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Facebookへの投稿から(1)

今月に入ってから、毎日Facebookにいくつもの投稿をしている。それを転載する。これは本日15時前の投稿。

ー中健児之塔であった慰霊祭に参列し、戦死した仲間らの冥福を祈った与座章健さん  =沖縄市首里金城町で23日午後0字49分

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⭐️せめて、この1本の記事だけでも読んで欲しい!

💥沖縄戦では10代の少年少女が動員され殺されていった。

💥大切な人を失った悲しみ、悔しさ。

💥「考えることが戦争を起こさない唯一の道だと信じている」

(以下は2019年6月24日毎日新聞朝刊25面に掲載された記事。改行は引用者が適宜入れた。氏名や地名などへのふりがなは省略した)

自責74年、痛みと歩み 沖縄慰霊の日

「後輩死なせた」今も  

戦場に10代の少年少女が駆り出され、家族が逃げ惑う凄惨な地上戦が展開された沖縄戦から74年。沖縄は23日、犠牲者を悼む「慰霊の日」を迎えた。大切な人を失った悲しみ、悔しさ。雨降る中、沖縄は鎮魂と平和の祈りに包まれ、非戦の思いが広がった。

学徒動員の90歳

74年前の沖縄戦で「鉄血勤皇隊」として学徒動員された与座章健さん(90)=沖縄県南風原町=は、弟のような存在だった後輩を自ら戦場に送った悔恨を胸に「慰霊の日」を迎えた。

23日、沖縄戦で命を落とした県立第一中学校(現首里高校)の生徒や教師を悼む那覇市の「一中健児之塔」前で慰霊祭が営まれた。塔にはなくなった307人の名前が刻まれ、与座さんは通信兵として戦場で倒れた金城俊一さんの名を指した。「忍耐力があり、意志の強い男だった」

米軍が沖縄本島に上陸する3日前の1945年3月29日、県立一中4年生だった与座さんは新しい軍服とぶかぶかの軍靴で入隊式に臨んだ。「神国日本が勝つと思っていた」。軍の命令で与座さんが「志願書」を届けた同郷で2年後輩の金城さんも入隊した。金城さんの兄と与座さんは小学校の同級生で、金城さんが一中入学後は一緒に通学していた。(※引用者注、当時与座さんは16歳で、金城さんは14歳)

完成していなかった首里城下の司令部壕を交代で堀った。不条理な命令で上官からことあるごとに殴られたが、死ぬ覚悟はできていた。両親宛の遺書には「短い一生でしたけれど、お世話になりました。元気でやって下さい」と記した。

だが、4月半ばに米軍の猛攻を受けると、食料がなくなったことを理由に28日に中隊長から18人の仲間とともに除隊を命じられた。「身長が1メートル52しかなかった。中隊長の親心だったのだろう」

地元に戻り、豪に避難していた父親と再会。激戦地となった本島南部をさまよったが、6月14日に投降し捕虜になった。戦後、自分が「志願書」を届けた金城さんが戦場で命を落としたことを知った。金城さんの家族は父も兄も亡くなり、残されたのは母と妹だけ。

「同じように志願書を下級生に渡すことを命じられた同級生の中には、上官に『自宅には誰もいなかった』と言って破って捨てた人間もいた。なぜ自分に同じことができなかったのか」

自責の念を胸に戦後を生きたが、20年程前、東京である赤穂浪士の墓に出逢った。その浪士は吉良邸へ討ち入り後ただ一人切腹を許されず、「真実を伝えよ」と命じられたともいわれていた。

「自分が除隊を命じられたのは沖縄戦の実相を後世に伝える役目だったのではないか」。以後、積極的に体験を語るようになった。

21日、首里高での講演で後輩たちに戦争の愚かさや平和の尊さを語った。「当時は何がどうなっているのか、どうすればいいのか、全く分からなかった。子どもたちには何が真実なのかを自分で考えて行動してほしい」。

多くの命が失われた地上戦から74年。考えることが戦争を起こさない唯一の道だと信じている。

【佐野格、写真も】


# by dialogue2017 | 2019-06-24 15:00 | Facebook | Comments(0)

記録としての写真

写真のもっとも大きな価値は「記録」を残せることだと思う。久しぶりに撮ったお宮参り。生後36日目。


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# by dialogue2017 | 2019-06-23 13:30 | 家族写真 | Comments(0)

10枚写真を掲載したら自分でゲップが出てしまった。立派な写真ならまだしも、たいした写真じゃないしね。新宿で撮った枚数は78枚だったけれど、自宅から最寄り駅まで歩く間にもちょこっと撮った。そして、帰りに最寄り駅から自宅まで少し回り道をして普段歩かない道を歩いたのでその時に割と沢山撮った。沢山撮ったわけは途中で立ち寄った公園に何種類もの花が咲いていたから(しかも夕暮れの淡い斜光に照らされて!)。そんなわけで、花の写真とかも君に見せて上げようと思って16日に撮った写真は全部で61枚もレタッチした。新宿で撮った写真78枚の内38枚をレタッチしたのだけれど、その内の24枚はモノクロバージョンも作った。というのは、撮る時にモノクロ前提で撮っていたから。そんなわけで、61枚の写真にモノクロバージョンの24枚を加え合計85枚も写真を作った。その全部を掲載しないまでも、半分ぐらいは君に見せて上げようと思ったのだけれど(そもそもそのために撮った)、もうすっかりその気持がなくなってしまった。何度も書いたことだけれど、写真を撮ったその日か次の日ぐらいまではブログに載せる気になるのだけれど、3日以上立つとその気が薄れてしまう。

僕は、スナップなんて「その場限り」のことという感覚。僕の場合、撮っている時が楽しいから撮っているので、結果としての写真はそんなに重要ではない。僕にとって意味があるのは写真を撮りながら過ごす「時間」。東京で写真を撮ることがあまり好きでは無い理由は、東京の光景が好きじゃないと言うこともあるけれど、都心で過ごす「時間」を楽しいと思えないから。僕はよく江の島・鎌倉界隈界隈で写真を撮っているけれど、それはそこで過ごす「時間」を楽しいと感じることが出来るから。「都会」ではなかなかそういう気になれない。僕にとって写真を撮ることの意味は「楽しい時間」を過ごすこと。「写真」そのものに関しては「記録」のための写真だけが重要だと思っている。

すでに何度も書いたことだけれど、「都心」や「自宅周辺」で写真を撮っている時というのは、ある意味ですべて「テスト撮影」をしていると言ってもいい。僕はそれを「レンズ遊び」という言葉で表現しているけれど、どういうことかというと"1枚の写真"としてきちんと撮ると言うことはどうでも良くて、そのレンズの「持ち味」を出すために撮っていたり、「好みの光」だけを撮っていたりするということ。運良くドンピシャと言える被写体に出逢うことがあれば、1枚の写真として「完成」した写真になるけれど、そういう被写体とはそんなに高い確率で出逢うものでは無い(プロの写真作家でもそうだ)。僕の場合、都会の光景は基本的には好きでは無いので東京でスナップしている限り好みの被写体と出逢うことは滅多に無い。だから、ついつい「レンズ遊び」に成ってしまうと言うわけである。1枚の写真としてのトータルなまとまりを考えたらF2.5で撮った方が良い光景を僕はあえてF1.4で撮ったりする。その理由は、1枚の写真としての「完成度」はどうでもよく、「ボケ」の部分だけを見て見たいと思って撮っているから。(10)に掲載した"この写真"なんかはまさにそういう撮り方をしている。1枚の写真として纏めようと思ったらF2.8で撮る(理由は左半分にもっとキッチリピントを合わせたいから)。開けたとしてもF2.0まで。そんなことは撮る時に分かっていてあえて開放で撮っている。

実は、あの写真は君に右半分を見てもらうために撮ったのである。あの右側のボケている部分の”雰囲気”こそXF35mm F1.4 Rというレンズの「魅力」だということを君に伝えようと思って撮ったのである。XF35mm F1.4 Rというレンズの一番の素晴らしさは開放で撮ったときの「ボケ」にある。しかし、「ボケ」と言うのはピントを合わせた部分との距離で出方が変わってくるし、色とか被写体の属性(例えば金属であるか植物であるか人間であるか)によって雰囲気の違いが生まれる。特に、「距離」によるボケの出方の違いは大きい。だから僕は、その「魅力」を見るためにちょくちょく「ボケ」だけを見るために写真を撮っている。それが頭の中に「データ」として蓄積することによって「写真力」「表現力」が高まるからだ。ただし、「データ」は「感覚」のレベルに落とし込んで身につけないと咄嗟には生かせない。だから、ことある毎にいろいろな「距離」で「ボケ」を撮ってみると言うことをやっている。実は、XF35mm F1.4 Rの開放での「ボケ味」の美しさを見せるには「色」が大きなポイントなんだよ。だから、気になる「色」を「ぼかして」撮ってみる。ある色のボケを写真の奥に入れたとき、XF35mm F1.4 Rというレンズの真価が発揮されるんだよ。内田ユキオさんならこういう話しに「うんうん」「そうそう」と身を乗り出して頷くだろう(笑)。

話のついでだから、「カラー写真」についての話をしておこう。大雑把に言って、カラー写真の場合「色」「絵柄」「光」が3大ポイントだと思う。カラー写真の「見栄え」を決めるのは「色」「絵柄」「光」の三要素だと言って良い。絞りがいくつかとか、露出をどうするとか、どういうアングルで撮るかと言うことは「撮影技量」の話であって「被写体」はそういう撮り手の判断とは無関係に目の前にある。「それ」が無い限り写真を撮ることは出来ない。だから、カラー写真は「色」や「絵柄」や「光」が良い「被写体」と出逢わないと良い写真を撮ることが出来ない。ただし、それを「見出す」のは撮り手の「能力」でもある。気がつかない人が素通りしてしまう「光景」が「素晴らしい写真になる光景」だということに気づきそれを見出すのは撮り手の「能力」である。

モノクロが「簡単」である理由は、まず「色」という要素が不要だからだ。このことがどれほど大きなことであるかを知らない写真愛好家がもの凄く多い。深く自覚している写真愛好家は極めてまれである。カラー写真の場合、「色」だけで成り立っててしまうことがあるほど「色」の持つ重みが大きい。その反面、「色」に恵まれていなかったり、色の「組み合わせ」に恵まれていない写真の場合もの凄く「凡庸」な写真になってしまう。モノクロで上手な写真を撮っている人にはカラー写真がからっきし下手くそだと言う人がかなり高い比率で存在している。主にモノクロ写真を載せているブログで、モノクロ写真はかなり良いできなのに、時々載せるカラー写真が無様なまでに下手くそだという人はとても多い。モノクロばかり撮っているから「色の組み合わせ」ということに対する感覚が「鈍磨」しているのだと思う。いや、初めからそういう認識がないのだろう。

極論するとモノクロの場合「絵柄」もさして重要では無い。実際、素晴らしいと評価されているモノクロ作家の写真には「絵柄」的にはつまらないものがかなり多い。以前「モノクロ写真というのは"奇麗な光"を撮ってるだけ。変態だよ」だという渡部さとるさんの話を紹介したけれど、その通りなんだよね。モノクロ写真というのは「光」さえ奇麗なら成り立つ。「絵柄」が良ければプラスアルファ。「絵柄」が平凡でも「光」の方がとびきり奇麗であればそれで十分成り立ってしまう。覚えれば良いことは「奇麗な光」の撮り方だけ。

しかし、カラー写真の場合「光」だけでは成り立たない。なぜなら不可避的に「色」という要素が含まれてくるから。凄く奇麗な光を撮っているのだけれど「色」が良くない場合写真としては今ひとつの写真になる。例えば、光の端境となる逆光で一人の女の子の写真を撮ったとしよう。光は抜群に奇麗なのだけれど、その女子の服の色が良くないとダメ。その女の子の服の色が良かったとしても、背景にゴチャゴチャといろいろな色があったりしたらアウト。ところが、モノクロの場合そういうことから「逃げる」ことが可能になる。だから、モノクロの方が「簡単」。モノクロ写真として奇麗に見える「光」を覚えてしまえば、あとは「馬鹿の一つ覚え」でそれなりのレベルの写真を量産することができるようになる。モノクロ写真ばかりをブログに掲載している人にはそういう人が多いからモノクロ写真のレベルとしてはそれなりのレベルの人間が結構いる。しかし、3ヶ月も見続けたら飽きる。完全にワンパターンで撮っているから。そういう人の場合「絵柄」にも幅がない。自分の「好み」だけを撮っているから、写真の幅がドンドン狭くなっていく。あえて乱暴なことを言えば、モノクロは「パターン認識」だけで撮れるようになる。撮り手のビビッドな感性というのは必要ない。もちろん、本物のモノクロ作家には豊かな感性がある。だから見飽きない写真を撮る。しかし、多くのアマチュアのモノクロ写真は「パターン認識」で撮っているので見飽きる。なぜ「パターン認識」なのかというと、好きなモノクロ作家の模倣だからである。もちろん、モノクロに限らず「写真表現」というもの自体が「パターン認識」で成り立つ部分が大きいが、程度の問題である。

モノクロオンリーの人のブログにありがちなのは、1枚1枚の写真のレベルはそれなりに高いのだけれど、トータルなものとしての「その人の写真」はつまらないと言うケース。一言で言って見飽きるのだ。見飽きる理由の一つは、モノクロには「季節感」が無いからだと思う。我々日本人は季節の移り変わりを愛でる感性を身につけている。モノクロ写真には季節感がない。春先にモノクロ写真ばかり見ていると「干からびた」ものに見えてくる。心が豊かだと「自然」にもの凄く反応するものだ。食べ物だって「季節もの」が一番美味しいし、それを食べることによって大きな喜びを感じる。本来、人間自身が自然の一部であり、人間と自然は密接にむすびつ居ている。だから、人間の感性の根っこには「自然」に対する強い感受性がある。これは「私見」だと言っておくが、「季節感」がまったく感じられないブログは面白くない。いくら写真のレベルが高くても見飽きる。

スナップ愛好家にはモノクロばかり撮る人が結構多い。楽だから。「色」に邪魔されることがないから。「絵柄」もそれほど煮詰めなくて良いから。君がカラー写真よりモノクロの方が断然上手な訳はそういうこと。カラー写真の場合、「光」と「絵柄」が良い光景を見つけても、「色」が写真を台無しにするケースがとても多い。台無しにしないまでも「色」が足を引っ張っていることは多い。カラー写真の場合、「色」「絵柄」「光」の三要素が揃わないとそれなりのレベルの写真にはならない。僕は17日に新宿で撮った78枚の写真の中では(1)に掲載した"この写真”が一番気に入っているのだけれど、この右側に座っている女の子の服の色が「黒」だというのは大きな欠点だと思う。この服がパステル調の色合いだったらこの写真はもっと良くなっている。パッと見て、写真のそういう部分がすぐに分からないようでは良いカラー写真を撮れるようにはならない。

さて、君に僕の写真を見せることの意味がどれくらいあるだろうか? こんな話を書くつもりは全く無かった。そもそも書き始めた時には「一月ぶりに写真を撮った(11)」として書き始めたのだった。例によって筆が勝手に文章を書いた。そして、自分が書いた文章を読んで気がついた。「パッと見て、写真のそういう部分がすぐに分からないようでは良いカラー写真を撮れるようにはならない」という一文である。いくら写真を見ても「そういう部分」に気がつかなければその写真を見た意味は無い。いや、無いとまで断言してしまうのは言い過ぎだろう。なにか感じることがあれば見た意味が多少はあるかもしれない。しかし、最終的には「そういう部分」を見て取れないと写真を見た意味が無い。なかなか「完璧」な写真を撮ることはできない。ちょっとしたスナップの場合、それなりに良い写真でもどこかに明確な「欠点」があるものだ。それを瞬時に「ここがなければね〜」とか「ここがこうだったらね〜」と見つけられないうちは初心者だ。「欠点」って一番最初に目に入るものだから。

結局は、ものごとを「対象化」する能力次第だ。

16日は君に見せるために写真を撮ってきた。だから君に合わせてX-T20 + XF35mm F1.4 Rで撮った。しかし、新宿界隈には僕が好むような光景はない。モノクロならいくらでも絵に出来るのだけれど、カラー写真になると絵に出来るような光景とはほとんど出逢わない。理由は簡単である。都会は色がゴチャゴチャしているのだ。例えば、人々(若い女性)を入れた写真を撮ったとしても、絵柄や光が良くても、人々の着ている服の色が良くなければパッとしない写真になる(反対に服の色の美しさだけで絵になる写真もある)。もうひとつ。新宿のような人の多いところで写真を撮っていると、邪魔になる人がもの凄く多い。そこに写っているだれか一人が写っていなければ絵柄として纏まった写真になるのに邪魔な一人が入ってしまって写真がダメになると言うことが多いのだ。

例えば新宿のような街で写真を撮ると次のような事になる。「奇麗な色の服を着た可愛らしい女性がいたのでレンズを向けた。その瞬間、別の人間が画角に入ってしまった。その人が通り過ぎたときにはその可愛らしい女性は3歩歩いていて奇麗な光が当たらない場所に移動していた」と言う具合である。僕はスナップで「人物」を捉えるとき、「光の端境」で捉えることが多い。だから、2歩歩かれたらそこから外れてしまう。しかし、沢山人がいると「その瞬間」には邪魔な人間が画角に入る。あるいはまた、「絵柄」も「光」も奇麗で邪魔な人間もいない、しかし、写真に写る人物の一人が真っ白な服を着ていてそこが強いハイライトになってしまう(最悪白飛び)、これでNGだ。(2)と(8)に掲載した写真はそういう写真である。(2)の場合、白い服の女性が写っているがあの服が白(黄色オレンジ)以外の色であれば写真として「完成」している。写真を見て、その部分を理解出来るかどうかである。ほとんどの人はそこまで気がつかないものだ。物事を深く分析的に見ることの出来る人間は少ないから。

結局、"小さな違い”が決定的なのだと言うことを理解出来るかどうかなんだ。

僕が江の島・鎌倉界隈界隈で写真を撮る理由は、写真以前のこととして江の島・鎌倉界隈界隈が好きだということが一番大きな理由だけれど、「人工物」が少ないと言う理由もある。つまり、都心のように「色がゴチャゴチャ」していない空間であるということである。そして、真夏の浜辺を別にしたら、人がゴチャゴチャしていない空間も多い(平日に行けば特に)。つまり、カラー写真を撮る時に「邪魔になる」ものを排除しやすいと言うことである。僕の場合、都会が嫌いで自然のあるところが好きなので、本気で写真を撮ろうと思ったら、中判カメラを使って風景写真を撮ると思う。いまはそんなことをしてみたいという気持は全く無くなったけれどね。

今まで、用事があって都心に出掛けたときにはよくスナップをしていたけれど、90%まではモノクロで撮っていた。あえて「ケバケバしい」東京の姿を撮りたいと言うことでもない限り、東京はモノクロの方が遙かに撮り易いと思う。カラーでは写真にならなくてもモノクロだと写真になる。東京と言うことに限らず、カラーはよほど上手に撮れていない限り「現実的」だよね。実際見たのと同じように写るわけだから。現実「まんま」じゃアートじゃないよね(笑)。ところがモノクロは「非現実的」。だって、実際には色があるのに写真では色がないのだから。「非現実」的である方がアーティスティックに見える。だからモノクロは「簡単」でカラー写真は難しい。そこそこの技量があれば、モノクロで撮っておけばそれなりに絵になってしまう。まあ、「それなりに」だけれどね。

いままで東京でカラー写真を撮ることはあまりなかった(まあ、そこそこは撮っているけれどね)。新宿なんて、色が氾濫していてあえてその「禍々しさ」を表現しようと思うのでも無い限り、カラー写真で奇麗な写真を撮るのは難しい。「新宿」「池袋」「渋谷」はよほど表現力を持った撮り手じゃないと色に負ける。カラー写真を撮るなら、「代官山」とか「青山」あたりに行った方が良い。路地裏には色がごちゃついていない空間があるし、ショーウインドウとかには奇麗に揃えられた色が君を待っている(笑)。代官山とか青山の場合、店舗の周りとかは奇麗にコーディネートされた色で構成されているんだよ。浅草や新宿とは違って「上品」なんだよ(笑)。

君は、浅草周辺でばかり撮っているよね。僕が「飼い犬のような生活」と言ったのはそのこと。犬は自宅から近い決まった狭い範囲しか散歩をしない。「浅草」周辺はどちらかというとモノクロ向きゾーンだよね。よほど実力が無い限り、奇麗なカラー写真を量産するのは難しいゾーンだと思う。まだカラー写真のツボを全く理解していない君が、そういうモノクロゾーンでカラー写真を撮っているのだからいくら撮っても「何も目途は立っていない」という情況から一歩も抜け出せないのは理の当然である。極単純に考えて、カラー写真は「色の美しさ」が命なのだから、美しい色のあるところこ出掛けて撮って見るべきなんだよ。君にはそういう発想がない。たしか、以前に「出掛けてまで撮りたいという気持ちがない」と書いていたよね。だったら、別に写真なんて撮らなくても良いと思う。渡部さとるさんが次のように言っていたけれど、至言だね。

写真は技術じゃなくて"そこ"に行ったかどうか。

もう、この文章が君への最後のアドバイスでも良いかなという気持になってきたので、そのものズバリ書くね。君は良い写真を撮ろうと言う大きな努力をまだ一度もしていないと思う。たしかに、僕のアドバイスに従って3台もカメラを買ったし、君なりに真剣に撮ってきたとは思う。よーいドンから、奇麗なモノクロ写真を撮るための「光」を意識して撮り始めた点はとても素晴らしかったと思う。あの時点で「5人組」の中でものになるのは君一人だと思った。他の4人には家庭があるから仕方ないとは言え、撮る量があまりにも少ないし、ブログに載せる量(つまりレタッチする量)も少ない(家庭があっても毎日更新している人は沢山いる)。はっきり言って、あのペースで撮っていたのでは上手になるのに10年は掛かる。そもそも「素質」の点でも君は他の4人よりは抜きん出ていたと思う。そして、独身であるアドバンテージを活かして君は沢山撮った。その点は評価する。

しかし、君は「飼い犬の散歩ゾーン」でしか写真を撮らなかった。もう8ヶ月以上の交流になるが、「凄いな。やったな」と思わされるようなチャレンジを君は一度もしなかった。結果としての写真の出来映えはどうでもいい。問われていることは、大きなチャレンジをしたかどうかなんだよ。例えばさ、3泊4日でバンコックに行って写真を撮ってきたとか、やる奴ならそういうチャレンジをすると思うんだ。そういう奴はいくらでもいる。海外まで行かなくてもいい。京都でも良いし北海道でも沖縄でもいい。いや、せめて横浜に行って撮ってくるとか、鎌倉に行って撮ってくるとか、そういうことを何度もやってみれば良かった。それを君に勧めたことがあったのよね? 「横浜」を撮るのと「鎌倉」を撮るのは違うし、同じ「鎌倉」でも「海辺」で撮るのと「社寺の境内」で撮るのでは全く違う。朝早くから鎌倉に行けばどちらででも撮ることが出来る。鎌倉は住宅街の路地裏や商店街だって東京都とは全く雰囲気が違う。でも、君は自分のテリトリーでしか写真を撮らない。そうなんだ、「飼い犬」は遠くまで散歩に行かないのだ。たまには「海が見たい」とか、「山の清々しさに触れてみたい」とか、「奇麗な夕焼け」の写真を撮りたいとか、そういう感性って良い写真を撮るための原動力だと思う。

渡部さとるさんの名著のタイトルは『旅するカメラ』。彼はいままでの作品のほぼ全てを「旅先」で撮ってきた。多少例外はあるけれど基本的には「旅先」で撮った写真で作品を作ってきた。人間ってさ、「旅先」に行くと「気持」が変わるんだよ。あえて言ってしまうと「ピュア」な気持になる。少なくともそういう「気分」になる。それはそうだよ。「日常」って「手垢」がついたものだから。「手垢」がついた範囲で撮って良い写真にするのは難しい(出来ないわけじゃないけれどもの凄く高い能力が必要だ)。旅先で写真を撮るのはとても楽しい。京都とか沖縄で写真を撮るのは凄く楽しいし、鄙びた温泉場で夜スナップするのもとても楽しい(笑)。人間がやること、まして「表現行為」の場合、制作しているときの「気持」というものは間違い無く作品に反映すると思う。多くの写真作家が「旅先」で「作品」を撮っているのはただたんにそこの光景が好きだというだけではないだろう。彼らは、旅先に身を置くことで自分の気持ち自体が大きく変わるということを経験として知っているのだと思う。もちろん、身の回りで作品を撮ることを否定するわけでは無いが、条件としては難しい。「手垢」の付いた「日常」から離れた世界には「解放感」がある。だから、多くの作家は海外で作品を撮っていると言うことだ。あるいは国内における「旅先」で。

ついでながら言っておくと、もし、いま僕が手持ちの写真だけで個展を開くとか写真集のようなものを作るとしたら、僕は2012年より前に撮った写真でそれを行うと思う。理由は簡単で2012年以前は年に数回一人旅に出掛け旅先で写真を撮っていたから。2013年以後はそういうことをほとんどしなくなった。だから、この5〜6年に撮った写真はつまらない写真ばかり。自分自身の写真で良い写真だと思える写真は2012年以前の写真に集中している。やはり「旅先」で撮った写真が一番素敵だと思う。自宅周辺や新宿とかで撮ってもね(笑)。

ああ、話が「カラー写真」のことから更に大きな枠組みにまで広がってきてしまった。もうこの後書き続けると、際限なく「写真論」を書くことになってしまうのでこれで終わりにしようと思う。(1)から(10)までの全ての写真にコメントを貰い、それを読んでいくつものことが分かった。君がどういう写真を撮ったら良いかまったく見えてこない理由は、自分が何をしたいのか分かっていないからだ。君に限らず、1980年以降に生まれた日本人の多くがそうなのだけれど、「自分」というものが「稀薄」なんだ。写真は「表現行為」。「自己表現」だと言っても良い(僕自身はあまりそう感じていないけれど)。だとしたら、まず「自分」というものがないと何をどう表現して良いか分からないに決まっている。それが解決するのは、写真を撮り続けることによってではないだろう。「自分」が確立されなければいくら撮っても永遠に同じ状態が続くだろう。

写真は80%までは「理論」で理解出来る。実際に写真を撮るときに問題となるのは「撮影の仕方」である。つまり「撮影技量」。それは簡単に教えることが出来る。だってさ、基本的には「絞り」と「シャッタースピード」ぐらいしかないんだよ。デジカメの場合ホワイトバランスはRawで撮っておけばどうにでも成る(いまはJPEGでもかなり自由になる)。あとは被写体をどう捉えるかだよね。これだってポイントは3つしかない。「間合い」と「アングル」と「光の捉え方」だけだ。「アングル」に無自覚な撮り手がもの凄く多いと思う。写真は立ったままで撮るのと腰を30cm落として撮るのでは全く変わると言うことを知らない人が多い。僕は、スナップでは胸の前とか腹の前あたりにカメラを構えてノーファインダーで撮ることが多い。街中で腰を落として写真を撮っている姿は格好良くないからね(笑)。僕がそういう撮り方を多用する理由は「レベル」で撮りたいから。自分の目線だと若干俯瞰になってしまうケースでそれを避けるために胸の前で撮っている。

例えば、絞り込んで遠景までの写真を撮る場合でも、立ったままの目線で撮るか、ちょっと腰を落として撮るか、しゃがみ込んで撮るか、背伸びをして撮るかで写真は大きく変わる。そういうことがいつでも頭の中にあるかどうか。それは理屈じゃなく、沢山写真を撮ることによって当たり前の感覚として身につく。何度も何度も諄いほどくり返し書いたことだけれど、ある程度大量に撮るという経験を経ないと到達できないレベルがある。そういう意味では、from_vixen君や0123okkun君は厳しいと思う。あのペースで撮っていたのでは、よほど高い感性を持っているか、抜きん出て高い対象化能力の持ち主でも無い限り、最初の壁を越えるまで5年以上掛かると思う。森山大道さんが言うように「量の無い質はあり得ない」。でも、僕はfrom_vixen君はいまのままで良いと思っている。彼が撮るお子さんの写真はとても良い写真だと思う。それで十分だと僕は思う。0123okkun君はfrom_vixen君とは違って明確に写真チャレンジしようとしている。しかし、やむないこととは思うけれど、いまのペースでやっていたら10年掛かる。それから、彼も君も同じだと思うけれど、師について具体的に指導を受けて行かないと厳しいと思う。「独学」で高いレベルに行けるのは一握りの高い才能を持った人間だけだ。凡人が独学で高見を得ようと思ったら、血を吐くような思いでチャレンジする以外にない。「寝食を忘れて」撮りまくるぐらいじゃないと無理だ。森山大道さんとかのレベルに達した写真家も若い頃は食費を削ってでもフィルムを買って撮っていた。1980年以後に生まれた日本人にはそういう「ハングリー」さを持った人間はほとんどいない。

このブログの過去の記事に、プロレベルの写真を撮るにはどうしたらよいか、そのポイントになる事柄についてはかなり突っ込んで書いた。何度も書いたけれど、プロの場合セッティングして撮影することが多いので、そのレベルと同じ写真を撮るためにはセッティングして撮る以外にない。スタジオ撮影のレベルと同じ写真を撮るためにはスタジオで撮る必要がある。プロのポートレートで綺麗な写真を見るとハウススタジオで撮っているものが少なくない。ハウススタジオは奇麗な採光性に作られている上、ストロボやレフ板などフィルインライトを使って撮ることも多い。ああいう写真を撮りたいと思ったら基本的にはハウススタジオで撮るしか無い(ハウススタジオの場合、ホテルとか自宅で代用可能な部分はあるが)。

しかし、仮に100%アベイラブルライトで撮る場合、プロとアマチュアの条件は全く一緒だ。そういう撮り方をする場合、プロであっても特別なことをしているわけじゃない。結局は「光の捉え方」「絵柄の作り方」「露出の決め方」でほぼ全てが決まる。そういう意味では、ストロボライティングという「特殊技術」を別に考えたときには、写真ってプロとアマの垣根がほとんど無い世界なんだよね。実際、もうそんな垣根はほとんど無くなってきている。現実に、アマチュアでプロレベルの写真を撮れる人って膨大にいるよ。ライティングができるアマチュアも多くなったしね。まあ、とてもよいライティングの教科書とか沢山出ている時代だから当然だよね。「イルコ動画」のようなものもあるしね。

そうそうもうひとつ書き足しておこう(ここは後から書いた)。プロのポートレートフォトグラファーの場合、オフの日にあちこち出歩いて「ロケハン」している。ポートレートに限らず写真は「背景」がもの凄く重要になる。「奇麗な光」「奇麗な絵柄」「奇麗な色合い」で写真を撮ることが出来る「ロケ地」をプロは絶えず探して歩いている。ストロボやレフ板を使わないとしても「ロケ地」そのものが半ば「セッティング」されていると言うことだ。オマケにレフを使ったり軽くストロボを入れたりして撮るから、彼らのポートレートはアマチュアのそれよりワンランク上になる。もちろん、レベルの高いプロの場合「出たとこ勝負」をさせてもそれなりの写真を撮るけれど、やはり「舞台」というのは決定的なのである。撮影時間以上に「ロケハン」に時間を使っているプロだって珍しくないだろう。そういうことの蓄積が、どんな場所で撮った際にも、その周りで一番綺麗に写真を撮れる場所を探す能力になっている。プロとアマの決定的な違いは、そういう「アンダーグラウンド」の部分での努力だと思う。見えないところで努力をしているのがプロなんだよ。って、僕は生まれてこの方努力なんてしたことないけれど。努力するの嫌いなんだ(笑)。

話を戻して終わりにするけれど、君のカラー写真がモノクロ写真に比べて大きく劣っている理由は、「光」に対する意識がモノクロを撮るときより数段曖昧だからだと思う。写真を見ていると、カラー写真を撮っている時には「絵柄」に惹かれて撮っていることが多いと思う。モノクロを撮っているときはほとんど「光を撮る」ことをだけを考えて撮っているのが伝わってくるけれど、カラーになると途端にそれが見えなくなる。光がすべてだと言うつもりは無いけれど、写真の肝は「光」だと思う。考え方は色々あって良いと思う。人それぞれでいい。写真なんて結局のところ好き好きだ。僕は「美しいハイライト」こそが写真の肝だと思っている。今回君に見せた10枚の写真は、きっちり撮れている写真はほとんど無いけれど(だって、そういう写真を撮ることが出来る光景自体がほとんど無かったのだから)、まずは「光」の美しさの重要性は伝えられていると思う。もう一つは、XF35mm F1.4 Rの最大の素晴らしさは開放で撮ったときの「ボケ」にあると言うこともある程度は伝えていると思う。実際には、F2.0〜F2.5ぐらいで撮った方が良い写真も多い。開放というのはそれがキッチリ生きる時に撮ってこそだ。だから、今回見せた写真のうち開放で撮っているものは「ボケ」の部分だけを見て欲しい。

いや〜、随分長々と書いてしまったな〜(笑)。以上のことを「最後のレッスン」だと思って良く考え君なりに頭の中に入れた上で、カラー写真に再挑戦して下さい。一番肝心なコトは「新しいフィールド」に出掛けて行って撮ること。ベトナムとかに行って撮ってきたら一発で"開眼”するかもしれないよ(笑)。ベトナムはちょっと旅費が掛かるから、ソウルとかバンコクとか香港とか台北あたりがいいかな(笑)。まあ、海外に行かないまでも、一度鎌倉あたりまで行って撮ってきたら良いと思うし、東京で撮るとしてもしばらく浅草界隈は止めて、代官山とか青山とかで撮ってみたら良いと思う。とにかく「飼い犬」のような生活を卒業しようよ。「殻」を脱ぎ捨てないことには何も始まらないから。

自分を変えようと思ったらまず"環境"を変えることだ。

君に足りないのはチャレンジ精神。まだ全然チャレンジしていないと思う。まあ、写真なんて上手くなってもたいした価値があるとは思わないけれど、自分に自信が持てない人間の場合、何かひとつ人より達者なことが出来たら、ましてそのことに対して「一家言」を持てるほどになったら、自分という人間に対する自信も出てくるだろうと思う。そういう意味ではやる価値があるけれど、トコトンやるつもりが無ければ時間の無駄だ。

ほとんどの場合、初めから自分に自信がある人間は写真が上手くなることになんてそれほど興味を持たない(爆)。およそほとんどの「表現行為」の一番大きな動機が「劣等補償」であるということは定説である。まあ、自分に自信がある人間なんて少数派なんだから、表現行為に秀でることを通じて「劣等報償」することは悪いことでは無いと思うけれど、そういう動機の場合、なかなかそのレベルを超えられないというのもまた動かしがたい事実だ。写真に取り組む時間「英会話」でもやった方が価値があるかもしれないよ(笑)。

以上、"パトス”に駆られ一気呵成に書いた文章なので脈絡がないけれど、君の参考になるとは思う。

では、がんばって!

※君一人のために書いた11,836文字。久しぶりに一気に1万字書いたよ(笑)。

森山さんの話をもう少し聞きたければ→『路上スナップのススメ』



# by dialogue2017 | 2019-06-20 18:00 | 写真論 | Comments(1)

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# by dialogue2017 | 2019-06-19 19:00 | スナップ

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