「ファン申請」について

「ファン申請」については2度アナウンスをした。一度目は昨年12月24日の「ファン申請について」。二度目は今年1月5日の「ファン申請とこのブログの『今後』について」。その後も数件のファン申請を頂いているが、いずれも条件を満たしていないため「承諾」していない。

このブログは、その時その時に思いつくままのことを書き綴った「暇つぶしブログ」であり、ご覧頂くに当たって条件を付けるというのは「ケチ臭い」話であるが、私自身は昨年末で完全に閉鎖してしまいたかった。理由は、アマチュア写真愛好家と交流することを辞めたいからである。しかし、何人かの熱心な読者から「過去ログをコツコツと読んでいるのでしばらく閉鎖せず残しておいて欲しい」という要望を頂いたので、閉鎖することを先送りし、それらの方々にのみ「閲覧」していただけるようほぼ全ての記事を「ファン限定公開」に切り替えた。

このブログの「ファン限定公開」記事を閲覧頂くためには「ファン申請」をして頂く必要があり、ファンとして承諾する条件として以下の3点を2度に渡ってアナウンスした。

(1)(申請者に)2018年12月21日以前に開設されたブログがあり、そこに10枚以上の写真が掲載されていること。
(2)(申請者の)年齢は50歳以下であること。
(3)どんなに短文でも良いので、週に1度コメントを入れてくれること。

(1)と(2)に関しては、条件を満たしていない方からの申請があったが、丁寧で心のこもったファン申請であったため例外として2人の方を承諾した。しかし、(3)は譲ることのできない条件である。この件については「ファン申請について」の中で次のように記した。

私は人間同士の交流には「対話」が不可欠だと思っている。「いいね!」を付けて交流とするような現代青年の「軽さ」が私は好きになれない。このブログのタイトルは『一人の読者との対話』である。「対話」ができない人とは交流するつもりはない。それ故、最低週に一度はどんな内容でも良いし、短文でも構わないのでコメントを記入してくれることを条件としたい。

この件についてはこれ以上何も言うつもりは無い。「読んで字のごとし」である。



# by dialogue2017 | 2019-01-16 13:00 | Comments(2)

Facebookを開いたら上から二番目に写真家の内田ユキオさんの投稿があった。そこには短く「今回のパートナーであるロベルトさんの記事です。ナイス。ぼくも何かエコーを返そうかな」と記され安達ロベルトさんが「note」に書いた記事へのリンクが張られていた。早速読んだ。それほど長い文章ではないので全文を引用する。

これだけすごい数の写真がネットにアップされる現代に、「まだ見ぬ写真」を撮ることは可能なのでしょうか?

結論から言うと、「可能」だと思います。

そして、そのためのキーワードは、「体験」なのではないかと個人的に思っています。

写真はずっと、「個人の体験」を視覚的に見せるのに適した媒体でした。家族で行った海で記念写真を撮ったり、旅先で親切にしてくれた人と一緒に写ったり。

でも、デジタルカメラが普及してからしばらくの間、みんなが「いい写真」を撮ろうと必死になりました。カメラ雑誌でもなんでも「いい写真」「いい風景」「いい瞬間」を撮ることを目標にする流れがあったように感じます。それらは技術的にある程度教えることができますからね。

ところが、「いい写真」には、撮り手の「視点」は写っていても、「体験」が写っていないことがある。写っていなくても成立するんです。

私はここで、「カメラ=個人の体験を写すのに適した道具」ということを再認識しようと思っています。「いい絵」を描くための道具では必ずしもなくて。

たぶん、撮り尽くされているのは「いい写真」のほう。フォトジェニックな写真、黄金律の構図で撮るのは、もうみんなやっている。

まだ見ていないのは、あなたの私の、彼の彼女の、すごくパーソナルで、誰もしたことのない体験、その記録なんだと思うのです。

フィクション、ノンフィクションにかかわらず、その体験がユニークであればあるほど、我々はハッとするんじゃないでしょうか。

安達ロベルト

やはりみな同じことを考えているのだなと思った。安達さんが書いていることは渡部さとるさんが語った「写真が写真である写真」に通じることである。二人は全く同じことを語っているわけではないが、その"核”となっている考え方においてはほぼ同じであると言って良い。渡部さんが書いた「写真が写真である写真」というのは「『いい写真』『いい風景』『いい瞬間』を撮ることを目標に」した写真とは対極にある写真と言うことである。そして、安達さんと渡部さんが言っていることは、私が8年程前から繰り返し自分のブログの中に書いてきた話と同じである。

ここで渡部さとるさんが語った「写真が写真である写真」とはどういう意味なのかについて触れると話が長くなるので渡部さんの件は棚上げし、ここでは上に引用した安達さんの書いた話についてのみ取り上げることにする。※渡部さんの件については近日中に改めて書く。

私は「スナップなんて陳腐なものである」と言い続けてきた。"昨日も書いた"ばかりである。私は昨年10月31日に書いた「『本気で撮ってみよう』と思うに至った理由など(8)」(現在ファン限定公開)の中に次のように書いた。

私が一度として「作品」を撮ろうと思わなかった最大の理由は、何をどう撮ったところで、すでに撮り尽くされているからである。すでに誰かが同じようなモノを同じようなやり方で撮ってしまっている。人類はすでに写真を撮り尽くしてしまっていると思う。だから、そのうえ自分が「作品」を撮ることになんの価値も感じなかったのである。

安達さんがこれだけすごい数の写真がネットにアップされる現代に、『まだ見ぬ写真』を撮ることは可能なのでしょうか?」と問題を立てたわけは、言うまでもなく「写真はすでに撮り尽くされてしまっているのではないか?」という疑問を前提としている。安達さんは「まだ見ぬ写真」を撮ることは「可能」だと回答し、そのための「よりどころ」(安達さんは「キーワード」と表現している)は「体験」にあると語っている。

安達さんは次のように書いているーーぶん、撮り尽くされているのは『いい写真』のほう。フォトジェニックな写真、黄金律の構図で撮るのは、もうみんなやっている」。その通りだと思う。私は4日前に書いた「意味の無い写真(4)」の中で、アマチュア写真愛好家の過半は、『美しい写真』を撮りたいと思っている。なぜなら、そういう写真に憧れているからである」と書いた。私が使った「美しい写真」という言葉は安達さんが使った「いい写真」と同じ意味合いである。安達さんが指摘しているようにそういう写真(「美しい写真」「いい写真」)はもう撮り尽くされている。なぜなら、多くの人がそういう写真に憧れを抱いて「猿真似」して撮っているからである。

ついでに触れておく。私は一昨日書いた「α7 + Carl Zeiss Distagon2/28 T* (11)」の中に次のように記したーー「『構図』の話をする人がいる。その人は間違い無く初心者である。ハイレベルなフォトグラファーは「構図」なんて考えていない」と。「構図」なんていうことに「拘っている」のは初心者なのである。それは既成の「構図理論」を「よすが」としないと写真が撮れないレベルであると言うことに他ならない。そして、「黄金律の構図で撮るのは、もうみんなやっている」(安達)ことでありそういう写真は「撮り尽くされている」(安達)のである。つまり、そういう写真(「構図」を作って撮った写真)は「陳腐な写真」だということである。

「写真は引き算」だとか「黄金比」だとか「分割構図」などと言うことを考えるのは”ど素人”なのである。そもそもそんなものは、"ど素人”を教えるための「方便」でしかない。理解力の低い人間にものを教える際には「単純な話し」をすることがもっとも効果的だからそういう教え方がされていると言うだけの話である。構図に決まりなんてない。プロは当然として、アマチュアだって中級者になれば頭の中で「構図」を考えたりはしない。それぞれが自分固有の「間合い」を確立しているので、被写体の前に立つとほとんど何も考えなくても「すっ」とカメラを構えることができるようになっているからだ。私は何人もの著名プロカメラマンの撮影に立ち会っているが、彼らはみなカメラを構えるとサッと撮影する。「構図」を考えてから撮るようなカメラマンを見たことがない。

寧ろ全く反対なのである。渡部さんが今回の展示コンセプトの中で語ったことも、安達さんが言っていることも、「作画」した写真はもう「撮り尽くされている」と言うことなのである。多くのトッププロフォトグラファーや著名作家はそういう風に考えているだろう。追記。この件に関しては近日中に書く渡部さんの考える「写真が写真である写真」とはなにかというエントリーの中で詳述する予定である。

さて、安達さんが書いた「写真はずっと、『個人の体験』を視覚的に見せるのに適した媒体でした。家族で行った海で記念写真を撮ったり、旅先で親切にしてくれた人と一緒に写ったり」という指摘は極めて”本質的”で重要なことである。その後に続く文章の中ですごくパーソナルで、誰もしたことのない体験こそが「まだ見ぬ写真」の源泉だと彼は指摘しているがこのことこそ、私が写真を撮り始めた直後から思っていたことであり、この8年間自分のブログに書き続けてきたことである。


パーソナルな写真の中にこそ写真の「真価」が現れる。

私はそう言い続けてきた。


このことについては、昨年12月19日に書いた「もう一度問う。私はなんのために、誰のために写真を撮るのか?」の中でかなり突っ込んで持論を披瀝した。本文が7,816文字ある長文であるので読んだ人など数人しかいないであろうし、読んだ人間の中にトコトン深く読み込んだ人間が1人でもいたか疑問である。しかし、私はそこではっきりと次のように書いている。

「プライベートな写真」がもつ”強い訴求力”は、「撮り手」と「モデル」双方の「本質」がそこに反映されているからである。

安達ロベルトさんは私が大好きな写真家である。私は上に紹介した彼の書いた文章(それは今日の8:55にアップされたばかり)を読んで、深く同感した。「ああ、安達さんも同じことを考えているんだな」と思った。もう一度安達さんの文章を途中から引用する。じっくりと噛みしめて読んで欲しい。

写真はずっと、「個人の体験」を視覚的に見せるのに適した媒体でした家族で行った海で記念写真を撮ったり、旅先で親切にしてくれた人と一緒に写ったり。

でも、デジタルカメラが普及してからしばらくの間、みんなが「いい写真」を撮ろうと必死になりました。カメラ雑誌でもなんでも「いい写真」「いい風景」「いい瞬間」を撮ることを目標にする流れがあったように感じます。それらは技術的にある程度教えることができますからね。

ところが、「いい写真」には、撮り手の「視点」は写っていても、「体験」が写っていないことがある。写っていなくても成立するんです。

私はここで、「カメラ=個人の体験を写すのに適した道具」ということを再認識しようと思っています。「いい絵」を描くための道具では必ずしもなくて。

たぶん、撮り尽くされているのは「いい写真」のほう。フォトジェニックな写真、黄金律の構図で撮るのは、もうみんなやっている。

まだ見ていないのは、あなたの私の、彼の彼女の、すごくパーソナルで、誰もしたことのない体験、その記録なんだと思うのです。

フィクション、ノンフィクションにかかわらず、その体験がユニークであればあるほど、我々はハッとするんじゃないでしょうか。

私が、既成のフォトグラファーが撮っているような「女性ポートレート」を超えた写真を撮る自信があると断言した根拠は、彼らが撮る写真には「ハッ」とする要素が無いからである。それは、「彼の彼女の、すごくパーソナルで、誰もしたことのない体験、その記録」からしか生み出し得ないものだと言うことを私が知っているからである。

私は、「世俗」というものに完全に背を向けて生きてきた。率直に言うが、私は「世俗」的であることを見下している。だから、私の人生は極めて「ユニークな体験」である。「普通の人」が経験しないようなことばかりをしてきた人生である。そして今なお、私は「ユニークであればあるほど」「ハッと」して楽しい人生を生きることができると信じて疑っていない。

私は、「彼女、の凄くパーソナルな」「ハッとする」表情を「記録」するつもりである。それは間違い無く、多くの人々を「ハッと」させる「まだ見ぬ写真」となるであろう。


# by dialogue2017 | 2019-01-10 12:30 | 写真とカメラの話し | Comments(1)

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# by dialogue2017 | 2019-01-09 15:00 | スナップ

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# by dialogue2017 | 2019-01-09 12:00 | スナップ

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# by dialogue2017 | 2019-01-08 22:30 | スナップ

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