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井の頭公園にはおよそ80分間ほど滞在した。そのうちの20分ほどはこの方のアイリッシュハープの演奏を聴かせていただいていた。ハープ単独の演奏を生で聴いたのは初めてのことである。あまりに美しい音色に驚いた。「えも言われぬ」と形容したい素晴らしさであった。ベンチにはギターも置いてあったので1曲終わったときに「ギターも弾かれるのですか?」と声を掛けた。「はい、僕はギターの方が専門でハープは遊び程度です。ギターも専門と言っても独学で、人に習ったことは一度も無いんですが…」とのお話しであった。「どのような曲の演奏をされるのですか?」と尋ねたところ「ほとんど全て自分で作った曲です」というお答えにまた驚いた。ハープで弾いていた曲があまりに美しくて曲名を聞いてCDでも買いたいと思ったほどなのだ。ずっと聞いているのも失礼だと思い(本当はそんなことはないのだろうが)、「ありがとうございました」と挨拶して写真を撮りに出掛けた。しかし、公園を一周して戻ってきた後、またこの方の脇でしばらく演奏を聴かせていただいた。愚にも付かないような写真を撮るより、ずっと演奏を聴いていたかった。

「音楽」ほど人の心をダイレクトに揺さぶるものは無いと思う。他に心を振るわせるものを上げると「絵画」に「文学」。「演劇」なども胸に迫ってくる。「スポーツ」も胸躍る。まだまだいくらでもあると思うのだが、私は「写真」を見て強く胸打たれたと言うことは一度も無い。「いいな」とは思うけれど、「胸を打たれた」とまでは行かない。それはそうなんだと思う。「写真」って「作家」が「創作」している部分がもの凄く少ないから。他の「芸術」に比べると圧倒的に少ないと思う。1枚の油絵を描く手間と、1枚の写真を撮る手間は千倍万倍どころではない。それでもまだゼラチンシルバープリントであれば「創作品」と言えると思うが、デジタルフォトなんて「創作品」と呼ぶことにも躊躇いを感じてしまう。別に写真の悪口が言いたいわけでは無い。ただ、私の率直な思いを吐露してみただけのことである。

純然たる人物写真以外では「縦位置」で撮影することは少ない。その理由のひとつはブログに掲載するのに向かないからである。パソコンのモニタは横向きなので縦位置の写真はバランスが悪い。そういう意味ではiPadは便利なディスプレイなのだろうと思う。私は自分の写真をチェックするとき以外にはiPadはほとんど使わない。また口の悪い話で申し訳ないが、「スマホ」と「タブレット」は「女子ども」の道具だと思っている。私の場合、基本的に「文字」がメインなのでネットサーフィンしていてもすぐにタイプできないということはあり得ない環境なのである。

で、あまり撮らない「縦位置写真」の話しに戻るが、縦位置で撮る時の一つのパターンがこの写真のような撮り方である。新緑の「見事さ」が上手く表現されていると思う。桜でもこういう撮り方をするし、もちろん紅葉でもいい。それにしても、こんなに新緑が美しい季節だというのに、写真ブログを閲覧していても思わず見入ってしまうような美しい新緑の写真がほとんど無いことが不思議で成らない。しかし、3日前、その「秘密」を理解することが出来た。その話はまたのちほど。


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by dialogue2017 | 2019-04-26 06:00 | 本音の話し | Comments(0)

咳喘息になりかけている。いや、既になっているかもしれない。過去の経験から、ここで踏みとどまれる可能性は30%。このまま悪化すると、過去の例に倣うと3ヶ月続く。早めに治る場合でも2ヶ月は続く。咳というのはかなり辛い。朝から晩まで、いや寝ているときにさえ咳が出る。一日中咳をしていると心身ともに疲労する。身体的な疲労が酷いのだが、人間、身体がやられると必ず心もやられる。30%を「引く」ことを期待している。

昨日は、最近の平均の倍に近いアクセスがあった。いや、アクセス数の多い少ないなどどうでも良いことである。このブログは初めから「一人の読者」を対象にしているのだから。「一人の読者」というのは一人でなければならない訳では無い。「一人の読者」というのは「熱心に読んでくれる読者」と言うことであって、3人いても5人いても良い。私の方でも「一人の読者」は同じ一人の人間である訳では無い。「今日はshi-photo君向けに書こうとか」「今日は0123okkunさん向けに書こうとか」いう感じで書いている。いや、「このエントリーはshi-photo君宛」とか「これはflom_vixen君向け」とか、一つ一つのエントリーを「一人の読者」のために書いていることが多い。何故そういう書き方をするのか?

だって、その方が嬉しいでしょう? 「ああ、わざわざ僕のために書いてくれたんだ」って思ったときは嬉しいよね。いちいち「宛先」を書かないけれど、そんな風に誰か特定の「一人の読者」に向かって書いていることが多い。「五人組」全員に向けて書いていることも多い(私は未だに「退学者」を念頭に置いて書いている)。「宛先」を書かなくても、「あっ、これはオレのために書いてくれたんだ」と相手は分かる。時々勘違いしていることはあるけれど(笑)。A君向けに辛辣な話を書いたのに、B君が自分のことだと思ってコメントを入れてくることがある(笑)。

昔、私は70人ほどの「受講者」を相手にある「セミナー」をやっていた。このブログの調子そのままに、いやこのブログより更に辛辣な話をしていたのだが、そうすると「ひ弱」な男たちは必ず「僕のことだ」と受け取る。そして、「今日の話は骨身に染みました。自分のダメさ加減を痛感しました。このままじゃいけないと思っていますが、なかなか変わることができない自分が情けないです。でも、これからも先生について行きたいと思います」という反省文が何人もから届く(笑)。

「人間の弱さ」を批判する話をすると、聞いた人間の多くが「俺の話だ」と思って聴く。当然である。ほとんどの人間は「弱い」からである。いや、この地球上に弱さを持たない人間など一人もいない。そんなわけで、A君に対して書いた「メッセージ」にshi-photo君から反省の弁が届くというようなことがちょくちょくある。しかし、shi-photo君が勘違いをしていると言うことではない。A君の問題の多くは必ずshi-photo君の問題であるのだから。A君宛の話を自分宛の話だと解釈したshi-photo君は正しいのである。

1970年代以降に生まれた世代にはほぼ「全員」に共通する「大きな欠陥」がある。人間はいついかなる時でも「時代的制約」を受ける。人間はそれ(時代)から自由であることはできない。1970年代以後、我が国では「人間にとって根本的に大切なこと」の多くがスポイルされたのだ。そういう時代に生まれ育てば「スポイルされた」人間にならざるを得ない。もちろん、それ以前の世代が真っ当だというわけでない。しかし、1970年代以後に生まれ育った人間には致命的なまでに「欠落」しているものがある。「時代」が「それ」を棄ててしまったのだからそうなるしかなかった。君たち自身の責任ではない。責任が問われるべきは、君たちより上の世代である。

文章を書き始めたら咳が止まった。出かかっているのを無意識で押さえている。ああ、私は文章を書いているときにはこんなに集中しているのだなと思った。私にとって文章を書くというのは息を吸うようなものだ。珈琲を啜ることとほとんど変わらない。本当にそういう感覚で文章を書いているのだが、実際には脳がフル回転し、アドレナリンがバンバン放出されて集中力が高まっているのだろうと思う。もちろん、この程度の文章を書いているときはまだ「ローギア」であるが。

とこれぐらいの分量(1,000字程度?)を一気に書くと「なんの話を書こうとしていたんだっけ?」と我に返る。そうなのである。書いているときにはなんの話を書こうとしているのかに対する自覚が曖昧になるのである。だって、私の「悩」が何かを考えて書いているのでは無くて、私の指が勝手に文章を書いているのだから。この文章を「タイプ」している私の左右の指を動画に撮って見せて上げたいと思う。「ああ、このスピードで書いているんじゃ確かに考えている暇なんて無いな」と理解してくれるだろう。その通りなのだ。私は「考えて」書いているわけでは無いのだ。私とは別の「私第二号」のような「別人」が勝手に書いているようなものなのである。だから、「あれっ? なんの話を書こうとしていたんだっけ?」ということになってしまうのである。

もちろんほとんどの場合、直ぐに気がつく。「そうだ、『一人の読者』についての話しだ」と。時々、アマチュア写真愛好家全般に向けて書くことがある。しかし、そういうときは「一人の読者」を無制限に拡大して書いているのであって、やはり私は「一人の読者」に向けて書いている。そういう文章を書くときというのは「五人組」以外の方でこのブログを毎日のように訪問してくれている具体的な誰かを念頭に書いている。例えば、「○▽さん」とか「□☆さん」とかを(笑)。←ここに具体名を入れたら楽しい(笑)。

私は「宛先」のない文章は書かない。

なぜなら、「一般論」は伝わらないからだ。ラブレターを書く際には「受取人」一人に向かって情熱を込めて書く。そうしないと伝わらない。文章を書くと言うことはいつでもそれと同じである。「宛先人」に向かって、可能な限り心を込めて書く。

18歳以後の私の人生にはいつでも「信者」がいた。一時、もの凄く沢山「信者」がいた時代がある。それはまさに「信者」であった。私が一度も要求しないのに「お布施」が届くようになったのだ(笑)。ある日突然、一人の「信者」が「先生、これ何かに使って下さい」と言って封筒を差し出した(笑)。封筒の中には「72万円」入っていた。「要らない」と断ったが、「私のためと思って受け取って下さい」と言われたので「分かった。預かる」と言って受け取った。そうしたら、その後何人もの「信者」が「お布施」を持ってきた。そのたび、「要らない」と断ったが前例と同じ展開となった。私の元にはそういう形で千万円単位のお金が短期間に集まったと言うことがこれまでに何度かある。私は今までの人生で何度か「グル」になったことがあるのである(爆)。

私に「お布施」をすることによって彼らは何一つ「利益」を得ない。社会的な地位を得られるとか、「学位」を授けて貰うとか、女性を紹介して貰うとか(笑)、なにひとつ現実的な「利益」を得ることがない。私は彼らに「魂の救済」を約束したわけでもない(爆)。

なんでそんなことが起こったのかというと、私が彼らが「求めている」話をしたからである。誰もが何かを求めている。誰もが「欠落」を感じて生きている。そしてその「欠落」を少しでも埋めたいと願望している。しかし、その「欠落」が何であるのかさえよく分からない。それが知りたい。できることならいまより人間として成長したい。多くの青年はそういう希望を抱いている。私は彼らが「求め」「探していた」「言葉」を口にする。しかも、それは「一般論」ではなく、「私」の胸に届く言葉として語られる。だから、彼らは現実的な「利益」が何一つ無くても私に「帰依」する。そこに、今の自分を超えていく可能性を見つけたからだ。「変わることができる」ーーこれほど魅力的なことはない。彼らは私に「賭けた」のではないのだ。彼らは自分自身が「変わろうとする」ことに「賭け金」を張ったのである。

なぜ、私の言葉は彼らに届くのか? 私がいつでも「宛先」のある発信をするからだ。「受信者」が待ち望んでいる「中身」の話を、"恋い焦がれた女性"に向けて書くときと同じように心を込めて書いた「言葉」は伝わる。もの凄く伝わる。心の奥底まで届く。どうしてそんなことが起こるかというと、「受信者」たちが私に対して「全面的」に心を開いているからである。彼らはなぜ心を開くのか? 「よくわらかないけれどこの人には自分が求めているものがある」と思っているからである。「この人には、他の人からは聞けない言葉が聞ける。これは逃してはならない」ということを理解しているからである。心が真っ直ぐな人間は自分自身の「可能性」が開かれるかもしれない情況を前にしたとき「賭け金」を張るのである。「真っ直ぐな心」というものは自分にとって「本当に必要なモノ」を直観する。だから、私の言葉は「直観力」を持たない人には届かない。

私の言葉は"それ"を求めている人には必ず届く。そして「誠実な言葉」であれば、それを受け取る人々は必ずいる。だから、大事なことは訪問者数でもないし、「イイネ!」の数でもない。そんなものにはなんの価値もない。1円の価値にさえ劣る。私にとって意味があるのはいつでも「一人の読者」なのである。だから、私はいつも「一人の読者」に向かって書いている。この文章も「君のため」に書いたんだよ(笑)。

文章を読むって面白いことだろう? (笑)。

(3,438文字) 約40分で書いた。


by dialogue2017 | 2019-02-12 12:00 | 本音の話し | Comments(3)

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by dialogue2017 | 2018-12-31 14:30 | 本音の話し

5月8日に書いたエントリーのタイトルは「遅くとも今月いっぱいでこのブログを終わりにしようと思っています」であった。今日が、その「今月いっぱい」の期限である。今日で終わりにすることになんの躊躇いも無い。このブログの更新を止めたら、とりあえず落ち着いた気持ちになるだろうと思う。いや、このブログを続けていることで気持ちの落ち着きが失われているというわけでは無いが、止めたらいまよりもっと落ち着いた気持ちになるだろうと思うのである。写真についてあれこれと語ることから解放されたら、気持ちが爽やかになるような気がする。

今日は、千葉桜洋さんの写真展『指先の羅針盤』を見て感じたことの続きを書きたいと思っていた。しかし、とりあえず止めておこうという気分に変わった。ああいう話を書いたところで、ほとんど誰にも「伝わらない」だろうから。ああいう話は、「本物の写真」を撮りたいと想っている人、「本物の写真」を見たいと想っている人以外には理解できないからである。

「本物の写真」ってなんだろう? 写真機を使って撮影した写真はすべて「本物の写真」である。写真機を使って撮った写真に「偽物の写真」などないと思う。ただ、アートフィルターを使って撮った写真だとか、何枚ものレイヤーを重ねて仕上げた写真はなんとなく「本物の写真」じゃないような気がする。

いずれにしろ、客観的な定義としての「本物の写真」などというものは無い。にもかかわらず、私が当たり前のように「本物の写真」という言葉を使う理由は、千葉桜洋さんの写真を見て「ああ、こういう写真が本物の写真なんだよな」と思ったからである。「こういう写真が本物の写真だ」という思いをこれほど強く感じたことは初めてであった。そして、私は「本物の写真」というのは本当に素晴らしいと思った。で、なんとかその気持ちを伝えたくて「千葉桜洋写真展『指先の羅針盤』を見てきた」(1)(2)を書いた。頭の中で整理することをせず、筆(指)に任せて書いた文章なので伝えたいことをあまり上手に伝えることが出来なかった気がしている。で、今日は補足として(3)を書こうと思っていたのだ。

しかし、とりあえず(3)を書くのは止めた。書いたところで、誰にも私の思いは伝わらないだろうから。

写真に限らず、「本物」を求めている人というのは少ない。ほんの一握りの人しか「本物」を求めていない。

世界には「偽物」が溢れている。我々の身の回りに大量に溢れている「モノ」や「情報」の多くは「偽物」である。いや、「偽物」とまで言わないにしても、「本物」は少ない。

私は、写真に関して何かを語ることについてたえず「空虚」さを感じていた。いや、写真に限らず、「何かを語る」ということに対して私は「無意味さ」を感じ続けていた。

私は「何かを語る」人間である。私はそういう人間としてこの世に生を受けた。私は「言葉」を巧みに操る才能を与えられて生まれてきた。だから、何かを語り続けてきた。私が語ってきたことは「人間と社会」に関することであった。しかし、いつのころからか、語ることに無意味さを感じるようになり、2015年春に「もう語るのは止めよう」と思った。その年の元旦から、「人間と社会」について語るブログを始め、5月末までの5ヶ月間に私は70万字を超える文章をそのブログに書いた(その5ヶ月間に私は250冊の学術書を読み、読んだ本の内容についてブログに書いた)。熱心な読者が少なからずいたのだが、彼らは「読者」であるところに止まり続け、「対話」には発展しなかった。で、私は語ることを止めた。

しかし、私は「何かを語る」ために生まれてきたような人間であるから、言葉を発することを止めることが出来ない。私にとって「何かを語る」というのは呼吸をすることに近いのである。で、「ごまかし」として写真に付いて語るようになった。いや、誤魔化しであると言うのも事実であるが、100%誤魔化しだという訳でも無い。カメラや写真に付いて「語る」ことを楽しいと思うのは嘘の無い事であるから。しかし、本当に語りたいことは写真に付いての話では無い。例えば、「小さな」話題としてなら、「我が国のこれから」について語りたいと思う。私が本当に語りたいことはそういう話についてである。

誰も「本物」を求めていない。みな、「偽物」で満足している。本物のイミテーションで満足している。それはそうだ。「本物」を求めると言うことは大変なことだから。「本物」を求めるためには「強い意志」が必要だ。常に「高見」を求め続ける強い「向上心」が必要だ。いまの自分を否定し、理想である自分を目指す「克己心」が必要だ。そんなモノを持っている人というのはごく僅かしかいない。だから、私は「本物」を求めようとしていない人を批難しようとは思わない。そういう「能力」を持って生まれてこなかったのだから仕方ない。

経済的に困窮すること無く、そこそこ幸せに生きている人間が求めるモノは「ちょっとした満足感」である。何によってその「満足感」を得るかは十人十色、百人百様である。ある人にとっては「ゴルフ」であり、別のある人にとっては「車」であり、また別のある人にとっては「海外旅行」であり、その対象は無限にある。ただ、トコトン本気にならないというのが大事なことだ。トコトン本気になると疲れるし、生活に支障が出る。トコトン本気になって一番困ることは、自分の「非才」を嫌と言うほど知らされることだ。だから、人々は絶対にトコトン本気になろうとしない。欲しいものは「本物の満足感」ではないのだ。そう、「ちょっとした満足感」で十分なのだ。それで「幸せ」になれるのだから。

「写真」を撮っている人の大多数は、「ちょっとした満足感」を得るために写真を撮っている。彼らが撮った写真にはっきりと「ちょっとした満足感」と書いてある。別にそれがいけないことだとは全く思っていない。私だって同じである。私も「ちょっとした満足感」を満たすために写真を撮っているのだ。ただ、私の場合は結果としての「写真」ではなく、「撮っているその時」に満足感を求めているのであるが。

そもそも、人間は「ちょっとした満足感」のために生きる存在なのだと思う。だって、「ちょっとした満足感」以上のものを追求するためには、大きな才能と、強い向上心が必要だから。そんな"才能”を「与えられた」人間は一握りしかいない。だから、99.9%の人間は「ちょっとした満足感」に「喜び」を感じて生きるしか無い。批判されようと、笑われようと、「その可能性がゼロでない限り、そしてワールドカップに出場する限り僕は優勝を目指してたたかう」なんて言うことを100%本気で口に出来る奴は1万人に一人だっていないのだ。※本田圭佑選手のこと。

私は「ちょっとした満足感」を求めることを些かも否定していない。99%の人間にとってそれは「宿命」なのだから。私だって「ちょっとした満足感」を求めて日々を暮らしている。ただ、「ちょっとした満足感」が「自足的」であれば違和感を覚えないのだけれど、互いに「ちょっとした満足感」を補い合うことが表面だって行われているのを見ると「なんだかな〜」と感じずにはいられない。数日前、いろいろな方のブログのコメント欄をちょこっと覗いて見たのだが、まあ、よくもこれだけベタベタと褒め合うモノだな〜と感心する。みんな、そんなにまで褒められたいんだな〜。でも、そりゃそうだよね。誰かに褒められたいというのは人間の「本質」に根ざす感情だし、誰にも褒められずに「自足的」に自分に満足できるためには大きな才能を持っていなければならないのだから。人間はちょっとでいいから誰かに褒めて貰いたいという「性」を持った存在なのだ。仕方ない。

誰も悪くない。そういう「世界」に足を踏み入れた自分が悪いのだ。

でも、「本物」って別にそれほど「巨大」なものであるとは限らないし、特別な才能を持った人間以外には追求することが出来ないモノでも無いと思う。おかしな言い方になるけれど、一人一人が「小さな本物」を求めると言うことは難しいことでは無いし、それをやっている人というのはそんなに少ないわけでは無い。例えば「写真」だって、自分なりの「本物」を求めて撮り続けている人、「焼き続けて」いる人は少なからずいる。

思わず「焼き続けている人」と書いてしまったが、「本物の写真」を求めている人はモノクロゼラチンシルバープリントで「作品」を作っている人に多い。もちろんデジタルカラープリントで「本物の写真」を求めている人もいるけれど、圧倒的にモノクロゼラチンシルバープリントを焼いている人に多い。当たり前である。「本物」というものは、多くの場合、「手間」が掛かるプロセスを経て生まれるモノだからである。

モノクロゼラチンシルバープリントをやることが「凄い事」だなんて私は思っていない。私はデジタルの方が「優れている」と思っているから。この話は止めておこう(笑)。

まあ、結局99%の人間には「ちょっとした満足感」で十分なのだから、それで良いと思う。少なくとも、誰かがそれに文句を言うというのは筋違いだ。だから私も文句を言っているわけでは無い。ただ、そろそろそういう「場所」からは立ち去るべきだと思っていると言うだけの話である。

デジカメでだけ写真を撮っている人、主にカラー写真を撮っている人、人生の残り時間が少ない高齢者、そして女性(笑)はとりあえず「本物の写真」なんて求める必要は無いと思う。ただ、いまどき高いお金を払ってフィルムを買って写真を撮っている人、なかんずくブローニーフィルムで撮っている人、モノクロ写真に拘っている人、自分で銀塩プリントを焼いている人には一言だけ言いたい。

なんでもう少し本気でやらないの? 

金と暇と手間を掛けて、本物を求めないなんて馬鹿馬鹿しい話だ。「ちょっとした満足感」で十分であるなら、私みたいにデジカメでつまらない写真を撮っていれば十分だよ(爆)。

フィルムでモノクロ写真を撮っているすべての人々に、『指先の羅針盤』を見せたかった。


by dialogue2017 | 2018-05-31 12:00 | 本音の話し | Comments(8)

持つべきモノは本当の友

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by dialogue2017 | 2018-04-13 14:30 | 本音の話し

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by dialogue2017 | 2017-12-01 18:00 | 本音の話し

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by dialogue2017 | 2017-12-01 15:00 | 本音の話し

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by dialogue2017 | 2017-12-01 12:00 | 本音の話し

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by dialogue2017 | 2017-12-01 07:00 | 本音の話し