私は、ほとんど何も考えずに写真を撮っていることが多い。この日(12日)は家から2km先のコンビニまで買い物に行くとき、5ヶ月ぶりにカメラを持って歩いた(夏場は車で行っていた)。最初の内、まったく撮る気にならなかったのだが、コンビニの帰りにこの空き地(東京都の遊休地)あたりに来たときに写真を撮りたいと感じた。こういう光景が好きなのだと思う。

e0367501_13595514.jpg

私は何も考えずに写真を撮っていることが多い。なんとなく撮りたいと思った光景を見つけると(探していると言うほどのことでは無い)立ち止まって直ぐにシャッターを切る。あまり構図について考えたりしない。とは言え、それは明確に意識的には考えていないと言うことであって、無意識的に構図を作っているということはあると思う。ただ、ほとんどの場合無造作に撮っている。どうして無造作に撮っているのかというと、丁寧に撮る必要性が欠片も無いからである。その写真が「上手く撮れている」必要が無いと言うことである。

もちろん、ある程度撮りたいと思うモノを探して歩いている時もあるし、一瞬のうちにカメラアングル(つまり構図)について考えてから撮っているというケースもある。しかし、たぶんスナップの2/3ぐらいはほとんど何も考えないで撮っているような気がする。なんとなく「いいな」と思ったモノが目に止まると一瞬立ち止まってレンズを向けてシャッターを切る。立ち止まってからシャッターを切るまでは1秒以内であることが多い。立ち止まる前1〜2秒の内に歩きながら絞りと露出補正値を決めてから立ち止まることが多いからである。シャッターボタンを押し終わると同時に歩き始める。友人から「君は歩きながら写真を撮るんだね」と言われたことがある(笑)。

何も考えないで撮るというのはすでに写真を撮ることが「習い性」として身についているからだと思う。つまり、いくつもの被写体に対する"パターン”化されたデータが脳内に蓄積されていて、オートマチックで判断を下して写真を撮っているのだと思う。だいたいが、スナップなんてそんなモノじゃ無いのかと思う。

適当に撮っている方が楽しい私は物事に対して「慎重になる」ことが嫌いなのだ。いや、好き嫌い以前のコトとして、物事に慎重になることが出来ない性格なのである。ようするに"ろくでなし”なのだ。しかし、写真に関しては意図して適当に撮ることにしている面もある。「きっちりと計算された」感じの写真があまり好きでは無いからである。と言って、わざと水平を傾けて撮るようなことはやらない。それは「キッチリと計算された」傾きであるから。

私は間違い無くろくでなしなのだが、ある種の事柄に対しては人並み外れて真剣に立ち向かう。私は、男が真剣になることはこの世に3つしかないと思っている。まずは「天下国家」のこと。そして、「家族」に対して。もう一つは、「恋」をするときである(笑)。私は今までの人生でこの3つ以外のことに真剣になったことはない。

いや、ゴルフとか写真に対しても、普通の人に比べたら5倍ぐらいは真剣にやっているのだと思う。自分自身では適当にやっている積もりなのだが、「真剣」の基準が格段に高いから、ちょっと熱中したことに対する「真剣さ」は普通の人の数倍に達しているということである。

ひとつのエピソードを挟んでおく。30年前に知人に誘われてゴルフを始めた際、デビューラウンドの目標スコアは80台であった。皆から「100切りだって無理」と笑われた。実際、最初のホールのティーショットでチーピン(どフック)を打っていきなりOB。打ち直しティーショットのあとの4打目はグリーンに落ちたにも関わらず奥にこぼれてまたOB(ホールの設計が悪い)。生涯最初のホールはOB2発のダブルパー発進となり、この時点で気持ちが切れアウトはボロボロで48。それでもインに粘って43で周りトータル91だった。スタートホールの躓きさえ無ければ80台で回れていたかもしれないと悔しかった。もちろん、デビュー戦前には相当練習した。なにか新しいことを始めた時には端から見ると異常なほど集中的にそのことに取り組むのである。打ちっ放しに「お弁当」と「おやつ」を持って行って、9時間打っていたなんてことがあったくらいである(汗)。

私の「真剣さ」の基準は高い。いや、高い低いという話では無く、真剣さの基準はひとつしか無いと思う。それは「命を賭けられる」ということである。「天下国家」と「家族」と「恋」には命を賭けられる。ただ、「家族」が出来た後に「恋」に命を賭けるのはまずいが(笑)。

この3ツのこと以外はすべて「たかだか」のことでしかない。写真なんていうものは「たかだか」の中でもあまり上の方には位置づけられないことでしかない。だから、私は真剣に写真を撮ることがあまりない。多くの物事は、過度に真剣になるよりほどよく「適当」にやっている方が楽しいモノだ。

ああそうか。だから、みんな写真が下手なんだ(爆)。

(10)につづく。


[PR]
by dialogue2017 | 2018-09-14 15:00 | 写真とカメラの話し | Comments(1)

平凡な写真なのだけれどトーンの出し方という点では微妙な写真である。私のコーティングが剥がれたMacBookのモニタでは見極められない。

e0367501_10195959.jpg

写真なんてどうでも良いのだけれど、こういう写真はきちんと手を入れないとどうにもならない(上と下の適正露出が離れているから)。
この写真の場合、綺麗に見せようと思ったらRawファイルから弄った方がいいし、レイヤーマスクを使う必要がある。
もちろん私はそんなことはしない。そこまでして綺麗な写真を見せようという気など無いからである。

(1)を書いたとき思っていたことは「秋になって涼しくなったらちょこっと写真を撮ろうと思っていたけれどまだそんな気にならない」と言うことだった。つまり、写真を撮ってみようと思ってはいるのだけれど、まだ撮りたいという気持ちになっていないということを「呟いて」みたかったのである。誰に対して? 読んでくれる人にである(笑)。9月1日に更新を再開した訳だがその日にアクセス数が増えた。9月の1日あたりのアクセス数は7月の1.5倍、8月の1.3倍くらいとなった。大雑把に言って、更新を再開したことによって1日3〜40アクセス増えたと言うことである。たぶん、6月以前に訪問していて下さった方の一部がまた見てくれているのだろう。

今朝7:40に、「美しい写真が良い写真なのだろうか?」という話を書いた(6)に「鍵コメ」が届いていた。その冒頭には「おはようございます。久しぶりにdialogue2017さん節が復活し嬉しく思います。美しい写真のことですが、私も好んで美しい写真を撮るほうですが、レタッチがいまだにまともにできない人なので、もっぱら撮って出しです」と記されていた。

奇遇にも、昨晩、私はその方のブログにコメントを入れようと思ったのであった。その方は、同じメーカーの2台のカメラで撮った写真をブログに掲載しているのだが、両者の画像のクオリティーには格段の差があって、高いカメラで撮った写真の画像はカメラとレンズの優秀さが一発でわかる。私だったら、あれだけ良いカメラを持っていたら、安いカメラの方で撮った写真は載せないだろう。まあ、その人が安いカメラの方を使いたい気持ちもわかるし(小型軽量でズームレンズ)、本人が好きなようにすればいいことである。ただ、高い方のカメラだけを使って写真を撮り続けた方が写真が上手になると思う。そうコメントしようかと思ったのだが止めた(すでに先日そうアドバイスしていたので)。

レタッチは覚えた方が良い。なぜなら、どんなにカメラの性能が良くなってもカメラは万能では無いからである。最近のカメラは、極端に悪い条件で無い限り撮りっぱなしでもかなり綺麗な画像を作ってくれる。純粋に「記録」としての写真であるならば、撮りっぱなしの画像で十分なレベルだと言っても言い過ぎでは無いと思う。ただ、「写真」そのものを「見せる」ことを目的とするのであれば、レタッチは「不可欠」だと思う。

レタッチと言っても特別なことでは無い。一言で言ってしまえば「トーンを整える」程度で十分だと思う。私は基本的にはレベル補正だけで良いと思っている。全体的な「露出(明るさ)」の調整、それに「ハイライト」と「シャドー」の微調整だけで十分だと言うことだ。もちろん、それだけでは満足の出来る仕上がりにならないケースもあるが、きちんと撮っておいた写真であればそれだけで80〜90点の写真に仕上がるはずである。もちろんRawから弄る必要など無い。むしろ、JPEGをちょこっと弄った方が綺麗に仕上がる。いまのJPEG画像は完成度が高いから。

最近のカメラは感心するほど優秀なのでカメラ任せの撮りっぱなし画像でも十分美しい。ただ、やはりそこには「過不足」がある。主な「過不足」とは、"シャドーが潰れ気味"であるとか、"ハイライトが飛び気味"であるとかである。コントラストが足りないとか、きつすぎると言うことも良く起こる。だから、「ハイライト」「シャドー」「コントラスト」の微調整は、「写真を見せる」上では"必須”の作業だと思う。この3つはトーンカーブだけで一発で調整可能な場合が少なくない。私の場合、記録的要素の強い写真の場合には「自動コントラスト補正」を多用している。「自動コントラスト補正」だけだと効果が強すぎる場合が多いので、「自動コントラスト補正をフェード」して微調整している。これだと10秒掛からずにレタッチが終わる。それでも、それをやるのとやらないのでは写真の見栄えは大きく変わる。

最低限の範囲で良いのでレタッチは覚えた方が良い。撮りっぱなしの写真には「過不足」がある。その過不足は見過ごして良いほど小さいときもあれば、「これじゃちょっと」と感じるほど大きい場合もある。くり返すがカメラは万能じゃ無い。被写体に当たっている光や、被写体の色(反射率)によっては綺麗なトーンの画像にならない。「それなり」のレベルの写真だけを撮ろうと思えばそれはできる。綺麗なトーンの出る光の当たっているところだけを撮れば良いのである。

しかし、誰でも撮りたいと思った光景にレンズを向けてシャッターを切るだろう。その結果、綺麗なトーンが出にくい光景を撮っていると言うことは沢山ある。しかし、そういう写真もほんのちょっと微調整してあげれば綺麗なトーンの写真に生まれ変わる。もちろん、上手くいかない場合もある。それは「元画像」の程度に左右される。

「撮って出し」を続けている人は写真が上手くならない。レタッチを重ねることによって、「綺麗な写真」というものを理解していくのだからである。レタッチをすると言うことは、写真の「欠点」を補うことである。その作業を積み重ねることによって、どういう風に撮っておけば良いかと言うこともわかってくる。だから、「レタッチ」は写真の上達のための最も効果ある「学習」の機会なのである。

私はあまり弄らない。「美しい写真」を撮ろうと思ったときほど弄らないで良い写真を撮っておく。つまり、カメラ任せで撮っても「過不足」の無い「光」で写真を撮っておくと言うことである。ただ、私は「美しい」ということにあまり拘っていない。なぜなら、「過不足」があっても良いと思える写真はいくらでもあるからである。しかし、簡単に補える過不足をそのままにしておくというのは「馬鹿げたこと」だと思う。カメラが作ってくれる画像は「素材」に過ぎない。ほんの僅かの「塩こしょう」ぐらいは掛けてあげる必要がある。それをしない人は永遠の「味音痴」で終わる。料理は塩の一振りで旨さが変わる。


[PR]
by dialogue2017 | 2018-09-14 12:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)

『LUZ e SOMBRA』に掲載している写真とは"対極的”と言っても良い写真だ。「美しくない写真」であるが、私はこういう写真の方が好きなのだ。

e0367501_03000161.jpg

すっかりとりとめの無い話しになってしまった。しかしそれも宜なるかな、特段書きたいことがある訳じゃ無いのだから。
ただたんに、久しぶりに文章を書いてみたいと思って書き始めたというだけのことなのだ。

いや、本当は書きたいことは沢山あるのだと思う。だから文章を書きたくなったのだ。

と、上の行まで書いて気がついた。文章を書きたいという強い欲求が生じるときと言うのは、自分の本音を知りたいときなのだ。
私は文章を書くとき、書く内容を明確に定めて書くことが少ない。テーマを明確にして書く必要に迫られていないからである。
私は「口から出任せ」式に文章を書く。雑文を書くというのはたわいの無いおしゃべりをするのと同じことなのである。
しかし、書くべきことを決めず、筆が文字を紡ぐのに任せていると、そこには図らずも本音がにじみ出てくる
「本音」と言ってしまうと含蓄が無くなるので言い換えれば「深層心理」が表面化すると言うことである。

このことについては理解を持っていない人が沢山いるのだが、人は自分の「本心」に思いの外無自覚なものである
自分の「本当の欲望」とか「本当の気持ち」について、全く気づいていないと言うことは珍しいことでは無い。
もちろん、それは事と次第である。自覚している部分が沢山あることも事実だが、気づいていない部分も必ずある。
こんなところでフロイトを持ち出すのもなんであるが、人間の心理には「無意識」という領域がある。
フロイト理論の柱概念のひとつに「抑圧」がある。それは自我を脅かす願望や衝動を意識から締め出し意識下に追いやることである。
その意識下に追いやられた願望や衝動は意識されないまま自分の心の奥底に保持されている。これは"自我防衛機制"である。

人間は自分自身が気がついていない「願望」を抱いていることが珍しくない。
それは「自我を脅かす」ほど「危険」なものであるとは限らない。
人間というのはあまり論理的な存在では無いので、アンビバレントな感情を持っているものである。
別な言い方をすると、「心」には「裏と表」があって、「表」だけを認識していて「裏」を認識していないと言うことは良くあることなのだ。
(注)フロイト理論の範疇を「広げた」話をしている。

文章を書くというのはとても面白い作業で、本人の意図とは無関係に「無意識」の領域(の心理)がそこににじみ出てくる。
「無意識」という言葉には学術用語としての「定義」があるので使うのを避け、自分の気持ちの「裏側」とでも言っておくことにしよう。
筆に任せて文章を書き綴っていると、自分が思いもしなかった話を書いてしまうものである。
その「思いもしなかった」話の中に、自分では無自覚である「本音」とか「願望」がぽろっと出てくるのである。

「秋になったら写真を撮ろうと思っていたけれど…(1)」を書いたときには、
その末尾に書いた「秋になって涼しくなったらちょこっと写真を撮ろうと思っていたけれどまだそんな気にならない」
と言うことを書こうと思っただけだった。だから、最初は(1)は付けていなかった。

(2)は、当初ひとつの文章として書いた文章が長かったので、二つに割った後半部分を掲載するつもりでしか無かった。
本当は一つのエントリーを書くつもりが長くなったので2回に分けて掲載し、それで終わるつもりだったのだ。
話が広がってしまった原因は(2)の末尾に記した次の文章にあった。
「写真」を見せるためのブログをやっていても自分ではあまり楽しくないのである」ーーこれが「連載」へのトリガーとなった。

つまり、今更このブログに文章を書いたのは、『LUZ e SOMBRA』をやっていても全く楽しくないからだったと言うことである。
そのことに全く無自覚であったわけでは無いが、それが自分にとって小さくない"しこり”となっていることにはあまり自覚的では無かった。

ああ、文章を書くというのはまことに不思議なことである。

(8)へつづく。



[PR]
by dialogue2017 | 2018-09-14 10:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)

(4)以後に掲載の写真は一昨日(12日)自宅近くで撮った。自宅近くでスナップをしたのは4月19日以来なのでおよそ5ヶ月ぶりのこと。

e0367501_00510375.jpg

昨日は久しぶりに都心に出かけた。カメラを1台持って行ったが1枚も撮らなかった。
出先で1枚も撮らないというのは珍しい。撮る気が無いときでも5枚や10枚は撮るのだけれど、昨日はまったくその気にならなかった。

(5)の話の続きを書く。つまり、『LUZ e SOMBRA』についての話。
5月の中頃までは、自宅周辺で撮った写真をちょくちょく掲載していた。
最後に自宅周辺でスナップをしたのは4月19日なのだけれど、5月に1〜2度、雨の降った日に隣の家の庭の薔薇の花を撮った。
5月中旬にその写真を載せたのが自宅周辺で撮った写真を掲載した最後だったと思う。
自画自賛となるが、その時に撮った"この写真"なんかとても綺麗な写真だと思う。薔薇の花は一度真面目に撮ってみたいと思う。

薔薇と言えば、6月掲載の写真の中に枯れた薔薇の花を自宅のキッチンで撮った写真が1枚あった。"これも"素敵だと思う。
花をライティングして撮る写真家は少なくない。花は、写真家をして綺麗に撮ってみたいという誘惑に駆り立てる被写体なのだろう。
私はライティングしてまで花を撮ったことは一度も無い。ただ、自然光での「ライティング」でなら撮ったことがある。
自然光でも意図して光を当てればそれは立派なライティングである。そもそもストロボというのは太陽光の代わりなのだ。
街中に咲いている花でも綺麗な光が当たっていれば綺麗な写真が撮れるが、ライティングして撮るとちょっと雰囲気が違った写真になる。

例えば"この写真”は自宅リビングのダイニングテーブルの上で撮ったのだけれどストロボライティングしたみないな雰囲気の写真である。
実際には、南向きの窓から入って来た光だけで撮っている。光に対して良い距離と角度に花をセッティングしただけのことだ。
実は元々はカラーで撮っていて、このブログの2017年1月25日に掲載した写真である。こちらが"元の写真"である。

何の話しかというと、写真というのは"綺麗な光”で撮れば綺麗な写真になるという話である。
それはスナップであっても同じことである。綺麗な光の当たっている光景を撮れば綺麗な写真になる。

私は、15時を回ってからスナップを始めることが多い。
日中にスナップをするより朝夕のスナップの方が楽しい。なぜなら、朝と夕方は"斜光”になるからである。
私は起床するのが遅いので朝写真を撮ることは滅多に無い。だから、私のスナップは15時過ぎが多い。
夕暮れ時の光が美しいわけは"柔らかい光”であるからだ。柔らかい光だから優しいトーンの写真となる。
そして、夕暮れ時の光のもう一つの魅力は、ちょっと赤みがかったウォームな色合いだ。
ほんのりと赤く焼けた西の空をバックに逆光で撮ると、優しいトーンの写真となるので特に好きだ。
典型的な「作例」をひとつあげれば"こんな感じの写真”である。衒いも無く言うが、綺麗な写真だ。

夕方であればいつでも柔らかく優しいトーンの写真が撮れるというわけでは無い。
いや、美しい写真を撮ることが出来る夕暮れなんてそうしょっちゅうある訳では無い。
でも、いつでも撮りたいと思うように撮ることが出来るわけじゃないから写真を撮ることは楽しいのだと思う。

さて、美しい写真が良い写真なのだろうか?
私は、美しい写真は素敵だと思う。ただ、いまはそんな写真はネット上に溢れている。
ところが、息をのむような美しい写真の多くは、徹底的に手を入れた写真であるケースが多い。
信じられないほど美しい夜景写真などは、露出を変えて撮影した何枚もの写真をレイヤーで重ねて作った写真である場合がほとんどである。
一度の露光で美しい写真が撮れるケースも無い訳では無いが、各段に美しい写真の場合"レタッチ”の巧さに依っているケースが多い。

そういう"作られた美しい写真"を否定するつもりは無い。いまはそういう時代なのだ。
「撮影5割、レタッチ5割」と言われたのは今は昔。最近では「撮影3割、レタッチ7割」とも言われている。
写真に限らず「何でもあり」という時代なのだからそういうことに目くじらを立てても仕方ない。
ただ、レタッチの上手い下手が写真の善し悪しの7割を占めるのだとしたら、写真なんてつまらないモノだと思う。

私は「美しい写真」が好きである。しかし、過度に美しい写真をが並んでいるのを見ると「なんだかな〜」と思ってしまう。
「美しい写真」を撮ることは決して難しいことでは無い。「綺麗な光」で撮れば良いだけのことである。
しかし、「美しい写真」ばかりを撮ると言うことが楽しいことなのかどうか。私にはあまり楽しいことには思えない。

止めどない話しになってきたので一旦筆を置いて仕切り直しすることにする。

(7)へつづく。


[PR]
by dialogue2017 | 2018-09-14 01:30 | 写真とカメラの話し | Comments(1)