12日に撮った写真。最初、昨日家の庭で撮った「草」の写真を載せてみたがもっと"つまらない写真"にしたくて差し替えた。多分、こういうのが私の「原風景」なのだろうと思う。敗戦から12年後の1957年、私はまだ東京のここかしこにこういう光景のある時代に生まれた。

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5月31日の「『本物』って素晴らしいと思った」というエントリーを最後に、このブログの更新を止めた。その後6月に1度だけ、千葉桜洋さんの大阪ニコンサロンでの個展の案内の投稿をしたが、それを除くと6〜8月の丸3ヶ月間このブログを更新しなかった。再開したいという思いを抱くことは無かったし、9月1日に投稿した際にも再開する積もりではなかった。それどころか、「秋になったら写真を撮ってみようと思っていたけれど…(1)」を投稿したときにさえ、一つのエントリーを投稿するだけのつもりであった。それがズルズルとこんなことになってしまった。

千葉桜洋さんの写真を見てこのブログを終わりにしようと思ったわけでは無い。しかし、千葉桜さんの写真を見たことで踏ん切りがついた。つまらない写真や能書きを書くことにウンザリしていたからだ。「も」である訳は、半ばウンザリしながらも、半ば楽しんでいたからである。(12)までのどこかで書いたが、人間というのはアンビバレントな感情を抱くものである。

「愛憎相半ばし」という言葉があるように、人間はひとつの対象に対して「愛」と「憎」を同時に抱く存在である。人間というのは、論理的な存在で無いどころか、とても矛盾した存在なのである。「愛憎相半ばし」と言えば、それはまさに私の「写真」というモノに対する感情である。私は写真というモノがとても好きであるが、その反面、写真に対して常に「わだかまり」を感じている。

「わだかまり」という表現はオブラートに包んだ表現で、場合には「敵意」とさえ言える感情を持っている。つまり、「ふん、写真なんて下らない」といつも思っているのである。なぜ、そんな風に思うのかと言うことについての説明は書かないでおくことにする。それを書くと、とても「複雑」な話しになってしまうから。大げさな話では無く、それは「人間とは何であるか?」という話しそのものになるのである。こんなところで人間論をぶっても仕方ないので書かない。

「レタッチ」の話や「レンズ」の話を書いたが、本当はそんな話が書きたかったわけでは無い。(6)に鍵コメを下さった方がまだ写真「初心者」の方で、写真理論や撮影技術に未熟であり、レタッチもまったく苦手だと言うことなので、人の良い私はついつい彼女に向かってあれこれと「アドバイス」を書いたと言うことである。私自身、楽しみながら書いたのでそれはそれで良いのだが、本当はもっと書きたいことが有ったはずである。しかし、いまはもうこれ以上書かなくても良いと感じている。

これ以上書かなくて良いと思うに至ったわけは、私の中でいくつかのことがある程度「整理」されたからである。(1)〜(12)にどれくらいの量の文章を書いたかわからないが、多分20,000字ぐらいは書いただろう。私の場合、2万字なんて一気に書けばせいぜいのところ4〜5時間あれば書いてしまうので自分としては沢山書いたという感覚は無い。しかし、書くことを通じて頭に「去来」した内容は、書いた内容の数倍はあった。文章では一言も触れなかったようなことについて、文章を書きそれを自ら読むことを通じて沢山考えた。もちろん、それは全部「写真」についてのことである。

私は、秋になったら写真を撮ってみようと思っていた。写真なんてずっと撮り続けている。この3ヶ月にだって多分1万枚ぐらいは撮っているのでは無いかと思う(調べたら約7千枚であった)。しかし、私が秋になったら撮ってみようと思っていた写真はそのような写真では無い。

私が撮ってみようと思った写真は、「本物の写真」である。もう少しわかりやすく説明しよう。つまりである、私が撮ってみようと思った写真は、例えば千葉桜洋さんの『指先の羅針盤』に「抗し得る」写真である。あるいは、渡部さとるさんの『da.gasita』に「切り結び得る」写真である。そういう思いを抱いたのは、2月か3月のことだった。それはたわいの無い「売り言葉に買い言葉」から生まれた思いであった。その話は"このエントリー”の中に書いたので興味のある方は読んで欲しい。要点だけを引用すると次のような話である。

渡部:「SLXで何撮るの?」
私:「米沢に行って写真を撮ってくるんだよ」
渡部:「へっ〜(笑)」
私:「まあ、米沢撮ったって『da.gasita』の二番煎じにしかならないけどね」
渡部:(ちょっとだけ不快そうに)「二番煎じが撮れたら立派なもんだ」
私:「わかった。じゃあSLX直そう。二番煎じ撮ってくるから」
渡部:「やってみろよ」
私:「うん、やってやるよ」

もちろん、私には「二番煎じ」を撮ってくる積もりなどは全くなかった。『da.gasita』を超える写真を撮ってくるつもりだったとまで不遜なことは考えていなかったが、私なりの『da.gasita』を撮ってくるつもりであった。「撮ってきたよ」「どれどれ」「どう?」「ふーん、凄いじゃん」という会話になる程度の写真を撮ってくる自信はある。

私が『da.gasita』と「切り結び得る」写真を撮ってみたいと思った理由は、渡部さとると対決したいからでもないし、彼に並び立ちたいからでも無い。ましてや彼を超えようなどとも思っていない。良くも悪くも、私には「誰か」と張り合うつもりが全くないのである。父が私のことを「お釈迦様のようなやつだ」と評したが、私は「天上天下唯我独尊」なのである。だから、私には誰かと張り合おうという「可愛らしい」気持ちは無い。

私が、『もうひとつのda.gasita』を撮ってみたいと思ったのは、写真家・渡部さとるに対する"愛”故である。私は、彼の故郷をじっくりと見てみたいと思い続けてきた。私が一番好きな写真集である『da.gasita』の撮影地を見て歩きたいと思っていた。米沢線に乗って米沢⇄坂町を往復してみたかった。そして、その旅の「記録」ということを含めて、私の『da.gasita』を撮ってみたいと思っていた。つまり、『もうひとつのda.gasita』は渡部さとるへのオマージュなのである。

まあ、瓢箪から出たコマのような話なので、それはなんとしてでも実行しなければならないようなことでは無かった。しかし、5月に千葉桜洋さんの『指先の羅針盤』を見て、ちょっと気持ちが変わった。私も1冊は、『da.gasita』や『指先の羅針盤』に比する写真を撮っておくべきかな、そう思ったのである。「本物」には人の心を動かす力があるのだよ。

私にとって「写真」の価値は「記録」を残すことである。私にとって残すべき記録は「家族」と過ごした時間である。だから、私にとって価値のある写真は家族の写真だけである。それ以外の写真はハッキリ言ってどうでもいい。家族の写真以外の写真は全部失ってしまっても惜しくない。

撮ろうと思っているのだけれど、ひとつ大きな問題が立ちはだかっている。私の動機は、真に"内発的”な動機では無いと言うことである。もし、『da.gasita』や『指先の羅針盤』が無かったとしたら、それらの写真と出会っていなかったとしたら、私には「作品」として写真を撮る必要性は全くなかっただろう。私は、写真をやっていない世間の普通の父親と同じような感覚で家族の写真を撮るだけで十分なのだ。

私に故郷があったとしたら、私はそこを写真に撮っただろう。しかし、東京生まれ東京育ちの私に「故郷」はない。東京が私の故郷と言うことになるが、私は東京に対して特段の愛着を抱いていない。愛着がない対象を撮っても良い写真が撮れるわけが無い。家族の写真? 私にとって家族の写真はまったくもって私的なものであり、「作品」として考えることはできない。

さてどうしよう? もう秋になってしまったじゃないか。で、「秋になったら写真を撮ろうと思っていたのだけれど…」さてどうしようという思いでここに雑文を書き始めたのである。私が「作品」を撮ろうと思っていたことについてはここでは明かさないつもりであった。しかし、この「告白」を記さないと、この雑文は一体何だったのか訳がわからないものでしかなくなる。もちろん、訳がわからない雑文のままでも構わないのだが、もしかしたら本当に真剣に読んでくれた「一人の読者」がいたかもしれない。もし、そういう人がいたとしたら、私は「彼(彼女)」に対して私の「秘密」を語らないわけにいかない。言葉を紡ぐものは、読者に対して誠実であらねばならない。

どうしてもこの秋に撮らなければならない訳では無い。しかし、この秋に撮らなければ私は「作品」としての写真を撮らないで人生を終えるだろうと思う。そうなることが残念なことだとは思わない。たかが写真じゃないか(笑)。ただ、「売り言葉と買い言葉」にはきちんと落とし前を付けておきたいという性格なのである(笑)。『ギャラリー冬青』が来年いっぱいで終わりになると言うことで無ければ、展示と写真集を出して貰うという前提で撮ってくる気にもなるけれど、もう最終展示まで詰まってしまっているからな〜。

とりあえず、フィルム1本ぐらい撮ってきてから考えようかな。


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by dialogue2017 | 2018-09-16 03:45 | 写真とカメラの話し | Comments(1)