カテゴリ:閑話( 73 )

※当初、以下の文章も「閑話(73)」として一括で掲載したが、長文となったことと、ここからは前半部分と話が変わっているので分割して掲載し直すことにした。


余談であるが、昼前後にSONY α7Ⅲとレンズの件で写真家の塙真一さんに色々教えていただいた。途中話が脱線して、某有名ポートレートフォトグラファーの話になったりして楽しかった。塙さんは「テクニカルライター」として食っていけるであろうほど撮影機材について詳しい。カメラやレンズだけでは無く、ストロボを初めとした撮影機材、更にはモニタやパソコン、そしてソフトにも詳しい。彼は某有名カメラメーカーのアドバイザーをやっていたこともある人である。私はカメラやレンズを買うときには毎回彼に相談している。彼はSONY α7Ⅲを使っているので具体的な話をいろいろと教えて貰った。機材に関しては渡部さんじゃなく塙さん(笑)。彼の「一押しレンズ」の話で私の心は決まった。

その後、写真家の水谷充さんにもSONY α7Ⅲについて質問した。水谷さんも現在SONY α7Ⅲをメインカメラにして使っているからだ。水谷さんとは2時間ほど休まず「チャット」をしてしまった。彼とは年に数回そういうことをやっている。気が合うのである。

最初はSONY α7Ⅲやレンズの話をしていたのであるが、そのうち「綺麗な写真を撮る方法」に話がそれていき、そちらで大いに盛り上がった。水谷充さんというのは渡部さとるさんより知名度が低いが、やってきた仕事は渡部さんより遙かに広い世界の仕事をしてきた人である。渡部さんが「俺には師匠はいないが、強いて言えば"充君”だろうな〜」と評価する写真家である。自慢をするつもりは寸毫も無いが、その水谷さんと2時間もの間写真談義をして盛り上がることができるのは、私が彼と「切り結べる」だけの知識を持っているからである。

水谷さんはかなり深い話をしてくれた。いや、かなり処の話では無い。「最高のポートレート」はどうやって撮るのかという話を聞かせて貰った。その話を聞いて、私はもの凄く驚いた。なぜなら、私が今から撮ろうと思っているやり方とほとんどうり二つであったからである。

2〜3日前であったか、3〜4日前であったが、私は自分の「写真に対する造詣」が渡部さとるさんの70%ほどはあるだろうと言うことを書いた。考えてみれば当たり前のことなのだ。その70%のほとんど丸丸を私は彼から「伝授」されたと言って良いのであるから。もちろん、彼から聞くまでもなく知っていたことも沢山あるし、もし彼から聞かなくても自分で同じ結論に辿り着いていたであろうことも多い(最近そういうことがもの凄く多い)。しかし、一番根っこにあるもっとも重要なことは、渡部さとるさんから「伝授」されたのである。

今日、水谷さんと2時間休むこと無く「チャット」をして、最後に水谷さんが「結論」として書いてきた「良いポートレートの撮り方」は、「その時そこにある光で撮る」と言うことであり、「モデルの一番素敵な表情をキャプチャーする」ことだと言うことだった。ここ数日に、私が「こういう風にしてポートレートを撮ろうと思っている」と書いたことと全く同じなのだ。

彼から、未公開の「プロモーションビデオ」を見せて貰った。その話はまた後で書くことにするが、そのビデオに映っていた写真のほとんどは、私がいまから撮ろうと思い浮かべている写真そのものだった。それは私が「これ以上の写真は無い」と信じている写真であった。私はそれをまだ自分で撮る前に見せられてしまったのである。

ああ、自分が考えていたことは間違っていなかったと確信を持った。あとは、経験だけである。多分、初っぱなから素晴らしい写真を撮るだろう。ただ、最初は打率は低いと思う。それは「打ち込む」ことによってしか上げることができない。だから、できるだけ撮影本数を増やそうと思っている。数日前にチラッと書いたが、モデルをあと一人か二人増やそうと思っている。もちろん、プロのモデルは使わない。そして、魅力に欠ける女性を撮るつもりも無い。私は、若くてスリムでとびっきりチャーミングな女性しか撮るつもりは無い。オマケに性格もとびっきり素敵な女性(笑)。なんでもとびっきりが好きなんだ。特に女の子はね(爆)。



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by dialogue2017 | 2018-11-28 16:30 | 閑話 | Comments(0)

もう写真の話を書くことが相当辛くなってきた(技術や知識レベルの話のこと)。しかし、自分にむち打って書く(今日はそういう心境)。なぜなら、自分で始めたことには責任を持つ必要があるからである。それが私の信念である。

いつものように丁寧に書くと長文になるし、今日は短い文章を書くことでさえ「ウンザリ」しているので、このエントリーは「丁寧さ」を棚上げして短絡的に書かせていただく。懇切丁寧に書いたところで読んでいる人は僅かであるし、熱心に読んでくれている人も読解力不足である。むしろ、長文でないことが彼ら(特に写真者A君)には何より良いことなのだろうとも思うし。そう、このエントリーも直接的には「初心者A」君に写真とカメラについて教えるために書くのである。※途中から脱線して別の話になってしまった。

どのエントリーに書いたかを明示しないし、そこからの引用もしないが、この間この「誌上レッスン」で取り上げた「初心者A」君の写真には「白飛び」のあるものが目立った。私は「露出オーバー」であると指摘した。そのため、ハイライトが「白飛び」しているだけでは無く「シャドー」が締まっていない写真になっていた。私は、「私なら-0.33EVで撮るだろう」というような指摘をした(そう教えたと言うこと!)。

ちょっと写真に付いて知っている人であれば、リバーサルフィルム(ポジフィルム)の場合1/3段(0.33EV)露出を外したら露出ミスだと言われていたことを知っているだろう。当時のプロカメラマンが「切り現」をしていた話はちょっと前に書いた(いつもなら必ず"ここ”とハイパーリンクを張っているが今日はそういうことはしない。ちょっと前の話を忘れているような「生徒」は退学して欲しい)。ポジフィルムはそれほど露出にシビアであったのである。

しかし、プロカメラマンであればデジカメで撮る際にも1/3段単位で露出を決めているだろうと思う。いまのデジタルカメラはダイナミックレンジが広いので、白飛びさえさせなければ1段(-1.0EV)アンダーに撮ってもレタッチで起こすことができる。だから、1/3段単位の露出には神経質にならなくても良いという事情はある。それでも、プロであれば1/3段単位で露出を選んでいると思う。それはもう「習い性」になってしまっているから「当たり前」のことになっている。私もそうである。

私はプロカメラマンではない。1年9ヶ月ほどお金を貰って写真を撮っていた経験があるが、自分ではお金を貰って写真を撮る「アマチュアカメラマン」だという意識であった(笑)。私は写真学校に行ったことも無いし、プロカメラマが主宰するワークショップを受講したことも無い。無論アシスタントの経験もない。確かに、プロカメラマンの友人は何人もいて彼らといろいろな話をしてきたが、そのものずばりテクニカルなことを聞いたことはあまり無い。全くないと言うことでもないが、通り一遍のことはプロカメラマンと出会うよりずっと前から知っていた私は何かを始めるとき、何事であっても基本的に「プロレベル」の理論と知識をまず勉強するから。

知識と理論であれば私はプロカメラマンに遜色ないだろう。つまらないプロカメラマンよりよほどよく知っていると思う。一昨晩、モノクロ写真作家の千葉桜洋さんと「チャット」をしていたのだが、その中で彼は「カメラ、写真そのものについてはHさんの方がずっと遥かに造詣深いです」と言ってきた(本人の書いた文章のコピペ)。これは謙遜では無い。確かに、私は写真作家よりカメラや写真についてよく知っているだろう。

亀山仁さんからも似たようなことを言われたことがある。千葉桜さんも亀山さんもとても優秀な写真作家であるが、プロカメラマンでは無い。彼らはお金を貰って依頼仕事として撮影するカメラマンでは無い。その点に関して言えば、確かに私の方が「プロ」に近いのである。作家は自分の「作品」を撮る範囲の知識があれば済むが(スタジオライティングなんて知らなくてもよい)、依頼仕事で撮影するためには何でも撮れるだけの知識が無いとならない。私は、仕事で「料理」や「建築」写真の撮影も経験している。だから、「作家」よりカメラや写真について造詣が深いというのは当たり前のコトなのである。

自慢話と思われるのが嫌でこの話は出さなかったのだが、千葉桜さんは今年の7月末に偶然"このブログ"を見つけ、Facebookを通じて私にコンタクトしてくれた(それが我々の最初の接触だった)。彼はその中で「Hさんブログに掲載されている写真のクオリティ、知識に目を見張るばかり。大変勉強させて頂いてます」と言ってくれた(これもご本人の文章のコピペ)。これは追従では無く本心だろう。私自身は、「つまらない写真」を沢山掲載しているという自覚があるので「目を見張るばかり」とまで言われて”穴があったら入りたい”という気になったが、その一方で千葉桜さんがこのブログに掲載している写真の中から「クオリティ」が高い写真を見つけて認めてくれたことは嬉しかった。当然のことだが、彼には写真を見る高い眼力がある。自分が最高の「作家」だと惚れ込んだ方からそのように言われ、こそばゆいとともにとても嬉しかった。

渡部さとるさんがやっていた「ワークショップ2B」にはプロカメラマンの受講者が何人もいた。渡部さとるさんのモノクロ写真に関するノウハウはすでにプロとして仕事をしているカメラマンが「教わろう」と思うほど造詣の深いものであったからだ。流石に渡部さんの話の後に自分の話を書くのは気が引けるが、私だって「カメラと写真」については、下手なプロカメラマンより詳しいだろう。

傲慢な言い方に聞こえるだろうが、物事を対象化する能力において、私はどんなプロカメラマンにも負けることが無いだろう私のカメラや写真についての「造詣」の深さは、カメラや写真以外の知識が豊富であることに裏打ちされているのである。

写真を撮ると言う行為においては「人間の認知能力」という問題が大きく絡む。また、撮り手の「心理」とか「感情」という問題も極めて大きい。私は「認知科学」であるとか「心理学」であるとか、「感情」に関して言うならばホルモンの与える影響という点から、すなわち「生理学」的レベルから人間の「感情」というものを対象化している。

写真は人間が撮るものである。何度も書いたようにその人の"全人格”が関与する行為である。そして、「人間」というものは、極めて複雑な存在である。多面的で、複合的で、重層的で、矛盾的である。そしてその複雑怪奇な人間を「動かしている」ものは直接的には「脳」であり、根本的な部分では「遺伝子」である。だから、「脳科学」と「遺伝学」をやらない限り「人間とは何か?」と言うことを深く理解することはできない。

もう一度書くが、写真は人間が撮る。必ず撮影者の「人格」が写真に投影される。どういう写真を撮るかと言うことに関しては、その人の人間性が極めて色濃く反映されている。格好付けるのが好きな人間は格好付けた写真ばかりを撮るものだ。身の回りのことに関心が強い人は、自宅周辺ばかりで写真を撮る。写真には「その人の関心」が写っている。であれば、「写真」というものを深く理解するためには、「人間」を理解する必要がある。

写真は「写真機」で撮る。写真機の「しくみ」を知っているかいないかは絶対的に決定的なことでは無いが、知っているかいないかの差で写真はかなり大きく変わる。写真機で写真を撮るのであるから、カメラの知識は不可欠であるし、露出に関する知識も不可欠である。私はそういうことについてはよく知っている。プロカメラマンと話していて「そんなことよく知っているね〜」と驚かれることがあるほどである。だから、千葉桜さんが「大変勉強させて頂いてます」と言ってくれたのはお世辞では無いのである。私は、彼に参考になるレベルの話を書いていると自負する。いや、彼レベルの人だからわかるという深い話を書いている。※彼にこのブログを読んで貰いたいとは全く思っていない。時間の無駄だ(爆)。

私が認める人間には軽々しいお追従を言うような人間はいない。誠実な人間は本音で語る!

話が逸れてしまった。最初は「誌上レッスン(10)」として極めて実際的なことを書こうとしたのだが、私が持っている理論と知識がプロカメラマンのレベルに劣ることは無いという話しに逸れた(1/3段の露出に拘ることの重要さを教える前提話)。ただし、「撮影経験」という点では私はプロカメラマンの足下にも及ばない。私は、子どもの七五三の写真をちょこちょこ撮っていた程度でしかなく「撮影経験」と言えるようなものはほとんど無い(忙しいのは10〜11月だけだから・涙)。「白ホリ」のスタジオなんて見たことも無い(笑)。

話が逸れて「長文」になってしまったのでこのエントリーで「誌上レッスン(10)」をやるのは辞めておこう。これは「閑話(73)」として投稿することにする。

(つづく)

※最初一括してアップしましたが、この後の文章は「閑話(74)」として分割掲載しました。


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by dialogue2017 | 2018-11-28 16:00 | 閑話 | Comments(2)

ついついパソコンに向かってしまう理由は目の調子が悪くてあまり本を読む気になれないためである。目の調子が悪くなければ、少し纏めて本を読みたいと思う。この10年ぐらいはムラの大きい本の読み方をしている。あるときに纏めて読んで、それ以外の時はボチボチ程度に読むと言う感じである。近年では2015年の上半期に纏めて読んだ。1〜5月の5ヶ月間に250冊読んだ。毎月50冊のペースである。実際には一番読んだ月には77冊読んでいる。その月は毎日2冊以上のペースだ。読んだ250冊の本の大半は学術系書籍で、娯楽図書は1冊も含まれていない。そもそも娯楽性の強い本はほとんど読まない。

学術系書籍というのは大部なものが少なくないので、この時読んだ250冊を平均的なページ数の新書に換算したら400冊に近いだろうと思う。つまり、新書を毎月80冊のペースで5ヶ月間読み続けたに等しい読書量であったということである。1日2.67冊ペースになる。新書を1日3冊ぐらい読むのはどうといったことは無いが、土日は家族と過ごすためほとんど本を読むことが出来ない。月に1〜2度は一人で出かけて本を読まない日もある。だから、実際には月に20日ぐらいしか本を読む日が無い計算になる。そうなると1日新書4冊というペースである。3冊ならどうといったこと無いが4冊になるとそこそこハードだ。この1冊の違いは大きいのだ。この年のこの5ヶ月間はもの凄く集中して読み込んだのである。しかも、その同じ1〜5月の5ヶ月間に、私はブログに70万文字の文章を書いた。

やはり土日には文章を書く時間がほとんど無い。土日以外にも外出して夜遅くに帰宅することもあるので、一月の内文章を書いている日は本を読む日同様20日前後である。5ヶ月間で100日前後。と言うことは1日7,000字ペース。今月は1〜25日の25日間にこのブログに27万字ちょっとの文章を書いている。1日あたり1万文字を超えている。それから考えたら1日7,000字などたいしたことはないが、その一方で新書換算で毎日4冊のペースで読んでいたというのは我ながら信じがたい。しかも、学術系書籍をである。もう、そんなペースで読んだり書いたりするだけのエネルギーが無いような気がする。この3年半の内に随分年を取ったから。

来年は月20冊ペースでコンスタントに読もうと思っている。その一方で、毎日5,000字ずつくらい文書を書こうと思っている。ブログのような形で公表するための文章では無い。子どもたちに「遺書」を書こうと思っている。とりあえず150万文字程度の「遺書」を書く予定である。多分、始めたら大幅に上回ってしまうだろうが(きっと倍以上書くだろう)。

明日は第一回の「写真教室」をやる予定である。そして、ポートレート撮影も少し行う予定。ところが、天気予報によれば明日は午後から雨になりそうである。いっそのこと朝から降ってくれた方が嬉しい。私は「雨の日の写真」は嫌いじゃ無い。降り始めが午後遅くにずれ込むのが一番困る。日中の間曇天となってしまうからだ。曇天の日に写真を撮るのは好きでは無い。やはり、写真は太陽の光がある日に撮るのが一番である。鎌倉の紅葉はまだなので箱根に行ってロケをやるつもりである。いま箱根は紅葉の見頃。場所によって雰囲気が全く違うので3ヶ所ぐらいで「写真教室」兼「ポートレート撮影」をやろうと考えている。

ポートレートはズームレンズ主体で撮るつもり。7〜80%は全身を入れたカットか「ニーショット」を撮ろうと思っている。仮に晴れていたとしてもアベイラブルライトで撮る。レフ板もストロボも一切使わないで撮る。「本気」で撮るつもりではいるが、「緩い」気持ちで撮るつもりである。そのためにズームレンズを使う訳である。フルサイズセンサーのカメラに85mmの大口径レンズで撮影したら、気合が入ってしまうから(笑)。24-70mm F2.8あたりが理想的だが、あいにく24-70mmは持っていない。そのレンジで撮る時には単焦点レンズを使うので24-70mmの必要を感じたことが一度も無いのである。というわけで、明日はEF24-105mm F4Lで撮るつもり。あまり好きなレンズじゃ無くてほとんど使ったことが無いレンズなのだけれど、1本で済ますには使い勝手が良いだろう。F4通しのズームでどんな写真が撮れるのか、やったことが無いから楽しみである。

サブカメラを持たず、カメラ1台ズームレンズ1本だけで撮ってみようと思う。撮影することより「楽しい時間を過ごす」ことの方が魅力的だからである(笑)。それに、自分で撮るより写真を教える方が断然楽しいだろうと思う。なにしろ、生徒さんは若くてスリムでとびっきりチャーミングな女性なのだから(笑)。彼女がどんな写真を撮るか楽しみだ。


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by dialogue2017 | 2018-11-27 22:35 | 閑話 | Comments(0)

京都・上寂光寺。2017年11月13日撮影。

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「そうだ 京都、行こう。」というCMはもう25年続いているそうである。最初に見た時にはインパクトがあった。しかし、25年たって初めて「そうだ、京都に行こう。」ではなく「そうだ 京都、行こう。」であることに気がついた。日本語の「作文作法」からするとおかしな記述である。口語なら「そうだ、京都に行こう!」となる。文章で表現しても同じである。

「そうだ京都、行こう!」では明らかにおかしい。それを自覚しているから、「そうだ」と「京都」の間に「空白」を入れて「そうだ 京都」としている。しかし、真っ当な日本語作文の作法では文中に「空白」を入れることはない。文中を「区切る」さいには「読点」を使用するのが日本語作文の作法である。

いっそのこと、「そうだ 京都 行こう!」ならまだわかる。これなら通常の日本語作文の作法を踏襲せず書いていることがわかるから(CMなのだからそれでもいいと思う)。しかし、「そうだ 京都、」と読点を入れると話が分からなく成る。「読点」の使用はオーソドックスな日本語作文の作法である。日本語文の文中において文章を区切る際には「読点」を打つのがルールである。「空白」によって区切った直後で今度は「読点」によって区切るのではもう「ルール無し」の記述である。

やはり「そうだ、京都に行こう。」が真っ当な日本語文なのである。話し言葉が大きく崩れていることに暗澹たるものを覚えているが、書き言葉まで崩れていくとなると、いよいよこの国そのものが崩れて行かざるを得ない思う(もうそうなり始めて久しいが)。言葉が崩れると言うことは、文化が崩れることに繋がるし、人間同士のコミュニケーションの低劣化を生み出す。人間にとって「言葉」というものは非常に大きな意味を持っている。それはたんに「言葉」ということに止まらない多様なモノを含んでいる。文化の基礎は言葉にあると言って過言では無い。

「言葉」をデタラメに使う人間が写真を撮ると、「写真」が崩れていく。言葉に「文法」や「記述規則」があるのと同じように「写真」にも「文法」や「記述規則」に類するモノがあるからである。例えば一つの例を挙げれば「白飛び」がそういうモノに当たるだろう。

何でもありの時代になって久しい。その結果、あらゆるものが崩れてきている。倫理や道徳が大きく崩れた。社会規範が崩れた。結局、「自分(と家族)さえ良ければいい」と言うのが大多数の人間の「本音」になってしまったのだ。その裏返しが「互いに褒め合う」という風潮を生み出した。社会の大多数の人間が互いに褒め合えば沢山のモノが崩れていく。「モノクロ写真ジャンル」に掲載される写真を見ているとそれを感じる。

先日見た「ワークショップ2B写真展」の展示作品は素晴らしかった。まさに十人十色、百人百様の展示であった。そこには誰かの物まねではなく自分が撮りたいモノを撮った写真が並んでいた。出展者の数だけの「個性」が輝いていた。しかし、そこに「一本の筋」が通っているのを私は感じた。まず、なによりも感じたのは誰かの模倣であるような作品がほとんど無かったことだ。「本当に自分が撮りたいモノを撮る」という「一本の筋」が通っていると感じた。

その一方で、長い写真文化の中で確立された「写真のルール」のようなモノが守られていると感じた。そうなっている理由はハッキリしている。一人の「師匠」の指導を受け、写真にとって一番大事なことを覚えるところからスタートした青年たちの作品だからである(老年も参加していたけれど)。彼らには共通した「基礎」があると言うことである。

私は「保守主義者」ではない。長い人生を「反保守主義者」として生きてきた。しかし、人の世には「ルール」が不可欠であるし、文化や芸術にも「原理原則」は必要だと思う。そういうモノを根底で支えるのは「言語」である。写真や芸術作品を解釈する際に「文脈」という言葉を使ってアナライズするのは、その根底に「言葉」が孕まれているからである。

人は何かを「表現」するために「絵を描いたり」「音楽を作ったり」「写真を撮ったりする」。それらは「言葉」では表しきれないモノ・コトを表現するためにノンバーバルな手段を使って表現を行ったものである。しかし、人間にとってもっとも根源的でオーソドックスな表現手段は「言葉」である。人間は「言葉」というもの無しにはモノを考えることが出来ないからである。モノを考えることが出来なければ「表現活動」を行うことは不可能である。であれば、あらゆる「表現行為」の中には、必ず「言葉にできるモノ・コト」が孕まれている

一概には言い切れないが、良い写真を撮っている人間は自分の作品を言葉で上手に説明することが出来る。言葉で表現できないと言うことは、その「写真」を理解していないと言うことなのだから。「写真」と「文章」はとてもよく似ていると思う。文章を推敲する作業と、写真をレタッチする作業はほとんど同質の作業だと思う。言葉に対して「真面目」であることは、「写真」に対しても「真面目」である姿勢を生むと思う。「言葉」を乱暴に扱ったり、軽々しく扱う人間は「写真」にたいしても「軽々しく」向き合うと言って、あながち間違っていないだろう。

「言葉」は人間にとって根本的なものである。だから、「弄んで」はいけない。


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by dialogue2017 | 2018-10-20 18:30 | 閑話 | Comments(0)

どうしても39年前に使っていたPanasonicのカートリッジの「型番」が知りたくて調べてみたら簡単に見つかった。Pnasonicブランドではなく「Technics」ブランドであった。そうであった。「パナソニック株式会社」が販売する音響製品のブランド名は「Technics」であった。で、件のカートリッジの型番は「EPC-100C」であった。

こんなことを調べたのは懐かしさからではない。私はひとつ前のエントリー「閑話(68)」の中で、「このPanasonic製のカートリッジは原音を忠実に再生すると言う点において非常に優れた製品であった。『SHURE』を聞き慣れた後にこのPanasonic製カートリッジでレコードを掛けると音がもの凄く『堅く』感じられたものである」と書いた。「堅く」というのは「原音に忠実」という意味であることを前後に記した。つまり、このカートリッジを使ってレコードを再生すると、他のカートリッジを使ったときと音がまるで違うのである。それは、まるで生演奏を聴いているかのような音であった。常用していた「SHURE V15 Type Ⅳ」はジャズレコード再生にとってナンバーワンという評価を得ていたカートリッジであり、当然「生の音」に近い音を拾い出すカートリッジであったわけだが、それと比べても「EPC-100C」は「音が一変」するほどリアリティの高い音を出した。ギターの音色などは、本当に目の前で鳴っているかのように聞こえた。

私は1日といえど「オーディオマニア」であったことはない。『オーディオ評論』とか『STREO』と言った雑誌を読んだことは一度もない。オーディオについて勉強したこともない。当時はインターネットなど無かったので、専門誌などを読まない限り専門的ジャンルの知識を得ることは出来なかった。それでも私が多少のオーディオ知識を持ち合わせているわけは、毎月『スイングジャーナル』を読んでいたからである。『スイングジャーナル』にはオーディオについて取り上げるコーナーがあり、毎月著名なオーディオ評論家がオーディオについての話を書いていた。私は毎月それを読んでいた。自分の「趣味」に関連する範囲については最低限のことはかならず知っておくべきという考えだから。

「閑話(68)」の中で、私はまるでEPC-100Cが我が国最高峰のカートリッジであるかのような文章を書いたが、それは本当のことなのか心配になった。で、調べてみたのである。私は自分が書いたことに大きな間違いが無いか、書いた後に検証してみることが良くある。情報を発信する以上、発信した情報について責任を持つべきだと考えるからである。そういう理由で私は夕食後にEPC-100Cについて調べてみた。するといくつかの記事がヒットした。その中の一つに『ステレオの産業史』という本格的なサイトがあった。

そこに、EPC-100Cが取り上げられていた。そこには、「聞き慣れたレコードが一変。テクニクスMMカートリッジの集大成」「我が国初のMMカートリッジを登場させたテクニクスが、その限界に挑んで開発」と記されていた。たしかに、あのカートリッジが拾い上げる音は限りなく「生の音」に近かったと思う。もちろん、スピーカに生の音を再現する能力がなければ実現しないことであるが、「音の入り口」であるカートリッジが「音源」(レコード)に刻まれた「原音」を忠実に拾い上げない限り、どんなに高性能のスピーカーを使っても原音に近い音は出ない。オーディオの世界では「音の入り口」と「音の出口」が決定的に重要なのである。間違ったことを書いていなくて良かった。定価は60,000円と記載されていたが、これは1976年に発売された当時の価格であり、私が使っていた1980年当時に70,000円だったことは間違い無い。

オーディオの音質は「音の入り口」と「音の出口」がもっとも大きな影響を与えると言うのが定説である。「中間」にあるアンプリファイアーについては「あまり大きな影響はない」と言い切るオーディオ関係者もいる(代表は"この方”)。

まあ、オーディオの話はどうでもいい。暇つぶしに書いただけなのだ。ただ、この文章を書いていて思ったことがある。「音の入り口」と「音の出口」が決定的に重要だと言うことについてである。私はこの間二度ほど「レタッチの重要性」という話を書いた。"ここ”"ここ”に書いた。後者は昨日書いたばかりのエントリーであるが、私はその中に機械的に記録された光を、自分のイメージに合わせて手直しすると言う作業は、ある意味『二度目の撮影』だと言っても良いと思う」と書いた。これは最近の私の「実感」を率直に書いたのだが、この一文には、レタッチが「撮影」に比する重みを持っていると言うことが表されていると言って良い。

考えてみれば当たり前のコトなのだ。写真は撮っただけでは写真にならない。フィルムの時代であればまずフィルムを現像しなければならなかった。フィルムを現像しただけではまだ「写真」ではない。それは「ネガ」であるに過ぎない。その「ネガ」を使ってプリントをして初めて撮影した光景が「写真」として結実するわけである。であれば、「写真」というものにおいて「プリント」は「撮影」に比する重要さを持っていると言って良いわけである。いや、ある意味では「撮影」以上に「プリント」が占めるウエートの方が大きいと言っても過言では無いだろう。デジタルフォトになった今では、「撮影3割、事後処理7割」などと語る写真家もいるくらいで、写真の出来不出来を決める要素としては「レタッチ」の方が重みを持つほどになっている。

いまは「事後処理」(レタッチ)で「如何様にも出来る」と言えるような時代である。例えばシャドーに関してなら-2.0EVで撮っても綺麗に起こすことが出来る時代である。しかし、ハイライトに関しては飛ばしてしまったらもうどうにも出来ない。デジタルの世界での「0」は「データがありません」だからである。私がことある毎に「白飛びはさせてはいけない」と書き続けている理由は、デジタルフォトの撮影において一番重要なことは「白飛びさせない」ことだからである。「撮影時に一番気をつけていることはなんですか?」という質問をプロカメラマンにすれば、たいがいのカメラマンは「白飛びさせないこと」と返答するだろう。飛ばしてしまったらレタッチではどうしようも無いからである。取り返しの出来ないミスを避けると言うことがプロにとって一番重要なのは理の当然である。

話を纏めると、写真の場合も「入り口」と「出口」は決定的に重要だと言うことである。まず、とにかく「適正露出」で撮影しておくことが重要である。いまはカメラのAEの性能が非常に高くなっているので難しいことではない。そして「出口」であるレタッチも非常に重要である。なぜなら、これも昨日書いたことであるが、世界一優秀なカメラを使っても、写真は自分が思うとおりには写ってくれない」からである。だとしたら、撮影後に「整える」ことは不可欠と言って良い。

何度も書いてきたが、「レタッチ」と言っても難しいことではない。「私はレタッチは苦手」と口にする人がいるが、全然難しいことではない。「ハイライト」と「シャドー」と「コントラスト」の微調整をするだけで良いのだ。「難しい」と感じる理由は、その「落としどころ」がわからないからだろう。「落としどころ」は「最高峰」の作品(写真)を見続けることによって自ずと涵養されるものである。

ステレオでも、車の運転でも、料理でも、写真でも、なんでも同じことである。物事には「基本」がある。優れた「ステレオ」「車」「料理」「写真」、これらすべては「基本」の上に成り立っているのである。高いレベルに到達した後に壁にぶつかった際に戻っていくのも「基本」である。どんな物事でも、なによりも重要なのは「原理原則」(基本)である。

この話は、先日紹介した「師匠がいるやつは羨ましい」「帰って行ける基本があるから」という渡部さとるさんの話にも通じる。ワークショップ2B出身者の展示作品のレベルがアマチュアとしては各段にレベルが高い理由は、優秀な師匠の指導を受けた人々が撮った作品だからである。渡部さんは受講者の写真を滅多に褒めない。グループ展の前には何度も何度もダメ出しをするのでノイローゼになる受講者もいるほどだ。下手くそな写真を互いに「いいっすね」と褒め合う「写真ブログ」の世界とは対極的である。下手な者同士が褒め合っていたのでは上達などあろうはずがない。互いに厳しい批評をしあうことが切磋琢磨の源である。肝に銘ぜよ!

たまたま叔父から譲り受けたオーディオセットに含まれてカートリッジであるが、22歳という若いときにこの我が国最高峰のカートリッジを使ってLPレコードを聴いた経験は私にとってとても貴重な"教訓”となった。「本物」は違うと言うことを私は若くして知ることが出来た。しかし、大切なのは「所有」することではない。「最高峰」の「機器」を「所有」することに満足するのは低水準な人間のすることだ。肝心なコトは「機器」を活かして使うことだ。高級カメラや高額なレンズを持ったら、人々を唸らせるような写真を撮らなければ恥ずかしい。




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by dialogue2017 | 2018-10-19 22:30 | 閑話 | Comments(0)

手持ちで撮ったため僅かに仰角に撮れている。床に這ってまでレベルで撮る気にならない(笑)。しかし、こうしてブログに掲載したら、ほんの僅かに仰角であることが気になって仕方ない。いつも車のラゲッジに積みっぱなしの三脚がたまたま書斎にあるので持ってきてきちんと撮り直そうかと思ったが、馬鹿馬鹿しいと思い直して辞めた。テレビのサイズは50インチ。スピーカーの大きさが想像出来るだろう。


スピーカーは「MITSUBISHI 2S-305」。「DIATONE 2S-305」とも言われるが筐体についている表示は「MITSUBISHI」である。NHK技術研究所と三菱電機が3年掛けて協同して開発した当時国内最高峰のモニタースピカーである。詳細は写真下の本文を参照。


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このスピーカーを手に入れたのは39年前、22歳の時である。スピーカーは電化製品であるがあまり劣化しないようで39年間なんの問題もなく使ってきた。音質が劣化したという様なこともない。電化製品と言っても電気的部品は「マグネット」と「コイル」だけと言って良い至ってシンプルな構造であるため壊れにくいのだろう。このスピーカーは1958年に製造が始まった製品である。私が生まれた翌年である。ちなみに、LEICA M3の製造が始まったのはこのスピーカーより4年前の1954年の事である。LEICA M3が今でも当時と同じように使えるのだから、今年「還暦」を迎えたこのスピーカーが現役として通用するのも驚くに値しない。"アナログ”製品というのは「陳腐化」しないのである。60年後にLEICA M10を使っている人はいないだろう。LEICA M3は偉い(笑)。

このスピーカーは、「伝説のスピーカー」とも呼ばれる"曰く"ある製品である。googleに「2S-305」と入れて検索すると沢山の記事がヒットする。その筆頭に表示される"この記事”の冒頭には次のような説明文がある。

1955年に発表された2S-660から3年を費やし改良されて誕生したスピーカーシステム。
NHK技術研究所との共同研究によって開発されました。
2S-305は何十年もの間、BTS-6131に規定された音質監視用R305の指定名称で、国内の放送局をはじめ海外の放送局や、音響専門メーカー、音響研究所で標準再生用として採用されました。
また、高い技術精度で作られる一つ一つのパーツをシステムとして完成させるため、エンクロージャーの製作、部品の組立て、取付けにいたる過程すべてが熟練した職人による手作業により行われていました。

ようするに、このスピーカーは「民生用」として開発されたものではなく、放送局や音響専門メーカー、音響研究所における標準再生用スピーカーとして開発された製品である。上の引用文に「BTS 6131」という言葉があるが、「BTS」というのは日本放送協会が制定した放送技術規格のことであり、それは「各段にハイレベル」な音質の放送を実現するために作られた規格である(詳細は"wiki”)。※2S-305の開発に携わったエンジニアと想われる人のブログに逸話が記されている → 「平太郎のコラム」

実際、1970年代末まではNHKを初めとする多くの放送局や大手レコード会社のレコーディングスタジオでこのスピーカーが「音質監視用」として使われていた。1980年の初頭にはまだこのスピカーを使っていた放送局やレコーディングスタジオが残っていた。CBS SONYの信濃町スタジオで現役として使われていたと記憶している。

モニタースピーカーというのは「音質監視用」スピーカーと言うことである。「監視」という言葉がちょっと馴染みにくいニュアンスであるが、ようするに「原音」を「忠実」に再現するためのスピーカーである。テレビ放送やレコーディングを行うためには「原音」を「忠実」に再現できるスピーカーが不可欠となる。そういう用途のために開発・製造された製品だと言うことである。

実は、モニタースピーカーの音は「堅い」。このスピーカーで、原音を忠実に再生する能力の高いカートリッジを使ってデジタルマスタリングカットされたLPレコードを初めて聴いたときには衝撃的であった。ほぼ生演奏を聴いているのと同じ音なのである。その時聴いたのはジャズ界で「King」と呼ばれていた"ベニー・カーター”のLPレコードであったのだが、音が鳴った瞬間の感想は「目の前にベニー・カーターがいる」であった。「音源」であるデジタルマスタリングカットされたLP、最高級のカートリッジ、そして原音を忠実に再生するモニタースピーカーと3拍子揃ったシステムがたたき出す音は本当に衝撃的であった。ちなみに、私はベニー・カーターの演奏を生で聴いたことがあるが、この時の音はLIVEで聴いた音以上にリアルだった(LEIVは大ホールで聴いたので)。

このブログの訪問者にオーディオの話に興味のある人は多くないと思うが、もう少し書く(結論だけ読みたい人は末尾のピンク色の文章を読め)。オーディオファンであれば誰もがご存じであろうが、同じスピーカー、同じアンプを使ってレコードを再生しても、カートリッジを変えると音質は大幅に変わる。「全く別物」というほどに変わってしまうのである。「音の入り口」は決定的なのである。

コンシューマー向けスピーカーは「耳障りの良い音」が出るように作られている。しかし、「音質監視用」スピーカーであるモニタースピーカーはあくまで「原音」を「忠実」に再現するためのものである。だから、民生用スピーカーに比べると音が「堅い」。例えば、ドラマーがシンバルを叩いたときに発生するスティックから生じる「木の音」まではっきりと聞き取れる。「木で叩いている」のだということがリアルに伝わってくるのである。そいうスピーカーで長時間音楽を聴くと疲れる。だから、民生用スピーカーは音を「柔らかく」聞こえるようにチューニングしてある。

若い頃は主にJAZZを聴いていたので、「SHURE V15 Type IIII」や「SHURE V15 Type Ⅳ」を使っていた。JAZZを聴くためのカートリッジとしてはもっとも評価の高いカートリッジであった。別途、型番は忘れたがPanasonic製のカートリッジを使っていた。というか、こちらを先に使っていてあとから「SHURE」を使い始めたのであるが、このPanasonic製のカートリッジは原音を忠実に再生すると言う点において非常に優れた製品であった。「SHURE」を聞き慣れた後にこのPanasonic製カートリッジでレコードを掛けると音がもの凄く「堅く」感じられたものである。ちなみに、このカートリッジは40年前の価格で7万円もした。いまなら20万円はするような製品だろう。

JAZZのライブなどを聴いたことがある人であればよくご存じであると思うが、ステレオで聴く音に比べて生の音は「堅い」し「激しい」。サックスの音色には「まろやかさ」があるが、その一方「金属的」な音質でもある(金管楽器なのだから当然だ)。コンシューマー向けのスピーカーではこの「生音」は再現されない。コンシューマー向けのステレオ装置というのは「聴き疲れしない」「心地よい」音を作っているからである。しかし、現実の生の音は「強い」。モニタースピーカーはそれを可能なかぎり「忠実」に再現することを目的に開発製造されたスピーカーである。

しかし、我が家の2S-305はかなりマイルドな音を出してくれる。その「原因」は「管球式アンプ」を使って鳴らしているからである。管球式アンプというのは、例えてみれば「PORTRA」のような音を出してくれるアンプなのである(実際、真空管は「アナログ」システムである)。私が使っている真空管は「300B」と言う真空管である。googleに「真空管 最高峰」と入れて検索すると「300B」に関する記事がズラズラと並んで出てくる。

一般的に、真空管アンプはトランジスタアンプに比べて「柔らかい」音を出すと言われるが、300Bは「もっとも真空管らしい音を出す」と言われている製品である。"こちら”のコラムから引用させて頂くと「音質的には中高域の粒立ちが極めて細やかで繊細感があり、中低域にかけて量感(ふくらみ)のある聴き易い音質であるのが特徴です。言い替えれば”最も真空管らしい音質”といえるのが300Bとも言えましょう」とのことである。

300Bはアメリカの「ウエスタン・エレクトリック」社の製品で、かつては非常に高額(数十万)であったため「高値の花」と言われた真空管であるが、1990年代以降中国製が出てきて誰もが購入できる値段となった。300Bにも沢山の製品があり、いまだに30万円を超えるモノがある一方中国製の中には1万円程度の製品もある。私のアンプの300Bが中国製であることは言うまでも無い(笑)。

大きなスピーカーは大きな音で鳴らしてこそと思われがちであるが、実は、小さな音量で鳴らしたときでも違いがはっきり分かる。排気量の大きなエンジンを積んだ車を高速道路で比較的低速度で走らせたときにも大きな「ゆとり」を感じるのと同じことである。だから、夜中に低音量で掛けてもとてもいい音で鳴るのである。

いや、自慢話がしたかったわけではない。「最近は良く音楽を聴いている」という話を書いたのでついその続きの話を書きたくなり書いてしまったというだけのことである。私はオーディオマニアではない。以前は、もう少しきちんとセッティングしていたが、いまはリビングが狭くギリギリのスペースに置いている。マニアが見たら「ひでーなー」というセッティングである。しかし、私はどんな領域に関しても「マニアックな世界」には近づかないことに決めているのでそれで構わないのである。たいした拘りもなく乱暴にセッティングしていても良いスピーカーはそれなりの音を出してくれるものである。

どんなジャンルであれ「最高峰」に触れることには大きな価値がある(それが人生においてとても大切なことだと言うつもりは無い)。「音楽」であれ、「文学」(文章)であれ、「料理」であれ、ハイレベルなモノに触れ続ければ自ずと薫陶を受けることになる。最高峰の作品は自分を「養って」くれる。「写真」も同じである。

追記。本文で引用した"この記事”を読んでみた。元記事の「青字」の部分の文章を読むと、このスピーカーが「伝説のスピーカー」と言われたことに納得する。


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by dialogue2017 | 2018-10-19 17:30 | 閑話 | Comments(0)

最近よく音楽を聴いている。音楽を聴くことは好きで、毎晩バーボンのロックをチビチビと嘗めながら音楽を聴いている。しかし、日中はあまり掛けない。日中のほとんどは「文字」と向き合っているからである。つまり、本を読んでいるか文章を書いているかどちらかだと言うことである。私の睡眠時間はだいたい6時間前後である。起きている時間は18時間ということになる。その内の15時間ぐらいを私は「文字」と向かって過ごしていると言っても過言では無い。もちろん、何か用事がある日はこの限りではないが、用事のある日というのは滅多にない。

若い頃、1日中JAZZを鳴らしてていた時期があった(当時は土日しか仕事をしていなかった)。その頃住んでいたマンションは壁がもの凄く厚く、特別防音工事を施していたわけではなかったが隣の家に音が漏れることがほとんど無かった。私が住んでいた部屋は7階建てのマンションの7階の角部屋で、スピーカーを置いていた部屋は隣の家と一番離れた部屋であったという事情もある。また、日中はお隣(角部屋だったのでお隣は一軒)も下の階も留守だったため日中大音量で鳴らしても問題が無かった。で、まるでJAZZ喫茶並という音量で聴くことも珍しくなかった。

若い頃にはよくJAZZ喫茶に行った。私は吉祥寺という"街”に通っていたのだが、当時の吉祥寺には日本中にその名を轟かせジャズファンの「聖地」とまで言われたJAZZ喫茶が2軒あった。『meg』と『A&F』。いまはどちらもない。私は、『A&F』→『meg』→『A&F』と梯子をすることがちょくちょくあった。途中に食事を挟んだりして、半日ぐらい過ごすことも珍しくなかった。JAZZ喫茶ではJAZZを聴いているときもあるが、本を読んでいることの方が多かった。好きな曲がかかったときだけ本を置いてJAZZを聴いた。

若い頃には大音量でJAZZが掛かっている環境で本を読むことが苦にならなかった。自分で言うのも何だが、私は「異様」なほど集中力があって、しかもそれが持続する人間なので本を読み始めると「音」に邪魔されることがなかった。ところが、近年は本を読むときに音楽があると煩わしく感じるようになった。天才も寄る年波には勝てない(爆)。

そんなわけで、年を取ってからは日中に音楽を聴くことが少なくなった。全く聴かないわけではない。気が向くと日中にもCDを掛ける。しかし、その頻度は多くない。ところが、ここ最近、かなり頻繁に日中に音楽を聴いている。そうなった理由は明らかで、眼の調子があまり良くないからである。日常生活にはなんの支障も無いのだが、本を読み続けるのが苦になってきた。6〜8月の三ヶ月更新を辞めていたこのブログを9月に再開してしまったわけは、本を続けて読むことが辛くなったからである。文章を読めなくなった代わりに文章を書くことにしたのである。

「書く」ことは「読む」ことに比べて楽だ。この2〜3年著しく老眼が進み、老眼鏡無しでは全く文字が読めなくなった。読書をするには必須である。しかし、こうやってパソコンに向かって文字を書くときは老眼鏡無しでも書くことが出来る。極端なことを言うと、私は目を瞑っても文章を書くことが出来る。自慢をするわけではないが、私は生まれて初めてキーボードを使った日、1時間半後にはブラインドタッチで文章を打てた。もちろんその時のスピードは遅かったが、数日後には速いテンポで打てるようになった。ミスタッチは少ない(最近少し増えているが)。だから1時間に5,000字程度は難なく書くことが出来る。

いまこの文章も老眼鏡を掛けずに書いている。私の眼とMacBook Proのモニタの距離は45cmぐらい離れている。座っている椅子の背にもたれ身体を少し後方に傾けてタイプしている。いや、50cm離れているかもしれない。このくらいの距離であるとモニタに表示される文字を判読することが出来る。老眼鏡を掛けて文字を読むことにはストレスを感じるのだが、裸眼で読んでいる分にはストレスが少ない。で、9月1日以後毎日「大量」に文章を書いていると言う次第である。

文章も、中身のあるものを書くときにはBGMがない方が良い。人間、「雑音」がない方が思考に集中出来る。しかし、一旦書き始めてしまうと音楽はあまり耳に入ってこない。脳が完全に思考(文筆)優先モードに切り替わり、音楽は強く意識されなくなる。インストゥルメンタルだとほとんど気にならない。こんな雑文を書くのであれば、日本語の歌詞のある歌であってもさほど邪魔にはならない。そんなわけで、ここ最近は音楽を聴きながらこのブログを書いていることが多い。


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by dialogue2017 | 2018-10-19 13:00 | 閑話 | Comments(0)

閑話(66)

「閑話」と言う言葉の意味は「むだばなし」と言う意味であるが、「心静かにする話し」と言う意味もある。そもそも「閑」と言う漢字の意味は、「ひま」より先に「静か」が出て来るほどなのだ。

昔は旅先ではよく本を読んだ。いや、家にいても本を読んでいる時間が一番長いのだが、旅先にいてさえ本を読んでいる時間が一番長いことが珍しく無かった。

40代には京都に通っていた。一番行った年には何に10回も行った。桜と紅葉の季節だけ外した。京都が一番美しい季節であるが、大勢の観光客が訪れるているのが嫌で避けた。

通い始めた頃には神社仏閣を訪ったが、一通り見てしまった後には足を運ばなくなった。日中は喫茶店に入って本を読み、1時間ほど読んだら店を出てちょこっと散歩し、歩き疲れたらまた喫茶店に入って本を読んだ。

京都ならまだしも、外国でも同じことをしていた。私は30代の頃、ちょくちょくソウルに行っていたのだが、ソウルでも京都と同じように過ごした。まるで、ソウルに本を読みに通っていたかのように。

とにかく本を読むことが生活なのである。私は若い頃からほとんど労働に従事しない生活をしていた。比較的良く仕事をしていた20代30代でも週に2日は程度しか仕事をしていなかった。この20年ほどの間に仕事をしていたのは2年程である。無職ではない。収入はある。しかし、働いてはいない。

時間はたっぷりある。365日全部「休日」なのだから。だから「閑」を持て余す。なにか時間を潰す”ネタ”が必要だ。幸い若い頃から本を読むことが好きだったので、毎日本を読んで過ごしている。

しかし、4年ほど前から調子の悪くなった眼が、この春以降更に悪化した。日常生活に支障は無いのだが、読書には差し支えがある。長い時間続け読むことができなくなった。それどころか10分読んで疲れてしまうことさえ増えてきた。

で、時間潰しの”ネタ”として「写真」のウエートが増した。しかし、写真以上に「心地よい」時間潰しの”ネタ”がある。文章を書くことである。

楽しいと言う点では、旅先で書くたわいのない文章が一番である。ただ、そう言う話は”他人”にはさして楽しいものでは無い。だから、そう言う文章をブログなどに書いても仕方ないのであるが、人間というのは不思議なもので、ノートに綴って終わりにするのと比べ、誰かが読むかもしれない場に書くほうが心地よいのである。そして実際、こんなどうでも良い話を読んで下さる奇特な方々何人かはいるのである。

11日にアクセス数が1,000を超えた。1日の平均ページヴューは800程になった。過去ログへのアクセスが増えている。

カメラや写真について検索した人がたまたまヒットしたこのブログのページを開いてくれているのだろうが、中にはコツコツと過去ログを読み続けている人がいるようだ。毎日いくつかずつこの「閑話」を読んで下さっている方がいることを知った。

「閑話」ではモノクロ写真論の様な話を書いていることが多いので、興味を持って読んで下さっているのであろう。そういう方々は「正しい」。このブログにささやかな価値があるとしたら、それは掲載している写真にではなく、文章にあるのだから。少なくとも、文章の価値は写真のそれの10倍はあると思う。

iPhoneで書くと時間が掛かる。おかげでたっぷり「閑」を潰すことができた。のんびりしたら少し歩いても良い気分なった。取り敢えず材木座海岸裏の住宅街でも歩いてみようかと思う(笑)。今日は海を撮っても鉛色にしか写らないから、路地裏でも撮るほうがまだ良い。





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by dialogue2017 | 2018-10-15 10:30 | 閑話 | Comments(0)

閑話(65)

物事を上手にやるためには、正反対の二つのやり方がある。一つは丁寧にじっくりと時間を掛けて取り組むというやり方だ。大半の人はこちらを選ぶ。もう一つは、大雑把にてきぱきと手短にやっつける。これは才能がないと良い結果を生まない。しかし、ちょっとしたこと、例えばお客さんに振る舞う夕食を用意する程度のことは後者で片付けられなければダメ。それが「才能」というものである。写真を撮るというのは、ちょっとした料理を作るのと同じレベルの作業だと思う。いや、料理より簡単かもしれない。大雑把に、てきぱきと、手短にやっつけるべきである。そう、例の「適当にやって」「収まってくる」というのが理想だろうと思う。




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by dialogue2017 | 2018-05-16 18:00 | 閑話 | Comments(0)

閑話(64)

「遅くとも今月いっぱいでこのブログを終わりにしようと思っています」の中に「今週中に、例の「ギターの写真」の件についての記事と、「ウクレレの写真」の件に関する記事と、『SunsetLine』さんの写真の「論評」を書いてこのブログを終わりにしようと思っている」と書いたのはちょうど7日前。先週の火曜日に書いたエントリーなので「今週中に」という約束を破ってしまった。

3つの宿題について書けないと言うわけでは無いし、面倒なわけでもない。では、どうして先送りしているかというと、この3つの宿題について書いてしまったら「これで終わった」という気持ちになるであろうからである。金曜日に、約束を果たすべく3つの宿題を書いてしまおうかと思ったのだが、ちょっと考えた後に先延ばしにすることに決めた。その理由は、課題がひとつ増えていたからである。「逆光でのポートレートライティング」に関する質問を受けていたので、それについてもちょこっと書いておきたいのである。

この4つめの宿題は、元からある3つの宿題に比べ少し手間が掛かる。書くのが難しいわけでは無いが(私の場合そういうことはほとんど無い)、3回ぐらいに分けて書かなければならないし、質問者が初心者であることを考えると、意を尽くして書く必要があり、そうなると字数が多くなる。で、3つの宿題より先にこちらを済ませておきたいのである。しかし、「作例」として掲載する写真を外付けHDDの中から探すのが面倒なのである。きちんと整理せず、あちこちの外付けHDDの中に入れてしまっているため探すのが面倒なのである。

私は面倒くさいことは放ったらしにして手を付けない。多くの場合そのままやらずに放置しておく。良くないことだとわかっているが、この困った性格は直せない。実は、HDDの中の作例は比較的短時間で探せると思うのだが、古いブログに掲載したファイルなのでここに掲載すると解像度が足りない。それで躊躇しているのである。元ファイルの方は、探すのが相当困難であるし、元ファイルからレタッチをやり直す気にはとてもなれない。で、新しい課題も先送りしている。

何もかも先送りしているわけは、とりあえず今月いっぱいはこのブログをやることに決めたからである。今月いっぱいはやろうと思った一番の理由は、「写真なんか楽しければそれでいい」にコメントを下さったFさんとの出会いである。Fさんは「遅くとも今月いっぱいでこのブログを終わりにしようと思っています」にもいの一番でコメントを下さり、次のような過分なお言葉を頂いた。

このブログを終わられるのを少しだけでも先延ばしにしていただき、ありがとうございます。貴重な日記にもかかわらず、写真を削除してまで先延ばしにしていただけたこと、感謝いたします。このブログ自体が削除されないようであれば、引き出しを開くように、過去からこれまでの記事を拝見出来ればと思います。最後の最後で、dialogue2017さんのブログを知ることができて、良かったです。またどこかで、見つけられる日を楽しみにしております。ありがとうございます。

嬉しい以前に、ここまで言って頂くと気恥ずかしい気持ちが先立つ。Fさんは十分上手に写真を撮っておられる方で、私が何か「教える」というような方では無いと思う。いや、Fさんより私の方が知っていることが多いだろうし、私の場合、何人ものプロ写真家と付き合ってきたので同じことを知っていてもアマチュア写真愛好家より「深い」理解をしていることが少なからずある。Fさんに必要なのはそういうレベルでの「知見」だと思う。しかし、ここにはそのレベルの話をほとんど書いていない。にもかかわらず、ここまでの評価を頂いているわけで、なんだか申し訳ないような気持ちになっている。このブログを終わりにする前に、多少はFさん一人のために何かを書きたい。

私の心はFさんのことを捉えている。いや、Fさんの「お気持ち」が私の心を捕まえたのだ。彼の気持ちが私の「心」を捉えた何よりもの理由は、彼がLEICA M MONOCHROMの愛用者だからである。私は、散々(?)辛辣な言葉を投げつけてきたLEICA M MONOCHROMの愛用者の一人と真剣な「対話」をする機会を得た。私は、辛辣な言葉を投げつけてきた「責任」を果たしたいのである。

実は、昨晩(と言っても就寝したのは今朝5時過ぎであるが)、「明日先に3件の宿題をいっぺんに片付けよう」と決め手から布団に入った。しかし、今朝10時に起床し、軽い朝食を食べた後机に向かったら書く気になれなかった。書くのが嫌なのでも面倒なのでも無い。とても良い爽やかな天気なので、何かを書くのであれば全く別のもっと「軽い」話を書きたい気分なのである。ブログを更新する気になれなかった昨日とは正反対の気分なのである。今日なら、今からとりあえず5時間ぐらいぶっ続けで書けるだろう。珍しく、いくらでも書きたい気分になっている。なぜだろう?

そうなった理由の一つは今日の天気だ。今日の気温とか湿度とか風の吹き具合とか、そういうことの組み合わせが私にとってもの凄く心地よいのだと思う。そして、起床後に久しぶりに「朝のテーマ」を掛けていることも影響しているかもしれない。それは「ヒーリングミュージック」系のCDで、以前は「朝のテーマ」のように毎朝聞いていた。聞かなくなって1年ほどに成ると思うが、今朝は久しぶりに掛けている。私は文章を書き始めてしまったので音楽はBGMとなってしまいほとんど注意を払って聞いてはいないのだが、その曲は確実に「脳」に届いている。脳に入ってきた「信号」は何らかのかたちで「感情」に刺激を与えることが多い。聞くとも無く聞いているレベルであっても、私はその曲から刺激を受け、心が「癒やされ」る気持ちになっているのだろう。

そしてもう一つ大きな理由がある。たぶん、これが一番大きな理由になっているのだと思うが(自分の感情が生じている根本原因を断定することは難しい。全く別の無自覚な理由があるかもしれないから)、一昨日、5ヶ月ぶりで江の島・鎌倉界隈をブラブラしてきたことである。そこで沢山写真を撮ってきたことが、私をして「何か書きたい」といいう気持ちにさせているのだろう。写真を見せることでは無く、写真について、あるいは写真を撮っている時に感じたことについて書きたいのだ。

いや、本当に書きたいことは写真についての話しでも無ければ、カメラについての話でもない。「海風に吹かれながら波打ち際を散歩する」ということがどれほど素敵なことか、私はそれについて話したいのだと思う。人間は、感動したことについて他者に話したいという気持ちになる。鎌倉の浜辺を散歩した程度のことは「感動」にはほど遠いが、それでもとても素敵な出来事であった。私は、それを誰かに伝えたいのである。

伝える相手は誰でも良い。ここに書けば誰かが読んでくれる。コメントを頂く必要は無い。誰かが読んでくれるのは間違い無いことで、私はそれを知っている。だから、ここに文章を書けば、私は誰かと「対話」をしたことになる。

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by dialogue2017 | 2018-05-14 11:30 | 閑話 | Comments(2)