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午前中に家の庭で撮った時にはあまり光が当たっていない写真だったので、午後に家の近所で15枚ぐらい撮ってきた。自宅近所で「スナップ」をしたのは1月8日以来11ヶ月ぶりのことである。結局思ったような写真は1枚も撮ることが出来なかった。このカメラはずっとそうだった。思ったような写真がまったく撮れないカメラなのである。このカメラは"独自の雰囲気"を出してくれる幅が狭いのである。

そういう絵を出すためには二つの条件がある。一つはレンズ。いわゆる癖のあるオールドレンズ系が合うのだと思う。最近の優秀なレンズじゃない方がいい。もうひとつは"ゆるい光”で撮ること。いや、多分そうなのではないかという話しであって、きちんと検証してみたわけではない。良く写るレンズを使い、コントラストのある光で撮影すると普通の写真になる。それでもなんとなく独特な雰囲気はあると思う。良く言えば「味がある」と言えるが、「チープ」な写りだとも言えると思う。このカメラの持ち味が生きるようなシチュエーションを狙って撮らないと凡庸な写真ばかりになる。場当たり的に撮って良い写真が撮れるカメラでは無いと思う。今週末、茅野で再挑戦しようと思う。

最近の若い人の言い回しで言えば「普通に良く写っている」。それでもどことなく絵画っぽいニュアンスはあるような気がする。

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はっきり言って「チープ」な写りだと思う。ちょっとパステル画のような感じでもある。多分EPSONが狙ったところなのだろう。

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しっかりした写りだと思う。シャドーのバランスが悪いのはそういう場所を撮ったからだ。

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これは単に"フレアー”掛かった写真を撮ってみたと言うだけ。後に幹があって絵的にはあり得ない。

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以下はまったく普通の写り。15年前の600万画素CCDセンサーのカメラでもこの程度には写る。

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by dialogue2017 | 2019-12-03 23:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)

191203 EPSON R-D1s(4)

ついこういう絵柄を撮ってしまうのは、このカメラの"シャドー”の描写が好きだからなのだと思う。この写真はちょっと"チープ”な画像だけれど、このカメラの良さは"シャドー”の出方にあるような気がする。山小屋に持って行って散歩で撮ってみよう。

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by dialogue2017 | 2019-12-03 21:00 | | Comments(0)

「人間の個性が個性として発揮されるためには、その人間が理想というものをきちんと持っていなくてはいけないということもありますね。理想があるかないかということをみんな忘れてしまっていた。だから、あなたはどういう人間ですかと言われたときに、『私はなんの太郎兵衛です』と言うんじゃなくて、『わたしは、こういう理想を生きようとしている人間です』と答えられること。この理想という次元を忘れている中にこそ、自己喪失があるんじゃないかと思います」(加藤尚武)

「理想に気づくということは、『驚きに見開かれた目を持つ』と言うことでしょうね。手袋ひとつでも、樹木ひとつでも、あるいは隣に座った女の子の瞬きひとつにでも、驚きの目を持って見るという感受性が必要で、それがなければ、理想というのは生まれないんじゃないでしょうか」(西部邁)


by dialogue2017 | 2019-12-03 19:00 | 備忘録 | Comments(0)

191203 EPSON R-D1s(3)

こんなベタな光で撮ったのではこのカメラの良さなど出るわけはないが、それでもどことなく"絵画的”な描写に感じるのは思い入れだろうか?

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by dialogue2017 | 2019-12-03 18:00 | | Comments(0)

「ぼくは自己を失うと言うこと、疎外も含めて、確かに人間の輝かしい特権なんだと思う。言葉遊びと言われるかもしれないが自己を失うということは、その喪失感、あるいは空無感、それを観念として味わうのが、唯一輝かしい人間の特権であると。その特権を駆使して、自己を喪失するがゆえに、たとえば自己犠牲というものを思いつき、犠牲の対象として、なにがしかの超越的なものを想念し始めるというふうに考えたい。それから、問題は自己を喪失したかどうかではなくて、自己喪失というものに自覚的であるかどうかということが、自己を保有しているか否かであるということであります」(西部邁)

「自己喪失を自覚するためには、単に自己についての認識があるだけではなくて、自己を越えたものについての共感だとか、コミットメントがあって初めて自己喪失というものがわかるんだと思う」(加藤尚武)


by dialogue2017 | 2019-12-03 17:00 | 備忘録 | Comments(0)

191203 EPSON R-D1s(2)

600万画素のCCDセンサー。初代R-D1が発売されたのは2004年8月。15年前のことだ。R-D1sも基幹部分はR-D1と同じなので15年前のカメラと考えて良いだろう。この写りになにか問題があるだろうか? 私は非の打ち所がないと思う。寧ろ目に優しい柔らかさがあると思う。

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by dialogue2017 | 2019-12-03 15:00 | | Comments(1)

191203 EPSON R-D1s(1)

EPSON R-D1s + MINOLTA M-ROKKOR 40mm 1:2.8 ISO400 F4.0 1/500 -0.33EV AWB JPEG

191203 EPSON R-D1s(1)_e0367501_13001509.jpg

実は、昨晩の内に明日のひとつめのエントリーを予約投稿している。文章の冒頭に「このブログを始めたきっかけは2年ちょっとの間『友人』に貸していたEPSON R-D1sが戻ってきたことだった」と書いた。で、R-D1sが気になり手に取ってみた。スイッチを入れてシャッターボタンを押したが切れない。それはそうだ。もう丸2年近く使っていないのだからバッテリーが放電されてしまっているに決まっている。ダメだろうと思ったが予備のバッテリーに入れ替えてみたらシャッターが落ちた。で、玄関を出て猫の額ほどの庭で何枚か写真を撮った。

このカメラは「距離計」に難点がある。新品で購入してすぐに"二重像”の縦ずれが生じた。このカメラの「持病」である。EPSONに修理に出して戻ってきてすぐにまた縦ずれが生じた。「不治の病」なのである。で、その後は縦ずれしたままで使用し続けていたのだが、2年程前に使ったときについに距離計が壊れた。完全にピント合わせが出来なくなった。メーカーのサポートは終了していて修理は受け付けていなかった。距離計の仕組みはLEICAの距離計などとほぼ同じなので、LEICAのカメラのリペアをやっている会社数社に修理を依頼したがどここも「デジタルカメラの修理はやっておりません」と受け付けてくれなかった。

浅草の「早田カメラ」に行った。ここは以前コシナの公式リペアをやっていたカメラ屋さんである。ご存じの方も多いと思うがR-D1sのメカニカルな部分の多くはコシナが作った。外観がBessaにそっくりである。私はBessaを数台所有しているが使用感もそっくりである。で、Bessaの公式リペアをやっていた早田カメラに距離計の修理を頼んでみた。しかし、ここでも「デジタルカメラの修理はやっていない」と断られた。私は、万一修理してカメラが壊れても文句は言わない。壊れても修理代を支払う。その旨一筆書いた”念書”を入れるので修理をして欲しいと頼んだが断られた。

その後1度、パンフォーカスにしてスナップをしてみた。距離計を3mに合わせておいて絞りをF8に設定する。35mmレンズであればこれでほぼパンフォーカスとなる。つまり「写ルンです」と同じ状態となる。ピント合わせをしなくてもシャッターボタンを押せばピントが合った写真が撮れる。一度スナップをしてみたが当然のことながらきちんと写っていた。壊れているのは距離計であって撮影機能にはなんの支障もないのであるから。しかし、楽しくなかった。レンジファインダーカメラを使う楽しみなんて、ファインダーの中で"二重像”を重ね合わせてからシャッターを切ることにあるのだと言っても過言では無いのだから。で、その後一度も手にしたことがなかった。

F8まで絞ってしまったのでは面白くないので、F2.8とF4で庭に咲いている野菊などを撮ってみた。ピント位置は「目測」で決めた。目測と言うか、要するにいい加減に決めたと言うことである。せめてF5.6まで絞っておけばそこそこキッチリピントがあった写真になることはわかっているが、ボケた部分のある写真にしたかったのでF2.8とF4で撮ってみた。

何処がどうだというわけではない。普通の写真である。特段特徴がある訳では無い。平凡な写りだ。しかし、どことなく目に心地が良いような気がする。たんなる気のせいかもしれない。しかし、それでも構わない。人間なんて「気のせい」でも心にしっくりくればそれで気分が良くなるのだから。PENTAX 645Dの出す絵に通じるものがあるのはどちらもCCDセンサーだからだろうか。


by dialogue2017 | 2019-12-03 13:00 | | Comments(0)

SIGMA dp0 Quattroは真面目に写真を撮るカメラだと思う。カラーモードを利用すると独特な「絵画的」な絵を出してくれるので「遊び」用カメラと位置づけることもありだと思う。しかし、このカメラにドンピシャの被写体を探して真面目に撮ったら他のカメラでは真似仕様のない素晴らしい写真を作ってくれると思う。本当は"真剣”に使うべきカメラだろう。来年、一度真面目に使ってみようと思う。

SIGMA dp Quattroは真面目に撮るカメラ_e0367501_15163719.jpg


by dialogue2017 | 2019-12-03 05:00 | モノクロ | Comments(0)

「人生というものは過去からなり立っていると言っても間違いはないんだけれども、その過去は言葉を通じて思い出すという作業によってしか、僕らの魂には刻み込まれない」「その過去の物語こそ、人生の大事な部分です」

「生きている意味は何かと尋ねられたとき、何か美しい思い出を持つことだと言ってどのくらい間違っているだろうかと思うことがあります」

「でも勇敢さとは、結局最終的には兵隊として死ぬ能力というか、自覚的に死を選ぶ能力というものだと思います。その意味では現代社会では、勇敢さという徳がそういう形ではなくなった世界ですね。それと同時に自己犠牲というものがなくなったから、自己の生を意味づける大義がなくなってしまったんです」

「それらの画家は徹底的に自分のオリジナリティを否定するという思考の中でオリジナリティを発揮しているんです。だから、オリジナリティを発揮しようとして模倣に終わっている作品とは全然違うんです」

「大衆批判の原点が、自己という観念であるとすると、あるいは自己という観念にすぎないのだとすると、自己という観念それ自身がもっているいかがわしさというものを同時に考えなければならない」

「自己喪失を自覚するためには、単に自己についての認識があるだけではなくて、自己を越えたものについての共感だとか、コミットメントがあって初めて自己喪失というものがわかるんだと思う」(加藤尚武)

by dialogue2017 | 2019-12-03 02:00 | 備忘録 | Comments(0)