人気ブログランキング |

陰影礼賛 (日本的美意識)

"このエントリー”に掲載した写真に対してshi-photo君から次のようなコメントを頂いた。ちなみに、この写真は現在shi-photo君が愛用しているRICHO GXR A12 50mm F2.5 MACROで撮影した写真である。

こういう素敵な写真を見ると、いくら同じカメラを使っていても、より高い最新式カメラを使っても、自分には撮れないなと思います。撮影者の物の見方、技量があってこそ、カメラも活きるというものですね。

自分で言うのもなんであるが、確かにこの写真はとても綺麗に撮れている。しかし、ただ単に花の前にしゃがみ込んでレンズを花に近づけてシャッターボタンを押しただけなのである。露出補正さえしていないので本当にただ撮っただけである。しいて私が選択したことを上げればF5.6という絞り値を選択した事くらいである。綺麗な写真になった理由は二つあって、「奇麗な光が当たっていた」ことと「カメラとレンズの性能が良い」ことである。この写真に関して言えば「技量あってこそ」ではないと言って良い。

ただ花の前にしゃがみ込んでレンズを向けてシャッターボタンを押しただけなのだから「技量」などと言うものはまったく無関係である。何かにレンズを向けてシャッターボタンを押すだけなら誰にでもできる。そういう作業は「技量」ではない。shi-photo君が「自分には撮れない」と思う写真を私はいとも簡単に撮った。そもそも、私がこのブログに掲載している写真の少なくとも90%はただシャッターボタンを押しただけの写真である。私がスナップしているシーンの動画を撮影して公開したら、あまりに無造作に、しかも瞬時に撮っていることに驚くと思う。私はあまり丁寧に撮らない。立ち止まって1〜2秒で撮り終えることがほとんどである。撮ったあとは背面モニタで画像を確認しないで歩き出す。もちろん、時々は3〜4秒掛けて撮るときもあるが、ほとんどの写真は立ち止まって1〜2秒で撮っている。

shi-photo君と私の何処が違うのかというと、shi-photo君が書いているように「物の見方」である。しかし、実際には私はただたんに自分が「いいな」と思ったモノにレンズを向けて撮っているだけである。まあなにを「いいな」と思うかが「物の見方」と言うことになるわけであるが、それも簡単なことで「奇麗な光が当たっているモノ」である。この写真はたまたま玄関を出たときに目に入り、「ああ、奇麗に咲いているな〜」と思って撮ったというだけのことである。"こんな風に"自宅の猫の額ほどの庭の隅っこの日陰に咲いていたのだが、この花の部分には木漏れ日が当たっていた。そう、私は「木漏れ日」の当たっている花をよく撮るのである。時には、「木漏れ日」そのものを被写体として撮ることもある。(注)上の"こんな風に”をクリックして表示される写真は日陰になってしまったあとに撮った写真であるため「木漏れ日」は当たっていない。

写真は「陰影」があるものが美しい。谷崎潤一郎に『陰影礼賛』という随筆がある。それについて説明を書こうと思ったのだが内容を良く覚えていない(笑)。でネットで検索したらwikipediaに次のようにあった。

『陰翳礼讃』(いんえいらいさん)は、谷崎潤一郎の随筆。まだ電灯がなかった時代の今日と違った日本の美の感覚、生活と自然とが一体化し、真に風雅の骨髄を知っていた日本人の芸術的な感性について論じたもの。谷崎の代表的評論作品で、関西に移住した谷崎が日本の古典回帰に目覚めた時期の随筆である。

西洋の文化では可能な限り部屋の隅々まで明るくし、陰翳を消す事に執着したが、いにしえの日本ではむしろ陰翳を認め、それを利用することで陰翳の中でこそ映える芸術を作り上げたのであり、それこそが日本古来の美意識・美学の特徴だと主張する。こうした主張のもと、建築、照明、紙、食器、食べ物、化粧、能や歌舞伎の衣装の色彩など、多岐にわたって陰影の考察がなされている。この随筆は、日本的なデザインを考える上で注目され、国内だけでなく、戦後翻訳されて以降、海外の知識人や映画人にも影響を与えている。

これを読んでも『陰影礼賛』を読んだ記憶が蘇らなかった。たぶん、ペラペラとやっただけだったのだろう(笑)。いや、熱心に読んだ本でも内容をすっかり忘れてしまっていることは珍しくない。いずれにしろ、私は谷崎からなんの影響も受けなかった。若い頃にはこういう話には関心が無かった。多くの場合、人が「風雅」を理解するのはある程度年をとってからである。まあ、人によりけりであるが、私の場合そういう感覚が顕著になったのは40を過ぎてからのことであった。

と書いて気がついたが、私が写真を撮り始めたのは2003年の秋からであったのだが、当時私は46歳であった。おそらく、26歳の時に写真を撮っていたしたら46歳の私とは随分と違った写真を撮っていただろうと思う。おそらく、花の写真なんてまったく撮らなかったのではないかと思う。

話を戻すが、写真は「陰影」のあるものが美しいと思う。しかし、いかにも「光と影」を撮りましたという写真は、見る者に対して「わざとらしい」という思いを抱かせる。上手に撮れていればそういう写真も悪くはないが、そういう写真ばかりを並べられたら「げっそり」するだろうと思う。日本人の感性として「さりげなさ」を愛するということがある。今の時代にあっては「古い日本人」に属する世代となった私にはそういう感覚がある。いや、私は若い頃から「さりげなさ」に美を見出していたと思う。私は「顕示的」なモノがきらいであった。「ブランド品」などは大嫌いであった。中身が「空っぽ」な人間が己の「空疎さ」を隠蔽するために欲しがるモノが「ブランド品」であると思っている。

私は「さりげない陰影」を撮るのが好きだ。と言ってそういう「陰影」ばかりを探して撮っているというわけではない。私は何でも撮る。いろいろな物を撮るし、光に拘らずに撮ることも少なくない。ただ、花の写真を撮るときには「さりげない陰影」で撮ることが好きだしそういう写真をとることが多い。もちろん、陽が当たっている花を撮ることもあるし、逆光の透過光で撮る花もとても美しいと思う。しかし、一番好きなのは「さりげない陰影」の中に咲く花である。

以上の話を読んでいただいた上で"この写真”を観て貰うとこの花を撮った時の私の「狙い」を理解して貰えるだろうと思う。十分に「光」を感じる写真であるが、実際には光が当たっている部分はとても少ない。花ビラの白っぽい部分にだけしか光は当たっていなくて、写真のほとんどの部分は「日陰」である。しかも、当たっているのは「柔らかい」木漏れ日なので「光と影」のコントラストは強くない。つまり、「さりげない陰影」なのである。私は、そういう光の中に咲いている花を見つけて撮ることが多い。目を皿にして探して歩くわけでは無い。散歩をしているとそういう花が目につくのである。人は自分が好むモノを見つけるようにできているから。

下の写真はこの「古いレンズで撮った写真」(2)(3)(4)と同じく2017年11月7日に撮影した写真である。自宅近所を短い時間散歩して、S-Planar2,8/60で次々と撮っていった写真の中の一枚である。私はこういう「なんでもない」写真をよく撮る。こういう「平凡」で「優れたところがない」写真が好きなのである。写真にしてしまうと「面白くもなんともない」が、散歩中に肉眼で見たときには奇麗だと感じる。秋の暖かい陽射しに照らされた花は美しい。美しいと思うから撮る。写真になってしまうと実際に見た時の美しさは失われているが、この写真を見たとき、私の頭の中では実際に見た光景が再現される。だから、写真というモノは「撮影者のモノ」なのだと私は思う

それにしても、花の写真の撮り方で谷崎潤一郎の話が出てくるブログなんてこのブログぐらいだろう(笑)。

下の文章は下の写真の初出時に書いた文章である。

今日は立冬だというのに20℃を超えるぽかぽか陽気だった。ちょうど開花期で散歩中あちらこちらで野菊を見かけた。しかし、日当たりの良いところに咲いているケースがほとんどで写真にならなかった。直射光を受けている花の写真はあまり撮らない。こういう平凡な写真が好きだ。ちなみに、ここでアップを撮るとしたら、右下の5輪か、その直ぐ上。半分以上日陰になっている部分を撮る。

(3,084文字)


e0367501_11362740.jpg


名前
URL
画像認証
削除用パスワード
by dialogue2017 | 2019-02-28 12:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)