「習い性」として撮っていると言うことである。「絵作り」、つまり「構図」は半ば以上「習い性」で決まる。ジックリ考えて作った「構図」には「作った」感がにじみ出てしまう。それを避けたいのでなるべく考えずに撮るようにしている。もちろん、それでも「作った」感じは出る。なぜなら実際に作っているからだ。

3枚の写真は同じ場所で続けて撮った写真である。しかし、1枚1枚の写真は「似たような写真」ではない。同じ場所で撮った写真を並べて掲載するのであれば、この程度には「別の写真」として撮っておきたい。それでも私はこの3枚を並べて見せたいと思わないし、別仕立てのエントリーにしても続けて見せるのは避ける。大きな意味では「似たような写真」であるわけで、並べて見せたり続けて見せてしまうと互いに「打ち消し合う」からだ。同じ場所で撮った写真は、どれか1枚だけを選んでみせるぐらいの「縛り」を自分に課しておかないと、写真を「撮る」ことも「見せる」こともほとんど「惰性」と言って良いレベルに堕する。

私の場合は「作品志向」はないし、他者から「いいね!」を貰うことになんの関心も無いので写真を「見せる」ことにたいして大きなこだわりはない。私は写真を見せるためにこのブログをやっているのでは無く、「写真について語る」ためにこのブログをやっているのだから。それでも最低限の「こだわり」は持っておこうと思っている。まあ「こだわり」を持って撮ったと言うほどの写真はほとんど撮っていないが…

追記。ついでながら触れておく。もし、下の3枚の中からどれかを選んでプリントして「展示」しろと言われたら一番上の写真を選ぶ。「冬の寒さ」という「主題」があるからだ。この写真は辛うじて「作品」になり得るが、下の2枚は「ただ撮っただけ」というレベルの写真である。実際は3枚とも「ただ撮っただけ」だけれど(笑)。

【2019年12月14日 10:53:04撮影 】

絵画のような写真(2) 同じ場所で「別の写真」を撮る_e0367501_12222956.jpg


【2019年12月14日 10:53:16撮影 】

絵画のような写真(2) 同じ場所で「別の写真」を撮る_e0367501_10403802.jpg


【2019年12月14日 10:53:31撮影 】

絵画のような写真(2) 同じ場所で「別の写真」を撮る_e0367501_12390920.jpg


by dialogue2017 | 2019-12-24 16:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)

私は、同じ場所でアングルを変えて撮影した写真を並べて掲載することをしないようにしている。「写真ブログ」を拝見していると、ほとんど似たような写真を何枚も続けて並べて掲載している方をよく見かけるが、見る側からするとほとんどの場合「冗長」でしかない。本人はどのカットも「捨てがたい」という思いなのだと思うが(その気持ちはよくわかる)、絵柄が似た写真を並べて見せるというのは下手な写真の見せ方である。思い切って、その中から一番良いと思う写真を選んで1枚だけ見せた方が伝わると思う。もっとも、同じような写真を並べて掲載している方の多くは、どれも似たような写真で「一番良い」というのが決めづらいという感じであることが多い。実力不足なのだ。

そうなってしまう理由は、写真を「撮る」ことに対しても、「見せる」ことにたいしても、「向き合い方」が中途半端なのだと思う。私はそういう人々を"批判”しているわけではない。なんども書いたことであるが、写真なんて別に上手である必要はない。下手くそでもなんの問題もない。「記録」として撮影しているのであれば”上手い下手”は大きな問題ではない。また「楽しければいい」と言うことであればそれで良いと思う。これは"本心”である。私は本当にそう思っている。写真なんて上手でなくてもいい。

しかし、自分としては「良い写真を撮りたい」「素敵な写真を見せたい」という気持を持って「写真ブログ」をやっているのであれば、最低限のレベルで「撮る」ことに"こだわり”を持った方が良いし、「見せる」ことについても「自負」を抱くべきだと思う。「写真ブログ」をやっている方の写真を見ていると、「見せる」ことに小さくない「執着」を持っているのであろうことが伝わってくるが、写真にたいする「厳しさ」が稀薄だと思う。もう少し考えて撮ったら良いと思う写真が多いし、それ以上に「見せる」ことへのこだわりを持った方が良いと思うことが多い。

「写真を撮影する」基礎は「撮影技量」である。その「技量」を支えているのは「理論」である。しかし、「技量」だけでは良い写真を撮ることはできない。当然のことながら「豊かな感性」も必要であるし、「執着心」も大事である。当たり前のことであるが、プロフォトグラファーは非常に真剣に写真を撮っている。「プロ」ではなくても「作家」として活動している「写真家」は「撮影」にたいしても「見せる」ことに対してももの凄く強い「こだわり」をもって作品を作っている。そういう「真剣さ」や「執着心」は写真に出てくる。「良い写真を撮りたい」「本当に素晴らしいと思ってもらえる写真を見せたい」そういう思いで写真を撮ったのだと言うことが写真から伝わってくる。

撮影者の写真に対する「真剣さ」の度合いは写真ににじみ出る。

他の芸術分野、例えば絵画でも音楽でも演劇でも良いが、一流のアーティストは半端じゃない「こだわり」を持って「作品」作りに取り組んでいる。スポーツ選手などでも事情は全く同じだ。いや、このことは人間が行うあらゆるジャンルすべてに共通している。大きな「こだわり」を持って取り組まない限り本当に素晴らしい「作品」はできない(そういうものを"あっさり”と生み出してしまう「天才」もいるがそれは例外である)。

陶芸家が窯から出した作品に納得できずにたたき割ってしまうという姿を、誰もがテレビドラマなどで見たことがあると思うが、あの姿は「作家」の「作品」にたいする強い「こだわり」「執着」「自負」を象徴していると思う。誰もがあのレベルを目指すべきだと言いたいわけでは無い。ただ、あまりにも「こだわり」や「自負」がなさ過ぎる人が多いと思う。あらゆることが「お手軽」にできる時代故のことであり、このような傾向はどんなジャンルでも起きていることであるし、今後ますますこういう「層」は増えていくだろう。

でも、「作品」造りなんて強い「こだわり」を持たなければ面白くないだろうし、やる意味もないと思う。

「自分一人で悦に入っている」レベルの写真があまりにも多いと思う。いや、「写真ブログ」なんてほとんどそうだと言っても良いと思う。大量に存在するそのような「お手軽」な人々が、互いに「いいっすね!」とエールの交換を行い「自己満足」に浸っているのである。それが「現代日本」である。いまさらそういう「お手軽日本」を批判しようとは思わない。批判したいのではなく、我が国がどんどん「薄っぺら」な社会になっていくのを見ていて悲しい気分になっている。好きなことをやっているのだから、もう少ししっかりした「こだわり」を持って取り組めば良いのにと思う。せめて、10人に1人ぐらいはそういう人がいても良いだろうにと思う。

主観的には「こだわり」を持って撮影している積もりでも、客観的には「初心者」レベルをまったく超えていない人々が多い。プロフォトグラファーが主催している「ワークショップ」などではほとんどの参加者が「ダメ出し」を食らう。その厳しさに落ち込んでノイローゼ一歩手前まで行く人がいるほどだそうだ。プロの目から見ると、アマチュア写真愛好家の「作品」の大半は「詰め」が足りなすぎるのである。

結局、最初から求めているものが「低レベル」なのである。多くの「写真愛好家」が求めているのは「自己満足」でしかない。いや、プロの写真作家であっても「自己満足」を求めているということは同じである。人間が「作品」を作る最大の動機は「自己満足」にあると言って過言では無いだろう。いや、「生きる目的」そのものが「自己満足」にあると言っても良いだろう。それは人間の「本性」だと思う。だから、私は「自己満足」を求めること自体に対して否定的である訳では無い。ただ、それをどの”レベル”で求めるかという話しである。

誰もが高みを目指さなくてはいけないわけではない。人は己の「才能のなさ」をしっかりと自覚しているものである。だから、トコトン強い「こだわり」を抱かないのである。そんなものを抱いたところで自分には「才能」がないということをほとんどの人は自覚しているのである。だから、「お気軽」「お手軽」な「お遊び」でお茶を濁しているのである。日本人のほぼ全体がそういう「生き方」をするようになったので、そのことに「違和感」を感じることが難しくなったし、それを「恥じる」こともなくなった。

おなじレベルの人間同士が馴れ合いで交流しているところからは「切磋琢磨」は生じない。「写真ブログ」をやっている人間同士の交流を見ているとそれがよく分かる。「べた褒め」の交換をして互いに自己満足を得ている。「この写真、もう少し右側を切ってしまったらもっと素敵になると思います」というようなコメントを見ることはほとんどない。1960年代生まれぐらいまでの世代は互いに「批判」し合うことが当たり前であった。私と同年代か少し年下の写真家から話しを聞くと、「若い頃は人の作品なんて褒めなかった。互いに競い合っていたからね」と語る。ほとんどみなが同じことを言う。「表現活動」に真剣に取り組んでいる若者は、「自負心」が強く「馴れ合う」ことを互いに拒否していた。そこには本当の「切磋琢磨」が生まれる。現在の日本では、もうそのような「文化」「風習」はほとんど根絶やしになりつつある。いや、その正反対の「文化」「風習」が確立した。「他者を批判しない」「他者からの批判を受け付けない」という文化である。

そういう「文化」からは優れた「芸術作品」は生まれない。

写真を「見せる」ことに対して「こだわり」を持たない限り、「撮る」ことへの「こだわり」は深まらない。見せることに対する「こだわり」の第一歩は「厳選」することである。僅かにアングルを変えただけのほとんど同じような写真をずらずら並べて「見せる」というのは「愚の骨頂」である。ほとんどの場合、その中のどれか1枚だけを見せた方が写真が生きる。もっと1枚1枚の写真に対する「こだわり」を持った方が良い。それが稀薄だから、同じような写真を「ダラダラ」と並べて「見せる」のである(「習作」として「同じような写真」を撮り続け、それをブログに掲載するという主旨であれば問題ない)。

「写真ブログ」を見ていて思う。誰もが、少しだけ「心掛け」を変えたら見違えるほど写真が上手くなるだろうと。みな「あと一歩」が足りない。自分で「悦に入っている」レベルで停まっている。主観的には「本気」で取り組んでいると言う人は、いちどプロフォトグラファーのワークショップに参加してみると良いと思う。先日、渡部さとるさんの『2B Channel』を見ていたら写真家の加納満さんがホンマタカシさんのワークショップに参加したと言う話をしていた。プロの写真家には、他のプロの写真家のワークショップを受講する人が結構いる。渡部さんがやっていた「workshop 2B」には沢山の現役プロフォトグラファーが参加していた。いまやっている「H」にもプロフォトグラファーの受講者がいる。

プロであっても、自分より実力が上のプロから学んだり、自分とは異なるタイプのプロから学ぼうとしている人が沢山いる。プロの写真家で作家活動をしている人は定期的に「個展」を開く。そこには「同業者」であるプロの写真家が顔を出す。時には、数人のプロフォトグラファーが集まってテーブルを囲むようなことも起きる。私はそういう席に同席したことが何度もあるが、プロは他の作家の作品をあまり褒めない。彼らは互いに「ライバル」であって、「作品」に対してはどんなときでも「辛辣」な目線を向ける。彼らはそうやって長年切磋琢磨し続けてきたのである。

99%の人間は何度も「ダメ出し」されたり、「鼻でせせら笑われる」というような「辛い」経験を通り抜けていく中でしか「入門者」のレベルを脱し得ないのだと思う。他者からの厳しい批評なしに「自力」で「本物」のレベルにたどり着ける人間は1%いないだろう。どんな世界でもおなじだと思う。もし、あなたが今よりもっと素晴らしい写真を撮れるようになりたいと思ったら、「ダメ出し」してくれる「師匠」のもとで学ぶという経験をするべきである。10枚の写真を見せたら、少なくとも9枚の写真については「褒めてくれない」仲間を持つべきである。

来年は、ブログに掲載する写真、他人に「見せる」写真のレベルの「基準」をワンランク上げた方が良い。「本当にこんな写真をみせていいのか?」という”視点”を持たずに「写真ブログ」をやっているとクオリティーはまったく上がらない。人間は自分に厳しくすることが苦手だ。だから、「師匠」を持つのが手っ取り早いと思う。「いいね!」の数が増えるのが楽しみのような人間には無関係な話しであるが…



by dialogue2017 | 2019-12-24 12:30 | 写真とカメラの話し | Comments(0)

写真がひとり突然退社したため、今日からとりあえず私も会社に出勤することにした。実務に関してはなにもわからないので私が出勤したところで退社した社員の穴埋めにはならない。専務は、仕事が重なって人手が足りなくなった際に「電話番」をやってもらえれば十分だという。それも会社に掛かってきた電話を私のiPhoneに転送するので自宅で対応してしてくれば良いという。茅野の山小屋でも問題ないので出社しなくても良いと言う。しかし、この際なので少し会社に「出勤」してなにかやれることを見つけ少し仕事をしようかと考えている。常時会社に出勤していたのはいまの事業を始めてから最初の1年間ぐらい。以後この11年間は基本的には会社業務にはノータッチであった。この5年半は、会社に顔を出すのは月に1度だけだった。当面は月〜金の5日間会社に通ってみようと思っている。

昔は会社には私の専用スペースがあった。社員とは別室に机を置いていた。しかし、すでにそのスペースは別の用途で使っているので退社した社員の机を使うことにした。その机に置いてあったNECのノートパソコンでこのブログを開いて見た。"このエントリー"に掲載した娘の写真をみて愕然とした。全体としてもの凄くハイキーでコントラストが失われてしまってひどい写真である。こういうことが起こることはよくよく承知していたが、実際にそれを目にするのは7年ぶりのことなので改めて愕然とした。"brightness"を下げても全体としての明るさが落ちるだけで写真が真っ当に見えるわけではない。ようするに対処のしようがないと言うことである。

社員に聞いたところ2012年製のパソコンだという。7年前の製品である。たぶん、いまどきこんなレベルのディスプレイを搭載したパソコンは格安品でも無いだろうと思う。しかし、世の中にはいまでも2012年後のビジネスモデルのパソコンを使っているという人は少なからずいるだろう。2012年生のビジネスモデルのパソコンであればすべて同じような表示しか市内とは限らないが、この時代のビジネスモデルのパソコンのディスプレイにはこの水準のものが多かったのは確かだと思う。

過去何度も書いたことであるが、ネット上出見せる写真は「閲覧環境」しだいでまったく違って見える。今どきのパソコンであればどんなものでもそれなりに奇麗に写るディスプレイを使っているだろうと思うが、私の予想外に「粗悪」な写りの製品というのもまだあるのかもしれない。「写真ブログ」をやっているような人々にはそういうディスプレイを使っている人はいないと信じたい。それにしても、あまりの酷い写り具合に愕いた。

実際は下の写真よりもっと大幅に酷い写りだった。

古いパソコンのモニタに愕然_e0367501_18190228.jpg

by dialogue2017 | 2019-12-23 18:30 | 写真とカメラの話し | Comments(0)

今年は本当にスナップをしなかった。決して写真を撮ることに飽きたわけではない。だいたい私は「写真」以前に「カメラ」や「レンズ」が好きなので写真を撮ることに飽きると言うことはないだろう。しかし、今年はほとんどスナップをしなかった。春先に吉祥寺に出掛けたついでに井の頭公園でα7Ⅲとレンズのテストをするために3度くらいスナップした。それ以後はほとんどスナップをしていない。「トムソーヤの森(川)プロジェクト」の撮影以外では、旅行先での写真と茅野に行った際に「山小屋」周りで「散歩写真」を撮ったくらいである。

春先にα7Ⅲのテストをしたのは少しはこのカメラを使って上げたいと思ったからだった。で、8月〜10月の「トムソーヤの森プロジェクト」の撮影ではα7Ⅲを使った。こんなに素晴らしいカメラとレンズをほとんど使っていないのは勿体ないと思って使ったのだが、「トムソーヤの森プロジェクト」で撮影した子供の写真に関しては、JPEGではキツイという印象であった。このカメラで撮影した「画像」はRaw現像でしっかり整えていった方が良いという印象だったのである。いや、JPEGではちょっと纏まらないと言う写真が少なくなかった。

もちろん、「撮影条件次第」であるということはわかっていた。「トムソーヤの森プロジェクト」で撮る子供の写真は、カメラにとって厳しい条件での撮影も少なくないからである。α7Ⅲと言うカメラについてはいまだによく分かっていない。高性能なカメラであることに間違いは無いが、いまひとつよく分からない。いまだに手に馴染んでいないし、あらためて振り返るとこのカメラではいまだに"じっくり”と撮ったことが無い。

昨日、小淵沢のレストランにランチを食べに行った際、車のラゲッジからα7Ⅲを持ち出した。はっきり覚えていないが、(20日にシクラメンの鉢植えを撮影したのを別にすると)この2ヶ月間ほど全く使っていなかったのでは無いかと思う。あるいは、ちょこっと使ったことがあったかもしれないが記憶に残っていない。10月の「トムソーヤの森プロジェクト」での撮影が終わった後、しばらくはFUJIFILM X-T2・X-T20を使おうと決めたのである。11月末からの「山小屋」まわりの散歩ではSIGMA dp Quattroを使った。

α7Ⅲをスナップに使おうという気にならないのだと思う。そもそも、「本気でポートレートを撮る」ために買ったカメラなのだから。少々乱暴な意見であるが、スナップなんてどんなカメラを使って撮ったって同じようなものだと思っている。いや、本当は同じじゃないことはよく分かっている。高額なカメラは高性能であり、やはり「ワンランク上」の絵を出してくれる。ただし、カメラとレンズの性能をはっきりと写真に表すような撮り方をしなければカメラの違いなんてそんなにはっきりと写真に出てくるものじゃない。「ブラインドテスト」をやったら、どんなカメラやレンズを使ったかなんて、ほとんどの人は正確に判断することは出来ない。プロだって正解率は5割前後だ。つまり、カメラやレンズの違いなんてほとんどの人間にははっきりとはわからないのである。

まして、ちょっと絞って撮った写真になるとカメラやレンズの「違い」なんてほとんど分からなく成る。勿論、これはある「レベル以上」のカメラやレンズの比較についての話しである。価格3万円のコンデジと、30万円のデジタル一眼レフカメラでは違いは出てくる。しかし、FUJIFILM X-T2で撮影した写真とSONY α7Ⅲで撮影した写真を比べた場合、少し絞って撮ったら両者の違いは「歴然」とは言えない。もちろん「色味」で簡単にわかるというようなケースもあるが、両者の個性の違いが出にくい被写体を撮った場合、絞ってしまうとカメラやレンズの違いというのは良く分からなく成る。

最近ではiPhoneで撮った写真とα7Ⅲで撮った写真を比べても、良い条件で撮った写真であれば、ブログに掲載する程度のサイズで比較した場合、両者の画質の違いはあまりよく分からない。私がiPhoneばかりになってしまったのも、良い条件での撮影であればiPhoneで結構十分な写真を得ることが出来るからだ。実際、「えっ、本当?」と愕くほど綺麗な写真が撮れることが珍しくない。

私は「記録」として写真を撮っているので、出掛けた先々でちょこちょこと写真を撮っている。最近はそういう写真はほとんどiPhoneで撮っている。その場ですぐにFacebookに投稿できるのが便利なのだ。

下の3枚の写真は昨日ランチを食べに行ったレストランで撮った写真である。テーブル越しに撮った娘と妻の写真以外ではこの3枚を撮っただけである。一番上の写真は食事を終えて店を出ていくとき、後を振り返ってノーファインダーで撮ったもの。2枚目は店の入り口を出たあとに撮った写真。3枚目の写真は、食事中だったか終わった後だったか、座っていた席から窓越しに「甲斐駒ヶ岳」を撮ったものである。

1枚目は「リサイズのみの撮りっぱなし」。2枚目はわずかにハイライトを抑え(-3)、「黒レベル」を少し締めただけ。3枚目は「自動コントラスト補正」を掛けてそれを30%までフェードしただけ。つまり、2枚目3枚目は微調整はしているもののほぼ撮りっぱなしと近い。感心するのは3枚とも露出補正を掛けずにカメラ任せで撮影していること。最近のカメラのAEは非常に高性能になったと思う。一昔前であれば、露出補正なしではこういう写真にはならなかったと思う。以前であれば、±0.33〜0.67EV程度の補正を掛けて撮っていたシーンを最近は±0EVで撮ることが多くなった。AEのアルゴリズムの精度が上がったせいでカメラが「絵柄」を判断しているのだと思う。だから、完全にカメラ任せで撮影しても「適正露出」で撮れる確率が高くなった。

こんなに奇麗に撮れてしまうと、撮影者がやることはただシャッターボタンを押すだけである。もちろん、それでも撮影者の「上手い下手」は写真に現れる。しかし、最低限の心得があればいまは誰でも簡単に綺麗な写真を撮ることが出来ると言って間違い無い。もう「写真が上手い」なんてことが自慢になるような時代じゃない。奇麗に撮れていて「当たり前」で、綺麗に撮れていないのは撮影者が低レベルだと言うだけのことだ。ほとんどの写真はただシャッターボタンを押すだけで綺麗に写る。カメラがそういう風に出来ているのだから。

誰が撮っても奇麗に撮れると言うことになって、写真を撮る楽しさは減ったと思う。人が熱中するのは「なかなか思うように出来ないこと」だからである。もちろん、「綺麗に写る」と言うことと「良い写真が撮れる」ということは同じではない。綺麗に写っていても面白味の無い写真はいくらでもあるし、そんなに奇麗に写っていないのに見る人を魅了する写真というものもある。だから、カメラが高性能になって奇麗に写るようになったからと言って写真を撮る楽しみがなくなってしまうと言うことは「永遠に」ないのだろう。しかし、最近は写真を撮ることがそんなに楽しいことじゃなくなってきた。撮った後にいくらでも「補正」できるというのも写真に夢中になれない原因だと思う。

そんなわけで、最近は「記録」としての写真以外の写真を撮ることがほとんどなくなってきた。

写真を撮ることの楽しさが少なくなった_e0367501_01155777.jpg



写真を撮ることの楽しさが少なくなった_e0367501_01160745.jpg



写真を撮ることの楽しさが少なくなった_e0367501_01161394.jpg




by dialogue2017 | 2019-12-23 10:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)

ひとつ前のエントリーに掲載した写真を撮ったとき、シクラメンの鉢植えのすぐ横に娘のグラスがあった。娘がサンドブラストで自作したグラスである。光を透過して奇麗だったので撮ってみた。露出補正を掛けずに撮影したので流石にかなり白飛びするだろうと思ったがギリギリのところで飛ばずにいた。このレンズ使わないとな〜。

このレンズを使わないとな〜_e0367501_14515680.jpg

by dialogue2017 | 2019-12-20 21:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)