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カテゴリ:閑話( 84 )

閑話(84)

「閑話」というタイトルで書くのは久しぶりのことである。"前回"は3月20日であった。今年も書いていたことがちょっと意外だった。「閑話」というタイトルで書く理由は、個別のタイトルをつけるような話では無いからである。言うまでも無く「閑話」とは「無駄話」のことである。「閑」という字を辞書で調べると「することがなくてひま」とある。そうである、そういう時に書くのが「閑話」である。「閑」には「のんき」という意味もある。そうである、のんきな話を書くのが「閑話」である。「のんき」というのは「物事に頓着しないこと」である。そう、頓着のない話を書くのが「閑話」である。「気まま」に書くと言うことである。更に言えば、「気儘」の「儘」という字の意味は「成り行きに任せること」である。つまり、たいした考えもなく、何かを伝えたいというような頓着も無しに、成り行きに任せた話を行うことが「閑話」だと言うことである。

そもそもブログに文章を書く一番大きな"理由”は「することがなくてひま」だからである。少なく見積もっても書き始める動機の90%はそこにある。だから、書いた文章を誰かが読んでくれるかどうかなんてどうでもいいのである。いや、せっかく書いたのだから読んでくれる人がいた方が嬉しいとは思う。しかし、仮に読んでくれる人が一人もいなかったとしてもそれほど残念な訳では無い。「することがなくてひま」だから書くのだ。だからひまが潰せれば十分なのだ。

読んで貰うなどと言うこと以前のコトとして、文章を書くというのは心地よいことである。世の中には体を動かすことが好きな人が沢山いる。毎日欠かさずジョギングをしているような人には、健康のためにやっていると言うより走るのが好きだから走っていると言う人が沢山いる。それと同じである。私にとって文章を書くというのは、散歩をするとか、スナップするのと全く同じことである。つまり、楽しいし心地よいコトなのである。

「楽しい」と言うよりは「心地よい」と表現した方が実感に即している。分かる人であれば説明するまでもなく分かってもらえる話である。頭の中がスッキリするのである。疲れたときに軽く背筋を伸ばしたときのような爽快感がある。私には「考えながら」文章を書いているという実感が薄いのだが、実際には脳が「考え」て文章を書いているわけである。しかし、ほとんど手を止めることなくタイピングしているわけであるから、いったい何を書くかについて"いつ”考えているのだろう? いくら思考のスピードが速いとしても「考える」と言いうるほどの時間は無い。なにしろ次々と文字は紡がれていくのだから「考えて」いるような暇はないように思える。しかし、脳はきちんと考えているのである。いや、「きちんと」であるかどうかは知らぬが、脳がなにも考えなければ文章は出てこない。言葉が出てくると言うことは脳が「作動」しているということである。

世の中には考えても考えても考えても文章が出てこないという人が沢山いる。2015年にFacebookの友人20人を対象にやっていたブログでは「読者」と「対話」することが唯一の目的であった。読者の全員が私の書いた大量の文章を毎日真剣に読んでいてくれたが、それに対する感想を書くことができない読者が多かった。もっとも頻繁にコメントを寄せてくれたH君の場合、そこに「文字」はあったが「内容」がなかった。彼の書く文章は小学生のような文章だった。「今日は学校に行きました。帰ってきてから公園で友達と遊びました。雨が降ってきたので家に帰ってきました」というような文章である。彼は「一流大学」を出ていたのにまったく文章が書けなかった。しかし、驚くに値しない。今は、早稲田や慶応出身者にもこういう人間は珍しくない。なぜなら、自分が思っていることを語らないということがこの国では一番「生きやすい」生き方だからである。子供の頃からそういう「処世」を身につけたため「自分の言葉で語る」ということがまったく出来なくなったのである。ある学者が語るところによれば、こういう青年が大量にいるのは世界中で日本だけだとのことである。

いまの若い人に何かひとつのテーマを与えて2000字の文章を書けという課題を与えたらほとんどの青年は相当苦しむだろう。スラスラと書ける人間はほんの一握りしかいないだろうと思う。OECDが行った「読解力」テストの結果によれば、日本人の1/3はまともに日本語が読めないそうだ。文字としては読めても、日本語特有の微妙なニュアンスまで読み分けられる人間となると本当に一握りだと思う。日本語の場合、助詞を一つ変えると文章の持つニュアンスが大きく変わる。著名な学者や作家の中にさえ、そういう細かい部分が不正確な文章を書いている人はざらである。東大教授にさえそういう人が少なからずいるのだから、過半の日本人がまっとうな日本語力を持っていないのも推して知るべしである。

話がそれてしまった。何も考えずに書いているからである。本当になにも考えていないのである。「雑談」なんていうものは何も考えずに行うものである。ブログに文章を書くなどと言うことは、酒場談義をやっているようなもので、「口から出任せ」に言葉を吐き出しているのである。そもそも、書き始めるときに何かについて論じようなどとはつゆほども思っていないのである。誰かに何かを伝えたくて書いているわけでは無い。「することがなくてひま」だから書き始めたと言うだけのことなのである。だから、どんな文章が綴られるのかについては、私自身も預かり知らぬことなのである。

それでも脳は何かを考えている。脳が作動していなければ文章は出てこない。しかし、ここが肝要なのだが、本人に「考えている」という自覚が稀薄な程度の緩やかなレベルでの作動であるからこそ、文章を書くという作業が心地よく感じられるのでは無いかと思う。人間が何かをやるとき、あまり真剣にやらないからこそ「楽し」ということがあると思う。もちろん、トコトン楽しいと感じるときはトコトン真剣にやったときなのだが、なんとなく惰性のようにしてやっているときに感じる「心地よさ」というものもあると思う。私がブログなどに文章を書いているときに感じるのはそういう「心地よさ」である。要するに「おしゃべり」の心地よさである。ちなみに、「おしゃべり」の本質というのは「伝える」ことではない。まして「理解を得る」ことなどではない。ただ単に「吐き出す」ことである。「排泄」とほとんど同じことである。

早い話が、本を読む気になれないのである。いや、今日は読む気は十分にあり、珍しくも午前9時半から読み始めたのだが、10分もすると眼が疲れてしまって読む気力がなくなるのである。どうしても読むことが出来ないというほど酷い症状に成るわけではない。不快さをがますれば1時間やそこらは読むことができる。頑張って力ずくで読めば2時間ぐらいは何とかなる。しかし、そこまでして読もうという気力がないのである。そうなると「することがなくてひま」になる。昨年までは日中は散歩しながらスナップをしてきたり、時々江の島・鎌倉界隈界隈に出向いて大量に撮ってきた写真のレタッチをしたり、それらの写真を題材にして文章を書いたりして日中の暇な時間を潰してきた。このブログに月間10万字以上書いているようなことが何度もあった。このブログは私にとってもっとも有用な「暇つぶし」の場であったのである。

しかし、今年はほとんど写真を撮っていない。それでも、指折り数えるほどではあれ4月末までは何度かはスナップをした。昨年までに比べるともの凄く少ない数になったし、1回に撮る枚数も大きく減ったが、それでもまだ4月末までは何度か写真を撮っていた。最後に撮ったのは5月12日。用事があって吉祥寺に出掛けたついでに井の頭公園によって写真を撮った。その時には直後に女性ポートレートを撮影する予定が入っていたのでレンズのテストをするために撮影した。”ある条件の光”で撮った時の"写り具合"を知りたくてテスト撮影をしたのである。それが最後。

写真を撮ることを辞めてしまったので「することがなくてひま」な時間が増えた。大幅に増えた。今年は毎日1冊のペースで本を読んではいるが、それぐらいの量では暇な時間の半分ほどしか潰すことが出来ない。1〜5月の5ヶ月間は月間25〜27冊ほどのペースで読んだ。この程度であれば夜の9時から午前3時までの6時間だけ読んでいればなんとかなる。となると、日中はまるまる「することがなくてひま」になる。しかし、今年は目のコンディションが悪化したので、日中から読んでは休み、読んでは休みという読み方をせざるを得なくなった。だから、日中が丸々ひまになると言うことは避けられているのだが、昨日今日のように日中はまったく読む気になれない状態に陥ると「することがなくてひま」な状態になる。

そうなるとやれることは一つしかない。文章を書くことである。文章を書く際にはモニタを注視しないので眼のコンディションの不調はそれほど問題とはならないのである。仮に注視したとしても1度に書く文章の量が2,000字程度であればたいした量ではない。本を1時間読めば3万字ほどは読まなくては成らないし、読むとき注視せざるを得ない。眼を「使う」度合いが全く違うのである。書いているときにはほとんど「読まず」に書いて、最後に誤字脱字をチェックするために通読するという書き方をすることが多い。その場合、読む時間は5分10分で、文字数は1,000字とか2,000字で済む。しかし、2,000字書けば少なくとも30〜40分は暇を潰せるし、誤字脱字を直したりすれば小一時間の暇つぶしになる。

最近はタイプのスピードが相当遅くなった。軽い神経障害があるため以前に比べて指が思うように動かなくなったのである。そのためミスタッチが増えた。結果、文章を書くスピードがかなり遅くなった。おかげで(?)この程度の文章を書くのに1時間近く潰せる(笑)。

さてと、少しは本を読むことにしようか。


by dialogue2017 | 2019-07-18 15:00 | 閑話 | Comments(0)

閑話(83)

とても良い天気だ。リビングの室温は21.9℃もある。外気温は18℃。今日が好天となり気温が20℃近くまで上がることは数日前から分かっていた。で、今日こそは江の島・鎌倉界隈界隈に出掛けてみようと思っていた。年が明けてからほとんど歩かない生活をしているので歩きたいのである。江の島・鎌倉界隈界隈に出向くと少なくとも7〜8kmは歩く。10km以上歩くことも珍しくない。歩くために出掛けていると言っても良い。

ただ黙々と歩くと言うことは無い。いつも写真を撮りながら歩いている。実際には写真を撮ると言うことの方が大きな目的なのだと思うけれど、歩くこと自体が好きなことは確かだ。20代30代の20年間はカメラを持たずに鎌倉に通っていた。そのころはただブラブラと歩いただけだった。40代は良く山に登った。ちょっとした山だと5〜6時間は歩く。しかもかなり勾配があるところを歩くのだから結構しんどい。それでも山歩きが好きだった。ようするに「自然」が感じられるところで歩くことが好きなのである。東京都内を歩いても楽しくない。

いや、写真を撮ることを目的に歩くのであれば、東京都内を歩いてもそれなりに楽しく歩くことはある。代官山界隈とか、青山界隈なんかはわりと好きだ。六本木や麻布あたりも裏路地を歩くとそれなりに楽しい。しかし、よほど写真が撮りたいと言う気持にならない限りわざわざ出向くことはない。新しいカメラやレンズを買って、どんな風に写るか早く知りたい、そんな時ぐらいしか都心でスナップをして歩くことは無い。江の島・鎌倉界隈界隈が好きな理由はそこが都心ではないからだ。海があることが一番だけれど、町の雰囲気も好きだ。歴史がある町というのは人間の心に馴染むのだと思う。それと、「江ノ電」が走っているというのが素晴らしい。京都だって「市電」が走っている時代の方が素敵だった。路面電車が走っている光景というのはノスタルジックなのである。多くの場合、写真を撮る動機には「ノスタルジ−」が孕まれている。人間というのは、「失われていく」モノに対して愛着をおぼえるものだから。

昨年12月の初旬に2泊3日で京都に行ってきた。京都には50回以上行っている。いままで一緒に京都旅行をした女性は8人ほどいる(笑)。古い話になってしまうが、いずれも相手の女性が20代の頃の話であるので、とても楽しい思い出が沢山ある。私は「一人旅」が好きだ。旅は一人旅が一番だと思っている。京都にも一人で行っている回数の方が多い。しかし、京都に限っては女性と一緒の方が楽しい(笑)。12月の京都はとても楽しかった。なにせほとんど写真を撮らなかったほどだから(笑)。

京都から帰ってきてから3ヶ月半になる。この3ヶ月半、あまり写真を撮っていない。旅行先ではある程度撮っているが、それでも今までに比べると撮影枚数はかなり少ない。半分以下だ。東京にいるときにはほとんど写真を撮っていない。正月に初代のα7がどれくらい写るか、古いマニュアルフォーカスのレンズがどの程度の描写性能か知りたくて3回ほど自宅近所でスナップをした。その後にもなんどか自宅近所で花の写真を撮ったりしたが、そういうのはだいたいカメラやレンズの「テスト」みたいなもので写真を撮ったと言う実感が無い。

3ヶ月半、あまり撮る気が無かった。それについては先日理由を書いた。「撮りたい」から「撮りたくない」のだと。つまり、「卑近な写真は撮りたくない」と言うことである。私は、写真を撮っている時が楽しくて写真を撮っているというタイプ。結果としての写真に対する拘りはそれほど強くない。奇麗に撮ろうと心がけて撮ることもあるけれど、なんとはなしに漫然と撮っていることの方が多い。もちろん、それなりのキャリアがあるのでなんとはなしに撮ってもそれなりには撮れる。しかし、上手に撮れているかどうかはさほど重要なことでは無い。綺麗な写真なんて撮ろうと思えばいくらでも撮ることができる。でも、私は楽しい時間を過ごせればそれで良いのである。海鮮丼を食べたり、海の見えるベランダ席でワインを飲んだり、趣味の良いJAZZが掛かっているしゃれたカフェで本を読んだりする時間が好きなのである。

江の島・鎌倉界隈界隈で写真を撮ることは楽しい。20年間、カメラを持たずに楽しく歩いたくらい好きな土地である。写真を撮りながら歩いたらとても楽しいに決まっている。私だって「良い写真」を撮りたいと思って撮る(笑)。ただし、丁寧に撮ることはあまりない。スナップというものは丁寧に撮るものじゃないというのが私の信条だから。

私は、スナップ写真というのは、「ああ、この写真良いじゃない」と撮った後に見た時に気づくのが楽しいと思っている。仕事で撮っているわけじゃ無いんだから、スナップなんて適当に撮れば良いと思っている。だから、ファインダーの中できっちり絵を作って、念のためにブラケッティングして2〜3枚撮るなんていうことはやったことが無い。7〜80%のカットは撮り直しをしない。1枚撮ったらそれで終わり。撮った後にプレビューを見ない(ミラーレスの場合撮る段階で分かっているので確認する必要が無い)。そういう撮り方はフィルムで撮っているみたいで楽しい(笑)。そういこともあって、EPSON R-D1sが一番好きだった。あのカメラは背面モニタをクルッと回して隠してしまうことが出来るのである(こんな風に)。そうやったらもうフィルムカメラと同じ。R-D1sの最大の長所はそこ(笑)。

今日は江の島・鎌倉界隈界隈に行くつもりだった。日中の最高気温は19℃になるという予報である。風も1〜3m/s程度しか吹かないという予報である。こんな日に波打ち際を歩いたらとても楽しいと思う。私は春が一番好きなのだが、まだ春になる前に「春の訪れ」を感じられる時期というのはある意味春以上に素敵だと思う。今日はまさにそういう日だと思う。

今日はα7Ⅲを持って行くつもりであった。12月2日に購入して3ヶ月半が過ぎたがまだ1,000枚撮っていない。私は2泊3日の家族旅行で1,000枚撮ることが珍しくない。今年α7Ⅲは二度旅行に持って行って使った。それでまだ1,000枚撮っていないのである。そもそも、京都旅行に間に合うように買ったにも関わらず、京都ではほとんど写真を撮らなかった。写真を撮る暇が無かったから(笑)。

α7Ⅲはとても良いカメラである。性能が良いと言うことはもちろんだが、撮る気になるカメラである。シャッターフィールが心地よいのである。ボディと一緒に購入した3本の単焦点レンズの性能はピカイチだ。3本とも、いまのフルサイズセンサー用レンズの中では最高峰のレンズと言って過言では無いだろう。私は「ZEISS信者」という訳では無いが、なんだかんだ言って「世界に冠たるZEISS」というのは否定し得ない事実だと思う。そして、そのZEISSを凌いでいるのでは無いかと思われるのがSONYのG Masterレンズである(SIGMAのArtシリーズも素晴らしいと思う)。

私はこの素晴らしいカメラとレンズをまだほとんど使っていない。なんどか試し撮りをした程度である。自分の実感としては、昨年12月の夕暮れから日没直後に掛けて、代官山・渋谷界隈で「テスト撮影」をした1度しか使っていないという感じである。1月の長野でも、2月の新潟でもちょこっとしか撮らなかったし、どちらもFE24-105mm F4 GMで撮ったのであまり楽しくなかった。FE24-105mm F4 GMだってかなり優秀なレンズなのだと思うけれど、ズームレンズでのスナップというのはあまり楽しくない。

私の場合、ズームレンズというのは明確な使用目的がある場合に使うレンズなのである。まず家族旅行。家族旅行では基本的にズームレンズを使う。なぜなら「記録」が目的の撮影だから。あれこれ記録するには「広角」からある程度「望遠」までをカバーしてくれるズームレンズが一番便利だ(我が家の場合旅先はフィールドなので広角系ズームの方が便利)。二つ目は「風景写真」。風景写真の場合被写体との距離感を自由に調節することができない。だからズームレンズを使う方が理にかなっている。3つ目はポートレート。私はポートレートこそ絶対的に単焦点レンズという考えである。だからいままで一度も24-70mm F2.8というスペックのレンズを買ったことがない。借りて使ったことさえ無い。

しかし、24-70mm F2.8はポートレートを撮るには最高に便利だ。1本だけでもなんとか撮れてしまうと思う。極論すれば、大きなボケで見せたいカットだけ単焦点レンズを使って撮影し、それ以外は全部24-70mm F2.8で撮るのが一番効率が良いと思う。いちいちレンズ交換なんてしていたら素敵な表情を撮り逃すし、35mmならバッチリ撮れると言うシチュエーションの時カメラに50mmや85mmが着いていたら撮れないのだ。だから私は基本的にカメラ2台持ちなのだけれど、単焦点レンズを付けたα7Ⅲを2台持ったら3kgになってしまう。いくら何でも無理だ。だから、大きなボケで見せるカットは大口径単焦点レンズで撮影し、動きの中で撮るカットなどは24-70mm F2.8で撮るというのが効率的なやり方だ。フルサイズセンサーのF2.8はかなりボケる。撮り方次第では相当ボケる。ほとんどの写真はF2.8で十分だ。私は大口径単焦点レンズで撮る時にもあまり開放は使わない。開放F1.4のレンズの場合、F2.0〜F2.5を使うことが多い。だから、F2.8あれば半分以上は賄える。

上の文章に続けてレンズはどういう風に選ぶべきかという話を2,601文字書いた。ところが、その話は終わりが見えてこなくてまだまだ続きそうな情況であった(笑)。で、その部分は棄てることにした。

今日は鎌倉界隈界隈に行ってみようと思っていた。写真が撮りたくなったのだ。自分自身が撮りたくなったというのもあるが、flom_vixen君や0123okkun、そしてなによりもshi-photo君に過去の古い写真では無く撮りたての写真を見せて上げたいと思ったのである。というのは、shi-photo君が「苦戦」しているからである。昨日も書いたけれど、カラー写真って難しいんだよ。今のカメラは本当に優秀で、普通に撮っても綺麗に撮れる。だから、普通に撮ったのでは「普通に奇麗」な写真にしかならない。わかりにくい表現をしているが、もう誰もが綺麗な写真を撮れる時代なのである。だから、「普通以上」の写真を撮らないと「素敵な写真だ!」とまでは感じない。いや、普通の写真にも素敵な写真はあるのだけれど、ワンランク上だと感じる写真というのは誰もが撮れるわけではない。

「誰もが奇麗な写真を撮れる時代になった」ということ自体は事実であるが、現実的な話をするとなかなか綺麗な写真を撮ることが出来ない人々が沢山いるのも事実である。「誌上レッスン(19)」の0123okkunk君の写真が我々に厳しい現実を教えてくれている(笑)。「誌上レッスン(18)」に掲載したfrom_vixen君の写真は良い写真だと思うけれど「色合い」が良くなかった。本人も私がレタッチした写真のほうが奇麗だと感じたそうだ(それはそうだ)。奇麗に撮るって結構難しいんだね(笑)。

結局長話になってしまったけれど、ようやく写真が撮りたいという気持ちになってきた。それでもまだ「別に撮らなくてもいいや」という気持の方が大きい。撮りたいのはポートレートなのだ。スナップとポートレートには決定的な違いがある。スナップは自分で好きな光を作って撮ることはできないけれど、ポートレートは自分でライティングできる。ここでいう「ライティング」とはストロボを使うとか、レフ板を使って光を作るという意味ではない。100%アベイラブルライトで撮影するとしても、ポートレートと言うのは自分で「光を作って」撮っているのである。モデルを何処に立たせるか、どういう向きで立たせるか、それに対してどういうアングルでレンズを向けるか、どういう露出にするかで写真が大きく変わる。

もうひとつ決定的な違いがある。"そのモデル"を撮っているのは私一人だと言うことである。鎌倉を撮っている人は数えられないくらいいる。新宿を撮っている人も沢山いる。しかし、「彼女」を撮っているのは私一人である。話はそこで終わらない。人間を撮るのと人間以外のものを撮るのは全く別なことだ。人間には「感情」があるから。スナップで撮る被写体には「心」はない。風景を撮った場合、0123okkun君が撮った時には不機嫌そうにしていたけれど私が撮ったら嬉しそうに撮られてくれたと言うことは起こらない(笑)。しかし、人間という被写体には「心」がある。誰がレンズを向けるかで撮られる側の「気持」は変わる。だから、ポートレートの場合、撮り手とモデルの「関係性」というものが絶対に写真に現れる。こここそがスナップとの決定的な違いである。

私はスナップをすることが好きだ。たわいの無い写真を撮っても楽しいと思うし、そういう写真に愛着を覚えることもある。それが少なからず陳腐な写真であったとしても、自分が撮った写真というものは「我が子」のようなものだ。できが悪くても自分の子どもが可愛いのと同じように、自分の撮った写真というものは可愛いものだ(まあ、ある程度の水準以上の写真でなければあまり可愛くないけれど)。しかし、ポートレートを撮る楽しさというのはスナップとは比べられないほど大きい。モデルが、とても可愛らしい女性であればなおさらである。まして、「こんな風に写真を撮って貰っている時ってものすごく幸せな気持」と言ってもらったら、他に何も撮らなくても良いと思う。そういうこと(笑)。

と言うわけで、今日もまた鎌倉には行かなかった。

(5,091文字) ああ、2,601字削除したのにまた5,000字書いちゃったか。最近は「一口上」5千字だな〜(笑)。この一文を書いたのは昼過ぎ。


by dialogue2017 | 2019-03-20 16:00 | 閑話 | Comments(1)

閑話(82)

雲一つ無い快晴だ。風も無くとても暖かそうだ。これだけ良い天気だと家の中に籠もっているのは間違っていると思う。外に出たいと思う。少し歩きたいのでもういちど井の頭公園に行ってみようかと思った。土曜日は曇天だったので写真を撮っていていまひとつ楽しくなかった。今日の天気なら土曜日よりもっと楽しく写真を撮ることが出来るだろう。Planar T* 50mm F1.4 ZAで撮ってみたいと思う。他にレンズを持って行かなければ重いと言うほどではない。天気が良くても枯れ木だらけで殺風景であることに変わりない。また花ぐらいしか撮る気にならないかもしれない。Planar T* 50mm F1.4 ZAの最短撮影距離は45cm。45cmまで寄れれば何とか撮れる。少なくともXF56mm F1.2 Rに比べたら遙かに使い易い。同じ花を撮っても50mmなら土曜日とは違った撮り方ができる。いや、写真などはどうでもいい。この天気だと歩くことが楽しいだろう。

しかし、迷いに迷った挙げ句出掛けるのは辞めた。写真を撮りたくないと思ったからだ。井の頭公園に行きたいと思った理由は「写真が撮りたい」からである。土曜日にあまりにもつまらない写真を撮ってしまったので今日はもうちょっときちんとした写真を撮りたいと思ったのである。しかし、良く考えると結局つまらない写真しか撮れないだろう。そう思って辞めた。行けば楽しいことは間違いない。今日みたいに天気の良い日に歩くことは心地よい。別に良い写真なんか撮れなくても構わない。私は写真を撮っていれば楽しいのだから。「つまらない写真」というのは撮ってきた写真に対する評価であって、「写真を撮る」という行為を行っているときには楽しいのである。写真を撮る動機なんてそれで十分だと思う。

それでもやはりいまは「つまらない写真」をあまり撮りたくない。いま撮りたいのは「素敵な写真」である。この3ヶ月間頭の中で何度も撮ってきた「素敵な写真」を現実のものとして撮ってみたい。しかし、撮影を始めるのは4月からと決めているのでいまは撮ることが出来ない。そして、「寝かせておく」ということは大事なことなのだ。「撮りたい」という気持ちはもうはち切れるほど膨らんではいるが、もう少し自分を「じらして」も良いと思っている。極端なことを言えば、この「夢」は「夢」のまま実現させず、もっと長い期間「夢」として抱いていても良いような気さえする。

どうしても欲しいものが手に入らないとか、やりたいことがどうしてもできないとか、そのことがとてももどかしいのだけれど、そのもどかしさにさえ「愛おしさ」を感じるそういう時というのは一番「幸せ」な時かもしれないと思う。なにかに「焦がれ」たり、なにかが「待ち遠しい」というような感情はもう長い間抱いたことが無かったような気がする。

何もかもが上手く行っているというわけではない。5年前には会社が倒産の危機に襲われたし、その直ぐ後にあれこれいくつもの「病気」が見つかった。気持ちは青年時代とそれほど変わっていない。若いときのように燃えるような情熱を抱いてはいないが、情熱を失ったわけではない。いま心の奥底に潜んでいる情熱は、若い頃に抱いていた情熱より深く粘り強い情熱ではないかと思う。つまり、心はいささかも老いていないということだ。

しかし、身体は確実に老いている。日常生活に大きな支障が生じるほどひどく老化しているわけではないが、日々の生活の中に小さな「不快」が増えている。ひとつひとつのことは小さなことなのだけれど、日になんどもウンザリする思いをしていると心が萎える。年々、無欲になっているのは、もしかしたら「小さな諦め」が積み重なったことの結果なのかもしれない。ようするに、何もかもが上手くいっていると言うわけでは無いのである。年を取るということは、基本的には「悲しい」ことだと思う。

しかし、それなりに豊かな暮らしを送っている。だいたいが、私はほどんと働かずに生きてきたのだから、そのこと一つとってもこれ以上無いと言って良いほど恵まれているのである。毎日好きなことをやって暮らしていると言うわけではないが、少なくとも嫌なことはほとんど何もせずに暮らしている。いや、これまでの61年間の人生で嫌なことなんてほとんどやったことが無い。客観的に評価すれば、私はかなり恵まれた人生を送っていると言って良い。いや、これで恵まれたと思っていなければ罰が当たるだろう。

私はせっかちで、どんなときにも即断即決したいという性格である。ファミレスで注文する料理を決めるのに30秒以上掛かる人間が全く理解出来ないし、赤信号の先頭で信号が青信号に変わって発信するまで1秒以上掛かる人間も理解出来ない。Yシャツ2枚とネクタイ2本を買うのに5分あれば十分だ(Yシャツやネクタイなんてもう10年ぐらい買ったことがないけれど)。日々の生活の中で必要な「判断」なんてすべて3秒あれば事足りると思っている。その内の半分以上は1秒要らないと思う。なにかをじっくりやると言うことがほとんど無い。いや、出来ないのである。そういう性格というのはフォトグラファーには向かないと思う。最も向かない性格だろう。

若い頃にはとにかく「待つ」と言うことが苦手だった。いまでもその性格は変わっていない。ただ、年を重ねたことによっていくらか我慢できるようになったと言うだけのことである。そういう性格なので「じっくり待つ」ということをしたことがほとんど無い。でも、「待つ」というのはとても素晴らしいことなのだろうと思う。もちろん、なにを「待つ」か次第であるが、「待ち焦がれる」ということは間違いなく素敵なことだろうと思う。そもそも「焦がれる」ほどの対象を持てると言うことはもの凄く幸せなことだと思う。だから、1年ぐらい待っても良いと思う。

「撮りたい」という思いははち切れそうなまでに膨らんだ。撮り始められないことがもどかしかった。しかし、この「もどかしさ」に身を委ね続けていたいような気もするのである。「口達者」な私であるが、この気持ちを上手く言葉にすることができない。じっくり考えてみれば文章にできると思うが、そういうことをしたくない。要するに、いまの私は、自分の「思い」を形にしたくないと思っているのだと思う。「思い」を「文章」であるとか「写真」という「形」にしてしまうことに小さくない違和感を感じているのだと思う。「形」にして表現してしまうと「思い」が「思い」でなくなってしまう様な気がしているのだろうと思う。文章に置き換えたり、写真で表現するのではなく、自分の心の中でフワフワと「思い」が漂っている状態が心地よいのかもしれない。こういう感覚はいままで一度も持ったことがなかった。

いま撮ってしまったら、なにかが止まってしまう気がするのである。このまま撮らずに「思っている」状態を続けていれば、いま心の中にないものがまだ生まれてくるような気がするのである。私の「思い」はまだ発酵し切っていない。このまま「放置」しておけば、もっとまろやかに発酵を続けるだろうと思う。だから、もっと発酵してから撮り始めたいと言う気もする。

1年ぐらい全く写真を撮らず、その間、ずっと写真について考え続けてみたい気がする。その間、他者が撮った写真を沢山見て、自分の写真は頭の中だけで撮る。別に期間を区切る必要は無いが、しばらくの間そういうことをしてみたいと思う。なぜそんな気持ちになったのだろう? 理由は、私が写真について考え始めたからである。写真について、真剣に考えたことなんて無かった。写真なんか撮っているときに楽しければそれで良かった。「目指す」ものなど何もなかった。しかし、いまは違う。なにを目指しているのか自分でも全く分からない。ただ、「向こう側」に行ってみたいという気持ちが芽生えたことは間違いないと思う。

もう「ここ」には興味がなくなったんだ。

(2,945文字)



by dialogue2017 | 2019-03-18 14:00 | 閑話 | Comments(2)

閑話(81)

やることが無い。珍しく目のコンディションがあまり悪くない。いや、ほぼ正常と言って良い。こんなことは実に久しぶりである。最近はまったく苦痛なしに本を読めることは滅多にない。しかし、今日は本を読みたいと思わない。いや、そもそも日中はあまり本を読まないのである。夜家族が就寝して家が静まりかえってから読み出すのである。ここ数日に読んだ本には面白い本が多かった。この本は読んでおいた方がいいよと紹介したい本を続けて読んだ。医学に関する本が2冊、アメリカ論が1冊、日米関係論が1冊。この4冊は紹介したいと思うのだが、文章を書くのが面倒である。

もともと面倒くさがり屋で「明日できることは今日やらない」という生き方をしてきた。これはもの凄く困った性格である。なぜなら、ほとんどのことは「明日できる」ことなので「今日やらない」で「明日」に回すことばかりとなる。延々と「明日」に先送りして「今日やらない」ではなく「なにもしない」となってしまうことばかりとなる。いや、私はそもそもやるべきことさえやらないのである。最近の最大の懸案は老眼鏡を作ることである。書棚の件も、アンプの件も、その他にも解決すべき問題が山積みだ。

面倒くさがり屋なのだが執着心は強い。自分では適当にやっているようなことでも周りの人間からは凄い執念で取り組んでいるように見えるそうだ。たしかにそうだろうと思う。基準が全く違うのだと思う。好きでやることについてはそれなりに煎じ詰める方である。しかし、およそなにに対してもトコトン本気になったことがない。いや、正確に言うと「恋と革命」以外に対してはということであるが。

「恋と革命」以外で一番好きなことってなんなのだろう? そんなこと考えたこともなかった。ふとそんなことを思って直ぐに出てきた答えは「文章を書くこと」であった。写真を撮るか、文章を書くか、どちらかしかやってはいけないと言うことになったら迷うことなく文章を書くことを選ぶ。写真なんて撮らなくても構わない。文章を書くことと本を読むことのどちらか一方を選ばなければならないとしたら悩む。いや、迷うことなく本を読む方を選ぶが、文章を書くことを棄てるというのはそうとう辛いことだと思う。まあ、そんな二者選択を問われることはないからよいが。

鎌倉に行かないまでも、せめて新宿ぐらいまで出掛けてみようかと思った。韓国料理を食べたいと思ったからである。しかし、わざわざ出掛けていくことが面倒に感じられる。こんな時、アンプが壊れていなければ音楽を聴くだろう。音楽を聴きながら本を読むと言うことはしない。音楽を聴くときは雑誌を見る。買ったのにまったく読んでいない雑誌が何冊かある。『日本カメラ』はペラペラと2〜3分眺めて放り投げたきりである。ちょっと前に買った『フジノンXF LENS BOOK』も掲載されている写真を見ただけで文章は全く読んでいない。あれに掲載されていた「作例」写真にはかなりガッカリした。つまらない写真が少なくなかったと言うことも残念であったが、そのレンズの持ち味を伝えるという目的に十分かなっていない写真が目立ったことがとても残念であった。それで文章を読まずに放り投げたままである。今日みたいな日には、音楽を聞きながらそういう雑誌の「処理」をするのに向いている。本は読みたくない、しかし出掛けたくもないと言う日の暇つぶしには音楽と雑誌が一番である。

心が健康であれば文書を書くところだ。しかし、心が病んでいるのである(笑)。なにもかもにウンザリしているのである。なにせ、人間というものにたいしてトコトンウンザリしているのだからどうしようもない。もちろん、一番ウンザリしているのは自分自身に対してである(笑)。だからここ最近は文章を書きたいという気持ちがなかった。文章を書くというのは「自己表出」以外の何もでもないから。

結局なにが一番ひっかかっているのか? 考えてみるまでもなく「人間」というものの「愚かさ」についてである。この1週間ほどは、日米関係論を読んでいた。「日米安全保障条約」や「日米法的地位協定」などについて読んでいた。日米関係そのものについての関心ではなく、この先2〜30年に世界がどのように動いていくかと言うことを考える基礎として日米の同盟関係について学んだのである。特に新しい知見に触れることはなかった。ほぼ既に承知している事実を再確認したのであるが、その現実の「絶望的な根深さ」を痛感させられたと言う意味においてかなり強いインパクトを受けた。我が国には「変わる」力が全くないと言うことを思い知らされたのである。我が国の行く先の決定権を握っているのはアメリカなのである。このあとアメリカ論と、中国論を読むつもりであるが、それをやることによって「絶望感」は確実に深まるだろう。この20年間ずっとそれを続けて来ているわけで今更ではあるのだが、確実に積み重なっていく「絶望感」は私を蝕まずにはおかないだろう。まあ、いまさらだけれど。

人類史全体の行方がどうなるかはさておき、この先20年30年と言うことを考えたとき、我が国の「没落」は避け得ないだろう。国際社会におけるプレゼンスは暴落し、経済的にも中国に圧倒的に敗北していく可能性が高い。世界体制は米中関係を基軸に展開していくだろう。それにロシアと欧州がリンクしていく。我が国は完全に「蚊帳の外」の存在となる。アメリカの「属国」でしかないのだからそうなる以外にない。私自身は20年後30年後に生きている可能性はほとんど無いだろうし、仮に生きていたとしても死を待つばかりの存在となっているのでこの国がどうなろうと全く構わない。しかし、子どもたちの世代のことを思うと心が重くなる。国際社会における地位が下がろうと、経済的に下落しようと、それなりに人間らしさのある社会であれば構わない。しかし、20年後の我が国はとんでもなく酷い社会になっているだろうと思う(いまでも十分なっているけれど)。

ただ、今の私の「病」はそういう大きな問題から生じているのではない。もちろん、心のベースに人類と世界史に対する絶望があるというのは小さなことではないだろう。しかし、人間というのは「卑近」なことで悩むのである。凡庸な一個人は世界史的課題で思い悩んだりはしないのである。ひとは、自らの力で解決不能な問題につていは悩んだりしない。一個人が思い悩むのは、悲しいくらいたわいのない些細な問題によってである。

で、それはなんのか? 根本的には人生に「大きな目標」がない「喪失感」にある。世界を変え得ないということは私にとっては自分の人生への「絶望」である。歴史から切断されたところでの一個人の人生などというものは実に些細なものである。もちろん、それで構わない。一人の人間にとってはその「些細な人生」が最も大切なものであって当然である。ただ、私はそういう人生観を持っていなかったというだけのことだ。

一個人に、否応もなしに「歴史」が背負わされるような時代に生きたかった。私はいかなる意味においても太平洋戦争を肯定的に評価する積もりはない。しかし、あの時代に「国の将来」を背負ってたたかった軍人の中には少なからず肯定的なものを見ている。あの戦争自体は完全に過ちであったと思うが、あの時代の軍人が「天下国家」を背負って命を掛けてたたかったことを軽々に否定することはできない。もちろん断罪される以外にない軍人や政治家は沢山いるが、そのような指導者でさえ100%頭の先からつま先までを否定しきれるとは思わない。辻政信あたりは弁護の余地が何処にも無いと思うが、東条英機などは気の毒だったとも思う。小さな器の人間がああいう立場に着いたのは彼自身にその責任の全てを帰することができないと思う。東条は「我が国」そのものだったのだと思う。東条=日本人であったと言っても良いだろう。私に言わせれば、東条に対する断罪は日本人総体に対する断罪であるほかない。日本人は東条に引きずられて戦争したわけではない。むしろ、東条を突き上げさえしたのであった。

一応「乱暴な意見」であると断った上で語るが、「趣味」などというものは人生の「空しさ」を穴埋めするためのものでしか無いと思う。私の「病」はそのことを知っていることにあるのだと思う。せめて、そのことに対して本気になれれば思い悩むことはないだろう。私は人生の空しさを穴埋めするということを否定している訳では無いのである。そういう「慰め」というものが人生には不可欠だと認めるに吝かでない。「大義」などには100%目を瞑って生きる人間を断罪しようなどとは思っていない。少なめに見積もっても世の中の90%人間というのはそういうものでしか無いのである。それが人間である。私にとって耐え難いのは、自ら選んだ「慰め」に対してさえあまりにも薄っぺらにしか取り組まない人々が溢れていることである。しかし、これも致し方ない事である。大仰に言えば、それはグローバリズムの帰結であるのだから。

社会のデジタル化は人間の「薄っぺら化」に拍車を掛けた。「デジタル」的世界の全てが「薄っぺら」だと言うつもりは無い。「深い」ものも沢山ある。私はデジタルテクノロジーを全面否定しているわけではない。しかし、社会のデジタル化は大多数の人間を軽薄化していると断じて間違いないだろう。デジタル化の特徴は、多くの物事を「お気楽」「お手軽」にすることなのだから理の当然である。

ようするに、私は自分自身が撮った写真を含めた「デジタルフォト」の「お気軽さ」と「お手軽さ」に強い違和感を感じているのである。この文章を書き始めたとき、こういう結論を書こうと思っていたわけでは無かった。いや、なにについて書くかさえ頭の中にはなかった。書いたから出てきた答えだったのである。

問題は、「向こう側に行く」ということに対して本当に強い欲望を持っていないことだ。「向こう側に行く」という目的を持たずに写真を撮り続けることに拭い去りえない違和感を持ったのである。いや、そんなものはずっと前からあったのだが、それが「飽和点」を越えたと言うことである。越えてしまった直接的な原因は「本気で撮ってみよう」と思ったことである。まだその気持ちは残っている。残っているから「病んだ」のである。果たして写真を撮るなどと言う程度のことに対して本気になることに何の意味があるのだろうか? もちろん、ほとんど意味が無いことであることは初めから分かっていたことである。しかし、私は「抗えない」ものとしてそれに捕らわれたのである。

何もかもを「春が来るまで」と先送りしたのはそういうわけであった。しかし、もう目の前に春が来てしまった。困った。さてどうしよう?


by dialogue2017 | 2019-03-17 16:00 | 閑話 | Comments(0)

閑話(80)

今日は、江の島・鎌倉界隈界隈に行くつもりであった。昨年の11月17日に行ったのが最後なので丸4ヶ月間行っていない。年が明けてからはほぼ「引き籠もり」の生活を続けている。夕刻に自宅近くのスーパーに食材を買いに行ってくることを別にしたら家を一歩も出ない日が多い。家の中に籠もっていたいと言うわけではない。行きたいところ、やりたいことがないのである。月に1〜2度、用事があって都心まで出ることがある。ちょっと前までは、そういうときにはブラブラとスナップしたり、ヨドバシカメラを覗いて見たり、気が向けば夜JAZZのライブを聴きに行ったりしていたのだが、最近はそういうことが面倒に思える。

私が家に籠もっている一番の理由は出掛けたい場所がないからだ。東京都内は好きではない。用事があって出掛けた帰りにブラブラすると言うのであればまだしも、わざわざ出掛けていきたいところなどない。見て見たいと思う写真展は常時あるのだが、わざわざ出掛けて行ってまで見たいと思わない。いや、出掛けて行ってみようと思う写真展もあるにはあるが、気がつくと閉幕している。それでもこの2〜3年はよく足を運んでいる。以前はせいぜい年に2〜3回しか行かなかったから。写真展を見るより「絵画」を見る方が好きだ。しかし、わざわざ鑑賞に出向くことはほとんど無い。美術館に入るのは旅先でくらいだ。

東京近郊で唯一好きな場所が江の島・鎌倉界隈界隈である。なにがどうだというわけでもないのだが"気持ちに馴染む"のである。敢えて言えば「都会的」じゃないからだ。私はそんなに海が好きだというわけではないのだが、やはり海があると言うことが大きな魅力だと思う。もし、海がなければ江の島・鎌倉界隈界隈に出向くことなどあまりないだろうと思う。と書いて思い出したが、海辺を歩くようになったのはこの2年程である。もちろんそれ以前にも海辺には行っていたが、以前はどちらかというと神社仏閣を訪ねることの方が多かった。しかし、著名な寺には一度ならず行っているので近年はあまり足を運ばなくなった。

先日、2001〜2007年の写真が収録されている外付けHDDの中の写真を眺めていた。鎌倉界隈に足を運んでいる回数はかなりあったが、2006年以前はあまり写真を撮っていない。長男が生まれる2005年8月以前は妻と二人で出かけていることが多いのだが、2001年の2月以後は毎回デジタルカメラを持って出かけているにも関わらず、1日に2〜30枚しか撮っていない。しかも、その半分から2/3ぐらいは妻を撮った写真で、スナップ写真のような写真がとても少ない。どうしてそうなのか考えてみたが、この頃はデジカメで写真を撮ることは「メモ」だとしか考えていなかったのだ。

話を戻そう。東京近郊で唯一好きな場所は江の島・鎌倉界隈界隈である。2年程前からは海岸線を歩くようになった。新宿から小田急線で片瀬江ノ島に出て、まず片瀬海岸東浜に行く。そこから由比ヶ浜まで浜辺を歩く。6kmほどの距離であるが、写真を撮りながら2時間ほど掛けてノンビリと歩く。由比ヶ浜に着くと馴染みのタイ料理屋さんに行ってなにか料理を1品頼み、ベランダ席でワインを飲みながら本を読む。時々顔を上げて目の前の由比ヶ浜を眺める。なんども書いた話であるが、20代30代の20年間はカメラを持たずに通っていた。その時代は、お寺などを訪ねて周り、料理が美味しそうな店でランチを食べ、雰囲気の良い喫茶店に入り本を読んだ。そのあとまたお寺に足を運び、そして二軒目の喫茶店に入ってまた本を読んだ。いつもそんな風に過ごしていた。

その時代にはスマホがなかった。インターネット自体が無かった。いや、パソコンさえ使っていなかった。出先でやることは、「歩くこと」「見ること」「食べること」「飲むこと」、そして「読むこと」だけだった。カメラを持って出向くようになったのは2001年2月以降である。2001年1月から現在の妻と暮らし初め、彼女がその直後にデジカメを買ったからである。しかし、上に記したようにその当時は「メモ」程度の写真しか撮らなかった。写真を撮ると言うことが出掛ける目的の半分ぐらいになったのはEPSON R-D1sを使い始めてからだったと思う。R-D1sが一番楽しくスナップできる。だから、LEICAのデジタルカメラを使っている人の気持ちはよく分かる。スナップを楽しむにはレンジファインダー式カメラに優るものは無いと思う。だから、X-T2・X-T20ではなくX-Pro2だったらもっとスナップすることが楽しいだろうと思う。たとえAFレンズであろうと、「素通し」の光学ファインダーを覗いて写真を撮るというのは気持ちが良いことだから。

書いていてX-Pro2を買ってみようかという気になった(笑)。もちろん買わない。買ったら写真を撮ることがもっと楽しくなるだろうと思う。それは新しいカメラを手にしたことによる一時的な新鮮さ故ではない(α7Ⅲを買っても全然そんな気持ちにはならなかった)。もっと「本質的」なところから来るものだと思う。それは、素通しのファインダー越しに世界を眺めることの心地よさなのだと思う。きっちりしたフレーミングができないというアバウトさも気持ちよい。スナップ写真なんて適当に撮るものだと思う。きっちり構図を整えて撮るなんて言うのは「邪道」である。私に言わせれば、スナップ写真というのは「乱雑」に撮るのが正しいのである(笑)。

「良い写真を撮ろう」などと思った時点でアウトである。スナップは「無心」で撮るものである。本当に「良い写真」というのは結果として「撮れていた」という形で生まれるものなのだ。そういう写真には、狙って撮った写真にはない素晴らしさというものがあるからだ。モデルやタレントの写真集を見ていると必ず何枚かぶれた写真やピントが外れた写真が掲載されているものだ。なんでぶれていたりピントを外した写真を載せているのかというと、他の写真より断然良い写真だからである。そういう写真というのは「計算通り」には撮れなかった写真である。あるいは、咄嗟に撮った写真である。そこには間違いなく「無造作さ」が現れている。だから素敵なのである。

ああ、書こうと思った話とまったく違う話を書いてしまった。しかし、そんなことより、文章を書く気になれたことが驚きである。

もうすぐ13時になる。今すぐに家を出れば15時過ぎには江ノ島に着く。私は夕暮れ時に写真を撮ることが好きなので今から出掛ければまだ間に合う。しかし、行きたいと思わない。今日は朝から江の島・鎌倉界隈界隈に出掛ける予定であったのだが行かなかった。なぜなら、写真を撮ることが嫌だったからだ。出向く前から、「今日撮った」写真が頭に思い浮かぶのである。いつものようにつまらない写真だ。中には奇麗な写真やちょっと素敵な写真もある。でも、つまらない写真だ。すでに撮り尽くされた写真の「焼き直し」でしかない。

しかし、スナップ写真なんていうものはそういうものなのである。それを受け入れなければスナップ写真なんて撮れないと思う。いや、ほとんどの人は全くそう思っていないから飽きずに撮り続けられるのだろう。自分の写真に「陳腐」さを感じないから「同じ写真」を撮り続けられるのだろう。もちろん、私にもその感覚はある。撮っている時は楽しい。何を撮っても楽しいと思う。以前に撮った場所を全く同じ構図で撮ってさえ楽しいと感じる。写真を撮るってそういうことなのだと思う。同じ場所を同じカメラとレンズで、全く同じアングルで撮影しても結果としての写真は同じにはならない。だから、写真は撮り尽くされると言うことが無いのだと思う。でも、私は自分の写真が陳腐にしか思えない。

「まだ見ぬ写真」を撮りたいと思っているわけでは無い。「まだ見ぬ写真」なんてないと思っている。いや、あるのかもしれないけれど、そういう写真を撮ってみたいという欲望はない。しかし、あまりに「陳腐」な写真しか撮れないことに対するどうしようもないウンザリ感から逃れることができない。何を撮っても陳腐であることから逃れることができない。誤解を避けるために言明しておくが、それがいけないことだと言っているわけでは無い。写真に限らず、人間がやっていることなんてほとんどが陳腐なことなのだから。「陳腐」であることを否定したら、「人間」そのものを否定しなくてはならなくなる。ああ、フォローにならない(笑)。私は人間そのものを否定しているのだ。

私には、陳腐でしかない己に「絶望」を全く感じない鈍感さが理解出来ない。

やはり春まで待とう。春になったら本気で撮ってみようと思う。「陳腐」さの向こう側に位置づけられる写真を撮ってみたい。一歩でも二歩でも良い。いや、せめて5歩10歩、「陳腐さ」の向こう側で写真を撮ってみたい。

※この文章も「リハビリ」として書いた。


by dialogue2017 | 2019-03-17 13:00 | 閑話 | Comments(0)

閑話(79)

1日の大半の時間を"読むこと"と"書くこと"に費やしている身にとって、目の具合が悪くなるというのは本当に困ったことである。読書と文筆以外のことで家の中でやれること言ったら音楽を聴くかテレビを見るぐらいである。しかし、アンプの真空管がだめになってしまったようで音楽を聴くことができない(真空管を5本買ったがまだ1本しか届いていない)。テレビは好きじゃない。見ようと思って買いためている映画のDVDがそこそこの数あるのだが見る気になれない。他に時間をつぶせそうなコトと言ったら写真を撮ることであるが写真を撮りたいという気持ちもない。と言うわけで、本当に困ったことになっている。なにか時間を潰すことを探さなくてはならない。で思いついたことが、昨年末に撮ったカラー写真をモノクロに変換することであった。


カラー写真をモノクロに変換してもきちんと成り立つ写真はある。どういう写真がそういう写真であるかも分かる。しかし、そういう写真をモノクロにしても面白くない。モノクロで成り立つことが分かっているのだから。で、カラー写真としては成り立っているがモノクロにしてしまうと成り立たないような写真を選んでモノクロに変換している。カラーからモノクロにしても成立する写真を弄る場合すぐに終わってしまう。30秒掛からない。場合によっては10秒で終わってしまう。それでは暇つぶしにはならない(笑)。


私は有り余る時間を潰すためにカラー写真をモノクロにするという作業をするのであるから、あっという間に終わってしまうのでは意味が無い。それに、成り立つと分かっている写真を弄っても「気づき」はない。しかし、モノクロとして成り立ちがたい写真をレタッチしているといろいろな「気づき」がある。いや、これは1/3ぐらいは本当であるが2/3は真実ではない。なぜなら、今更「気づく」ようなことはそれほど残っていないからだ。もちろん、私がすでに写真を極めているというわけではない。極めていないどころか、極めようとしたことがない(笑)。プロの写真家になるとか、写真作家として活動していくとか言うことでも無い限り、写真を極める必要が無い。


いや、世のアマチュア写真愛好家の中には、プロになろうと思っているわけでも無く、写真作家になりたいとも思っていないけれど自分なりに写真を極めたいと想っている人が沢山いるだろうと思う。しかし、そういう人々の多くは写真を極めることなく終わると思う。やはり、プロになるとか作家になるというそれなりに大きな目標がないと「極める」のは難しいと思う。何事においてもハードルを越えて「向こう側に行く」という決意無くしては高みに達するのは難しいと思う。そういう意味で、「プロになる」とか「作家活動をする」というのは「極める」ための大きなモチベーションなのだと思う。プロや作家の中にさえ、まだまだ「極めた」という地平にほど遠い人がいることを考えると、アマチュアで極めるというのはそうとう希有なケースだろうと思う。


たぶん、大半の写真家は自分が写真を極めたなどとは思っていないだろう。なにか大きな課題を抱いた人間には「到達点」というのは無いのかもしれない。「極める」ような人々は、どこまで達しても更にその先に行こうと思うような人々だから。しかし、私見を申し述べれば、どんな写真家でもどこかで「達して」いると思う。そういう人は世間から見て「あの人は極めている」と評価されているし、その人なりに「達している」。人間、何処までも限りなく伸びていくと言うことはまず無い。人それぞれだと思うが、割と早くに達してしまう人もいるだろうし、そこに辿り着くまでに時間が掛かる人もいるだろうが、著名な写真作家たちはみなそれなりに「極めた」人々であると思う。その人の写真が好きか嫌いかを別にしたら、やはり名のある写真家の多くは「達した」人々だと思う。それがプロフェッショナルというものである。


「極めよう」などと思わないまでも、「もっと上手くなりたい」ぐらいの気持ちは持っていたいものだ。



by dialogue2017 | 2019-03-01 19:00 | 閑話 | Comments(0)

閑話(78)

今日は良い天気である。とても良い天気である。外気温は12℃ほどある。昨日まで日中の気温が2℃ぐらいのところにいたのでとても暖かく感じる。それに、日が照って明るいというのは本当に心地よい。一昨日、関越トンネルを通り抜けたときに眼にした光景は「恐ろしい」光景であった。初めて見たわけではない。もう何度も観たことがある光景である。しかし、一昨日はこれまでにも増して「重苦しい」景色に見えた。一冬の間、あのように"どんより”とした「世界」で暮らすことなど私にはとてもできそうに無いと思った。そう言えば、昨秋新潟で一緒にキャンプをした際に友人が「ときどきここで冬を過ごすことをとても辛いことだと思う」と言っていたっけ。彼は、東京生まれの東京育ち。現在は妻の生まれ故郷である新潟県の豪雪地帯で暮らしている。私には彼の気持ちが痛いほど理解出来る。

「君は僕の心の太陽である」という愛の言葉がある。実際にこんな言葉を口にしたことのある日本人はほとんどいないだろうけれど、本質を突いた表現であると思う。これは「この世で一番大切」だと思う相手に語る言葉である。つまり「太陽」というのは「この世で一番大切」なものを喩えるために使われる存在だと言うことである。私は深く同意する。「太陽」が失われれば地球上の生命は全て死に絶えるなどという無粋な話を持ち出そうとは思わない。そんな「永遠」とも思える先の話になんの実感もない。そんなことはどうでもいい。とにかく「陽の光」はとても心地よい。本当に心地よい。それは「愛」そのものだと言っても良いと思う。

こんな日に家の中に籠もっているなんて馬鹿げたことだ。散歩をすべきだ。ブラブラと町を歩けばあちらこちらの家の庭に梅の花が咲いていることだろう。他にもいろいろな花を目にすることができるだろうと思う。いま時間は14時過ぎ。写真を撮るには最適な時間帯である。梅の花の写真を撮るには理想的な陽の光である。2月の陽の光は梅の花のために差しているようにさえ思える。「Planar T* 50mm F1.4 ZA」や「Distagon 35mm F1.4 ZA」で梅の花を撮ったら楽しいだろうと思う。もう1週間程前から天気の良い日には同じことを考えている。

しかし、もう一月以上一度も散歩に行っていない。散歩をして失う時間が惜しいのである。1時間散歩をするのであれば1時間本を読みたい。実際にはそれほど根詰めて読んでいるわけではない。1日に3冊読むこともあれば、そのあと2日間ペラペラと捲る程度にしか読まないこともある。ならして1日1冊のペースである。1日で3〜4冊読むと言うことをちょくちょくする私にとって「1日1冊」というのは「少ない」と言っても良いほどである。しかし、昨日一昨日はほとんど読んでいないので今日は2冊は読んでおきたいのである。

1月は32冊読んだが、1冊も読まなかった日が10日前後あったと思う。実質的には1日2冊読んだ日が15日間あったというのに近い状態だったと思う。今月も同じ。確か、13日の時点で14冊であった。はっきり覚えていないが14日に15冊目を読み、15〜17日の3日間は1冊も読んでいないはずだ。今日は18日なので今日3冊読まないと「1日1冊」のペースが崩れる。1月の「2冊」の貯金を使えば、今日2冊読めば年明け49日間で49冊となり「1日1冊」のペーストにはなる。まあ、今日読んでも読まなくても金曜日までに7〜8冊は読むだろうからまた2〜3冊の「貯金」はできるだろうと思う。

ということで、思い切ってカメラを持って散歩をしてこようかと思うのだが腰が上がらない。ようするに、わざわざ写真を撮りに出ていく気になれないのである。なんでだろうと思って考えてみた。いくつかの理由があると思うのだが、一番大きな理由は「つまらない写真を撮りたくない」と言うことなのでは無いかと思う。どんな写真を撮っても「つまらない写真」だとしか思えないのである。奇麗には撮れる。使っているカメラとレンズが良いのだから綺麗に撮れるに決まっている。おまけに「D-レンジオプティマイザ」なんていう素晴らしい機能があるのだからほとんど撮りっぱなしでも綺麗な写真が撮れる(そんなもの無くても不便じゃないけれど)。

そうか。だから写真を撮ることがあまり楽しくないんだな。ようするに、渡部さんが「陥った心境」と同じような心境に陥っていると言うことである。普通に撮ったら「綺麗な写真」になってしまうことにたいして「飽き足らない」気持ちになっていると言うことである。ここ数年間に発売されたミラーレスカメラの性能は本当に凄いと思う。誰もが簡単に「綺麗な写真」を撮ることが可能になったと思う。私はただの一度も使ったことが無いからはっきりとは分からないが「シーンモード」のようなものを使ったら、その場のシチュエーションにあった「美しい写真」を撮ってくれるのだろうと思う。そう、私が「撮る」のではなく「カメラ」が「撮ってくれる」のである。それじゃ楽しいわけがないよな。

もちろん、そんなカメラを使ってもなかなか「綺麗な写真」が撮れない人々も沢山いる訳であるが、ちょっと慣れてしまえば誰もが簡単に「綺麗な写真」を撮ることができる時代になったことに間違いは無い。Instagramには「綺麗な写真」が尽きぬほど沢山溢れている。世界中に何億人という「フォトグラファー」が誕生したのである。いまは、「綺麗な写真」を撮れることなんて「自動車の運転」ができる程度のことでしかないと言ってもいいくらいだ。デジタルカメラって本質的にそういう「性質」のものなのだから当たり前だ。「デジタル」の最大の利点は、等質の複製が簡単に間違いなく行われることなのだから。そして、様々な「情況」に多様な「アルゴリズム」を持って「適正」に対応可能なことだから。

と書いてふと、ではRolleiflex SLXに「PORTRA」でも詰めて散歩に行ってこようかと思った。しかし、それも馬鹿馬鹿しいことである。自分でゼラチンシルバープリントを焼くことができる環境を持っていないのにフィルムで撮ることになんの意味も感じないのである。今更フィルムで撮ることに意味があるとしたら、自分の手でプリントを作るまでやることにあるのだと思う。フィルムで撮った写真をスキャンしてブログなどにアップすることに私はほとんど興味が無い。ラボ出しのプリントでは満足できない。その程度で良いのであればわざわざフィルムで撮るまでも無い。

失敗だった。強引にでも渡部さんから「PC31」を譲って貰っておくべきだった。


by dialogue2017 | 2019-02-18 15:00 | 閑話 | Comments(0)

閑話(77)

先日撮影した"この写真”の薔薇の花を撮影した翌々日リビングの壁に飾った。光のコントロールを全くしていないので二方向に影が出ている。

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どうも気持ちが低迷している。気持ちの浮き沈みは少ない方であるが、ごく稀に低迷する。もちろん「理由(原因)」があってのことである。特段の理由も無しに気持ちが沈むことはない。気持ちが高揚するためにはかなり大きなきっかけが必要だと思う。些細なことでは高揚しない。短期的に高揚することがあってもなかなか持続しない。よほど強烈な「要因」がなければ、数ヶ月にわたって気持の高揚が持続するということはまず無い。

しかし、気持ちが「沈む」のは簡単である。人間は割と些細な事で落ち込む。年を取ると若い頃ほど簡単には落ち込まない。そういう経験をたくさん経ているので多少のことであれば自分の気持ちをコントロールすることができるようになっているからだ。それであっても、気持ちが「高揚」することに比べたら、「落ち込む」ことは容易い。自分や家族が病気をしたりすれば気持ちは沈む。風邪であるとかちょっとした怪我であれば落ち込むことは無いが、家族の誰かが一定期間苦しむような病気になったりすれば気持ちは大きく沈む。

昨日は本を4冊読んだ。3日までに2冊しか読んでいなかったので取りあえず2冊読んでおこうと思って読み始めたら「だらだら」と4冊読んでしまった。「だらだら」と形容すると「しまりなく」読んだようなイメージとして伝わるだろうが、そういうわけではない。4冊ともかなり熱心に読んだ。

「だらだら」と言う言葉にはいくつもの意味がある。「デジタル大辞泉」によれば、①液体がたくさん流れ続けるさま。②道がゆるやかな傾斜になっているさま。③変化が貧しい状態が続くさま。④気分などがゆるんでしまりないさま。とある。「だらだらと4冊読んだ」と書くと、まず④の意味合いを思い浮かべられるであろう。しかし、私は「気分がゆるんでしまりなく」本を読んだわけではない。私は③の意味合いで「だらだら」と言う言葉を使った。「デジタル大辞泉」では「会議がだらだらと長引く」という文章を③の意味での使用例として上げている。「だらだら」と言う言葉には「中身が薄い時間が継続する」というマイナスの価値判断が含まれていると言うことである。

しかし、私は「だらだらと中身が薄い読書」をしたわけでは無い。私の「だらだら」という副詞の使い方は、通例の使われ方と比べたら「不適切」な使い方だと言って良い。もちろん私はそのことを承知の上で「だらだら」という言葉を用いた。なぜなら、昨晩4冊の本を読んだときの「気分」を表すのに「だらだら」という言葉以外に適切な言葉が思い浮かばなかったからである。私は「気分がゆるんでしまりなく」読んでいたわけではないし、中身が薄い読書を続けたわけでも無い。間違いなく一生懸命読んでいた。しかし、「気持ち」という点においては「変化が貧しい状態」が続いたのである。

本を読んでいると多かれ少なかれ「気持ち」が動く。「論理的」な内容の本を読んでいても「感情」に訴えかけられる。優れた「論理」にであうと「感動」が生じる。実は、優れた「論理」というものは「エモーショナル」なものなのである。人が「学問」に熱中することができる理由は心を揺さぶられるからだ。しかし、昨晩(4冊の本は夕刻から午前3時に掛けて読んだ)、私の心はほとんど動かなかった。

読んだ4冊の本は、1冊目は思春期の子どもに関することが書かれた本。2冊目は、「インテレクチュアル」のあり方と言うことについて書かれた本。3冊目は、「老化」のメカニズムについて書かれた医学ジャンルの本。4冊目は現代思想を専門とする学者が書いた「時事批評」。4冊目はエッセイ集と言って良い本だったので面白かった。心のコンディションが「普通」の時に読めばテンションが上がる内容の本であった。4冊目は大変面白かった。しかし、心は沈んだままであった。私はこの4冊を「だらだら」と読んだのである。

心が沈むには「理由(原因)」がある。その「原因」が除去されないことは心の沈みは解消されない。しかし、直ぐには解消することのできない原因であることは珍しくない。例えば「病気」が原因である場合、その病気の回復に一定の期間を要するというケースがある。今回の「原因」も直ぐには解消不可能なものである。

必ずそうであるとは言えないが、「原因」が自分自身に根ざす事である方が心の整理がしやすい。もちろん、自分の事であるが故にまったく心の整理が付かないという場合もあるが、「原因」が自分の「外」にある場合の方が対処に苦しむケースが多いように思う。なぜなら、自分自身はコントロールしうるが、「外部」は自分の意識でコントロールできないからだ。「外部」というのはほとんどの場合「他者」のことである。人間が「悩む」原因のほとんどは、「金銭問題」を別にすると「人間関係」であるからである。そして、「他者」は自らの意思によってコントロールすることができない。

いや、全くコントロール不可能であるというわけではない。人間関係というものは「相互規定的」であるから、「私」の働きかけによって「他者」の気持ちは動く。であるからして、「他者」の気持ちに関与することはできる。人間関係においてもっとも大事なことは、私からの「働きかけ」である。もっとも分かりやすい話は、「愛される」ためにはまず「愛す」ことが不可欠だと言うことである。

他者の「気持ち」に対する働きかけというのは可能である。その結果、相手の気持ちが動くことはある。しかし、直ぐには相手の気持ちが動かない場合もあるし、働きかけることによって相手の気持ちが「遠のく」こともある。私からの働きかけがどれほど「真剣」で「愛情深い」ものであっても、それが受け手に理解されないということは珍しいことではない。

意を尽くして話し合うことによって相互理解に達する場合もあるが、どんなに意を尽くして語り合っても互いの気持ちが交わらず、かえって離れてしまうと言う場合もある。人はそのような時にどうしたらよいのだろうか? 語りかければ語りかけるだけ「他者」が離れていくとしたら、もう黙する以外にないだろう。それは辛いことである。その「他者」が自分にとって大切であればあるほど、黙することは「悲痛」である。

黙したあとは「待つ」しかない。しかし、待つと言うことは苦しいことである。


by dialogue2017 | 2019-02-05 16:00 | 閑話 | Comments(1)

閑話(76)

残り約3時間半。書けるだけ書こうと思って書いているが、ふと気が抜けた。最後にいくつかのことはどうしても書いておこうと思っていた。そして、散々迷ったが、12月の初頭に京都で撮った写真の「スライドショー」を掲載しようと思った。更には、京都で撮影した「ムービー」まで公表しようと思った。そのムービーは、私にとってとても大きな意味を持つものである。それは極めてプライベートなムービーである。しかし、それは「写真なんて楽しければそれで良いじゃないか」ということを一目瞭然に表していると思うのである。そのムービーに映っているシーンを見ていて、私は「本気で撮る」ということより「楽しく撮る」と言うことの方がはるかに大切なことだと改めて思った。

もちろん、そのことによって直ちに「本気で撮ることなんて意味がない」と考えを改めたというような単純な話ではない。今の時点でもまだ「本気で撮ってみたい」という気持ちは抱いているし、私は本気で撮るための準備を着々と進めている。必要な機材をを揃えること。機材についての知識を今以上に深いものとすること。実際に機材を使ってみることによってその扱いに習熟すること。「撮影」という点に関しては、これを着実に獲得するつもりで準備している。今以上に「光の使い方」に熟知するため、年が明けたらスタジオライティングでの撮影もしてみようと思っている。自分でライティングを作ることを通じて、アベイラブルライトの捕まえ方が上手くなるからだ。

ただし、昨日も書いたように問われているのは技術ではない。そのことについては昨日「問題となるのは撮影技量ではなく『表現の方法』である」の中でかなり具体的なことに言及して書いた。その中で、私が「既存のプロフォトグラファーが撮っているポートレートを超えるポートレートを撮れる自信がある」という"根拠"について説明した。別にそんなことを説明する必要など何処にもない。実際に撮って見せればそれで済むことであるから。簡単なことだ。私があえてその「根拠」について書いたわけは、「四人組」に対して、写真は「撮る前」に決まってしまうと言うことを教えたかったからである。

私はまだ1枚も撮っていないが、すでにかなりの枚数を頭の中で撮影している。私は偶然を頼りに撮るつもりは無い。あらかじめ入念に考え抜いた上で撮るつもりである。ただし、この表現も誤解を招く表現である。撮影は「一期一会」である。その時の光の状態、風の状態、気温の状態、背景に咲いている花の状態は全て一期一会のものであり、そうであれば写真撮影には少なからず「偶然」が作用する。モデルの気持ちも一期一会であるし、撮影者の気持ちも一期一会である。それは二度と同じものを用意することができない。であるからして、撮影はかならず「その時」の結果である。だから、事前に入念に考えておいた通りに撮れるとは限らないし、事前に考えていた「コンテ」通りに撮るためにシミュレーションするわけではない。

事前にきちんとシミュレーションをしておけば、「その時の偶然」を上手に捕まえる確率が高くなると言うことである。撮り始める前に「終わっている」ぐらいの準備が必要だということである。

すでにどこかに書いたが、私は「春夏秋冬」を通じて「作品」を撮るつもりである。展示は、「春」から始まり「夏」「秋」を経て「冬」で結ぶ予定である。もしかしたら、最後にもう一度「春」を入れて締めくくるかもしれないが、スタートは「春」から始めることに決まっている。だから、撮り始めるのも春からにするのである。冬から撮り初め、展示は春からスタートするというのではしっくりこないからである。私が考えている「作品」では時系列を無視することはできない。なぜなら、人間は1年で少なからず変わっていくからである。私は春夏秋冬の四季を通して撮影した写真を並べる中で、モデルの「移ろい」を表現したいと思っている。モデルを「点」で捉えた写真ではなく、一人の人間であるモデルを「人生」という流れの中で撮りたいのである。

撮り始めてしまえばどうということはないのだ。撮影なんて、ただモデルにレンズを向けてシャッターボタンを押すだけだ。成功するかしないかは、コンセプト次第であるし、準備次第である。マウンドに上がったらボールを投げるだけだ。その時に満足いく答えを出すために、ピッチャーはシーズンオフに走り込みから初め投げ込みをして、個々の打者の責め方を研究する。肝心なのはこのシーズンオフの準備である。十分な準備をやりきることができれば、マウンドに立ったとき自分の実力を最大限に発揮することができるだろう。結局、地味な話なのだ。もちろん、「才能」に左右される部分は大きい。しかし、それは「天賦のもの」であるから、それを持って生まれているかいないかで決まることであって、本人ができることは地味な努力だけなのである。

by dialogue2017 | 2018-12-31 21:00 | 閑話 | Comments(5)

閑話(75)

今日から1月2日の夕刻まで妻と子どもが不在である。毎年年末年始は妻の実家(島根県)に帰省するのである。昔は私も同行していたが、8年程前に義父と大げんかをし「二度とこの家の敷居は跨がない。貴方の葬儀にも来ない」と啖呵を切って以来行かなくなった。

今朝は7時に起床して妻と子どもたちを最寄り駅まで車で送った。毎年羽田空港まで送っていたのだが、昨年末から電車で羽田に行くようになった。羽田まで送っていた頃には、妻や子どもたちを見送ったあと私は車で一人旅に出ることが多かった。伊豆あたりに行くことが多かったが、伊豆で一泊した後車で京都まで行ってしまったこともあった。一時期は、羽田空港の駐車場に車をおいて、妻や子どもを見送った後SKYMARK AIRLINESで神戸に飛ぶことが定番になっていた。神戸で一泊し、翌朝京都に向かい京都で2泊するというスタイルを何年かくり返した。とにかく京都が好きなのである。1年に10回行ったこともあったほどである。

私は毎晩午前3〜4時に就寝し、朝は9時〜9時半に起床する。8時に子どもたちが登校し9時に妻が家を出る。それと入れ替わるようにして私は寝室からリビングに上がる。朝の「喧噪」から逃げているのである。その後、子どもたちが帰宅する午後3時過ぎまでの6時間は毎日一人きりで過ごす。誰かに会うと言うことはほとんど無い。月〜金曜日の日中は一人で過ごす生活がもう何年間も続いている。電話をすることさえない。友人やスタッフとのやりとりは全てメールである。だから、私は一人で過ごす時間をかなり沢山持っている。

しかし、午後3時を過ぎれば子どもたちが帰宅するし、それから妻と娘が就寝する21時過ぎまでは家族と一緒の時間を過ごす。今年4月に息子が中学生になって週末「茅野の家」に行かなくなる前は土日のほとんどは家族4人で「茅野の家」に行くか、どこかに旅行に行っていた。だから、私は一人きりの時間が多い一方で家族と過ごす時間も非常に多かった。この4月以後、息子が家族旅行に同行しなくなったが、妻と娘と三人で出かけているので土日は相変わらず家族と過ごすことが多い。

普通に会社勤めをしている人に比べたら、私は一人で過ごす時間がもの凄く多い。午前9時〜15時過ぎまでの6時間を一人で過ごし、午後21時〜午前3時までの6時間をまた一人で過ごす。私は、1日24時間の半分の12時間を一人で過ごしているのである。しかし、24時間続けて一人きりでいられることはそれほど多くない。外泊しない限り夕刻以後は必ず家族と過ごすからだ。これだけ沢山一人だけの時間を持っていながら、もっと一人きりになりたいといつも思っている。週に5日ぐらいは一人暮らしをして、週末だけ家族と過ごすような生活が理想だ。しかし、家庭生活のクォリティーを考えたらそういうわけにはいかない。私が抜けたら妻の負担があまりにも大きくなるから。

そんなわけで、毎年年末年始とお盆の際には一人旅に出かけていた。盆にも妻と子どもたちは妻の実家に帰省するのである。だいたい3泊4日程度なのだが、その間私も3泊4日で一人旅に出ていた。しかし、4年程前からそれを辞めた。辞めた理由は色々あるのだがどうしても出かけたいという気持ちそのものが薄らいだのだ。行けば楽しいことはわかっているのだがどうしても行きたいとまでは思わなくなった。そうなった一番の原因は年を取ったからである。年を取ると行動を起こすことが「億劫」になってくるのである。

出かけなくなった理由がもう一つある。6年程前までは旅先で写真を撮ることがとても楽しかったのだ。いまでもその気持ち自身には変わりないのだが、わざわざ出かけてまで撮りたいと思わなくなってきた。もう「撮り尽くしてしまった」というような気がするのである。いままで撮った写真と違う写真を撮ったとしても、本質的には「同じような」写真を撮ってるだけであり、写真を撮ることに対する「欲望」が年々減ってきていた。

今朝、自分にどこかに行く気があれば妻と子どもを羽田まで送って行っただろう。その帰りに「江の島・鎌倉界隈界隈」をブラブラして写真を撮っても良かったし、伊豆方面の温泉に泊まりに行くこともできた。しかし、出かけることが面倒に思えたため羽田まで送らず最寄り駅まで送ってきた。昼頃になって天気が良くなり暖かくなった。で、ちょこっと都内に出てSIGMA dp0 Quattroでスナップをしてこようかと思った。13時頃に新宿に着くように出かけ、まずは行きつけの韓国料理屋さんで「ポッサム定食」を食べる。そのあとどこかに移動して1時間ほど写真を撮ってこようかと思った。都心で写真を撮るのであれば夕刻より13〜15時ぐらいの方が良い。今日はカラー写真を撮ろうと思ったので「明るい光」で撮りたいと思ったのである。

このブログは明日を持って終わりにする予定である。しかし、自分の「アルバム帳」としてのブログを一つ持っておきたいので、元旦から別のブログを立ち上げようかと考えている。今回はエキサイトブログ以外にしようと思っている。もう「写真の撮り方」のようなことを書くつもりは全くない。誰とも交流せず、自分が撮ってきた写真を自分が見たいときに閲覧出来るように「アルバム帳」としてブログを作ろうと思っている。「SIGMA dp0 Quattro」で撮った写真だけを載せるブログとかも面白そうだと思っている。そんなわけで、韓国料理を食べがてら「dp0 Quattro」で写真を撮ってこようと思ったのだが、腰が上がらなかった。

「なにも写真を撮るためにわざわざ出かけることもない」ーーいつもそう思うのである。

と言うわけで、今日は読書したり、音楽を聴いたりして過ごすことにした。目の調子が悪いため長い時間本を読むことが苦痛なので、本を置いた時間にまたこのブログに何か書こうと思っている。書こうと思って書かなかった話が山のようにある。残り2日で書ける量などたかがしれているし、もう大量に書く気力もない。しかし、最後になにか書きたいと思っている。


by dialogue2017 | 2018-12-30 14:30 | 閑話 | Comments(4)