カテゴリ:閑話( 78 )

閑話(78)

今日は良い天気である。とても良い天気である。外気温は12℃ほどある。昨日まで日中の気温が2℃ぐらいのところにいたのでとても暖かく感じる。それに、日が照って明るいというのは本当に心地よい。一昨日、関越トンネルを通り抜けたときに眼にした光景は「恐ろしい」光景であった。初めて見たわけではない。もう何度も観たことがある光景である。しかし、一昨日はこれまでにも増して「重苦しい」景色に見えた。一冬の間、あのように"どんより”とした「世界」で暮らすことなど私にはとてもできそうに無いと思った。そう言えば、昨秋新潟で一緒にキャンプをした際に友人が「ときどきここで冬を過ごすことをとても辛いことだと思う」と言っていたっけ。彼は、東京生まれの東京育ち。現在は妻の生まれ故郷である新潟県の豪雪地帯で暮らしている。私には彼の気持ちが痛いほど理解出来る。

「君は僕の心の太陽である」という愛の言葉がある。実際にこんな言葉を口にしたことのある日本人はほとんどいないだろうけれど、本質を突いた表現であると思う。これは「この世で一番大切」だと思う相手に語る言葉である。つまり「太陽」というのは「この世で一番大切」なものを喩えるために使われる存在だと言うことである。私は深く同意する。「太陽」が失われれば地球上の生命は全て死に絶えるなどという無粋な話を持ち出そうとは思わない。そんな「永遠」とも思える先の話になんの実感もない。そんなことはどうでもいい。とにかく「陽の光」はとても心地よい。本当に心地よい。それは「愛」そのものだと言っても良いと思う。

こんな日に家の中に籠もっているなんて馬鹿げたことだ。散歩をすべきだ。ブラブラと町を歩けばあちらこちらの家の庭に梅の花が咲いていることだろう。他にもいろいろな花を目にすることができるだろうと思う。いま時間は14時過ぎ。写真を撮るには最適な時間帯である。梅の花の写真を撮るには理想的な陽の光である。2月の陽の光は梅の花のために差しているようにさえ思える。「Planar T* 50mm F1.4 ZA」や「Distagon 35mm F1.4 ZA」で梅の花を撮ったら楽しいだろうと思う。もう1週間程前から天気の良い日には同じことを考えている。

しかし、もう一月以上一度も散歩に行っていない。散歩をして失う時間が惜しいのである。1時間散歩をするのであれば1時間本を読みたい。実際にはそれほど根詰めて読んでいるわけではない。1日に3冊読むこともあれば、そのあと2日間ペラペラと捲る程度にしか読まないこともある。ならして1日1冊のペースである。1日で3〜4冊読むと言うことをちょくちょくする私にとって「1日1冊」というのは「少ない」と言っても良いほどである。しかし、昨日一昨日はほとんど読んでいないので今日は2冊は読んでおきたいのである。

1月は32冊読んだが、1冊も読まなかった日が10日前後あったと思う。実質的には1日2冊読んだ日が15日間あったというのに近い状態だったと思う。今月も同じ。確か、13日の時点で14冊であった。はっきり覚えていないが14日に15冊目を読み、15〜17日の3日間は1冊も読んでいないはずだ。今日は18日なので今日3冊読まないと「1日1冊」のペースが崩れる。1月の「2冊」の貯金を使えば、今日2冊読めば年明け49日間で49冊となり「1日1冊」のペーストにはなる。まあ、今日読んでも読まなくても金曜日までに7〜8冊は読むだろうからまた2〜3冊の「貯金」はできるだろうと思う。

ということで、思い切ってカメラを持って散歩をしてこようかと思うのだが腰が上がらない。ようするに、わざわざ写真を撮りに出ていく気になれないのである。なんでだろうと思って考えてみた。いくつかの理由があると思うのだが、一番大きな理由は「つまらない写真を撮りたくない」と言うことなのでは無いかと思う。どんな写真を撮っても「つまらない写真」だとしか思えないのである。奇麗には撮れる。使っているカメラとレンズが良いのだから綺麗に撮れるに決まっている。おまけに「D-レンジオプティマイザ」なんていう素晴らしい機能があるのだからほとんど撮りっぱなしでも綺麗な写真が撮れる(そんなもの無くても不便じゃないけれど)。

そうか。だから写真を撮ることがあまり楽しくないんだな。ようするに、渡部さんが「陥った心境」と同じような心境に陥っていると言うことである。普通に撮ったら「綺麗な写真」になってしまうことにたいして「飽き足らない」気持ちになっていると言うことである。ここ数年間に発売されたミラーレスカメラの性能は本当に凄いと思う。誰もが簡単に「綺麗な写真」を撮ることが可能になったと思う。私はただの一度も使ったことが無いからはっきりとは分からないが「シーンモード」のようなものを使ったら、その場のシチュエーションにあった「美しい写真」を撮ってくれるのだろうと思う。そう、私が「撮る」のではなく「カメラ」が「撮ってくれる」のである。それじゃ楽しいわけがないよな。

もちろん、そんなカメラを使ってもなかなか「綺麗な写真」が撮れない人々も沢山いる訳であるが、ちょっと慣れてしまえば誰もが簡単に「綺麗な写真」を撮ることができる時代になったことに間違いは無い。Instagramには「綺麗な写真」が尽きぬほど沢山溢れている。世界中に何億人という「フォトグラファー」が誕生したのである。いまは、「綺麗な写真」を撮れることなんて「自動車の運転」ができる程度のことでしかないと言ってもいいくらいだ。デジタルカメラって本質的にそういう「性質」のものなのだから当たり前だ。「デジタル」の最大の利点は、等質の複製が簡単に間違いなく行われることなのだから。そして、様々な「情況」に多様な「アルゴリズム」を持って「適正」に対応可能なことだから。

と書いてふと、ではRolleiflex SLXに「PORTRA」でも詰めて散歩に行ってこようかと思った。しかし、それも馬鹿馬鹿しいことである。自分でゼラチンシルバープリントを焼くことができる環境を持っていないのにフィルムで撮ることになんの意味も感じないのである。今更フィルムで撮ることに意味があるとしたら、自分の手でプリントを作るまでやることにあるのだと思う。フィルムで撮った写真をスキャンしてブログなどにアップすることに私はほとんど興味が無い。ラボ出しのプリントでは満足できない。その程度で良いのであればわざわざフィルムで撮るまでも無い。

失敗だった。強引にでも渡部さんから「PC31」を譲って貰っておくべきだった。


by dialogue2017 | 2019-02-18 15:00 | 閑話 | Comments(0)

閑話(77)

先日撮影した"この写真”の薔薇の花を撮影した翌々日リビングの壁に飾った。光のコントロールを全くしていないので二方向に影が出ている。

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どうも気持ちが低迷している。気持ちの浮き沈みは少ない方であるが、ごく稀に低迷する。もちろん「理由(原因)」があってのことである。特段の理由も無しに気持ちが沈むことはない。気持ちが高揚するためにはかなり大きなきっかけが必要だと思う。些細なことでは高揚しない。短期的に高揚することがあってもなかなか持続しない。よほど強烈な「要因」がなければ、数ヶ月にわたって気持の高揚が持続するということはまず無い。

しかし、気持ちが「沈む」のは簡単である。人間は割と些細な事で落ち込む。年を取ると若い頃ほど簡単には落ち込まない。そういう経験をたくさん経ているので多少のことであれば自分の気持ちをコントロールすることができるようになっているからだ。それであっても、気持ちが「高揚」することに比べたら、「落ち込む」ことは容易い。自分や家族が病気をしたりすれば気持ちは沈む。風邪であるとかちょっとした怪我であれば落ち込むことは無いが、家族の誰かが一定期間苦しむような病気になったりすれば気持ちは大きく沈む。

昨日は本を4冊読んだ。3日までに2冊しか読んでいなかったので取りあえず2冊読んでおこうと思って読み始めたら「だらだら」と4冊読んでしまった。「だらだら」と形容すると「しまりなく」読んだようなイメージとして伝わるだろうが、そういうわけではない。4冊ともかなり熱心に読んだ。

「だらだら」と言う言葉にはいくつもの意味がある。「デジタル大辞泉」によれば、①液体がたくさん流れ続けるさま。②道がゆるやかな傾斜になっているさま。③変化が貧しい状態が続くさま。④気分などがゆるんでしまりないさま。とある。「だらだらと4冊読んだ」と書くと、まず④の意味合いを思い浮かべられるであろう。しかし、私は「気分がゆるんでしまりなく」本を読んだわけではない。私は③の意味合いで「だらだら」と言う言葉を使った。「デジタル大辞泉」では「会議がだらだらと長引く」という文章を③の意味での使用例として上げている。「だらだら」と言う言葉には「中身が薄い時間が継続する」というマイナスの価値判断が含まれていると言うことである。

しかし、私は「だらだらと中身が薄い読書」をしたわけでは無い。私の「だらだら」という副詞の使い方は、通例の使われ方と比べたら「不適切」な使い方だと言って良い。もちろん私はそのことを承知の上で「だらだら」という言葉を用いた。なぜなら、昨晩4冊の本を読んだときの「気分」を表すのに「だらだら」という言葉以外に適切な言葉が思い浮かばなかったからである。私は「気分がゆるんでしまりなく」読んでいたわけではないし、中身が薄い読書を続けたわけでも無い。間違いなく一生懸命読んでいた。しかし、「気持ち」という点においては「変化が貧しい状態」が続いたのである。

本を読んでいると多かれ少なかれ「気持ち」が動く。「論理的」な内容の本を読んでいても「感情」に訴えかけられる。優れた「論理」にであうと「感動」が生じる。実は、優れた「論理」というものは「エモーショナル」なものなのである。人が「学問」に熱中することができる理由は心を揺さぶられるからだ。しかし、昨晩(4冊の本は夕刻から午前3時に掛けて読んだ)、私の心はほとんど動かなかった。

読んだ4冊の本は、1冊目は思春期の子どもに関することが書かれた本。2冊目は、「インテレクチュアル」のあり方と言うことについて書かれた本。3冊目は、「老化」のメカニズムについて書かれた医学ジャンルの本。4冊目は現代思想を専門とする学者が書いた「時事批評」。4冊目はエッセイ集と言って良い本だったので面白かった。心のコンディションが「普通」の時に読めばテンションが上がる内容の本であった。4冊目は大変面白かった。しかし、心は沈んだままであった。私はこの4冊を「だらだら」と読んだのである。

心が沈むには「理由(原因)」がある。その「原因」が除去されないことは心の沈みは解消されない。しかし、直ぐには解消することのできない原因であることは珍しくない。例えば「病気」が原因である場合、その病気の回復に一定の期間を要するというケースがある。今回の「原因」も直ぐには解消不可能なものである。

必ずそうであるとは言えないが、「原因」が自分自身に根ざす事である方が心の整理がしやすい。もちろん、自分の事であるが故にまったく心の整理が付かないという場合もあるが、「原因」が自分の「外」にある場合の方が対処に苦しむケースが多いように思う。なぜなら、自分自身はコントロールしうるが、「外部」は自分の意識でコントロールできないからだ。「外部」というのはほとんどの場合「他者」のことである。人間が「悩む」原因のほとんどは、「金銭問題」を別にすると「人間関係」であるからである。そして、「他者」は自らの意思によってコントロールすることができない。

いや、全くコントロール不可能であるというわけではない。人間関係というものは「相互規定的」であるから、「私」の働きかけによって「他者」の気持ちは動く。であるからして、「他者」の気持ちに関与することはできる。人間関係においてもっとも大事なことは、私からの「働きかけ」である。もっとも分かりやすい話は、「愛される」ためにはまず「愛す」ことが不可欠だと言うことである。

他者の「気持ち」に対する働きかけというのは可能である。その結果、相手の気持ちが動くことはある。しかし、直ぐには相手の気持ちが動かない場合もあるし、働きかけることによって相手の気持ちが「遠のく」こともある。私からの働きかけがどれほど「真剣」で「愛情深い」ものであっても、それが受け手に理解されないということは珍しいことではない。

意を尽くして話し合うことによって相互理解に達する場合もあるが、どんなに意を尽くして語り合っても互いの気持ちが交わらず、かえって離れてしまうと言う場合もある。人はそのような時にどうしたらよいのだろうか? 語りかければ語りかけるだけ「他者」が離れていくとしたら、もう黙する以外にないだろう。それは辛いことである。その「他者」が自分にとって大切であればあるほど、黙することは「悲痛」である。

黙したあとは「待つ」しかない。しかし、待つと言うことは苦しいことである。


by dialogue2017 | 2019-02-05 16:00 | 閑話 | Comments(1)

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by dialogue2017 | 2018-12-31 21:00 | 閑話

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by dialogue2017 | 2018-12-30 14:30 | 閑話

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by dialogue2017 | 2018-11-27 22:35 | 閑話

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by dialogue2017 | 2018-10-20 18:30 | 閑話

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by dialogue2017 | 2018-10-19 22:30 | 閑話