千葉桜洋写真展『指先の羅針盤』、大阪ニコンサロンにて本日開幕。詳細はこちらを→『指先の羅針盤』

心に染みいる静謐で美しいモノクロプリント。本物の写真を見て欲しい。

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大阪ニコンサロン 2018年6月21日(木) 〜 2018年6月27日(水) 日曜休館 ※最終日は15時まで

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# by dialogue2017 | 2018-06-21 12:30 | お知らせ | Comments(0)

千葉桜洋さんの「展示」は息子さんを撮った写真を中心にしたものだった。展示会場に入って、4面の壁一杯に並べられた47枚の写真を私は息をのむようにして順番に見ていった。その時、私はなにか言葉で表現できるような感情を全く抱かなかった。ただ、美しいと思った。そして、初めて見るタイプの写真だと思った。「衝撃的」だったと言っても良いが、それはとても「静謐」さに包まれた「衝撃」だった。「衝撃」という言葉には「激しく」という意味が孕まれている。確かに、千葉桜洋さんの写真は私の心を「激しく」揺さぶった。しかし、私の気持ちは水を打ったように静かになった。

千葉桜さんは自分の写真について「静かで豊かな光景」と語っている。千葉桜さんの師匠である渡部さとるさんは、「静かなモノクロプリントが並んで」いたと書いている。千葉桜さんの写真を見ているとき、私はそんなことは忘れていた。いや、私は渡部さんのブログの文章や、写真展の「展示内容」については斜め読みしただけだったので、そこに書かれていたことは全く頭の中には入っていなかった。それらの言葉は、写真展から帰ってきた後このブログに感想を記す際に読み直して「ああ、こんな風に書かれていたのか」と事後的に認識した。しかし、私は、千葉桜さんの展示写真を見ているとき、自分の心がいつに無いほど「静か」になっていることを感じた。彼の写真は見る人間の心を「静か」にさせる写真なのだと思う。

私は、作者が「耳の聞こえない人」であることも、写真に写っている作者の息子さんが「自閉症者」であることも、ほとんど意識せずただ写真を眺めていた。それは間違い無く「家族」を撮った写真なのに、私のイメージにあった「家族写真」とは別のカテゴリーの写真に感じられた。いや、カテゴリーと言うことを感じさせない写真だった。そこにあったのは静かで美しい写真だった。

彼の写真は見る人の心に訴える強い力を持っている。そうである理由は、「大きな思い」が込められて撮られた写真だからだろうと思う。私が、とても素晴らしいと思ったことは、息子さんに対する「愛情」がベタベタしたモノに感じられない写真だったことだ。父親の「息子」に対する愛は、「距離感」を持ったものであるべきだと思う。

機会を作って、もう一度彼の写真に付いて語ってみたい。「本物」ってすばらしいよ。


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# by dialogue2017 | 2018-05-31 23:59 | 写真論 | Comments(0)

5月8日に書いたエントリーのタイトルは「遅くとも今月いっぱいでこのブログを終わりにしようと思っています」であった。今日が、その「今月いっぱい」の期限である。今日で終わりにすることになんの躊躇いも無い。このブログの更新を止めたら、とりあえず落ち着いた気持ちになるだろうと思う。いや、このブログを続けていることで気持ちの落ち着きが失われているというわけでは無いが、止めたらいまよりもっと落ち着いた気持ちになるだろうと思うのである。写真についてあれこれと語ることから解放されたら、気持ちが爽やかになるような気がする。

今日は、千葉桜洋さんの写真展『指先の羅針盤』を見て感じたことの続きを書きたいと思っていた。しかし、とりあえず止めておこうという気分に変わった。ああいう話を書いたところで、ほとんど誰にも「伝わらない」だろうから。ああいう話は、「本物の写真」を撮りたいと想っている人、「本物の写真」を見たいと想っている人以外には理解できないからである。

「本物の写真」ってなんだろう? 写真機を使って撮影した写真はすべて「本物の写真」である。写真機を使って撮った写真に「偽物の写真」などないと思う。ただ、アートフィルターを使って撮った写真だとか、何枚ものレイヤーを重ねて仕上げた写真はなんとなく「本物の写真」じゃないような気がする。

いずれにしろ、客観的な定義としての「本物の写真」などというものは無い。にもかかわらず、私が当たり前のように「本物の写真」という言葉を使う理由は、千葉桜洋さんの写真を見て「ああ、こういう写真が本物の写真なんだよな」と思ったからである。「こういう写真が本物の写真だ」という思いをこれほど強く感じたことは初めてであった。そして、私は「本物の写真」というのは本当に素晴らしいと思った。で、なんとかその気持ちを伝えたくて「千葉桜洋写真展『指先の羅針盤』を見てきた」(1)(2)を書いた。頭の中で整理することをせず、筆(指)に任せて書いた文章なので伝えたいことをあまり上手に伝えることが出来なかった気がしている。で、今日は補足として(3)を書こうと思っていたのだ。

しかし、とりあえず(3)を書くのは止めた。書いたところで、誰にも私の思いは伝わらないだろうから。

写真に限らず、「本物」を求めている人というのは少ない。ほんの一握りの人しか「本物」を求めていない。

世界には「偽物」が溢れている。我々の身の回りに大量に溢れている「モノ」や「情報」の多くは「偽物」である。いや、「偽物」とまで言わないにしても、「本物」は少ない。

私は、写真に関して何かを語ることについてたえず「空虚」さを感じていた。いや、写真に限らず、「何かを語る」ということに対して私は「無意味さ」を感じ続けていた。

私は「何かを語る」人間である。私はそういう人間としてこの世に生を受けた。私は「言葉」を巧みに操る才能を与えられて生まれてきた。だから、何かを語り続けてきた。私が語ってきたことは「人間と社会」に関することであった。しかし、いつのころからか、語ることに無意味さを感じるようになり、2015年春に「もう語るのは止めよう」と思った。その年の元旦から、「人間と社会」について語るブログを始め、5月末までの5ヶ月間に私は70万字を超える文章をそのブログに書いた(その5ヶ月間に私は250冊の学術書を読み、読んだ話についてブログに書いた)。熱心な読者が少なからずいたのだが、彼らは「読者」であるところに止まり続け、「対話」には発展しなかった。で、私は語ることを止めた。

しかし、私は「何かを語る」ために生まれてきたような人間であるから、言葉を発することを止めることが出来ない。私にとって「何かを語る」というのは呼吸をすることに近いのである。で、「ごまかし」として写真に付いて語るようになった。いや、誤魔化しであると言うのも事実であるが、100%誤魔化しだという訳でも無い。カメラや写真に付いて「語る」ことを楽しいと思うのは嘘の無い事であるから。しかし、本当に語りたいことは写真に付いての話では無い。例えば、「小さな」話題としてなら、「我が国のこれから」について語りたいと思う。私が本当に語りたいことはそういう話についてである。

誰も「本物」を求めていない。みな、「偽物」で満足している。本物のイミテーションで満足している。それはそうだ。「本物」を求めると言うことは大変なことだから。「本物」を求めるためには「強い意志」が必要だ。常に「高見」を求め続ける強い「向上心」が必要だ。いまの自分を否定し、理想である自分を目指す「克己心」が必要だ。そんなモノを持っている人というのはごく僅かしかいない。だから、私は「本物」を求めようとしていない人を批難しようとは思わない。そういう「能力」を持って生まれてこなかったのだから仕方ない。

経済的に困窮すること無く、そこそこ幸せに生きている人間が求めるモノは「ちょっとした満足感」である。何によってその「満足感」を得るかは十人十色、百人百様である。ある人にとっては「ゴルフ」であり、別のある人にとっては「車」であり、また別のある人にとっては「海外旅行」であり、その対象は無限にある。ただ、トコトン本気にならないというのが大事なことだ。トコトン本気になると疲れるし、生活に支障が出る。トコトン本気になって一番困ることは、自分の「非才」を嫌と言うほど知らされることだ。だから、人々は絶対にトコトン本気になろうとしない。欲しいものは「本物の満足感」ではないのだ。そう、「ちょっとした満足感」で十分なのだ。それで「幸せ」になれるのだから。

「写真」を撮っている人の大多数は、「ちょっとした満足感」を得るために写真を撮っている。彼らが撮った写真にはっきりと「ちょっとした満足感」と書いてある。別にそれがいけないことだとは全く思っていない。私だって同じである。私も「ちょっとした満足感」を満たすために写真を撮っているのだから。ただ、私の場合は結果としての「写真」ではなく、「撮っているその時」に満足感を求めているのであるが。

そもそも、人間は「ちょっとした満足感」のために生きる存在なのだと思う。だって、「ちょっとした満足感」以上のものを追求するためには、大きな才能と、強い向上心が必要だから。そんな"才能”を「与えられた」人間は一握りしかいない。だから、99.9%の人間は「ちょっとした満足感」に「喜び」を感じて生きるしか無い。批判されようと、笑われようと、「その可能性がゼロでない限り、そしてワールドカップに出場する限り僕は優勝を目指してたたかう」なんて言うことを100%本気で口に出来る奴は1万人に一人だっていないのだ。

私は「ちょっとした満足感」を求めることを些かも否定していない。99%の人間にとってそれは「宿命」なのだから。私だって「ちょっとした満足感」を求めて日々を暮らしている。ただ、「ちょっとした満足感」が「自足的」であれば違和感を覚えないのだけれど、互いに「ちょっとした満足感」を補い合うことが表面だって行われているのを見ると「なんだかな〜」と感じずにはいられない。数日前、いろいろな方のブログのコメント欄をちょこっと覗いて見たのだが、まあ、よくもこれだけベタベタと褒め合うモノだな〜と感心する。みんな、そんなにまで褒められたいんだな〜。でも、そりゃそうだよね。誰かに褒められたいというのは人間の「本質」に根ざす感情だし、誰にも褒められずに「自足的」に自分に満足できるためには大きな才能を持っていなければならないのだから。人間はちょっとでいいから誰かに褒めて貰いたいという「性」を持った存在なのだ。仕方ない。

誰も悪くない。そういう「世界」に足を踏み入れた自分が悪いのだ。

でも、「本物」って別にそれほど「巨大」なものであるとは限らないし、特別な才能を持った人間以外には追求することが出来ないモノでも無いと思う。おかしな言い方になるけれど、一人一人が「小さな本物」を求めると言うことは難しいことでは無いし、それをやっている人というのはそんなに少ないわけでは無い。例えば「写真」だって、自分なりの「本物」を求めて撮り続けている人、「焼き続けて」いる人は少なからずいる。

思わず「焼き続けている人」と書いてしまったが、「本物の写真」を求めている人はモノクロゼラチンシルバープリントで「作品」を作っている人に多い。もちろんデジタルカラープリントで「本物の写真」を求めている人もいるけれど、圧倒的にモノクロゼラチンシルバープリントを焼いている人に多い。当たり前である。「本物」というものは、多くの場合、「手間」が掛かるプロセスを経て生まれるモノだからである。

モノクロゼラチンシルバープリントをやることが「凄い事」だなんて私は思っていない。私はデジタルの方が「優れている」と思っているから。この話は止めておこう(笑)。

まあ、結局99%の人間には「ちょっとした満足感」で十分なのだから、それで良いと思う。少なくとも、誰かがそれに文句を言うというのは筋違いだ。だから私も文句を言っているわけでは無い。ただ、そろそろそういう「場所」からは立ち去るべきだと思っていると言うだけの話である。

デジカメでだけ写真を撮っている人、主にカラー写真を撮っている人、人生の残り時間が少ない高齢者、そして女性(笑)はとりあえず「本物の写真」なんて求める必要は無いと思う。ただ、いまどき高いお金を払ってフィルムを買って写真を撮っている人、なかんずくブローニーフィルムで撮っている人、モノクロ写真に拘っている人、自分で銀塩プリントを焼いている人には一言だけ言いたい。

なんでもう少し本気でやらないの? 

金と暇と手間を掛けて、本物を求めないなんて馬鹿馬鹿しい話だ。「ちょっとした満足感」で十分であるなら、私みたいにデジカメでつまらない写真を撮っていれば十分だよ(爆)。

フィルムでモノクロ写真を撮っている人々に、『指先の羅針盤』を見せたかった。


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# by dialogue2017 | 2018-05-31 12:00 | 閑話 | Comments(8)

私がこれまでに見た写真展の中で一番素晴らしい展示であったと思う。

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私は渡部さとるさんのブログを読んで千葉桜さんの写真展のことを知ったのであるが、渡部さんは25日に展示会場で千葉桜さんとトークショーを行っている。ブログの中で、その時に自分が語ったことを書いているのだが、渡部さんは次のように語ったそうである。

「耳の聞こえない人が撮った自閉症の息子さんの写真というフィルターで見ないでくださいね。そういったバイアスは写真を見るときにじゃまになります。作者の意図なんてわからなくていいんですよ」

私は、渡部さんのこの「助言」自体は肯定的に受け止める。その通りだと思う。写真を見る際には、写真そのものを観るべきであると言うのが私の考え方である。その点については、私は渡部さんより徹底している。渡部さんは「ステートメント」の必要性をかなり高く認めているが、私は否定しないまでもステートメントはあっても無くても良いと考えている。私の方が渡部さん以上に「写真を見るときには写真そのものを観るべき」だという考えに対して徹底性を持っている。

この「問題」については、昨年末、Faebookで数人の友人と論じ合ったことがある。渡部さんは加わっていない場での「論議」であったが、私はステートメント不要論者の最右翼であった。「いる」「いらない」「どちらでもいい」「ケースバイケース」という意見が出たのであるが、私は「否定はしないが、写真は写真そのもので語るべきものだと思う」という意見を出した。それに対して、写真家の中藤毅彦さんが「私はHさんの言っていることがすべてだと思います」と私の考えに全面的に同意され、その論議は収束した。

であるから、私は渡部さんが指摘した作者の立場(事情)という「フィルター」を通して写真を見ないで欲しい、「作者の意図なんてわからなくていいんですよ」と言う意見については肯定的に受け止める。しかし、私自身は「耳の聞こえない人が撮った自閉症の息子さんの写真」というものはどういう写真なのかこそが観たかった。私は、それを「フィルターを通して観る」行為だとは全く思っていない。事実として、作者の千葉桜洋さんは「耳の聞こえない人」であり、息子さんは「自閉症」なのである。ご本人がそれを隠すこと無く明らかにしており、そして私もその事実を知っていて作品を見に行くのである。もし、その事実が「フィルター」であると言うのであれば、その事実を知ってしまった段階ですでにフィルターが掛かっている。そして、そのフィルターは外すことが出来ない。

私は渡部さんの「作者の意図なんてわからなくていい」という意見に賛成である。また、渡部さんが千葉桜さんの写真を「障害者」が「障害児」を撮ったという「フィルター」を通して見ないで欲しいと願った気持ちが十分に理解できるし、そういう「配慮」を求めたことについては肯定的に受け止める。目の前にある写真は、ひとまず、誰が撮ったかと言うことや、どういう人物を撮ったかという「事情」を抜きに観るべきだと私も思う。そういう意味で、私は渡部さんが「耳の聞こえない人が撮った自閉症の息子さんの写真というフィルターで見ないでくださいね」と願った気持ちがとても良く理解できる。写真は写真そのもので評価すべきものだから。

しかしである。写真展の「開催内容」に千葉桜さん自身は次のように書いている。

家の周り、人混み、旅先、息子はいつも突然立ち止まる。

指先をカクカクと動かし、じっと横目で焦点を合わせ、そろりと歩き出す。
脳内で絞りやアングル、ズームを自在に駆使しているかのようである。

水面を掻きながら質感を確かめ、光に手をかざしてその隙間をのぞきこむ。
全て自分の五感だけで、目の前の光景を受け止めるのに無我夢中だ。

息子には脳機能の障害があり、他者とのコミュニケーションが難しい。夜中に笑い続ける、家のあちこちで水浸しにする、葬式の時大声で歌い出すなど、困った行動に振り回されてしまうこともある。

だが、そんな自閉症特有のこだわりや感覚に、そっと寄り添ってみると、
静かで豊かな光景が広がっていた。

今まで素通りしていた何気ないものでさえ、確かな存在感を増してくる。

こうして一家3人、巡礼のように歩きまわる。(千葉桜 洋)

私は、大切なことについて語る際には、曖昧さを残さず語りたいと思うので、いつでもあえて極端な物言いをする。今回もその流儀に従って率直な意見を述べたい。

今回の千葉桜さんの展示作品は、聴覚障害者である千葉さんが、自閉症者である息子さんを撮った写真である。これは事実である。そして、この「事情」はひとまず、「60歳になる父親が中学1年生の息子を撮った」という事情と、本質的には同一である。私に言わせればそれは撮影者と被写体の「属性」であるに過ぎず「フィルター」ではない。しかし、それが「フィルター」になってしまう恐れは多分にある。なぜなら、多くの「健常者」は「障害者」に対して完全にはニュートラルに向き合き合うことが出来ないからだ。だから、渡部さんが「フィルターで見ないで欲しい」と要望した気持ちが私には良く理解できるし、私は渡部さんがそういう要望を表したことに対して私は全面的に肯定する。


しかし、あえて言わせて貰えば、私は「聴覚障害者の父親が自閉症者である息子を撮った写真ってどういう写真だろう?」という「フィルター」を持って千葉桜さんの作品を見に行っても全く問題が無いと思う。そういう「フィルター」を持って写真をみることになんらかの「弊害」があるとしても、私はそういう「関心」を抱いて千葉桜の写真を見ても構わないと思う。なぜなら、千葉桜さん自身がそのことを拒否していないからだ。

千葉桜さんは、自分が聴覚障害者であることにも、息子さんが自閉症者であることにも、「気後れ」していない。もう一度、噛みしめるようにして千葉桜さんの「ステートメント」を読んで欲しい。

息子には脳機能の障害があり、他者とのコミュニケーションが難しい。夜中に笑い続ける、家のあちこちで水浸しにする、葬式の時大声で歌い出すなど、困った行動に振り回されてしまうこともある。

だが、そんな自閉症特有のこだわりや感覚に、そっと寄り添ってみると、
静かで豊かな光景が広がっていた。
今まで素通りしていた何気ないものでさえ、確かな存在感を増してくる。

千葉桜さんは、「自閉症特有の拘りや感覚に、そっと寄り添ってみる」ことよって、「静かで豊かな光景が広がって」いるのを見た。それは、「今まで素通りしていた何気ないものでさえ、確かな存在感を増してくる」素晴らしい光景として千葉桜さんの眼前に現れたのだ。千葉桜さんは、その「静かで豊かな光景」を写真に写し撮ったのだ。

千葉桜さんは、「僕はこういう事情でこういう写真を撮ったんです。どうぞ、みなさん、僕が撮った『確かな存在感』に溢れる『静かで豊かな光景』を見て下さい」とはっきり言っているのだ。千葉桜さん自身は、自分が「耳の聞こえない人」であると言う事情や息子さんが「自閉症」であるという「事情」を明らかにして写真を展示している。つまり、その二つの「事情」(フィルター)を通じて写真を見て貰うことを了解していると言うことである。

私は渡部さとるさんの「要望」を肯定的に理解している。彼らしいと思う。しかも、それは「障害者」である千葉桜さんへの配慮と言うことより、写真作家千葉桜洋の「作品」を、それに纏わる事情抜きに「写真」そのものとして見て欲しいという先輩作家としての願いだと理解している。そうあるべきだと私も思う。

私は、「耳の聞こえない人」である千葉桜洋さんが「自閉症者」である息子さんを撮った「作品」だという事情に小さくない関心を抱いた。そういう写真というものは見たことが無いし、この先も見る機会はそうそう無いだろう。私は、「めずらしい」から興味を抱いたと言うことでは無い。そこには、「健常者」が「健常者」を撮ったのでは表現されない「豊かなもの」がきっとあるはずだという大きな期待があったのだ。

渡部さんはブログ『写真生活』の5月24日付け投稿記事「指先の羅針盤」の中で次のように書いている(出来れば、"全文"を読んで欲しい)。

前置きが長くなったが、今週銀座ニコンサロンで行われている千葉桜洋「指先の羅針盤」にその「透明のエクリチュール」を感じたのだ。

「何も言わない、何も足さない、何も引かない」

静かなモノクロプリントが並んでいる。コンセプトもストーリーも作者の意図や被写体の背景とかも見る上でまったく必要がない。

ただ見るということだけでいい。ひとりで見て、その後にだれかに話したくなる写真だ。

最高の褒め言葉だと思う。手放しで褒めている。「何も言わない、何も足さない、何も引かない」ということは、写真自身がすべてを語っていると言うことである。それで成り立つということは、作品としては「完璧」と言って良い。


私は、最も敬愛する写真家である渡部さとるさんがここまで褒める写真がどんな写真であるのか大きな関心を抱いて千葉桜さんの展示を見に行った。見た感想は、「静かなモノクロプリントが並んでいる。コンセプトもストーリーも作者の意図や被写体の背景とかも見る上でまったく必要がない。ただ見るということだけでいい。ひとりで見て、その後にだれかに話したくなる写真だ」というものだった。だから、誰かに話したくて私はこの一文を書いた。

千葉桜さんの写真についてはもう少し書きたいことがあるが、すでに長文となっているので一旦筆を置くことにする。最後にあと一言だけ書かせて欲しい。

私は、千葉桜さんの写真を見た後、銀座でスナップをするつもりだった。しかし、全くそういう気持ちになれなかった。私は、いま見てきた千葉桜さんの写真の「余韻」を残しておきたかったのだ。そして、千葉桜さんの写真がどれほど素晴らしかったか、どういう風に伝えたら良いかと言うことを考えながら家に帰ってきた。しかし、目の前に写真が無いとなかなか上手く書くことが出来そうに無い。で、昨日は書くのを保留した。

今朝になっても上手い言葉が見つかりそうに思えなかった。で、エイヤーと何も考えず「筆」に任せて「千葉桜洋写真展 『指先の羅針盤』を観てきた(1)」を書いた。そのあと、数時間間を置いてこの(2)を書いた。この一文を書いて、千葉桜さんの写真がどういう写真であるかと言うことを簡単に伝える言葉を見つけた。

千葉桜洋さんの写真には、「静かで豊かな光景」が写っている。展示では、「静かなモノクロプリントが並んで」いた。彼の写真は「ただ見るということだけでいい」と思えた。そして、「ひとりで見て、その後に誰かに話したくなる写真だ」と思った。それは、「透明のエクリチュール」と呼ぶにふさわしいものであった。

私は、あれほどまでに「静かで豊かな光景」が写っている写真をいままでに見たことが無い。


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# by dialogue2017 | 2018-05-30 19:00 | 写真論 | Comments(0)

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昨日、千葉桜洋写真展『指先の羅針盤』を観てきた。ニコンサロンの最寄り駅である銀座駅のホームに着いたのは14:29。最終日の展示は15時でクローズとなる。ホームからニコンサロンまでは歩いて5分。十分な時間がある。平素私は写真展を見に行っても5分ほどしか滞在しない(友人の展示の場合は別)。しかし、昨日は20分ほど写真を見続けた。

展示作品は非常に素晴らしい写真であった。これまでに観た写真展の中で一番良かったかもしれない。どこが素晴らしかったかというと、まずプリントが非常に美しかった。しかし、美しいプリントは珍しくない。モノクロゼラチンシルバープリントで作品を作っている作家で、すでにそれなりの高い評価を得ている写真家のプリントは例外なく美しいと言っても過言では無い。今回の展示は、千葉桜洋さんにとって初めての個展であるが、すでにトップレベルの写真作家の写真と比べてまったく遜色ないレベルの美しいプリントであった。ゼラチンシルバーモノクロプリントの場合、まずは美しくなければ話にならない。そこが「入り口」だと言っても良い。

初めての個展に出品する作品がすでに著名作家のプリントに優るとも劣らぬクォリティーであるというのは凄いことであるが、私はそのことには驚かなかった。泉大悟君の場合もそうだったので私にとっては初めて出会う体験では無かったからだ。また、私はある時期「ワークショップ2B」のグループ展を見続けていたのだが、アマチュアである出品者のプリントの中に、すでにかなり完成されたレベルのプリントを何度も観ている。更に付け加えれば、2B出身者のプリントはみな一定以上のクォリティーレベルにあった。

しかし、プリントクォリティーが高いからと言って「作品」として素晴らしいと言うことでは無い。まして作家としてやっていけると言うことでは無い。そこで、千葉桜さんの写真のどこが良かったという話に戻るが、彼の作品が素晴らしい一番の理由は「絵柄」の良さである。私は、「絵柄」こそが写真の善し悪しを決める一番大きなファクターだと思っている。写真の「価値」は、そこに「何が写っているか」ということこそに求められるべきだと信じている。ややもすると、「プリントの美しさ」ということばかりが云々されるきらいがあるが、私に言わせれば本末転倒である。

プリントの美しさということが、「何が写っているか」と言うことより重要視されるのはおかしなことだと思う。もちろん、プリントの美しさということを何よりも重視して作品を撮ることを否定するつもりは無いし、そういう作品を一番好むという人々を間違っていると否定するつもりも無い。他人の「好き嫌い」を否定することなどは何の意味も無いことだ。ただし、私は「何が写っているか」ということよりプリントの美しさを重視するという考え方に対しては強い疑問を感じる。くり返すが、私に言わせれば本末転倒である。

千葉桜さんの今回の展示作品はご子息を撮った写真である。息子さんが単独で写っている写真もあれば、母親と二人で写っている写真もある。単独の写真にしても、アップのものもあれば、後ろ姿のものあるし、シルエットの写真もあり、実に多様な捉え方がされている。「絵柄」が素晴らしいと言うことが今回の展示作品のもっとも素晴らしい点であるが、1枚1枚の個々の写真の「絵柄」が非常に優れていると言うことに止まらず、息子さんを撮った写真の「絵柄」は実に多彩であって、しかもその何れもが文句の付けようが無いほど高いクォリティーであった。

千葉桜さんの今回の展示作品の素晴らしさの3点目は、「光」の捉え方が見事であることである。モノクロ写真の場合、光の捉え方が見事で無ければ美しいプリントとはならない。プリントが美しということは光の捉え方が見事であることの結果と言っても過言では無い。しかし、私があえて3点目として光の捉え方が見事であると言うことをあげた理由は、今回の展示作品は、そのような一般論としてでは無く、感心するほど巧みに光を捉えているからだ。

光を綺麗に捉えている作品は珍しくない。くり返すが、美しいプリントというのは見事に光を捉えた結果なのだ。私が千葉桜さんの作品に感じたのは、そういう当たり前のレベル以上の巧みさで光を捉えていると感じたからである。そして、見事だと感心した理由は、「多様な光」を捉えているからだ。つまり、光の捉え方という点においても実に「多彩」なのである。ある意味、これは多彩な絵柄を捉えた結果であるとも言える。

しかし、それは簡単になし得ることでは無い。「絵柄」の多彩さを求めると「光の捉え方」という点で「甘さ」が出る。美しい光を捉えるということに集中してしまうと、「絵柄」に甘さが出る。よほど高い才能が無い限り、「絵柄」と「光」の双方をほぼ完璧に捉えるというのは簡単に出来ることでは無い。まして、息子さんを撮っている写真は「セッティング」して撮っている写真では無い。あるがままに自分の目の前に存在する息子さんにレンズを向けて撮った写真であるはずだ。それで、これだけのクォリティーの写真を揃えるというのは常人にはちょっとなし得ないことだと思う。

褒めすぎになってしまうが、千葉桜さんの今回の展示作品(47点だったと思う)は、ほぼすべてが「絵柄」という点においても、「光の捉え方」という点においても、申し分の無いレベルであったと思う。そして、実に美しいプリントなのである。私は、モノクロ写真は「ハイライト」の美しさの中に写真としての美しさを観ている。しかし、今回の千葉桜さんのプリントを拝見して感じたことは、「黒」がもの凄く美しいと言うことであった。結局モノクロ写真の肝は「黒」にあると言う当たり前のことを、しみじみと実感させられた。

※以下、千葉桜さんの作品に対して、上に書いたこととは全く別の角度から論じた文章を書いたが、長い話になるので、その部分に関しては別のエントリーとして紹介することにする。


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# by dialogue2017 | 2018-05-30 15:30 | 写真論 | Comments(0)

85mmでのスナップ

まことにつまらない写真である。通りすがりに撮ったわけだが、こういうアングルでしか撮れなかった。まあ、本当にどうしようもなくつまらない写真であるが、85mmの間合いとか、スナップにおける大口径レンズの使い方という意味ではこういう撮り方は一つのパターンだろう。

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# by dialogue2017 | 2018-05-29 20:00 | スナップ | Comments(0)

後ろ姿の家族写真

若くて可愛らしい女性を撮るというのも悪くは無いが、こういう家族の「幸せ」を撮った写真が好きだ。そして、こんな風に「キッチリ撮れていない」写真が好きである。たまたま逆光でフレアーが掛かった写真になったわけでは無い。こういうちょっと破綻した写りになることが分かっているから撮った写真である。これは「偶然に期待した」写真では無く、撮りに行って撮った写真である。

技術的な面から見たら、優れた写真では無いが、もし、この写真をプリントしてここに写っている方に差し上げたらさぞ喜んでもらえると思う。この写真のような、"自分たち家族の幸せに満ちた後ろ姿の写真"というものを、ほとんどの人々は持っていないものである。まして、第一子が生まれヨチヨチ歩きを始めた時期というのは夫婦にとって最も幸せな時代である。私は、こういう写真を撮るための「写真館」を始めたのだが、世の中のほとんどの人は、定番的な七五三写真のような写真を撮ることしか考えておらず、私が撮りたいと思ったような写真を撮って欲しがる人は信じられないほど少なかった。で、写真館は止めた。

家族写真の中でももっとも価値があるのは、家族全員が写っている「素の写真」であると思う。その家族の日常の一コマを、あるいは非日常の一コマを、他者が写し撮った写真である。そこにはありのままの「家族の幸せ」が記録されている。私は、「後ろ姿」を写した「家族写真」に凄く大きな価値を感じる。家族の幸せを「背中が語っている」ではないか。※写真下に本文あり。

追記。半ば「偶然」であるが、息子に落とした父親の目線を捉えたことがこの写真の"肝”である。

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私は、写真機というモノは、家族を撮るための道具だと思っている。初めて渡部さとるさんとプライベートな会話をしたとき、渡部さんから「Hさんも写真やっているの?」と尋ねられた。私は、「いいえ、やっていません。僕が撮るのは家族の写真と旅行先での写真ぐらいです」と答えた。すると渡部さんは間髪を置かず「それが正しい。一番正しい写真の撮り方だ」と言ってくれた。これが私と渡部さとるさんの初めての会話であった。

私は写真集をほとんど買わない。ちょっと前までは、渡部さんの写真集以外にはほとんど持っていないに近い情況だった。しかし、とても好きな写真集が1冊ある。上田義彦さんの『at Home』である。上田義彦さんが妻と3人のお子さんを撮った写真の写真集である。いままで私が目にした写真集の中で最高の1冊だと思っている。あまりにも上手に撮り過ぎている嫌いがあるが、絶賛したい写真集である。上田さんはかなりアンダーな写真を撮る人で、その点に関して私は小さくない違和感を覚えるのだが、それでもなおこの写真集は最高の1冊だと思っている。

「家族写真」に優る写真は無いと思う。いや、十人十色と言われるように人間の好みなんて千差万別であるから、これは私の「独断」に過ぎないと言うべきかもしれないが、心から賛同して下さる方が沢山いるだろうと思う。そして、この考えが一般論として成り立つか否かはともかく、私個人にとっては揺るぐことの無い真実である。私は、写真の大きな価値を、"両極”と言える写真に見出している。ひとつは「私写真」としての家族の写真である。もう一つは、「ドキュメンタリー」である。ドキュメンタリーの中では、「報道写真」がもっとも価値が高いと思う。

私は、芸術としての写真にあまり価値を感じていない。それを否定しているのでは無い。私はあまり価値を感じていないという話である。だから自分では「作品」としての写真を撮ろうと思ったことが無い。くり返すが、「作品」としての写真を否定しているわけでは無い。その「証拠」に、私には好きな写真作家が何人かいるし、あまり多くは無いが、彼らの「作品」を所有してもいる。しかし、私自身は「作品」としての写真を撮りたいと思っていない(実は、近いうちに「作品」を撮ろうかという思いを抱いているが、それは普通人々が「作品」を撮りたいと思う動機とは大きく異なる動機から発している)。

今日は今から銀座に行って、千葉桜洋写真展『指先の羅針盤』を見てこようと思っている。私は「家族写真」が一番素晴らしいと思っているが、「家族写真」というのは基本的には極めてパーソナルなものであって、その家族以外の人間に心から「いいな〜」と思わせる力はそれほど大きくないと思っている。しかし、それで良いのだと思う。家族の写真を撮るというのは、基本的には極めてパーソナルな事であるのだから。

全く意識していなかったが、千葉桜さんの今回の展示作品は、「脳機能の障害があり、他者とのコミュニケーションが難しい」息子さんを撮った写真である。それは紛れもなく「家族写真」と言って良いだろうが、果たしてごく一般的な「家族写真」だろうか? いや、これは客観的な評価に関して言っているのでは無く、私にとって千葉桜さんの「家族写真」がどのように立ち現れるかという話である。

※このエントリーは、12時過ぎに書いて15時付けで予約投稿したものである。


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# by dialogue2017 | 2018-05-29 15:00 | 写真論 | Comments(0)

反対側の海(6)

ノーファインダーの一発勝負。なかなか面白みのある絵柄だと思う。振り返って妹を見る兄の目線がいいね。こんなのは狙って撮れるモノじゃ無い。同じ場所で同じような時間に撮っても、時間の経過で色合いが変わっていくし、ほんの僅かなレンズの角度でも色味が変わる。露出を変えればさらに雰囲気は大きく変わる。まったく「偶然に期待」して撮っている訳では無いが、あまり考えずに撮っている。

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# by dialogue2017 | 2018-05-29 12:00 | スナップ | Comments(0)

写真家・渡部さとるさんの話が面白い。渡部さんは私にとってまずは「友人」であって、「写真家・渡部さとるさん」と書くとなんだか別人の話をしているような気持ちにもなるのだが(笑)、そういう気持ちになる一方では、彼は未だに私が最も好きな写真家であることに違いが無く、彼の言葉を友人の言葉としてでは無く、敬愛する写真家の言葉として受け止めることも多い。今日の話は「友人」の話でもあり、敬愛する「写真家」の話でもある。そんなことは私の事情であってどうでもよい。ただ、この話は写真好きの人には是非読んでもらいたい。かなり深い話だ。

前置きが長くなってしまったが、渡部さんの5月28日投稿の「写真生活」がとても面白かった。そこに書かれている話は、本日が最終日となる千葉桜洋写真展『指先の羅針盤』に関連する話である。渡部さんは25日金曜日に、同写真展の会場で作者である千葉桜洋さんと"トークイベント”を行ったのだが、それに関する話が書かれている。10人程度しか集まらないだろうと思って出かけた会場は立ち見が出るほどの超満員で、最前列には写真家の田中長徳さんが座っていて「ちょっと焦った」というのがまず笑える。千葉桜洋さんはほぼ無名と言って良い方だから、渡部さんは「10人ちょっとくらい」しか来場者が集まらないと思ったのだろうが、自分の人気と言うことを全く忘れている(笑)。その「間抜け」さがまた笑える。

ついでながら書いておくが、田中長徳さんはいまでこそ「変な写真本」を書くカメラマニアのおじさんだと想っている人が少なくないかもしれないが、元々は正統派の写真家として非常に高い評価を受けていた人であり、渡部さんたちの世代の写真家から見たら「大御所」なのである。ちなみに、その大御所が「2Bは日本写真界の最大派閥である」と言うのだから、その総帥(笑)である「渡部シャトル師匠」(田中長徳用語)の人気が高いのも当然である。大御所だって渡部ファンなのだよ(爆)。

さて、ここでわざわざ紹介しようと思ったのは、渡部さんの次の言葉である。

伝えたいものがあって、写真を使ってそれを表現していると思いがちだが、そうでない場合もあるし、むしろその方が面白かったりする。コントロール外の偶然を期待することが多い。

読んでいて、「うん、そうそう、そうだよね。全く同感だよ」と心の中で口にした。私には「写真を使って」「伝えたいもの」なんてほとんど無い。そもそも、私の場合は、他者に何かを伝えるために写真を撮っているわけでさえ無い。だから、私には「作品」を撮りたいという気持ちが無いのであるし、個展をやりたいという気持ちも全くないわけである。

私にとって、写真というものは私自身のためのものである。私にとって最も大切なのは家族の写真であって、それは「記録」としての写真である。私にとって本当に大事なのは家族の写真だけであって、その他の写真は全部失ってしまっても簡単に諦められる。

私の場合、家族の写真以外の写真を撮ることは純粋に「遊び」である。私は自分が撮ったスナップや風景写真を飾ると言うことを全くしない。そもそもプリントさえしない。その理由は、撮っている”その時”が楽しいということが写真を撮る最大の「目的」であって、結果としての写真には大きな拘りは無いのである。ただ、撮ってきた写真を見るのは楽しいし、それを誰かにちょこっと見せたいという気持ちはある。だから、こんな形でブログに写真を載せているのだけれど、大勢の人に観て貰いたいという欲望は全くない。むしろ、写真を通じてある程度「深い」交流が出来る人10人程度の人に見てもらえるのが嬉しいと思う。100人を超える訪問者になると、誰にも見てもらえていないのと変わらない気分になる(笑)。私は、少数の人間と中身の「濃い」付き合いをすることが好きで、大勢の人間と接するのは好きではなのだ。

写真を撮ることは面白いと思う。何度か書いたが、面白いと思う理由は大きく二つあって、一つは目の前の現実をかなり忠実に再現保存出来ることが面白い。いまのデジカメは非常に高性能で描写力が高いので、かなり鮮明に現実の「コピー」を作ってくれる。それを見て私は感心もするし、時には感動さえする。私はなにかを「残す」ということに強く価値を感じるタイプの人間なのだと思う。いや、それはやがて死んで行く人間にとって「根源的」な欲求なのかもしれない。

写真のもう一つの楽しさは、自分の肉眼で見たのとはかなり違った「写真」が出来ることである。「記録」を残すという点では前者のタイプの写真に価値があるが、楽しみとしての写真としては後者の方が断然面白い。だから、私はフレーアーやゴーストの入った写真が好きだし、逆光で撮って人物がローキーになったような写真も好きである。しかし、そういう写真は必ずしも「偶然」の結果では無くなっている。フレアーだってゴーストだってわざと入れている場合の方が多い。ミラーレスカメラの場合、「撮影結果」を撮影時に知ることが出来るからそういう「偶然を期待」する割合が減った。そして、撮り慣れてしまうと、余り意識しないで「意図的」な写真を撮ってしまうようになる。

それでも、写真というのはそんなに自分の思ったとおりにばかりは撮れるものではない。多くの場合、「思ったように撮れなかった写真」は期待外れの写真なのあるが、偶然の結果が面白い写真であることも少なくない。たまたま、紹介した渡部さんのブログの文章を読む数時間前、私はフィットネスクラブのサウナの中で、AEで撮ることの楽しさの一つは意図せず露出が微妙にずれることにあると言うことについて考えていた。AEでの撮影の場合、同じ場所でほとんど同じアングルで撮ったにも関わらず、露出が僅かに変わる場合がある。それは1/3段よりもっと小さな差であるから、意図してさじ加減する範囲以下の僅かな違いである(露出補正は1/3 段単位である)。

例えば、1枚目は1/5000で切れていて2枚目は1/5800で切れていたというようなケースである。「そんな僅かの差で違いますか?」と思うだろう。私だってそんな差はあってないも同然だと思う。頭で考えると間違い無くそういう話になるのだが、実際にその2枚を見比べると、ハイライトの出方が僅かに違っていたりするのである。そこそこの差があっても大きくは印象が変わらないという場合もある一方、ほんの僅かの差なのに印象が変わるという時もある。1/5段の露出の差が写真の雰囲気を変える「分水嶺」であると言う場合があるのだ。もちろん、そういう違いはレタッチで調整出来る範囲のことなのだけれど、「偶然の産物」である撮影結果を目にしないと自分では気がつかない場合があるのである。実際に、「へーっ、1枚目より2枚目の方が断然いいじゃない」と思うことがあるのである。そして、乱暴に撮っているときの方がそういうことが起こる確率が高い。

で、今度は渡部さんでは無く千葉桜洋さんの話なのだが、その部分については渡部さんの文章をそのまま引いておく。

千葉桜さんもセレクトでは編集を手伝ってもらったカロタイプの森下さんと「うまく写っているもの、自意識が出過ぎているものははずした」と言っていた。

ここに書かれている「セレクト」や「編集」というのは恐らく千葉桜さんが今回上梓された写真集に関する話であると思うが、この話がまた読んでいて「分かる分かる、もの凄く分かるよ」と心の中で叫んでしまった(実際は呟いたくらい・笑)。「うまく写っている写真」というのはちょっと気恥ずかしいものである。そして、「自意識が出過ぎている」写真はとても恥ずかしいものである。だから、私は以前はノーファインダーで撮ることがとても多かった。なぜなら、ノーファインダーだときっちり自分の意図通りに撮ることが出来ないからである。それは「自意識の出過ぎ」をセーブすることにも繋がるし、また「面白い」「偶然を期待」することも出来るからである。

私は写真を丁寧に撮らないことを心がけている。X-T2・X-T20を使い始めて以後はノーファインダーで撮ることを余りし無くなったが、その代わりというわけでは無いが、最近は「振り向きざまの一発」みたいな撮り方を良くやる。実は、この3週間、夕暮れ時に江ノ島大橋の下で撮った写真は振り向きざまの一発では無いものの、「抜き打ち」みたいな感じで撮っているのである。昨日5枚アップした「反対側の海」などもそういう撮り方で撮った写真だ。直ぐ目の前を歩いている人々、つまり一瞬の間にファインダーの中を通過してしまうような被写体を横から連写せずに撮っているのだから、なかなか思うところで「止める」コトが出来ない。いや、集中して撮れば出来ないことも無いのだが、なにしろ相手に「撮られている」と悟られないようさりげなく撮っているので、「適当」な撮り方になるのである。しかし、その方が良いのだ。何故かというと、「偶然を期待」しているからである。

とここまで書いて、最近そういう撮り方、つまり意図的に「雑に撮り」「偶然を期待」しているのは何故なのだろうかと自問自答してみた。これには即答できた(笑)。私が本当に撮りたいのは今やっていることと正反対の写真なのだ。つまり、「偶然を排除」し、「丁寧に」写真を撮りたいのである。光をきちんとコントロールした写真、ようするに「セッティング」した写真が撮りたいのである。と言って、スタジオライティングで撮りたいわけでは無い。私は、あるがままの「自然の光」を「コントロール」した上で偶然では無く、「計算ずく」の写真を撮りたいのだ。有り体に言えば、一線級のプロフォトグラファーが撮るようなポートレートを撮ってみたいのである。しかし、その為には最低限一人のモデルが必要である。

モデルを「調達」することはできる(私は対価を支払って「雇った」モデルを撮る気は全くない)。私はそういう能力に人並み外れて抜きん出ている。その気になれば、「現地調達」だって出来るほどの実力である(笑)。8年前の話だが、江ノ電の車内で向かいの席に座っていた女の子がもの凄くタイプで、どうしても撮りたかった。で、「君の写真が撮りたい」と声を掛け、次の駅(うまい具合に七里ヶ浜だった)で連れて下車して海岸で彼女の写真を撮らせて貰ったことがある。私は、維新の志士のような、昭和初期の軍人のような「硬派」な人間であるから、いかなることであれ「軟派」なことが嫌いである。だから、「ナンパ」というようなことはほとんどやったことが無いのだが、やむにやまれず(爆)それに近いことをやった際の成功率はほとんど100%に近い。だから、冗談抜きの話で、私は江の島・鎌倉界隈の海岸で自分のタイプの女性にモデルになって貰うことを口説き落とす自信がある。しかし、流石にこの年になってそういう大人げないことは慎んでいるまでのことである(笑)。

話が脱線しすぎた。私は、若くてスリムでとびっきりの美人をモデルにして、きちんとした「ライティング」でポートレートを撮ってみたいのである。どうして突然そんな気になったのかというと、それは実に単純な話で、XF56mmF1.2 RとXF90mmF2 R LM WRを手に入れたからである。この2本のレンズはかなり素晴らしいレンズである。その真価を自分が撮った写真で見てみたいのである。その為には、「若くてスリムでとびっきりの美人モデル」を使ってきちんとした「ライティング」で撮る必要があるのだ。なぜなら、どちらのレンズもそういうポートレートでこそ真骨頂を見せるはずだからである。私はそれを自分で撮ってみたいのである。

しかし、還暦になった私には「若くてスリムでとびっきりの美人をモデルに口説く」のが面倒なのだ。「いい年してそんなことをするのは恥ずかしい」という気持ちも強いが、それ以上に面倒なのである。で、思いが叶わぬ「反動」として、きちんとセッティングした写真と正反対の「偶然に期待」するような撮り方で写真を撮っていると言うわけである。しかし、なかなか上手くいかない。私は元々適当に撮る方であったが、すでに染みついているようなスタイルがあるため、なかなか大きな「偶然」に巡り会えないのである。なにかもう少しやり方を変えないと「面白い」「偶然に期待」することが困難だと分かった(それがこの3週の「成果」である)。

「私には撮りたいモノが無い」と言うことについては100回ぐらい書いたと思う。本当に100回ぐらい書いているだろう。撮りたいモノが無いのにこれだけ沢山写真を撮っている理由は「撮っている時が楽しい」からである。しかし、撮りたいモノがないのに撮っていることの「空しさ」というものは間違い無くある。私が、自分の撮った写真についていつも「どうでも良いような写真」などと否定的な評価をする理由は、本当にそう思っているからである(ただし、人間の感情にはアンビバレントな面が色濃くあって、そういう写真に愛着を覚えているという面もある)。

写真を撮ることが大好きなのに、しかも良いカメラやレンズを沢山持っているにも関わらず、撮りたいモノが無いというのは切ないものである。私はこの数年間、自分が撮りたいモノを見つけたいと思い続けていた。しかし、どうやらそんなモノは見つかりそうも無いと分かりかけてきた。そう感じ始めたのはこの2ヶ月ほどのことである。もちろん、もっと前からそう感じてはいたが、2ヶ月ほど前に「もう、撮りたいモノなんて見つからない。自分にはそんなモノは無い」という結論に達したのである。そして、多分、今考えると、そう思ったからレンズを4本買ったのだと思う。

いままで余り使わなかった画角(感覚としては、焦点距離というより「画角」なのである)のレンズを使うことによって、自分の中で何かが変わることを期待したと言うことだ。もちろん、そのことについては半ば以上自覚的であったのだが、今この一文を書いていてい、そこには自分が自覚していた以上の「思い」が込められていたのだと思う。

一番欲しかったのはXF90mmF2 R LM WRだった。先週初めてスナップで使ってみて、スナップという撮り方であれ人物を撮ればピカイチのレンズだと思った。しかし、とても常用する気にはなれない。重いとか大きいとか言うことをさておき、このレンズはスナップに使うのでは無く「セッティング」した写真を撮るときに使うレンズだと思うのだ。対することXF56mmF1.2 Rは「両刀遣い」である。きっちりセッティングした写真を撮るときにも真価を発揮させることが出来るレンズである一方、「偶然に期待」するような「乱暴」な撮り方をしてもその性能を引き出すことのできるレンズだと思う。もちろん、これは私見であって、誰にも当てはまる意見では無い。しかし、当たらずとも遠からずの見解だろうと思う。使いでの広いレンズなのである。比喩的に語ると、「離れた所から使える35mm」なのである。

描写が好きだという点では、私も内田ユキオさん同様XF35mm F1.4 Rの方が好きだ。両者の差は僅かかもしれない。「絶対的」な部分を持っているという点ではXF56mmF1.2 Rの方が上だろう。しかし、言葉で説明するのは難しいが、私はXF35mm F1.4 Rの「持ち味」の方が「深さ」があると感じる。そして、50mmという画角の方が使いやすい。いや、そう思っていたのは「固定観念」でしかなかったのではないかと言うことをXF56mm F1.2 Rを使って見て感じたのである。それは、松本で何枚か撮った時に感じたことであった。で、東京に帰ってきて以後このレンズを多用しているという訳である。

いやー、長い話になったな〜。久しぶりに5,000字に達したかな? (調べたら上の行まで5,082文字だった)。誰も全文読まないだろうな〜。いや、5人ぐらいいるな。いやいや、今なら10人ぐらいが読んでいるかもしれない(爆)。

さて、私についての話の結論を纏めておこう。私には撮りたいモノなんてないと分かった(言うまでも無く家族の写真を別にしての話である)。この3週私は続けて江の島・鎌倉界隈に出かけた。動機としては、写真を撮ること以上に「海風に吹かれたい」という思いや「歩きたい」という思い、更には「海鮮丼を食べたい」とか「感じのよいカフェで本を読みながら珈琲を飲みたい」とかいう思いの比重が小さくないのだが、それでも少なくとも50%は「写真が撮りたい」という気持ちで出かけていた。

しかし、けっして丁寧に写真を撮ったわけでは無い。今まで通り「乱雑」に、とにかく適当に何でもかんでも撮っただけである。ただ、以前と決定的に違うことが二つあった。一つは以前は広角レンズで撮っていたのに今回は中望遠レンズで撮っていること。もう一つは、人物にレンズを向けてスナップしていること。この二つは今までと決定的に違っている。

そしてもう一つ、もの凄く大きな変化があった。同じ場所で、同じ時間帯に、続けて3回も写真を撮ったのだ。こんなことをしたことは今までには無かった。なにか明確な目的を持ってやったことでは無いが、潜在意識の中に「目的」があったことは間違い無いだろう。それがなんであったのかについて、私は渡部さんの「写真日記」を読んで気づかされた。私がやろうと思っていたことは「偶然を期待」することである。それは、同じ場所で、同じ時間帯に、同じ画角のレンズで撮り続けることによって起きる「偶然」への期待である。

私がいま探しているのは、撮りたいモノがないと分かった地点で、何をどう撮るかという事である。「作品」を撮るつもりは無いので、「何をどう撮るか」という目的が稀薄であっても良いのだが、もうそういう形で写真を撮ることに飽きたのである。だからといって、コンセプチュアルな写真は嫌いだし、とってつけたような「テーマ」をでっち上げて撮るというのも白々しい。私は「自分の嘘」に直ぐ気がつく人間だから。別に「嘘の無い写真」を撮りたいと思っているわけでは無いが、嘘の混じりにくい写真を撮りたいという気持ちはある。それをするためには、なんならかの”縛り”がある方がやりやすい。それが、同じ場所で、同じ時間帯に、同じレンズで撮ると言うことである。それ以上の「目的」はほとんど無い。つまり、その先に何かが生まれるかどうかに関してはただ「偶然に期待」していると言うことである。

もっと深いところまで解剖してしまうと、私のいまの「目的」は、今撮る写真では無く、「次に撮る写真」を探すことである。


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# by dialogue2017 | 2018-05-29 05:30 | 写真論 | Comments(1)

反対側の海(5)

実は、撮ってきた写真をただ並べて見ているだけである。そもそもこのブログの一番の目的は私自身の「アルバム帳」なのである。撮ってきた写真を並べて保存しておく理由は、撮った直後と時間が経った後では同じ写真に対する「気持ち」が大きく変わる場合が多いからである。撮った直後にはなんとなく愛着が持てた写真の多くが、ちょっと時間が経った後には「なんでこんなつまらない写真を載せたんだろう」と思うように変わる。スナップは、撮った時の「思い入れ」が無くなった頃に評価する方が良いと思う。

ところで、一度夕暮れ時に「西浜」に行ってみようと思った理由はこの写真を見てのことである。私はこの時間帯の淡い光が好きである。だから、日没1時間前に到着するように家から2時間掛けて江ノ島にいく事さえある。もっともそういうときには江ノ島周辺に宿泊することが多い。流石に1時間のために往復2時間するほど酔狂ではない。結局、私が江の島・鎌倉界隈に行く理由は、一人で過ごす時間が好きだからである。私は平日の日中は毎日一人で過ごしているが、自宅で過ごす一人の時間と、自宅を離れて過ごす一人の時間は同じでは無い。だから、小旅行に行ったり、東京からちょっと離れた所に出向くのである。日没1時間前に着くように出向く理由は、その晩を自宅以外で過ごすことが楽しいからである。私はホテル好きなのである。

話を戻す。西浜に行ってみようと思った理由はこの写真を見たことにある。せっかく綺麗な淡い光があるのに背景が五月蠅い。西浜まで行けば、バックは夕陽でオレンジ色となった海だけの写真を撮ることが出来る。そういう写真を撮ってみたいと思っただけの話である。左側の建物はまだ許せるのだが、人物の真後ろに被っている建物は完全にNGである。モデルの真後ろはとても重要である。この写真、もうちょっとだけシャドーを起こして「モデル」さんの顔を明るくしたバージョンを作ってみたが、私はこちらの方が好きである。どんなときでも必ず人物の顔が明瞭に見えなければいけないと言うことでは無いのだ。なによりも撮りたいのは「背景」の淡い光と色なのだ。

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# by dialogue2017 | 2018-05-28 23:00 | スナップ | Comments(0)