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秋になったら写真を撮ろうと思っていたけれど…(12)

芸術的だね〜。非凡の才がないと撮れない写真だね〜(笑)。2秒で撮った賜(笑)。

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このエントリーのために撮ってきた写真。玄関の庇の下からカメラを構えて2秒で撮った。芸術的だね〜。普通APS-Cセンサーのカメラじゃ芸術的な写真は撮れないモノだけれどね〜。腕だな〜(笑)。いや、レンズが良いんだよ。レンズの良さを見せようと思って撮った写真だからさ。

なんか、口調がアラーキーぽくなってしまった(爆)。アラーキー、好きじゃ無いんだけれどさ(笑)。まあ、私には「芸術的」な写真を撮りたいという気持ちは全くない。そもそも「写真」が「芸術」たり得るのか疑問に思っている。「芸術的」な写真ならあるとも思うけれど、あくまで「的」だよね。写真は「機械」に依存している部分がもの凄く大きいから、「絵画」と比べたとき果たして「芸術」と言えるのかと思うわけですよ。カメラとレンズが良いと、素人でも凄い写真が(偶然)撮れちゃったりするからさ。

この写真は本当に2秒で撮ったの。他に「緑」色の写真を何枚か撮ったあと、玄関の庇の下に飛び込んだときこの葉が目に入り、「紅色」だけの写真を撮ったら面白そうだと思って、中腰になって手を伸ばし、カメラをグッとこの葉っぱに近づけていきなりバシャッ! 背面モニタさえろくに見ずに撮ったのだけれど、見ない方がいいわけよ。見ると「作画」するでしょ。見ないでシャッター切ればピント位置がどこに来るかも半ば偶然に任せることになる(私は中央1点AFしか使わないのだけれど「顔認識」がONになっているからどっかに行く場合がある。結局中央で拾ってくれたけれど)。ファインダーを覗いていないからどの程度ボケるかは予想しきれない。まあ、ある程度は想像できるけれど、偶然だよりだよね。

考えたことは「紅色」一色に染まった写真。ただ、完全に一色になってしまうと単調だし「いかにも」という感じになってしまうから左下にちょこっとだけ「緑」を入れた。もちろん、「入るかな〜」程度のフレーミングなわけだけれど、運良く入った。

ここで、つい最近蓮井幹生さんがブログで書いていた話を持ってくるととても面白い話になるのだけれど、それをやると少なくて3,000字、ある程度意を尽くして書いたら5,000字になってしまうので止めておく。気になる人もいるだろうから、蓮井さんが書いていたことの結論だけ引用すると「写真家の写真ほどつまらぬものはない」と言うこと。これ、要約では無く"抜粋”です。

蓮井幹生さんという写真家は、ある程度コアな写真好きじゃ無いとご存じないかもしれないけれど、一言で説明すれば"凄い写真家"。この春、写真家の渡部さとるさんの家に遊びに行ったとき、この4月から「ワークショップH」の教室として使うことになっていた二階の部屋の壁に掛かっている1枚の写真を見たのね(なんで口語調?)。渡部さん自身の写真もあったし、中藤毅彦さんの写真もあった。その中に、見たことの無い横長の小さなフレームに入った写真があって、それが素敵だったので「これ誰の?」と聞いたところ「蓮井幹生さん」とのことだった。「えっ、蓮井さん。僕は好きな写真家ってほとんどいないんだけれど、蓮井さんはとても好きなんだよ」と伝えた。

そのあと渡部さんに、「渡部さんは蓮井さんをどう評価しているの?」と聞いてみたところ、「凄いの一言。我々とはまったく別格。向こう側に行っちゃっている人だよね。天才」と返ってきた。まあ実際、コマーシャルフォトの世界では非常に高い評価を得ている方なので「別格」というのは全くその通りなんだけれど、コマーシャルフォトと「作品写真」というのはまったく別物だから、渡部さんの評価を聴いてみたわけだけれど、彼が向こう側に行っちゃっている人」とまで絶賛するのを聴いて「やはりそうなのか」と思った。

その蓮井さんが「ぼくは最近、どんな写真家の写真を観ても少しも感動しない。むしろインスタグラムなどの写真をつらつらと観ている方がワクワクする」と書いているわけ。私は昔から「どんな写真家の写真を見ても少しも感動しない」人間だったのでそのこと自体は「同感」でしか無い訳だけれど、蓮井さんがそう語っていると言うことがもの凄く重たいわけですよ。

最近、私はまたInstagramに「嵌まって」いるのだけれど、Instagramには素敵な写真が沢山散らばっていると思う。エキサイトブログの「カメラジャンル」に掲載されている写真より断然素敵な写真が沢山あると思う。蓮井さんもそうなる理由について書いているのだけれど、私に言わせるとそうなる理由は二つある。一つは「本気」で撮っている連中が沢山いると言うこと。これはプロアマ問わず。もう一つは、正反対の理由。「写真をやっていない」人々が良い写真を撮っていると言うこと。

つまりさ、中途半端に写真をやっている奴らの写真はつまらないということよ。蓮井さんに言わせると「どんな写真家の写真を見ても少しも感動しない」ぐらいなのだから、中途半端に写真をやっている連中の写真など感動からはほど遠いに決まっている。私は、昔から写真をやっていない人の写真の中に良い写真があると思っていたけれど(カメラ雑誌の巻頭写真より、巻末の「読者投稿」によほど良い写真があると思っていた)、蓮井さんも「写真家の写真より普通の誰かが撮った写真に真実があるような気がする」と語っている。おおご同輩!(失礼)。

もちろん、蓮井さんは手放しで「普通の誰かが撮った写真」を賞賛しているわけでは無い。そこには「真実」があったとしても、それが「大いなる感動の作品」とはならないと指摘している。そして、そうならない理由についても語っている。「普通の誰かが撮った写真」には「苦悩や試練、反省や修練がない」からであると。その通りだと思う。だいたいどんなことでも、本当の意味でその世界の最高峰のポジションにいる人の見解とは意見が合うことが多い(笑)。私は、写真を撮ると言うことに対しては「苦悩や試練」とは全く無縁であるが、物事を捉えるということに関しては、少なく見積もってもこの40年間「苦悩や試練、反省や修練」をくり返してきたと言える。

写真に関しては、「苦悩」と「試練」は欠片も無いが、「反省」と「修練」は少なからずある。「反省」に関して言えば、99%の写真に対して必ず反省している(笑)。遊びで撮りながらも自分なりには「修練」のようなことをしているつもりである。で、話がここに繋がるわけだが、「レタッチ」こそは「反省と修練」が「収斂」する場だと思う。失敗を反省し、写真を「修正して練り直す」のがレタッチだから。そしてそれは、一部の人にとっては「苦悩と試練」の場となるだろう。私は、実務的なことで「苦労」したり「試練」するつもりは毛頭無いのでレタッチを覚えようとしたことが無い。だから、いまだに「レベル補正」のレベルに止まっている。レタッチ覚えたらもっと綺麗な写真を見せることが出来るけれど、「陳腐な連中」に褒められるために努力をする気は無い。

蓮井さんのお話を細切れに中途半端な形で紹介したのは良くなかった。実は、蓮井さんの話を読んだことが、私がこのブログを「再開」させるひとつの原因になっていたのだと、いま(5秒前)気がついた。私は9月1日にこのブログを3ヶ月ぶりに「再開」したのだが、蓮井さんのブログを読んだのはその前日の晩のことだった。もちろん、このブログを再開して以後蓮井さんのことなどすっかり忘れていた。思い出した理由は、「運良く入った」と書いたことである。それは、「無作為」を使った「作為」である。

蓮井さんは「作為」とか「無作為」という言葉は使っていなかったと思うが、蓮井さんの話のテーマは、表現行為における「作為」と「無作為」の「挾間」についてであった。この話は、いずれきちんと書くことにしたい。ただし、1万字になるだろう(笑)。

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こういう写真を楽しんでくれる人がいるので載せておく。写真右端に写っている横長の写真が蓮井幹生さんの作品。その右隣には中藤毅彦さんの代表作が飾ってあった。この写真は、上の文章に記した渡部さんとの会話をした前後に撮ったモノ。渡部さんがちょっと被写体ブレしている(笑)。ちなみに、テーブルの上のEPSON PX-5500は渡部さんの同型機が壊れたため私からの貸し出し代替機。永遠の貸し出しだけれど(笑)。ついでながら、渡部さんのPX-5500も修理して現在「ワークショップH」はPX-5500 2台体制。10年前のプリンターだけれど渡部さん曰く、いまでも十分通用するモノクロプリントを出す。もう、渡部さんのワークショップに行っても"フォコマート”とかは無いのよ。時代はデジタル(爆)。

秋になったら写真を撮ろうと思っていたけれど…(12)_e0367501_15054351.jpg

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by dialogue2017 | 2018-09-15 16:00 | 写真とカメラの話し | Comments(0)