5月8日に書いたエントリーのタイトルは「遅くとも今月いっぱいでこのブログを終わりにしようと思っています」であった。今日が、その「今月いっぱい」の期限である。今日で終わりにすることになんの躊躇いも無い。このブログの更新を止めたら、とりあえず落ち着いた気持ちになるだろうと思う。いや、このブログを続けていることで気持ちの落ち着きが失われているというわけでは無いが、止めたらいまよりもっと落ち着いた気持ちになるだろうと思うのである。写真についてあれこれと語ることから解放されたら、気持ちが爽やかになるような気がする。

今日は、千葉桜洋さんの写真展『指先の羅針盤』を見て感じたことの続きを書きたいと思っていた。しかし、とりあえず止めておこうという気分に変わった。ああいう話を書いたところで、ほとんど誰にも「伝わらない」だろうから。ああいう話は、「本物の写真」を撮りたいと想っている人、「本物の写真」を見たいと想っている人以外には理解できないからである。

「本物の写真」ってなんだろう? 写真機を使って撮影した写真はすべて「本物の写真」である。写真機を使って撮った写真に「偽物の写真」などないと思う。ただ、アートフィルターを使って撮った写真だとか、何枚ものレイヤーを重ねて仕上げた写真はなんとなく「本物の写真」じゃないような気がする。

いずれにしろ、客観的な定義としての「本物の写真」などというものは無い。にもかかわらず、私が当たり前のように「本物の写真」という言葉を使う理由は、千葉桜洋さんの写真を見て「ああ、こういう写真が本物の写真なんだよな」と思ったからである。「こういう写真が本物の写真だ」という思いをこれほど強く感じたことは初めてであった。そして、私は「本物の写真」というのは本当に素晴らしいと思った。で、なんとかその気持ちを伝えたくて「千葉桜洋写真展『指先の羅針盤』を見てきた」(1)(2)を書いた。頭の中で整理することをせず、筆(指)に任せて書いた文章なので伝えたいことをあまり上手に伝えることが出来なかった気がしている。で、今日は補足として(3)を書こうと思っていたのだ。

しかし、とりあえず(3)を書くのは止めた。書いたところで、誰にも私の思いは伝わらないだろうから。

写真に限らず、「本物」を求めている人というのは少ない。ほんの一握りの人しか「本物」を求めていない。

世界には「偽物」が溢れている。我々の身の回りに大量に溢れている「モノ」や「情報」の多くは「偽物」である。いや、「偽物」とまで言わないにしても、「本物」は少ない。

私は、写真に関して何かを語ることについてたえず「空虚」さを感じていた。いや、写真に限らず、「何かを語る」ということに対して私は「無意味さ」を感じ続けていた。

私は「何かを語る」人間である。私はそういう人間としてこの世に生を受けた。私は「言葉」を巧みに操る才能を与えられて生まれてきた。だから、何かを語り続けてきた。私が語ってきたことは「人間と社会」に関することであった。しかし、いつのころからか、語ることに無意味さを感じるようになり、2015年春に「もう語るのは止めよう」と思った。その年の元旦から、「人間と社会」について語るブログを始め、5月末までの5ヶ月間に私は70万字を超える文章をそのブログに書いた(その5ヶ月間に私は250冊の学術書を読み、読んだ話についてブログに書いた)。熱心な読者が少なからずいたのだが、彼らは「読者」であるところに止まり続け、「対話」には発展しなかった。で、私は語ることを止めた。

しかし、私は「何かを語る」ために生まれてきたような人間であるから、言葉を発することを止めることが出来ない。私にとって「何かを語る」というのは呼吸をすることに近いのである。で、「ごまかし」として写真に付いて語るようになった。いや、誤魔化しであると言うのも事実であるが、100%誤魔化しだという訳でも無い。カメラや写真に付いて「語る」ことを楽しいと思うのは嘘の無い事であるから。しかし、本当に語りたいことは写真に付いての話では無い。例えば、「小さな」話題としてなら、「我が国のこれから」について語りたいと思う。私が本当に語りたいことはそういう話についてである。

誰も「本物」を求めていない。みな、「偽物」で満足している。本物のイミテーションで満足している。それはそうだ。「本物」を求めると言うことは大変なことだから。「本物」を求めるためには「強い意志」が必要だ。常に「高見」を求め続ける強い「向上心」が必要だ。いまの自分を否定し、理想である自分を目指す「克己心」が必要だ。そんなモノを持っている人というのはごく僅かしかいない。だから、私は「本物」を求めようとしていない人を批難しようとは思わない。そういう「能力」を持って生まれてこなかったのだから仕方ない。

経済的に困窮すること無く、そこそこ幸せに生きている人間が求めるモノは「ちょっとした満足感」である。何によってその「満足感」を得るかは十人十色、百人百様である。ある人にとっては「ゴルフ」であり、別のある人にとっては「車」であり、また別のある人にとっては「海外旅行」であり、その対象は無限にある。ただ、トコトン本気にならないというのが大事なことだ。トコトン本気になると疲れるし、生活に支障が出る。トコトン本気になって一番困ることは、自分の「非才」を嫌と言うほど知らされることだ。だから、人々は絶対にトコトン本気になろうとしない。欲しいものは「本物の満足感」ではないのだ。そう、「ちょっとした満足感」で十分なのだ。それで「幸せ」になれるのだから。

「写真」を撮っている人の大多数は、「ちょっとした満足感」を得るために写真を撮っている。彼らが撮った写真にはっきりと「ちょっとした満足感」と書いてある。別にそれがいけないことだとは全く思っていない。私だって同じである。私も「ちょっとした満足感」を満たすために写真を撮っているのだ。ただ、私の場合は結果としての「写真」ではなく、「撮っているその時」に満足感を求めているのであるが。

そもそも、人間は「ちょっとした満足感」のために生きる存在なのだと思う。だって、「ちょっとした満足感」以上のものを追求するためには、大きな才能と、強い向上心が必要だから。そんな"才能”を「与えられた」人間は一握りしかいない。だから、99.9%の人間は「ちょっとした満足感」に「喜び」を感じて生きるしか無い。批判されようと、笑われようと、「その可能性がゼロでない限り、そしてワールドカップに出場する限り僕は優勝を目指してたたかう」なんて言うことを100%本気で口に出来る奴は1万人に一人だっていないのだ。※本田圭佑選手のこと。

私は「ちょっとした満足感」を求めることを些かも否定していない。99%の人間にとってそれは「宿命」なのだから。私だって「ちょっとした満足感」を求めて日々を暮らしている。ただ、「ちょっとした満足感」が「自足的」であれば違和感を覚えないのだけれど、互いに「ちょっとした満足感」を補い合うことが表面だって行われているのを見ると「なんだかな〜」と感じずにはいられない。数日前、いろいろな方のブログのコメント欄をちょこっと覗いて見たのだが、まあ、よくもこれだけベタベタと褒め合うモノだな〜と感心する。みんな、そんなにまで褒められたいんだな〜。でも、そりゃそうだよね。誰かに褒められたいというのは人間の「本質」に根ざす感情だし、誰にも褒められずに「自足的」に自分に満足できるためには大きな才能を持っていなければならないのだから。人間はちょっとでいいから誰かに褒めて貰いたいという「性」を持った存在なのだ。仕方ない。

誰も悪くない。そういう「世界」に足を踏み入れた自分が悪いのだ。

でも、「本物」って別にそれほど「巨大」なものであるとは限らないし、特別な才能を持った人間以外には追求することが出来ないモノでも無いと思う。おかしな言い方になるけれど、一人一人が「小さな本物」を求めると言うことは難しいことでは無いし、それをやっている人というのはそんなに少ないわけでは無い。例えば「写真」だって、自分なりの「本物」を求めて撮り続けている人、「焼き続けて」いる人は少なからずいる。

思わず「焼き続けている人」と書いてしまったが、「本物の写真」を求めている人はモノクロゼラチンシルバープリントで「作品」を作っている人に多い。もちろんデジタルカラープリントで「本物の写真」を求めている人もいるけれど、圧倒的にモノクロゼラチンシルバープリントを焼いている人に多い。当たり前である。「本物」というものは、多くの場合、「手間」が掛かるプロセスを経て生まれるモノだからである。

モノクロゼラチンシルバープリントをやることが「凄い事」だなんて私は思っていない。私はデジタルの方が「優れている」と思っているから。この話は止めておこう(笑)。

まあ、結局99%の人間には「ちょっとした満足感」で十分なのだから、それで良いと思う。少なくとも、誰かがそれに文句を言うというのは筋違いだ。だから私も文句を言っているわけでは無い。ただ、そろそろそういう「場所」からは立ち去るべきだと思っていると言うだけの話である。

デジカメでだけ写真を撮っている人、主にカラー写真を撮っている人、人生の残り時間が少ない高齢者、そして女性(笑)はとりあえず「本物の写真」なんて求める必要は無いと思う。ただ、いまどき高いお金を払ってフィルムを買って写真を撮っている人、なかんずくブローニーフィルムで撮っている人、モノクロ写真に拘っている人、自分で銀塩プリントを焼いている人には一言だけ言いたい。

なんでもう少し本気でやらないの? 

金と暇と手間を掛けて、本物を求めないなんて馬鹿馬鹿しい話だ。「ちょっとした満足感」で十分であるなら、私みたいにデジカメでつまらない写真を撮っていれば十分だよ(爆)。

フィルムでモノクロ写真を撮っているすべての人々に、『指先の羅針盤』を見せたかった。


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by dialogue2017 | 2018-05-31 12:00 | 本音の話し | Comments(8)

持つべきモノは本当の友

楽しく交流させていただいているモノクロ写真愛好家の方がRolleiflexで撮ったカラー写真を2枚ブログに掲載された。1枚目の写真がもの凄く素敵だった。カラーネガフィルムで撮った桜を主題とした写真なのだが、遠景の水面の青っぽい色合いが手前の桜を引き立てていて美しい写真だ。しかし、2枚目の写真はつまらない写真だと思った。Rolleiflexを買って嬉しくて何でもかんでも撮っているというレベルの写真だった。もちろんそれがいけないと言うことでは無いが、本人は1枚目の写真と2枚目のレベルがまったく違うと言うことにあまり自覚的出ないように思えたので、私の感じたことを率直にコメント差し上げた。貴方は2枚目のようなレベルの低い写真をブログに出すのは止めた方が良いと。

頼まれてもいないのに他人の写真を批判するようなことを書く人は良くない人間だと想う人もいるだろう。それは違う。私は率直な感想を伝えたのだ。それはもの凄く真剣な思いから発したアドバイスである。私は心を込めて彼に私の思いを届けた。間違いなく、彼は私のアドバイスを素直な気持ちで受け止めてくれると思う。

1枚目があまりに素晴らしい写真だったから、私は2枚目の写真を出すべきでは無かったと伝えた。例えば、ある小料理屋に入って注文した1品目の料理が各段に美味しかったとしよう。「旨い。これは素晴らしい」と感じた後、2品目として出てきた料理が美味しくなかったらがっかりする。1品目が抜群に美味しかっただけに2品目がダメだと落胆も大きい。彼にしてみれば、2品目は「突き出し」程度のもので正規の料理では無かったのだと思う。写真なんて遊びで撮っていても良いと思うのでそれがいけないと言っているのでない。1枚目の写真が大変素晴らしいので、その下に「不味い料理」を出して欲しくないと思ったのだ。旨い料理屋は「突き出し」が旨い。全部食べた後、「親父さん、突き出しが一番だったかな〜」なんていう失礼な事を言いたくなる突き出しを出す店には外れは一品も無い。彼はもう、外れの料理を「客」に出すのを止めた方がいい人だと思うのだ。

彼はもうそういう方向を目指すべきアマチュア写真家だと思う。もう、これ以上「楽しければそれでいい」という写真を撮り続けるべきでは無い人だと思う。だから私はそのことを伝えた。今後彼がどういう方向に進んでいこうと私の人生には何の関係も無い。でも、彼にはもっと良い写真を撮って貰いたいと思う。彼ならもっと良い写真が撮れる。そう思ったから私は自分の率直な感想を伝えた。

「親の意見と冷や酒は後で効く」というという格言がある。いま分からなくても、後になってから「ああ、親父が言っていたとおりだ」と分かるものだという話だ。つまり、若いときには「時代が違う。いまはそういう時代じゃ無いんだよ」と父親の小言に反発しても、自分自身年をとって人生経験を積み重ねれば「ああ、親父の言っていたとおりだ」と理解できると言うことである。親が子に向かっていうことなんてだいたいほとんど子どものためを思って言っているのであるし、"真っ当な時代"の親(大人)が子ども(青年)たちに向かって口にした叱責はだいたい正しかった。

私は昨年末でこのブログを止めるつもりだった。元旦から1月14日までは更新をしていなかった。その後、ちょっとしたきっかけから再開してしまい、ズルズルと惰性で続けてきた。続けている最大の理由は、自分の撮った写真を「貼っておく」アルバム帳が必要だからである。このブログは私自身にとっては「アルバム帳」なのである。

ここ最近は、写真の先生のようなことを書き連ねている。そうなってしまった理由は、ちょっとコメントのやりとりなどをして交流している若い写真愛好家の人たちが、一番肝心なコトに無自覚であるのを見るに見かねたからである。一言アドバイスして上げたら、彼らの写真はもっと素敵になる。自分の写真がいまより素敵になったら、写真を撮ることは今よりより楽しくなるだろう。そう思って余計な口出しを始めたと言うことである。そう、余計な口出しなのだ。しかし、若い者に向かって「余計な口出し」をすることこそ老人の仕事なのだ。老人が「余計な口出し」をすることによって、伝統であったり、文化であったり、作風であったり、長い歴史の中で培われてきた大切なことが次の世代に伝わっていくのだから。それが絶えてしまったことが今の我が国の最大の問題点だ。

本当は写真なんて上手くならなくていいと思っている。写真が上手いなんて言うことは大して自慢になることじゃ無いと思っているくらいだから。今はカメラの性能がいいから良い写真なんて誰だって撮れる。iPhoneで立派な写真が撮れる時代なんだよ。だから、写真なんて楽しく撮っていればそれでいい。本当にそう思う。

しかし、みなは本当にそう思っていないように見える。少なくとも「モノクロ写真ジャンル」なんてものに登録している人たちは、本当にそう思っていない人の方が多いだろう。口では「楽しければそれでいい」と言っても、本当は、「もっと上手くなりたい」「今より素晴らしい写真を撮れるようになりたい」「見る人に『素晴らしい!』と言わせるような写真を撮ってみたい」と思っている人の方が多いだろう。当たり前の事だ。そういう欲求がある方が人間として自然なことなのだ。

みんな「楽しそう」と思って気軽に始めたことだから、一番大事な「基礎」を学んでいない。基礎がよく分かっていないとトータルなものとしてのクォリティーを達成することが出来ない。反対に、基礎を徹底的に理解したら、それだけで一定以上のクォリティーの写真が撮れる。一番大事なものは、ゆるがせにしてはいけないセオリーなのだ。それは私が第一線の作家と長年付き合ってきて感じたことだ。渡部さとるさんだって、森谷修さんだって、特別なことをやっているわけじゃ無いんだ。彼らは、モノクロ写真のセオリーをトコトン突き詰めただけだと言っても良いだろう。彼らの作品を見続け、彼らと対話を重ね続けて、私は彼らが特別なことをやっているわけじゃ無いことを知るに至った。

さて、私は昨年末でこのブログを止めた後、今年は読書に集中しようと思っていた。私は何かを始めると徹底してそれに集中し続けるので、今年はしばらく写真は棚上げしておくつもりであった。それなのに一体どうしてこういうコトになってしまったのだろう? 先ほどからそこのとを考えていた。「モノクロ写真ジャンル」に登録してる何人かの写真を愛する青年との交流が始まったことも小さくない原因だと思うが、なにかもっと大きな理由があるはずだ。そう思って考えてみた。

残念ながら思い当たる理由が浮かんでこなかった。ところが、Instagramを開いた時そこに答えがあった。「そうか、そうだったんだ。もう忘れていたけれど、確かにこれだ」という答えが見つかった。それは、一人の写真家との対話であった。

to be continued


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by dialogue2017 | 2018-04-13 14:30 | 本音の話し | Comments(6)

(3)よりの続き。

色を変える前の御射鹿池の写真を見て、私は美しいと思った。もともと、私は写真を撮り始めたばかりの頃(2005年前後)には「風景写真」を撮ってみたいという思いを抱いていた。しかし、いくつかの理由と事情があって、結局私は風景写真を撮りに出掛けると言うことをたった一度しかしなかった。何故かという理由についてはここでは書かない(長くなるから)。いつしか、私は美しい写真を撮ってみたいという思い自身を失った。いや、失ったのではなく、そんなことにさしたる意味も価値も無いという考えに変わったのである。


そんな私が、十数年ぶりに「美しい風景写真を撮ってみたい」と思ったのである。その契機は自分自身が撮った平凡な1枚の写真であったわけであるが、そういう感情が私の中で生み出される背景に、「熱中できるモノが何もない」人生への「無念さ」が横たわっていたことに私はあまり自覚的ではなかった。いや、私はそのことに気づいていながらあえて気づかぬふりをしていたのかもしれない。


長い話になったので、一旦終わりにすることにしよう(誰一人読んでいないかもしれないから書きたいだけ書いても同じことかもしれないが)。私は、およそ6年ぶりに京都に行って沢山写真を撮ってきて、自分の中にあった正直な思いを思い出したのである。そのことは既に書いた。つまり、「写真は旅先で撮るものだ」と言うことである。


京都から帰ってきてから半月間、毎日たくさんの写真をレタッチしてここにアップした。帰って来て直ぐに248枚の写真をレタッチしたが、「171113哲学の道」の65枚の写真のうちの55枚ほどは「連載」を始めてから追加でレタッチして加えた写真であったし、「京都アラカルト」の90枚の写真のうちの6~70枚も最初にレタッチした248枚には含まれていなかった「没写真」をレタッチして掲載したものであった。


結局、この半月の間に、京都で撮ってきた写真を217枚もここにアップした。なぜそんなことをしたのか自分でもよく分からなかった。単純に、自分が撮った写真は「アルバム帳」に収録しておきたいというのが最大の動機であることは間違いないが、ただたんにそれだけが動機では無いのではないかと自問しながら作業をしていた。


この文書を書いていて、何故そんなことをしたのか分かった。私は、「写真なんて旅先で撮るものだ」ということを深く確認しようとしてああいうことをしたのだと思う。もうひとつ、「別に、写真なんか上手に撮れていなくても良いじゃないか」「上手に撮れたからってなんなんだ」という思いを、実際に上手に撮れてない写真を大量にここに掲載し人目にさらすことを通して、自分の中でもう一度再確認しようとして大量の写真をここにアップしたのだと思う


※ここまでの文章は、12月1日の午前1〜2時頃に掛けて一気に書いた。


(つづく)



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by dialogue2017 | 2017-12-01 18:00 | 本音の話し | Comments(0)

(2)よりの続き。

いつ、「写真」を「はけ口」にしようと思ったのか考えてみたが、多分"この写真”を撮った後ぐらいだろう。私はこの写真を見て美しいと思った。いや、写真自体は特段どうといったことの無い平凡な写真である。ただ、この景色の前に立ってシャッターボタンを押したというだけのことでしかない。しかし、そこに写っている「風景」を私は美しいと思った。それは、実際に見た風景そのものより美しいと思った


くり返すが、この写真自体は特段美しい写真だとは思わない。むしろ、ありふれた風景写真でしかないと言っても良いだろう。この写真をFacebookに掲載してみたがそれほど大きな反響はなかった。で、私はちょっといたずらをしてみようと思った。同じ時に撮った別のカットをPhotoshopで大幅に色を弄ったモノをFacebookに掲載してみた。今度は大きな反響があった。FUJIFILM関係のある公開グループに投稿してみたところ沢山の「いいね!」が届いた。


「いいね!」の数など別にどうでもよい。SNS上における「いいね!」の数はそのコンテンツの価値とは無縁であるから。私にとってちょっと刺激的だったのは、何人かの写真家(もちろんプロ)から「素晴らしい」と写真を褒められたことであった。率直に言うが、特段嬉しくはなかった。なぜなら、(1)写っている風景自体が美しいということであり、(2)Photoshopで幻想的な雰囲気に作り替えたから美しいと評価されたに過ぎないからである。私は、そういうことに冷ややかな感情を抱いている。


私は、一貫して一生懸命になって「良い写真」を撮ろうとすることにシニカルな態度をとり続けているのであるが、その最大の理由は、以前一度書いていると思うが、レタッチ上手ということが「写真の善し悪し」を決していると言って良いような現実の中で、「良い写真」を撮るなどと言うことは「馬鹿馬鹿しい」ことにしか思えないのである。私は、その「馬鹿馬鹿しさ」を「証明」したくてあの写真を大幅にレタッチしてFacebookにアップしたのである("この写真”のこと)。※「大幅にレタッチ」と書いたが、やったことは色を弄ったことだけである。


私は、Photoshopで写真がいくらでも「ドレスアップ」できることに馬鹿馬鹿しさを感じている。私に言わせれば、Photoshopで大幅に手を入れた写真は「お絵かき」だとしか思えない。もちろん、プロフォトグラファーがそれを行うことに否定的な訳ではない。プロフォトグラファーはクライアントの求めに応じて「商品」としての写真を提供することによって収入を得ているのであるから、クライアントが喜ぶ写真を提供せざるを得ない。コマーシャリズムの現実に鑑みた場合、Photoshopで「お絵かき」した写真の方が「商品価値」が高いのは当然であると思う。


アマチュアカメラマンがPhotoshopで「ガシガシと」写真を弄ることに対しても特段批判しようとは思わない。誰が何をしようと自由だ。好きにやれば良い。しかし、Photoshoで「作り上げた」写真がどんなに美しくても、それは「CG」と似たようなものであるとしか私には思えない。それを否定したいわけではない。ただ、私にはそういう「世界」は面白みのない世界だと感じられるというだけのことである。


(つづく)



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by dialogue2017 | 2017-12-01 15:00 | 本音の話し | Comments(0)

(1)からの続き。


本は好きなのでいくら読んでも飽きると言うことは無いが、流石に毎日毎日朝から晩まで本を読むような生活を半年も送ると些かウンザリしてくる。なにしろ、少ない日で7〜8時間、多い日には10数時間読むのである。で、今年の2月くらいからは読書のペースが落ちた。読書に限らず、何をやっても同じである。一時集中的にやるのだけれど、その時期が過ぎると「潮が引く」のである。

今年8月、「お言葉」から1年を迎える頃になって、また「天皇」問題が気になり始めた。というのは、「天皇」問題というのは「日本問題」に他ならないからである。つまり、私が「天皇」問題に強く関心を抱いている根本的な理由は、我が国の明日を考えるに当たって、「天皇」という問題を抜きに考えることが出来ない時代が到来したと認識しているからである。今上天皇自身、「天皇」が再び政治利用されかねない政治状況が生まれていることに強い危機意識を抱き、「象徴天皇制」を死守せねばならないという意識からあの「お言葉」を発したことに疑いはない。もう少し具体的に言えば、今上天皇は安倍政権による憲法改正に「待った」を掛けるべくあの「お言葉」を発したと理解して間違いない。

なにも政治的な話をしたいわけではない。自分がこの1年ほどのあいだ何に関心を抱き、どのような生活をしていたかという話を書き始めたらこういう話になってしまったに過ぎない。

話を今年の夏に戻す。私は「お言葉」から1年を迎える頃からまた「天皇」問題が気になり始め、再び「天皇」関係の書籍を読み始めたのであるが、読み始めて程無い段階でテーマを変更した。私は、8月中旬から「太平洋戦争史」を読み始めた。言うまでも無く、太平洋戦争史は「天皇」問題と密接不可分なジャンルである。つまり、太平洋戦争史を読み始めたそもそもの動機は「天皇(制)」問題に対する関心にある。

8月9月と集中的に太平洋戦争史関連の書籍を読み漁った。不謹慎な表現かもしれないが、天皇問題に関連する書籍より、太平洋戦争関連の書物の方が読んでいて遙かに楽しい。語弊を恐れずに率直に言うが、私は軍人好きなのである。で、途中から何人かの軍人の伝記物を読むようになった。最初に読んだのは山本五十六であった。そして、一番「熱中」したのが米内光政である。米内光政についてはいまもコツコツ読み続けている。

さて、なんの話しかというと、写真の話である。ようするに、私が10月に突然異常なまでに「写真熱」に浮かされたわけは、毎日朝から晩まで本を読む生活から逃げ出すためであったのである。その為には、読書以外に「熱中」する対象を作る必要があった。なにかに熱中しない限り、読書から逃げ出すことが出来ないからである。

私は、およそ勤勉とは縁遠い人間なので、「ノンベンダラリ」と日々を過ごすことに大きな苦痛を感じない。むしろ、そういうのは理想的だと思うくらいである。しかし、実際にはたえず何かに熱中している方が快適なようである。自分自身では、「いつでも何かに熱中していたい」などとは思っていない。むしろ、そうではありたくないと思っているつもりである。しかし、実際の私は、いつでも何かしらに熱中していることの方が多い。

そんなわけで、10・11月の2ヶ月間、私はかなり「写真熱」に犯されていた。しかし、犯されてはいたが、それは「熱心」だったというのとは少し違っていた。私は写真熱に犯され、今まではやらなかったような形で随分と写真を撮って歩いた(モノクロ写真を沢山撮ったのがその最たるモノであった)。しかし、それはまさに「熱」に「犯され」たようなものであって、強く望んで積極的にやっていたことでは無かったと思う。

もちろん、それなりに楽しんでいたし、ある程度は「熱心」だったとは思う。しかし、それが本当にやりたかったことだったのかというとそうでは無かったと思う。寧ろ、本当にやりたいことが出来ない「無念さ」を"糊塗する”ためにそれをしていたのだと思う。

とここまで書いて気がついたが、私は太平洋戦争史を読み込んでいて、タイムスリップしたのだと思う。つまり、あの時代の軍人のように生きられない現実の自分、現実の時代にもの凄く大きな「空虚さ」を覚えたと言うことである。だから、太平洋戦争史を読み続けることは私にとって半ば「苦痛」になってきたのである。

私は、この「苦痛」から逃げ出すために「写真」を「はけ口」として選んだのだ。

(つづく)

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by dialogue2017 | 2017-12-01 12:00 | 本音の話し | Comments(0)

※以下の文章は、12月1日の午前1時〜2時前後に掛けて「閑話(43)」と題して書いた文章である。現時点(1日2:33)では未完であるが、長い文章となったので、何回かに分割してアップすることにした。それに伴い、タイトルを「京都の写真を大量に掲載して考えたこと」と改題することにした。このあと、何回書くことになるか、どんな話を書くことになるか、本人である私にも皆目見当が付かない。また、一気に書き殴った文章なので、少し手を入れないと論旨が不明瞭な文章であるが、そういう文章には「本音」と「パッション」が現れているので、手を入れずに掲載することにした。誰一人読んでくれる人がいなかったとしても全く残念には思わないが、誰か一人奇特な方がこのあとの「連載」を全部読んでくれるようなことがあればそれは望外の幸せである。


京都から帰ってきて半月以上が過ぎた。しかし、それだけの時間が過ぎたという実感がない。実感がない訳は、この半月間、まったく中身のない日々を過ごしていたからである。人間、中身の薄い日々をくり返すと、時間の流れにリアリティーを感じられないものである。

この半月間にやったことと言えば、このブログにせっせと京都で撮った写真を掲載したくらいである。もちろん、朝から晩までずっとそれをしていたわけではないが、それ以外にはたいしたことをしていない(本を読んだり、音楽を聴いたりと「まったり」過ごしていた)。

私には、何をやるときでも始めると一定の期間そればかりを集中的にやる性癖がある。やろうと思ってやっているというより、不可抗なものとしてそうなると言っても良いだろう。いや、不可抗と言うとなにか私以外の外部からそういう力が働いて私を左右しているかのようであるが、実際には私自身の「性分」がそうしているのである。ただ、それは私自身にも抗い得ぬ「強制力」のような強い作用力を持っているので、本人からしても「不可抗力」に強要されているように感じないでもないのである。

私は、2015年の元旦から集中的に本を読み始めた。5月末までの5ヶ月間に250冊ほど読んだ(平素の年間読書数に近い)。学術系の書籍が中心で、娯楽書は1冊も含まれていなかった。今まで関心を抱いていたジャンルから大きく離れたジャンルの本はほとんど読まなかったが、今までは避けていたような学者の本はかなり読んだ。具体的な例をひとつ挙げると、若い頃から忌んできた「保守思想」系の本をかなり読んだ。

5ヶ月間に250冊というとかなりの量である。しかも、ページ数のある学術書もかなり読んでいるので、新書に換算したら400冊相当の分量になるのでは無いかと思う。実数の250冊で数えたとしても毎月50冊である。しかし、物事をコツコツと積み重ねることが出来ない私は、わずか5ヶ月間の間にも「ムラ」があった。70冊以上読んだ月もあれば、20冊しか読まない月もあった。何をやるときにもだいたいそうなのである。

いくら仕事をしていないからと言って、一月に学術書系の書籍を70冊というのは結構ハードである。しかも、私は基本的に熟読派であり斜め読みに読み飛ばしていくような読み方をすることが少ない。この年は、とりわけ「腰を据えて」読んだ。というのは、読んだ本に関しての解説や、それを読んで自分が考えたことを文章にするつもりで読んでいたからである。私は、その5ヶ月間に70万字を超える文章を書いた(それはあるブログとして毎日書いていた)。

70万字というと、平均的な新書が12万字程度であるから、新書6冊程度に相当する。学術論文のような文章を書いたわけではないので、苦労など全くなかったが、このブログに書いているような「無駄話」を書いたわけではなかったので、毎月新書1冊分のペースで文章を書いたというのはそこそこのペースだと思う。何しろ、その一方で同じ時期に250冊の本を読んでいたのであるから。

昨年(2016年)の8月8日に、今上天皇の「お言葉」に触れた。私は、天皇の「お言葉」からかなり強いインパクトを受けた。で、その日のうちに天皇(制)関係の書籍を10冊ばかりamazonで発注し、翌日から天皇(制)関連の本を読み漁る日々を送った。天皇問題についてはいつかじっくりと読みたいと思っていたので、良い機会だと考えて集中して読み込んだ。しかし、3ヶ月ほど読み続けて少し飽きた。で、10月の終わり頃からであったか、一旦テーマを変えて「明治維新史」を読み始めた。明治維新史も「天皇問題」と密接に関連するジャンルであるので、そのあたりを念頭に明治維新史を読み込んだ。結局、「お言葉」に触れてからおよそ半年ほどは「天皇」と「明治維新」関連の本を読み漁る日々を送った。

(つづく)

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by dialogue2017 | 2017-12-01 07:00 | 本音の話し | Comments(0)