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本日13時のFacebookへの投稿を転載する。

🔥この問題は極めて深刻である🔥

💥我が国は「奈落の底」目指して一直線に突き進んでいる💥

本日の毎日新聞1面トップは「国際学力テスト 日本の読解力急落15位」。この問題は極めて深刻である。

問題点は大きくは2点。ひとつは「読解力」の急落は「国力の衰退」を不可避的に結果すると言うこと。「読解力」は「思考力」の基礎。若い世代の"ものを理解し考える力"が衰えれば「国力」が衰えるのは必然である。

「読解力」「数学的リテラシー」「科学的リテラシー」の3部門のトップ3は何れも「北京・上海・江蘇・浙江」「シンガポール」「マカオ」。1位は「中国」ということであるが、かの国は最先端技術部門でも世界のトップに躍り出ようという状況にある。「マカオ」は一人あたりGDPがルクセンブルク・スイスに次いで世界第3位。「シンガポール」は同8位。ちなみに「アメリカ」は9位で日本は26位である。このデータを見ただけでも、「国際学力テスト」の結果と「国力」に強い相関関係があると解釈できる。

記事の中では「国語で言えば、課題文の中にない『行間を読む』ことが出来なければ国際化社会でのコミュニケーションがうまくいかない」という指摘がなされている。「読解力」の低下は「国語力」の低下であり、それは「英語力」のさらなる低下を招く。その結果いまでも低い"国際コミュニケーション能力"がさらに衰える。これは「国力の低下」を結果する。

国民の「読解力」の減衰は「国力」の衰退を招くのである。

問題点の2つ目は、「他者を思いやる心」の衰えである。

記事の中で「文章を書く能力や能動性は人と話す中でつくられていくが、そうした時間がスマホに取られている。他者の考えや物事の本質を読み解く力の低下はその蓄積の結果だと思う」との指摘が成されている。

「読解力」の低下は「他者の気持ち」に対する理解力の低下を結果する。昨今の日本人は他者を慮る気持ちが大幅に低下しているが、その大きな原因の一つは「読解力」の低下にある。

記事中でお茶の水大学の浜野隆教授は「読解力」を「批判的思考力」と言い換え次のように語っているーー「入ってくる情報を評価し、自らの知識を生産して表現していく力、つまり創造的な思考力を指す。人工知能(AI)には代替できない分野であり、今後あらゆる職場で求められる技能だろう」。

いまの日本人は「批判的思考力」をほぼ枯渇させていると言っても良い情況である。その象徴が国民の65%が安倍政権を評価しているという世論調査の数字に表れている。かつての自民党の大御所たちから強く批判され、「憲政史上最悪」の政権とも評されている安倍政権を国民の約2/3が評価しているのである。「批判的思考力」がまったくないが故の結果である。

【まとめ】

✳️「読解力」が低下すると「国力」が低下する。経済的に没落する。

✳️「読解力」が低下すると「他者を慮る」気持が低下する。「思いやり」が欠落した社会が更に悪化していく。

✳️「読解力」がないと「小学生レベル」の総理大臣を評価することになる。政治(家)の低レベル化は止まること無く進行する。

【結論】

20年以内に我が国はかつて「先進国」であったことが信じられないレベルにまで没落するだろう。現時点で、国際的競争力を持つ企業は日本にはない。現時点で「トヨタ自動車」が「世界時価総額ランキング」の我が国トップであるが、世界ランクは40位である。さらなる没落は不可避であろう。いま、どういう国が伸びているのかは以下のURLを開いて確認してほしい(アメリカと中国だけと言って良い情況である)。


日本は本当に奈落の底に向かって突き進んでいるのである。「安倍政権」はその象徴であるが、安倍政権が憲政史上最長期政権となったのは「日本国民」の多数が「支持」しているからである。

残念ながらもう遅いだろう。子供を持つ40代のいい大人が「ぱない」とか言う言葉を平気で口にするようでは「読解力」「思考力」「理解力」が大幅に低下することは避けられようがない。

Facebookへの投稿から(93) 我が国は\"奈落の底”へ向かって突き進んでいる_e0367501_13083687.jpg

by dialogue2017 | 2019-12-04 13:10 | Facebook | Comments(1)

写真日和だけれど…

良い天気だ。雲一つない快晴である。東西南北、360度空を見渡してみたが何処にも雲がない青空だ。気温は12℃で暖かい。「写真日和」と言って良いだろう。東京は紅葉が見頃の場所が沢山ある。我が家の近隣にも何ヶ所も見頃を迎えているところがある。車で20〜25分で「昭和記念公園」にも「小金井公園」にも行けるし、30分ほどで紅葉の名所「平林寺」にも行くことが出来る。しかし、写真を撮りたいという気持ちがまったくない。まして"紅葉”なんて全然撮りたいと思わない。紅葉を撮るなら京都だ。と書いて思い出した。ちょうど1年前の今日京都に行っていた。紅葉のピークを狙って出向いたのだが紅葉は撮らなかった。買ったばかりのα7Ⅲを持って行ったのにほとんど写真を撮らなかった。写真を撮ることなんか忘れてしまうほど楽しい時間を過ごしたからだ。結局、写真を撮ることそのものが目的なのではなく、「旅先」で過ごすと言うことが楽しいのである。

こんな天気の良い日に書斎に籠もって1日を過ごすのは馬鹿げたことだと思う。目の調子が悪いため本を読むことが出来ない。こんな日にはカメラを持ってブラブラと歩くのが一番である。美味しいランチを食べがてら井の頭公園にでも行くのがベストだろう。そういうスタイルであれば紅葉を撮るために出掛けるのとは違う。写真を撮ることより、町を歩くことの方が楽しいだろう。

そうなんだ、写真なんてなにかの「ついで」に撮るものでしかないんだ。私にほとんどそういうスタイルでしか写真を撮らない。今年は書斎に籠もって家から出ない日々を過ごした。何処にも行かないから写真を撮らなかった。わざわざ写真を撮るためにどこかに行こうという気持ちには滅多にならない。まず「どこかに行きたい」という気持が先にあって、そこに出向いたときに「ついで」に写真を撮っているのである。だから、ここ最近は茅野の山小屋周りでの「散歩写真」意外には写真をまったく撮っていない。

写真は2年前に撮影したもの。画角の中に太陽を入れて撮っても太陽周辺のコントラストがなくなるだけでそれ以外の部分はキッチリ写る。FUJINOレンズは本当に信頼できる。紅葉にはVelviaが似合う。±0EV、要するにシャッターボタンを押しただけ。美しい光景にレンズを向けてシャッターボタンを押せば美しい写真になる。簡単なことだ。だから「美しい写真」を撮ることに強い執着など抱けない。

FUJIFILM X-T2 + FUJINON XF10-24mmF4 R OIS ISO400 F6.4 1/350 ±0EV AWB JPEG-Velvia 2017年11月13日 13:36 南禅寺

写真日和だけれど…_e0367501_17580720.jpg


by dialogue2017 | 2019-12-04 10:30 | 旅行写真 | Comments(0)

このブログを始めたきっかけは2年ちょっとの間「友人」に貸していたEPSON R-D1sが戻ってきたことだった。その「友人」はカメラを借りたお礼に立派な百合の花を贈ってくれた。気の利いた贈り物だと思う。私はその百合の花を枯れるまで毎日撮影した。いや、枯れた後にまで撮影した。それは"セッティング”しての撮影と言うほどのものでは無かった。自宅のリビングのテーブルの上に置いて撮ったと言うだけのことであった。とは言え、花に光が当たる角度ぐらいは"セッティング"して撮影した。なんの手間も掛かっていない。ただ、光に対してどういう距離でどういう向きで花をテーブルに置くかを考えた上で撮影しただけであった。100%アベイラブルライトでの撮影である。それでも"セッティング”をしての撮影の範疇に入るだろう。そんな風にして写真を撮ると言うのはスナップとは違う楽しさがある。あれから丸3年になる。その後、そういう風にして写真を撮ったことが無い。来年はまたそういう撮り方を楽しんでみようと思う。やはり最初は花からかな。

来年は\"セッティング”して写真を撮って見ようと思う_e0367501_16412015.jpg

今年はほとんどスナップをしなかった。10月19日に新しい茅野の家に引っ越しした後、朝の散歩の時に「散歩写真」を撮っているが、ただなんとなく撮っているというだけで、写真を撮っているという実感があまりない。1週間毎に景色は変わっている。だから、同じ場所を撮っても前回撮った写真と同じにはならない。しかし、そうは言っても同じ場所で撮っているのだから似たような写真ばかりになる。「絵日記」の絵を描く代わりに撮っているようなものなのでそれで構わないのだが、写真を撮る楽しみというのは稀薄である。

結局撮りたいものがない。いや、撮りたいものがあったとしてもわざわざそれを撮るためにどこかに行くという情熱がない。仮に素晴らしく美しい写真が撮れたとして、それがなんなんだという思いがあるからだ。ポートレートフォトを撮りたいという思いは久しい以前から抱いていた。しかし、ただ「美しいポートレート」を撮ることには大きな興味はない。美しい女性をモデルにして、奇麗な光の下で撮れば美しい写真が出来上がる。光さえきちんと選んで撮れば綺麗な写真になる。でも、そういう写真を撮ったからと言ってなんなんだ? そう思う。

それでも相変わらず写真を撮ることは好きだ。今年は東京でスナップすることはなかった。自宅の周りではまったく写真を撮らなくなった。いま初めて気がついたのだけれど、今年の5月はこのブログを更新しなかったんだ。すっかり忘れていた。6月に更新を再開したきっかけはshi-photo君に"カラー写真”のスナップ見本を見せるためだった。6月は13エントリーしか更新していない。7月に入ってからは「Facebook」に投稿した記事をこちらに転載し始めた。いま7月の「記事一覧」を一瞥してみたら「写真を撮らなくなった理由」という記事を(6)まで書いていた。何を書いたかまったく覚えていない。所詮ブログなんてそのときの「暇つぶし」に書いていると言うことだ。

8月に「トムソーヤの森プロジェクト」の「記録写真」の撮影の依頼を受けて以後、この4ヶ月間写真を撮ったと言って思い出すのはそれぐらいだ。8月以後はかなりの頻度で「茅野の家」に通っていたのでなんだかんだ写真は撮っている。「家族写真」「旅行写真」の類いであるが、そういう写真を撮る枚数も大幅に減ったし、本当に「記録」レベルの写真しか撮らなくなった。そして最近はほとんどの写真をiPhoneで撮る様になった。カメラを手にするのは「朝の散歩」の時ぐらいになった。

FUJIFILM X-T2・X-T20と8本のFUJINON XFレンズは茅野の「山小屋」に常置した。来年4月に「トムソーヤの川プロジェクト」が再開するまで封印してしまっても良いと思っている。年に2〜3回、お隣の家の庭の薔薇の花を撮る時にちょこっと使うだけだったPENTAX645Dも山小屋に持って行った。10月以後2回使った。先週末はSIGMA dp Quattroも山小屋に置いて帰ってきた。もう、東京の自宅にカメラがなくてもいいという心境である(と言っても、東京の自宅には沢山カメラがあるけれど)。一応、α7Ⅲと4本のレンズを入れたVANGUARDのカメラザックだけは持って帰ってきたが、次に山小屋に行くまでに使うことは無いだろうと思う。

写真を撮ることが好きだという思いは変わっていないが、「撮りたい」という強い思いはない。いままでのように「撮り散らかした」ような写真を撮っても意味がないという思いが強くなってきたのだと思う。失礼な話しになるが、いろいろな人の「写真ブログ」等を見ていると写真を撮ることに何の意味もないような気持にさえなる。もともと私にとって写真の価値は「記録を残す」という点にあった。最近は「情報伝達の手段」としての意味合いが一番大きい。iPhoneでしか写真を撮らなくなった理由はFacebookにアップするにはそれで十分であるし、一番利便性が高いからである。

来年はいままで「写真」のために消費していた時間の多くを写真以外のことに振り向けることに決めた。他に楽しいことがいくらでもある。写真は「散歩写真」しか撮らなくても良いという心境である。その散歩写真さえ撮るのを辞めてしまっても良いと思っている。シャッターボタンを押しさえすれば奇麗に写るカメラで写真を撮ることがあまり面白く無くなってきたのだと思う。と言って、今更フィルムで撮ろうとは思えない。ネガカラーで撮りたいという思いはあるが、プリントを自分で作らなければ意味がない。茅野の「山小屋」には「暗室」を作るスペースがあるが、今更そこまでやろうという気持は今のところない。

とにかく、この1年間で「写真」に対する「情熱」はすっかり冷めてしまったのである(もともと「情熱」と言えるほどのものは無かったけれど)。ただし、来年も写真を撮るだろう。まずは「記録」としての写真を撮るだろうし、「散歩写真」のような「絵日記」代わりの写真も撮るだろう。どこかに出掛ければ出掛けた先でも写真を撮るだろう。それはそれで「小さな」楽しみではあるけれど、そんな風にしか写真を撮らないのは物足りないことでもある。

と言うわけで、来年はたまに"セッティング”をしての撮影をしてみようかと思う。なにをどういう風に撮るかについては現時点ではなにも考えていない。そもそも、来年は"セッティング”をして写真を撮ろうと思いついたのはこのエントリーを書き始めた時だったのだから(笑)。もしかしたら、ストロボを組んでスタジオライティングで人物写真を撮るかもしれないし、あるいはなにか「静物」の写真に挑戦してみるかもしれない。「被写体」はなんでも構わない。特に撮りたいと思うものはない。

ただ、あるがままの状態で撮影するのではなく、光をコントロールした上での撮影をしてみたいと思う。ストロボを使うか、自然光で撮るかはどちらでも構わない。レフ板の1枚さえ使わなくても、「被写体」に当たる光をコントロールして撮影すれば、あるがままの状態で撮るのとは違った写真が出来上がる。そこがスナップ写真との決定的な違いである。スナップ写真の場合目の前に「与えられた」被写体(光)を撮る以外にない。被写体や光を「選ぶ」ことは出来るが、コントロールすることは出来ない。しかし、一輪の切り花であれば、それにどのように光を当てるかを自分で「選ぶ」ことができる。そうやって写真を撮る楽しさはスナップの楽しさとはまた別の楽しさである。

「作品」として撮り続けていくようなことはまったく考えていない。「散歩写真」のようななんの準備もなしに撮れる写真を撮る枚数の方が多いだろうと思う。しかし、月に一度くらい、自分で光をコントロールした上で写真を撮ってみようかと思っている。いや、単なる思いつきなので本当に実行するかどうか分からないけれど、ちょっとやってみようかという気分である。

by dialogue2017 | 2019-12-04 05:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)