もう撮る必要も考える必要も無い あとは寝かせるだけだ

※このエントリーは5月1日の晩に書き、2日午前6時付けで予約投稿したものです。

昨日(1日)はまったくブログを更新する気になれなかった。それでも、沢山の方が訪問して下さったので、夜になって「PROVIAとASTIAとPRO Neg.Hiの僅かな差」という記事をでっち上げてアリバイ的な更新をした。あのエントリーはまさに「でっち上げ」であり「アリバイ」であった。あそこに掲載した写真は、PROVIAとASTIAとPRO Neg.Hiの差が極めて微少にしか出ない色合いとトーンの写真で、私自身の関心として「どの程度違うだろう?」と思って3つのシミュレーションでRaw現像をしてみただけの話であった。そうやって3枚の写真が「出来た」ので、それを使ってアリバイ的な更新をしたという次第である。

昨日朝目が覚めたとき、「本が読みたい」と思った。で、3年程前に購入したきり手を付けていなかったソビエト崩壊過程を克明に検証したアメリカ人ジャーナリストの本を読み始めた。今日は夕刻に東京を出て、いま「茅野の家」でこの文章を書いているのだが、家族が就寝した後、私は一人で本を読んでいる。今読んでいるのは、田中浩という学者の書いた『国家と個人』という書籍で、副題は「市民革命から現代まで」というもの。この本は、17世紀から現代までの歴史とその本質を探究した書籍であり、帯には「近代デモクラシー思想への再入門のために」と記されている。

著者は「政治思想史」を専門とする政治学者で、トマス・ホッブス、カール・シュミット、長谷川如是閑の研究者として知られている。私は、近現代史に大きな関心を抱いている割に、「近代デモクラシー思想」についてあまり学んでいない。この本を購入した直接的なきっかけは、2016年の8月から昨年の秋頃までのおよそ一年間、「天皇(制)問題」と「明治維新史」、そして「太平洋戦争史」を読み続けていたことにある。つまり、私は「近代国家」としての日本の明治・昭和史を「天皇」と「太平洋戦争」を中心として考察していたわけであるが、その過程で、そもそも「近代デモクラシーとはなんぞや?」という問題意識を強く抱いたのである。

私が、「天皇」「明治維新史」「太平洋戦争史」を読み始めたきっかけは、2016年8月8日に発せられた今上天皇の「お言葉」に触れたことであった。「お言葉」に接した翌日から、「天皇」関係の書籍を読み始め、必然的に「明治維新史」を合わせて読み込むこととなり、これまた当然の流れとして「太平洋戦争史」へと移っていった。何れも、「天皇」がその中心にあることは言わずもがなのことである。

明治維新史に関しては今までにもある程度は読んでいたが、今回は維新十傑を中心に、明治維新を担った人物の「伝記」なども読んだ。太平洋戦争史に関しても、何人かの軍人の伝記を読み込んだ。途中中だるみが2度ほどあったが、2016年の夏から2017年の秋にかけてのおよそ1年ちょっとの間、私は「天皇」「明治維新史」「太平洋戦争史」に関する本ばかりを読んで過ごした。そして、「疲れた」。

「疲れた」訳は、現今の日本国家と日本人が、根本的な部分において「明治日本(人)」や「太平洋戦争期の日本(人)」とほとんど何も変わっていないことをこれでもかと言うほど確認させられ続けたからである。今日の我が国は、「天皇制絶対国家」であった頃と本質的な部分で全く変わっていないし、日本人の気質も「天皇陛下万歳」と叫んで戦地に散っていったころの日本人とほとんど同じであると言うことに関しては、すでに10代の頃には承知していたことであるが、このたび、少なからぬ文献を読み込み、それを再確認したわけである。それは若かりし頃の認識より深く、私は小さくない「絶望感」を感ぜずにはいられなかった。

そう言ったわけで、昨年の10月頃の私は小さくない「絶望感」に捕らわれていた。そして、私は本から離れた。私の生活の中で最も多くの時間を占めているのは読書である。読書の次が「文筆」である。昨年10月、私はこの二つから離れた。当然のことながら、膨大な「閑」が生まれた。その「閑」を「消化」すべく選ばれた「課題」が「写真」であった。私が写真に「熱中」する時というのは、いつも「絶望感」に捕らわれて読書から「逃避」したときなのである。

私は昨年10月初旬、たいした考えも無しにこのエキサイトブログの「モノクロ写真ジャンル」に登録した。程なくして、『Mon's cafe』さんからコメントを頂き、その後彼と時々コメントのやりとりをするようになり、そのことがきっかけで私はモノクロ写真を撮るようになった。彼がフィルムでモノクロ写真を撮っている人で無ければ私はモノクロ写真を撮ろうなどとは思わなかっただろう。私がモノクロ写真を撮り始めた直接的なきっかけは、彼との交流の始まりにあった。

それ以前にもモノクロ写真は撮っていたし、数は少ないがモノクロフィルムで写真を撮った経験もある。しかし、それらの「モノクロ写真」は、デジタルカメラのモードを「モノクロ」にして撮ったと言うだけであり、また「モノクロフィルム」で写真を撮ったというだけのことであり、私自身の感覚としてはモノクロ写真を撮るべく撮ったというようなものでは無かった。いままでは「モノクロで撮った」だけであり、「モノクロを撮った」では無かったのである。

昨年10月頃からモノクロ写真を撮り始め、年末ぐらいまでに東京の都心などで5~6回であったかモノクロスナップを重ねた。これは、私が「モノクロ写真を撮るべく撮った」初めての経験である。その間、私はこのブログの中で、「モノクロ写真」について考えたことを書き綴った。それは、誰かに向かって語るという以上に、自分がその時に感じたり考えたことを文字に置き換えたかったから行ったことである。極論すれば、あの大量の「モノクロ写真論」は、私自身が読み返すために書いたのである。

人間というのは、自分が「感じている」ことや、「考えていること」についてはよく分かっていると思っているが、実際はあまり良く理解していないと言うのが真実である。例えば、「何故モノクロで撮るのか?」でもいいし、「何故フィルムで撮るのか?」でも良いので、1,000字程度で読んだ人間がよく分かるように理由を書いてみて欲しい。スラスラと、明確な理由を書ける人というのは思いの外少ないはずである。

自分自身のことなのに、何故、スラスラと書けないのか? それは、ほとんどの人間というのは物事をあまり深くは考えずに生きているからである。これは良いとか悪いの話しでは無く、ひとつの事実である。日々の生活にはやらねばならないことが沢山あるし(最も時間を割いているのは仕事だ)、仕事で疲れれば「ノンビリ」した時間が欲しくなる。敢えて言えば、人々には物事を深く考える時間など無いのである。だいたいが、物事を深く考えるというのは決まって「暇人」なのである。普通、学者でも無い限り、人間はそれほど深くものごとを考えないのが普通なのである。

人が、自分自身のことや、自分が夢中になっていることについてでさえ、スラスラと論旨が明確な文章を書けない理由は、自分自身や、自分が夢中になっていることについてあまり深く理解していないからである。なぜなら、物事を深く考えるためには「文章を書いてみる」必要があるからである。しかし、大多数の人間は文章など書かずに生活している(それで当たり前である)。

「思考」は「言語」を通じて行われる。「言語」無しには「思考」は行えない。そして、人間というのはよほどの達人でも無い限り、頭の中で「考える」だけで十分に物事を「言語化」することが出来ない。いや、達人であってさえ、頭の中でだけ考えるのと、「対象」について「文章化」するのでは天と地ほどの違いがある。何かについて、文書を書くというのはそれくらい「深い」ことなのである。

いま、私は上の行までの文章を一気に書いた。おそらく2,500字前後あるだろうと思う。なぜ文字数が分かるかというと、上の行まで書くのにだいたい30分程度を費やしたからである。私は、テンポ良く文章を書いているときにはだいたい1時間に5,000字前後の文章を書く。30分だとその半分なので2,500字ぐらいだろうと言うことである(追記。上のパラグラフまでの文字数を調べてみたら2,599文字であった)。

1時間で5,000字の文章を書ける人間は少ないだろう。私の場合、3歳の頃には「この子は将来日本一の弁護士になるだろう」と言われ、小学5年生の時には担任の教師が母親に「学校には理屈で息子さんに叶う教師は一人もいません」と嘆いたような「口達者」であり、30代の時には、弁護士の友人達から「お前くらい思考が早く、スラスラ文章書けたらこの仕事も楽になるだろうな〜」とうらやましがられた。私は、20代の中頃からずっと文章を書く生活を送ってきたので、1時間に5,000字程度の文章を書くのは「朝飯前」である。自分自身の感覚としては、こんな文章は居酒屋で酒を飲みながらおしゃべりをしているのとほとんど同じである。もうちょっと論理的な文章を書いても、似たようなものである。

私はいろいろなコトについて文章を書く。私にとって文章を書くというのは、当たり前の事である。それは、酒飲みが酒を飲むように。森山大道がシャッターボタンを押しまくるように(爆)。私は、日々の生活の時間の過半を「文字を読む」ことと「文字を書く」ことに費やして生きてきたのである。いや、経験より大きいのは生得的な資質だろう。たぶん、私の先祖に、私と同じようなタイプの人間が何人もいて、私はその人達のDNAを受け継いだと言うだけのことだ。

私が文章を書く理由は、文章を書かないと「思考」が深まらないからである。人は、文章を書くことを通じてしか、自分自身を理解することが出来ないと言っても過言では無い。嘘だと思ったら、なにか一つ「テーマ」を決めて、まず3万字の文書を書いてみて欲しい。やってみれば、「自分が思っていること」や「感じていること」さえ上手く書くことが出来ないことに気がつくだろう。文章を書くことによって、自分が「何を分かっていて」「何を分かっていないか」が初めて分かるのである。物事の掘り下げは、その後にようやく始まるのである。

私がモノクロ写真に付いての話を何度も何度も書き続けた理由は、私自身が「モノクロ写真ってなんだ?」ということについて深く考えてみたかったからである。でも、もっと大きな本当の理由は、「読書」を止めて出来た「膨大」な暇な時間を潰すためだろう。私は「文字を読む」ことを止めてできた「隙間」を「文字を書く」ことによって埋め合わせてきたのである。

昨年の10月から先月末までの7ヶ月間、私はほとんど本を読まずに過ごした(全く読んでいないわけでは無いが)。これだけ長い間本を読まずに過ごしたというのはここ十年ほどでは今回が初めてのことである。私は、少ない月で20冊、多い月だと50冊ほど本を読む生活を続けてきたのである。この7ヶ月間は、それに費やすはずであった時間の多くを、「写真を撮る」ことと「写真についての文章を書く」ことに費やした。そして、今度は「写真について語ること」に「疲れた」。その結果、昨日(1日)の朝、私は「本が読みたい」と感じて、ソビエト崩壊史を読み始め、今晩は「近代デモクラシー思想」についての本を読んでいた。

読んでいて面白かった。自分本来の感覚がかなり戻ってきていることが分かった。GW中は家族と過ごすので本を読む時間はほとんど無いが、GWが明けたら私は本を読む生活に戻っていくだろう。読み始めたら、半年は本を読むことに「熱中」するだろう。私はだいたいなんでも「半年」は「熱中」する。しかし、半年を過ぎると、一旦そこから離れて別のことをしたくなる。半年に煮詰めすぎて「疲れる」のである。

さて、そろそろ4,000字を超える頃である。これ以上書き続けると、あっという間に10,000字を超えてしまうだろう。5,000字あたりまでは「平常心」で書けるのだが、5,000字を超えると段々「加速度」が付いてくるのである。「アドレナリン」が出てくるからである。そうなると、2万字3万字は軽い。1万字を超えたあたりからは「ライターズハイ」に成るからだ。「ランナーズハイ」と同じ現象である。

もう、ここまでだって読んでいる人は数人だろう(本当はもっと沢山いることを知っている・笑)。その人々にこれ以上どうでもよい話を読ませるのは失礼なので今晩はこのあたりで終わりにしようと思う。ここでストップしないと止まらなくなるから(笑)。

最後にモノクロ写真に付いて一言だけ。私はまだ一度も本気でモノクロ写真を撮っていない。その理由は、「作品」を撮りたいと思っていないからである。「作品」でもないのに本気で撮る必要は無い。本気で撮る理由が何も無い。本気で撮るのは面倒である。しかし、昨年の10月にはまったく分からなかった「モノクロ写真」というものが、いまではかなり分かった。いまだに「作品」を撮りたいという気持ちにはなっていないが、せっかく「分かってきた」のだから、どこかで一度本気でモノクロ写真を撮ってみようとは考え始めている。

いやなに、別に特別なことじゃない。ただ、撮るものを選んで撮ると言うだけの話だ

結局、モノクロ写真というのは「撮るとき」で90%決まってしまうものだと言うことである。カラー写真にしたって本質的には同じことであるが、モノクロの場合その度合いは更に高いと思う。もし、素晴らしいモノクロ写真を撮ろうと思ったら、のべつ幕無しに撮ったところでしかたない。先日も書いたが、下手な鉄砲というのは数打ってもなかなか当たらないものなのである。当てようと思ったら、狙って打つしか無い。

でも、私はのべつ幕無しに撮っているのが好きなんだ。素晴らしい写真を撮ることより、毎日適当にシャッターボタンを押している方が楽しい。私は、撮っている時が楽しければそれでいいと思っている。だから、昨年12月に8〜9年ぶりに撮ったフィルムも現像に出さなかった。現像に出さなくてもどんな風に写っているかだいたい分かっているし、たいした写真なんて1枚もないことは分かっているから。私にとって重要なことは、本気になることではなく、「適当に」なのである。その方が楽しいから!

私は、ファインダーを覗いているのが好きなのである。特段素晴らしい写真では無くても、自分が見たモノが「画像」になることが楽しいのである。そして、それが「残る」ことが一番面白い。写真は、何年か後になって見るのが一番面白いと思うから。

そんな訳なので、まだしばらくの間は本気で撮ることは無いと思う。その前に、この間「理解」したことをもう少し煮詰めて自分の「腑に落とす」必要があるから。しかし、その為にこれ以上考える必要も撮る必要も無い。しばらく「放置」しておけば「腑に落ちる」だろう。必要なのは「発酵」させる時間だけである。そう、しばらく放っておけば「収まってくる」のである(笑)。



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by dialogue2017 | 2018-05-03 06:00 | 写真論 | Comments(0)