「才能」ということについて

一つ前のエントリー「涵養とか、薫陶とか、そういう言葉自体が消えかけているよな」にコメントを頂いた。その中に次のように記されていた。

ただ才能の面に関しては私的には写真においても少なからずウエイトがあるように思います。そこには作品のエネルギーを感じるか、同じ被写体を撮っても微妙な構図、バランス、人生観、価値観・・・

これは私が書いたこれは完全な私見であるが、写真に関しては『才能』の必要とされる度合いは小さいと思う」という文章に対しての「オブジェクション」だと思う。コメントをくれた方は「少なからずウエイトがあるように思います」と控えめな表現をしている。私自身も「『才能』の必要とされる度合いは小さいと思う」という書き方をしている。つまり、私は才能が無関係だと論じているわけでは無い。更に私は、「写真に関しては『才能』の必要とされる度合いは小さいと思う」と書いた次のパラグラフの冒頭で「もちろん、どんなことをやるにしても『才能』のあるなしは大きい」とも書いている。「少なからずウエイトがある」という表現と、「必要とされる度合いは小さい」では、ウエイトを置いている軸が足が異なる。しかし、両者の意見は対極的であると言うよりは、かなり近い捉え方の範囲内における"両極"に過ぎない。いや、両極では無い。私はどんなことをやるにしても才能のあるなしは大きいとはっきり書いているのであるから「少なからず」以上の評価である。

どんなことに取り組むのであれ「才能」の大小というモノが結果に与える影響は大きい。この際率直にに言ってしまうと、ほとんどのコトは「才能次第」だと思う。私は30数年間ほぼ全くテレビを見ない生活をしてきたが、近年子どもたちが見ているテレビを一緒に見ることが増えてきた。最近のテレビはほとんどの番組に「芸人」がでている。ワイドショーの司会者などにも芸人が少なくない。コメンテーターとしても芸人が沢山でている。私は「お笑い」の類いのことがあまり好きでは無い。いや、正直に言えば「馬鹿馬鹿しい」と思っている。しかし、最近テレビを見ていて思うことは「芸人」には「多才」な人がとても多いと言うことである。例えばスポーツをやらせてもかなりハイレベルの結果を出す人や、役者をやらせても一流の役者に遜色ない演技をする人が少なからずいる(芸人では無いが二宮和也はとても上手い俳優だと思う)。

我が国では「タレント」という言葉は「芸能人」ほどの意味で使われているが、誰もがご存じのように「talent」という英語の意味は「才能」である。芸能活動をする人間を「タレント」と呼ぶのは和製英語的な使用法であるが、かなり的を射た使い方だと思う。「タレント」の中には外見だけという人もいないでは無いが、かなりの比率で「才能」の持ち主が多いと思う。何をやらせても人並み以上というタイプの人間が結構いると思う(最近の芸人では春日俊彰などはその代表だろう。片岡鶴太郎なども実に多才な人だ。他にも枚挙に暇が無い。彼らの最大の「才能」は「努力できる」ことだと思う。後述のように、私は「努力は才能を超えない」論者であるが、春日君とかを見ていると「才能に勝る努力無し」だと思う)。

話が逸れてしまったが、様々なジャンルでトップレベルの実績を上げている人間の大多数は高い才能の持ち主である。私は30代後半の頃、20代30代の青年100人ほどの受講者を相手に毎週ある「講座」を行っていたが、そのテキストの中に「努力は才能を超えない」と書いたことがある。まことに身も蓋もない話である。才能が劣る人間がどんなに努力をしても才能のある人間を超えることは出来ないという意味である。もちろん、両者の「才能」開きの大きさと、両者の「努力」の量の差次第では、才能が低い者が才能の高いモノを超えると言うことはある。「才能」だけでトップに君臨できることは少ない。たとえばスポーツなどはどんなに「才能」が高くても「努力」をしなければトップレベルの実績を生み出すことは出来ない。多くの場合、スポーツの世界でナンバーワンになる選手は、一番練習熱心であるケースが多い。

「才能」と「努力」は対比的な概念として語られることが多いが、実際にはかなり同じようなものである。「努力できる」と言うこと自体が半ば以上「持って生まれた才能」であると言って良いからだ。「努力」できるというのは「才能」なのだ。

戦後民主主義(教育)の中では「平等」ということが最も重要な価値とされてきた。そのことの問題点についてはここでは論じない。ただひとつはっきりしていることは、「才能」はすべての人間に平等に与えられているものでは無いと言うことだ。誰もが、アインシュタインになれるわけでは無い。どんなに努力をしても誰もがモーツァルトになれるわけでは無い。もっと「身近」な名前を挙げてもいい。プロ野球の選手になるような人間は普通の人に比べたら野球に対する豊かな才能の持ち主だろう。しかし、彼らがどんなに練習をしたからと言って誰もがイチローになれるわけでは無いし、大谷翔平になれるわけでは無い。15歳で七段に昇格した藤井聡太君のような人間は60年に一人の「才能」の持ち主である。

人間が行うすべてのことにはその人の「才能」が関係する。しかも、実(まこと)に身も蓋もない話であるが、ある種の才能が高い人間というのは、何をやっても上手だという面がある。だから「一芸に秀でる者多芸に秀でる」という言葉が生まれたのだ。上に書いた「芸人」「タレント」などもその類いの人々と言って良い。

表現活動では表現者の「才能」が強く問われる。どれだけの作品を作り出すことが出来るかの最も根幹的な要素は「才能」だと思う。実は、私は「結局写真なんて才能なんだよ」という話を二三日前に書いているのだ。16日のエントリー「閑話(65)」に書いたことは事実上そういう内容である。では、一つ前のエントリー「涵養とか、薫陶とか、そういう言葉自体が消えかけているよな」には本音と反対のことを書いたのか? 

そうではない。人間の行うあらゆる活動の結果は表現者の「才能」に大きく左右される。その上で、私見では他の芸術活動に比べ「写真に関しては『才能』の必要とされる度合いは小さいと思う」と言ったのである。「写真」という表現物の善し悪しに表現者の「才能」が大きく関与することは言わずもがなである。それは、人間の表現行為のすべてに言えることである。その上で、私に言わせると「写真創作」というのは、少なくとも「作曲」とか「絵画を描く」と言うことに比べ、「才能」が問われる部分は少ない」と思うと書いたのだ。私は才能が「少なからぬウエイト」を持つことを認めているのである。いや、本音としては「結局は才能だよな〜」と思っている。

その上での話である。例えば、ピカソであるとかゴッホであるとかモネの絵を前にして「私でも描けるよ」と言える人はほとんどいないだろう。例えば、モーツァルトやバッハの音楽を聴いて「私だって作れるよ」とは夢にも思えないだろう。例えば、ゲーテやシェイクスピアを読んで「俺にも書けるよ」なんてとても思えないだろう。しかし、率直に言うが「巨匠」と言われる写真家の作品を見たとき「自分だって撮れないことは無い」と思える。なぜなら、(コマーシャルフォトのような「特殊」な撮影を別にして語るが)例えば風景写真であるとかスナップ写真というのは「特別な技術」で撮影しているわけでは無いからだ。その写真を撮るのに「特別な技術」が不要であるならば、それと同じような写真を撮ることは誰にでも可能である(少なくとも十分な可能性がある)。大多数の写真ってそういうモノだと思う(少なくとも技術的には)。

高性能なデジタルカメラが出現したことによって、同じ場所に同じ時に同じカメラを持って並び立つコトが出来れば、誰もがプロの写真家と同じレベルの写真を撮ることが出来る時代になったのだ(もちろん、カメラと写真に関する基礎的な知識を十分に持っていると言うことを前提のにしての話であるが)。これは「私見」ではない。何人もの著名写真家が「今の時代、プロもアマも無い」とはっきり言っている。実際、下手くそなプロより上手いアマチュアはいくらでもいる。それは「理の当然」である。

私は何人もの著名写真家に同行して彼らが撮影しているところを見ているし、彼らが撮った写真をセレクトもレタッチもせず丸々撮りっぱなしのファイルで全部見ると言うことも沢山している(私の古いiMacやMacBookの中には何人もの写真家の撮りっぱなしファイルが沢山あるし、フィルムのスキャン画像などもある)。はっきり言って、彼らの撮影の仕方と自分の撮影の仕方に大きな違いは無いし、彼らが撮った写真の全部が全部「作品」として成り立つような写真であるわけではないということもこの目で見てよく知っている。もし、同じ時に同じ場所に同じカメラを持って立たせて貰えば、私は彼らとほぼ同じレベルの写真を撮る自信がある。もちろん、ちょっとしたノウハウとかテクニックのあるなしと言うことの違いがかなり大きいケースもある。例えばマクロレンズで撮る花の写真などというのは、かなり場数をこなしていないと簡単には上手には撮れないと言って良い。花の写真というのは難しいのだ(数日前某著名写真家が花の写真を撮って花写真の専門家からダメ出ししされていた。「俺花の写真は苦手なんだ」というプロ写真家は少なくない。花の写真というのは本当に難しいのだ。だから、作品として花の写真を撮っている写真家の多くは買ってきた切り花をライティングして撮っている)。

しかし、比較的多くの写真は特別な技術や手法を駆使して撮られているわけでは無い。彼らがやったことは被写体にレンズを向けてシャッターボタンを押しただけなのである。彼らが行った「選択」は大きく言えば二つしか無い。一つは、何を撮るかを決めたこと。もう一つはどういう露出で撮るかを決めたこと。絞ってしまえばこの二つしか無い。前者の「何を撮るか」を決めるに当たっては「センス」が大きく関与している。「才能」と言っても良いが「センス」と表現した方が適切だろう。良い被写体を見つける「センス」があるということは、良い写真を作り出せる「才能」があると言うことであるから、結果として両者は同じようなものであると考えて良いだろう。「センス」というのは「才能」の一つである。

さて、いつものことであるがすっかり長くなった。でも構わない。この文章はコメントを下さった方一人が読んでくれれば良いのだから。このブログは「一人の読者との対話」であるから。もっとも、最近は文章まで読んで下さる熱心な読者が何人もおられるが…

コメントを下さった方が書かれているように、写真においても「才能」は「少なからずウエイトがある」と言うのは間違いない。どんなことであれ、表現行為には「才能」が"大きく"関係する。「同じ被写体を撮っても微妙な構図、バランス、人生観、価値観・・・」の差が出ることは間違い無いだろう。いや、「微妙な構図、バランス」の違いは間違い無く出るし、その微妙な差が写真の見栄えを大きく変えるのも事実である。しかし、果たして写真に「人生観」や「価値観」まで出るかどうか私には疑問である。例えば、ある人の写真を100枚見たとして、私たちは作者の「人生観」や「価値観」を知ることが可能だろうか? 「人生観」とか「価値観」とか「世界観」という言葉をみな軽々しく使うが、そんなものは簡単には写真からは読み取れないと思う。多くの人が「人生観」とか「価値観」とか「世界観」という大仰な表現で言っていることは、「モノの感じ方」とか「モノの捉え方」と言った程度のことであると思う。

確かに、「モノの感じ方」とか「モノの捉え方」の違いは写真に出る。そして、ものごとをどう感じるか、どう捉えるか、ということは表現行為に当たっては「才能」という範疇に含まれる「能力」だと言って良い。だから、写真表現においても才能というモノが少なくないウエイトを持っているという指摘は正しい。しつこくて恐縮であるが、およそ人間が行うことのほとんどすべてのことには「才能」が関わっている。料理は言うに及ばず、掃除機のかけ方にだって、洗濯物の干し方にだって才能というモノがあると言っても決して間違いでは無い。

その上での話であるが、写真というのは80%までは「理論」で理解可能なものである勘違いしないで欲しいのは、80%を理解したからと言って良い写真が撮れると言うことでは無いと言うことだ。写真理論のレベルが同じ人間が100人いてもその人々が撮る写真の善し悪し(客観的な善し悪しなど無いが)は最終的には「才能」によって差が付くだろう。私が書いてきたことは、写真というモノを理解しようと思うのであれば、その80%までは「理論」を通じて理解可能だという簡単な事実についてである。

「理論」と言う分野を理論としては学ばなくても「感覚」的に「理解」してしまうというタイプの人間はいる(感覚だけでキッチリ理解しきれる人間はごく少数だろうが)。一方、理論をキッチリ全部理解しても、それを実践に反映させることが下手な人というのもいる。端的に言ってしまって前者の方が写真が上手い。写真に限らず前者の人間の方がだいたい何をやっても上手い。そういう人は「理論」など知らなくてもいいと言ってしまっても言い。しかし、それなりの評価を得ている写真家で通り一遍の写真理論を知らないと言う人はほとんどいないだろう(私が思いつくのは"梅かよ"ぐらいか)。「写真理論」と言ったってピンからキリまである。私だってテクノロジーレベルのことについてはほとんど知らない。「ザイデル収差について説明せよ」という課題を与えられても上手には答えられない。「デジタルカメラにおけるダイナミックレンジの幅と感度およびノイズの関係について論じよ」と出題されても、結論的な部分について書ける程度でしか無い

「理論」という言葉を持ち出されると「それだけではないんじゃない?」という言う受け止め方をする人が少なからずいる。特に女性の場合そういう人が多いだろう。女性は物事を「感性的」に把握する傾向性が高いからだ。子どもを育てるに当たっては、論理的であるより感性的である方が遙かに好都合であるから(子どもは感性的な存在であって論理性が無いから)、長い人類の歴史の中で女性は物事を感性的に捉える能力を発達させたのである。その分女性は「論理性」に欠ける部分がある(ほとんどの場合個体差は性差を上回るが)。

しかし、写真は80%程度までは「理論」的に理解可能である。なぜなら、ベースとなっている技術が「ケミカル」か「エレクトロニクス」であるかの違いはあるが、銀塩写真もデジタルフォトも「科学技術」によって成り立っているモノだからである。「センス」、つまり「微妙な構図」や「バランス」は持って生まれた「感性」に依る部分が大きいが(注1)、その面でさえある程度までは「論理」的に把握可能である。そういう「感性的」領域さえもが、ある程度以上「数値化」して「論理的」に分析することが出来る。なぜなら、写真となった段階で、撮影者の感性は「科学技術」の上に乗っかっているからである。写真表現を行うに当たっては、表現者は自らの感性を表現する手段として「科学技術」をベースにする以外に無い。表現者の「感性」は独立したモノとして存在するのでは無く「科学技術」を通じて表現されているのである(注2)それ故、写真というモノは80%程度までは論理的に理解可能なものなのである。もちろん、それですべてだと言うことでは無い。

(注1)多分、人間の「感性」は生得的な所与に依る部分が圧倒的に大きいと思う。後天的に、つまり生育環境からの影響によって形成される面は生得的な部分よりかなり小さいと思う。この点に関しては一卵性双生児の研究が証明している。つまり、人間の「能力」に関してはDNAの力が決定的に大きいということである。

(注2)この点で、写真と絵画は決定的に異なる。写真は科学技術に依存するが、絵画の場合科学技術への異存無しに表現が可能である。その分極めて直接的に表現者の能力が反映されると思う。

コメントを下さったJさん。感覚的には貴女が言っていることは正しい。身も蓋もない話になってしまうが、「才能」が貧しい人が理論を完璧にマスターしても、「この人下手だよな〜」という写真しか撮らない可能性が高い。理論なんて何も知らなくても、写真を撮り始めて直ぐに多くの人が「良い写真だよね〜」という写真を撮ることの出来る人もいる。表現行為において「才能」のあるなしというのは決定的なのだ。しかし、写真の場合、豊富な才能が無い人でも論理的なアプローチを徹底的にくり返せば、かなり高いレベルまでいけると思う。私が思うに、「原理原則」を「知らない」が故に今ひとつパッとしない写真表現をしている人というのがとても多いと思う(それが端的に表れるのが「白飛び」である)。彼らに欠けているのは「才能」でも「技術」でも無く、「正しい知識(理論)」である。彼らの中には、「原理原則」をきっちり守るだけで十分に「良い写真」を撮ることが出来る人が沢山いると思う。私は、彼らに向かって「長い写真表現の歴史の中で確立された原理原則をもうちょっとしっかり取り入れたら、貴方の写真はもっと素晴らしいものになるのに!」と声を掛けているのである。なんていい人だ!(爆)。

さて、もっと大きな「問題」がある。写真の良い悪いの「基準」という問題である。これは「才能」の問題のように一刀両断で語ることが出来る問題では無い。かなり大きな問題である。だから、今回は二つの「これが基準じゃ無いと思う」という「尺度」を上げておくだけでこの話は今後に持ち越すことにしたい。

まず最初の「これは基準じゃ無いぞ」は、写真ブログ仲間からの評価である。写真ブログをやっている人1000人から「いいね!」が届く写真だから素晴らしい写真だというわけでは無い。はっきり言ってしまうが、写真ブログをやっているほとんどの人々の写真鑑賞眼は低い。写真を見る眼が無い人から「いいね!」を貰うことに価値は無い。ほとんどの場合、互いに「良い気持ちになる」ことの応酬を行っているだけである。自分に来る「いいね!」の数は、単純に自分が他者に与えた「いいね!」の数に比例するという調査結果があるが、その程度のモノだ。「自己満足」は心地よいかもしれないが、人間を現状に止める。対して、厳しい批評は人を育てる。馴れ合うことが習い性になっている人間に真の表現活動など出来るはずが無い。本物の「表現者」というのは孤独でさえあるものだ。けだし、孤高であるが故に「天才」なのである。

世俗的な人格が生み出せる作品は世俗的なレベルのものでしかない。

二つ目の「これが基準じゃ無いぞ」であるが、既存の「写真業界」の「常識」である。カメラ雑誌、写真雑誌に書いてあるからとか、有名写真家が言っているからなんて言うことは基準とはならない。そういう意見の中には傾聴に値するモノもあるし、中には非常に的を射た見解もあるが、「一個人の思い入れ」以上のものでは無い程度の意見も多い。写真業界の外に身を置く私から見ると、写真業界の人間の考え方にはかなりの古くささがあるし、単なる個人的な(あるいは世代的な)思い入れのような意見があまりにも幅をきかせていると思う。残念なことに、写真業界には優れた「論客」がいない。あまりにも狭いサークルなのだ。個々の写真家の中には非常に良く物事が見えていて、自分の好き嫌いとは別に「写真の本質」や「写真のいま」を捉えて語っている人がいるが、かなりの数の写真家が自分の好みを基準にした思い入れ程度の「写真論」を語っているという残念な現実がある。若手の写真家には、耳を傾けるレベルの発信をしている人はほとんどいない。良くも悪くも、「写真論」と言えるレベルの発言をしているのは、団塊世代以上の写真家がほとんどである。かの世代は、最も情熱的で、最も「自由」であるが、最もドグマティックであり、もっとも独りよがりである。真に写真を語り得る者は、写真を超えた範疇の活動をしている人間の中からしか出てこないだろう。

追記。本稿を脱稿した後、同じ方から追記のコメントが届いていることを確認した。その件に関しても一言触れておきたいが、ここに追記することを避け、別のエントリーを立てて触れたいと思う。ただし、20日は終日外出している予定である上、外泊する可能性もあるのでその件については21日以降に論じることになると思う。


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by dialogue2017 | 2018-05-20 06:00 | Comments(0)